妖しの床 真実の褥 <前>

 

 一歩一歩だ。
 土井半助と出会って以来、いや、彼を恋情をもってみつめるようになって以来、山田利吉は自分に言い聞かせていたように思う。
 一歩、一歩だ、と。



     おお。
     見つけた。見つけた。見つけたよ‥‥。
     おお、なんと麗しい‥‥。


 寒いと思って目覚めた。
 山中の、荒れたお堂は夜露こそ防いでくれるが、隙間風は仕方ない。
 ぎゅっと衣を身に引き寄せて、利吉は体だけでも休めようと目を閉じ直す。
 ―――寒い。肌へと忍び入って来るような、異様な冷気。
 もう五月の声を聞こうというのに、なにやら体の芯から冷やされるような。
 女の指に似た、けれども氷のように温度のない風が頬を撫で上げていった感触に、利吉はついに諦めて身を起こした。
 これほどに隙間風がひどくては、風邪をひいてしまう。
 夜通し駆け抜けたほうがまだしもか。
 決めて利吉は、その冷えて湿ったお堂を後にした。
 雲ごしの月のつくるおぼろな闇に、木々がざわざわと揺らめいていた。


 数刻にも満たぬ短い眠りに、利吉の若い身体は必要な休息を得ていたのか、あるいは、燃え立つ火の勢いそのままに始まったばかりの恋が、常にはない活力を与えてくれるものか。
 利吉は夜半からそのまま歩き続けて、昼前には忍術学園に着いていた。
 校庭で二年は組の実技指導中の父親に短く挨拶して、では職員室か自室にいるだろう土井に会わんと、駆け出したくなる足を無理になだめながら、屋内へと向かった。
 土井は職員室にいた。
 ほかにも席にいる教員たちに挨拶しながら利吉が入って行くと、気づいて顔を上げ、
「やあ、利吉くん」
 と、変わらぬ笑顔を向けてくれる。
 ―――そのあまりに変わりのなさ過ぎる笑顔に、利吉はふと不安を覚える。
 愛しいと、愛しいと、何度伝えようともはぐらかされ、かわされ、すかされた。
 一歩一歩と距離を詰め、ようやくに捕らえた人は、しかし、久しぶりの対面にも頬ひとつ染めてくれるわけではない。
 ―――旅立つ前の晩、抱き合いましたよね。
 利吉は尋ねたくなる。
 ―――あなたの髪は乱れていた。わたしはあなたの中にいた。そうですよね。
 確かめたくなる。
 ふたりは、もう、特別な関係ですよね、と。
 思わずそう問いたくなるほどに、土井の顔色は平然として変わらず、その瞳にも秘密を共有する者同士にだけ通じる特別な言葉は浮かんでこない。
 ―――こういう人だと、わかってはいるんですけど。
 一歩ごとに近づけばいい、また利吉は自分に言い聞かせながら、近づいて声をひそめてささやいてみた。
「半助」
 初めて土井の瞳が揺れた。
 と、思ったのもつかの間。
 利吉の眼前に、にゅっと土井の手が立つ。
「はい。そこまで。‥‥混む前に食堂に行って来たらどうだい? 今日の定食は丼ものだよ」
「‥‥わたしが丼に喜ぶこどもに見えますか?」
「こどもでなくても、丼が好きな人間は多いだろう」
 あっさり返されて、せめてお昼はご一緒に、と言いかけたところを、昼食は山田先生と打ち合わせを兼ねてとることになっていると太いクギを刺された。
 しおしおと背を向けかけたところに、
「外泊許可はとっておくよ」
 愛しい人の声がささやいた。は、と振り返れば、つれない恋人はそのささやきが空耳だったかと思えるほどの切り替えの早さで、もう利吉のほうなど見もしないで、なにやら書き物に面を伏せている。
 ‥‥ともかくも。外泊許可だ。とってくれると言った。
 夜通し歩いておつりが来るほどの御褒美をもらった気分で、利吉は一人食堂へと向かう。‥‥ともかくも。外泊許可なのだ。


 利吉の仕事の合間に。
 共に過ごせる晩には、土井は外泊許可を取って、普通は長期の休みにしか帰らない町屋へと帰って来る。そして‥‥二人で夜を明かす。
 暗黙の決まり事のようなものだったが、それを土井のほうから口にしてくれたことが利吉にはうれしい。
 ―――それぐらいで喜ぶ自分が情けなくないわけでもなかったが。
 閨の中でも。
 土井は崩れることがない。
 利吉を、その想いごと、体の中に受け止めてはくれるけれど。
 かすかに肌を汗ばませながら、眉を引き絞りながら、土井は喘ぎをかみ殺す。つまりは。かみ殺せるほどの喘ぎであり、よがりなのだ、と利吉は思う。
 一度でいい、狂うあなたを見てみたい。
 わたしがあなたに狂っているだけ、あなたもわたしに乱されているのだと、一度でいい、感じたい。
 ‥‥そうしたら。
 外泊許可。その一言で口元が緩む情けなさから、また一歩、抜け出すことができるような気がします‥‥。


 帰宅した土井が草鞋(わらじ)を脱ぐ間を待つのももどかしく。
 利吉は土井にむしゃぶりつく。
 土井の苦笑を呼ぶほどの性急さとわかっていながら、抱きつきその口を吸い上げずにはいられない。
 糸引く唇を離れ難さに舌でなぞれば、案の定、その口づけに酔うよりも笑いのほうを誘われたらしい土井が、
「わかったわかった」
 と、なだめるように利吉の胸を押しやる。
「足ぐらい洗わせてよ。‥‥夕飯はすませた? じゃあ、お茶でもいれようか」
 むっとしながら、利吉は井戸端へ足をすすぎに行く土井の後を追う。
「茶などいりません。腹具合より、あなたに飢えているほうがつらいのに」
 つ、と足を止めて、土井は振り返らずに呟く。
「‥‥そういうことを言うかな、君は」
「いくらでも言います! 会いたかった! どれほどあなたに焦がれていたか‥‥!」
「‥‥山田先生がね」
 利吉の思いの吐露には答えずに、月明かりに水を使いながら土井は言う。
「君が食堂で夕飯も食べずに行ってしまったものだから、寂しがっておられたよ。‥‥もしかしたらいい娘でもできたかもしれないと言ってみえた」
「当たらずとも遠からずってところですね」
 それを伝える土井の口調のさりげなさに、利吉は深く考えることもなく言葉を返す。
 ―――土井が体を許してくれて以来‥‥切ない片恋に身を焼いていた頃よりさらに、利吉は周囲のことが気にならなくなっていた。いや、気にならない、と言うよりそこまで気をまわしている余裕がなくなっていたと言う方が正しいか。片思いのつらさもさり
ながら、体の交わりが出来たあとの、思いの熱さの違いに悩みながら覚えた肌に焦がれる、その懊悩と恋慕の相克は‥‥利吉から土井以外のことに神経を配らせる余裕を奪っていたのだ。
 小さくため息をついて、
「君がうらやましいよ」
 と土井が言うのもさりげなくて、
「どうせわたしは考えなしの若造ですよ」
 利吉は軽い拗ねを交えて答えたのだ。


 土井は自分の手で帯を解く。
 押し倒されながら脱がされるより、そのほうがいいと言う。
 ならばいっそ、下帯もとって全裸でのしかかり欲しがってくれればいいのに、と利吉は思う。
 布団を延べ髪を下ろし寝仕度する土井を見ているだけで、利吉の男根は十分に勃起する。自ら帯を解く土井を目で楽しみながら、利吉は屹立したそこも露わに、横たわって土井を待つ。
 もう何度も‥‥なのに腹打つほどに堅く立ち上がったそこから、土井はうろたえたように目をそらす。
「‥‥お嫌いですか? これはあなたのものなのに?」
 腕を伸ばして土井を布団の中へと引き入れながら、利吉は問う。
「‥‥なかなか‥‥君のように、思いきりよくはなれない‥‥」
 利吉は柔らかく膨らみ始めただけらしい土井のものを、下帯の形で確認して再度問う。
「それだけですか? 思いきりだけ?」
 寂しさを込めて、利吉は続ける。
「あなたは‥‥わたしほどこの逢瀬を楽しんでくれていないのじゃないかと、いつも思います」
 指先で優しく、胸の突起のまわりを薄く縁取る(ふちどる)粘膜を撫でられて、土井は息をのんで目を閉じる‥‥続けて突起の丸い先端をこれも優しく指で押し潰されて、わななく息を吐き出す。
「‥‥いやなんじゃない‥‥」
 いつも答える言葉を、土井はかすかな震えとともに、今日も口にする。
「いやなんじゃない‥‥ただ‥‥」
「ただ?」
 手を止めて、利吉は土井を見上げる。
「‥‥楽しむのに‥‥慣れられない‥‥」
 利吉は噛み付くように土井の首筋に吸い付く。
「アッ! だめだよ、痕が‥‥!」
 咄嗟に利吉の頭を押しやろうとした土井の手首をつかみ上げて、利吉はやりきれない思いが怒りにまで達しそうなのを感じる‥‥。
「‥‥なんで、そんなに冷静なんですか、いつもいつも」
「利吉‥‥」
 取られた腕を頭の上に押さえ付けられながら、土井は抵抗するでもない。そんな土井に利吉は、押さえようとしていたものが押さえ切れなくなるのを覚える。
「こうしてふたりで寝るのは‥‥慣れなきゃいけないようなことですか。ふたりで‥‥交わるのは、慣れなきゃ楽しめないようなことなんですか、あなたには!」
「りき‥‥」
「あなたは‥‥!」
 土井の両腕を捕らえながら、利吉は土井の胸に顔を伏せる。
「わたしの想いを受け取るふりをしながら、いつもいつも素知らぬ顔で横に流してしまうんだ! 受け取ってる‥‥ふりだけして!」
 そうして‥‥土井の肌の暖かさの上で叫んだ利吉の眼前に、臙脂色してツン、と立つ乳首があった。優しく触れただけで土井の全身に震えを呼ぶそこに‥‥利吉はカリと歯を立てた。
「あう‥‥っ!」
 土井がすくんだ。


 波乱含みの幕開けに、日を置いての情交はたちまちに熱を帯びた。
 利吉は腕を上げる格好に脇をさらすことになっている土井の、腋下の茂みをかきわけるようにしながら、柔らかな肉のそこも愛咬して、土井に押し殺した悲鳴を上げさせた。
「‥‥痛い? 痛い、半助‥‥」
 悲鳴の上がったばかりの唇を、利吉はむさぼる。
「もっと‥‥もっと、感じて。声を、聞かせてください‥‥」
 唾液に濡れた乳首を、二本の指でつまんで揉んだ。
「‥‥‥‥」
 荒い息だけでそれをこらえぬいた土井を、利吉はかき抱いた。


    ‥‥たまらぬわ‥‥
    かわれ、かわれ、そちには過ぎる‥‥
    おお、もうたまらぬ‥‥
    ええい、はよう‥‥


「‥‥は!」
 土井の体がびくりと震えた。
 息詰めて土井の菊門を破ろうとしていた利吉は、その震えに外れたそれを、すぐまたぐっと押し付け直す。‥‥余儀ない経緯で土井が以前にも男に抱かれたことがあるのはすでに知ることだったが、それがそれほど頻繁なものでも近い過去のものでもないのは、快より痛みのほうが勝つらしい挿入への反応から、うかがいしれた。
 だから、その穿ち間際の一瞬の震えは、慣れぬ土井の反射的な反応として、利吉は特に問題にもせず、先へと進んだ。
 幾分ほぐれてはいるものの、それでも引き絞られてすぼまった口に、ぐっと利吉は押し入る‥‥口を破り、狭い肉路を侵して行く‥‥。
「あああ!」
 利吉の腕の中で、貫かれて行きながら土井はこらえきれなかったのか、珍しく、声を上げた。


    焼ける‥‥
              熱いわ‥‥
    重いよ‥‥君がわたしの中にいる‥‥
              身が、身がはちきれるようじゃ‥‥
    じりじりと‥‥ああ、なにか拡がっていく‥‥
              よいわ‥‥なんとよいあんばいじゃ‥‥
    ‥‥もっと、もっとほしいよ、君が‥‥
              おお、もっと深くにもっとえぐってくりゃれ‥‥

            いとおしい‥‥


 土井の腕が、頭にまわった。
 しがみつかれたのだ、と利吉が認識するのに若干の間があったのは、それが初めてのことだったせいだろう。
「‥‥りき‥‥ち‥‥う、うっ‥‥あぁ、あ、あ‥‥!」
 乱れた息と声が、切れ切れに上がる。
 利吉を深く収めた腰が、利吉の下でうねりだしさえ、する。
「半助‥‥?」
 訝しく利吉が問うのも一瞬。
 紅潮した肌、妖しく淫らに揺れる腰、しがみついてくる腕、耳元で漏らされる喘ぎ。
 焦がれ焦がれてまだ足りぬ愛しいばかりの相手が、猛るおのれのものを身内に呑んで乱れるさまに、心浮き立たぬ者があるだろうか。
 利吉は激しく腰を使った。


 初めて“求め合う”ことができたのだと甘い陶酔が呼ぶのを聞きながら、それでも、腕の中で味わいつくした快楽の余韻にひたって浅い呼吸を繰り返す半助に、利吉は尋ねずにはいられなかった。
「‥‥半助‥‥ですよね?」
 けだるそうに、土井のまぶたが持ち上がり、とろりとした眼が利吉へと動いた。
「半助、ですよね? わたしが抱いたのは、あなた自身‥‥そうですよね?」
「‥‥そうだよ‥‥」
 半助はうなずく。
「‥‥おかしなことを言う‥‥いまここにいるわたしが、誰だと‥‥?」
 利吉はむきだしの両の腕に、もう一度深く、土井をいだき直した。


 授業が終わるやいなや、乱太郎が青い顔で教室を飛び出す。
 追いかけたのはきり丸だった。
「どうしたんだよ」
 尋ねるきり丸の後ろから、
「どーしたのー?」
 間延びした高い声で、それでも心配は本気らしいしんべヱが駆けて来る。
「‥‥その‥‥わたしにもよくわかんないんだけど‥‥」
 乱太郎が言いさしたところへ、いきなり飛び出して行った三人組を追って、土井が慌てて教室から出てきた。
「どうかしたのか、おまえたち」
「いっ‥‥いえっ! どうもしません!」
 土井を見るなり、顔をこわばらせた乱太郎を、きり丸は横目で見る。
 そこへ。
「土井先生」
 と廊下をやって来たのは利吉だ。
「やあ、利吉くん」
 土井はにこやかに手を上げる。
「父上を見かけられませんでしたか。午後から実技の授業を手伝ってくれと言われているのですが」
「職員室じゃないのかい。いない? だったら用具室かなあ」
 なんということもない、ありふれた二人の会話。
 なのに、傍らにいる乱太郎は今にも倒れそうに真っ青だ。その手まで細かく震え出しているのに気づいたきり丸が、
「先生!」
 と土井を呼ぶ。
「乱太郎、気分が悪いみたいだ。おれ、保健室に連れてくよ」
「ほんとだ。大丈夫か、乱太郎。歩けるか? おぶってやろうか」
 土井の申し出を、乱太郎は必死の首振りで拒否したのだ。


「どうしたんだよ」
 保健室より校庭がいいと言う乱太郎に付き添って、日だまりの中に出てきたきり丸としんべヱは交互に乱太郎の顔をのぞきこむ。
 あたたかな日差しと緑の薫風に、ようやく乱太郎は人心地がついた面持ちになった。
「ああ‥‥なんか、ようやくすっきりした」
「どうしたんだよ、いったい。土井先生と‥‥利吉さん、なんかあんのか」
「うん、よくわかんないんだけど‥‥」
 乱太郎は「わからない」を連発しながら、土井になにか黒い影を感じて気持ちが悪かったと言い、ところが土井の背後ではとらえどころのないその影が、なぜか利吉にはくっきりと‥‥ついているのが見えるのだと語った。
「ついてるって‥‥これ?」
 きり丸は胸の前で両手をぶらんと垂らして見せる。
「‥‥わたしはそうはっきり見えるわけじゃないから‥‥わからないんだけど‥‥」
 髪の長い女の人のようだったと乱太郎が言ったところで、しんべヱがキャッと高く叫んだ。
「ねえねえ、先生たち、取り憑かれてるの! 先生たち、どうなっちゃうの!」
 しんべヱの質問に、ようやく顔色の戻ってきた乱太郎ときり丸は顔を見合わせる。
「どうって‥‥」
「あんま、いいことはねえよな。そういうコトって」
「先生たち、死んじゃうの!?」
「縁起でもないこと言うなよ、しんべヱ!」
 それでもどうやら深刻らしい事態に、腕組み、首ひねる三人である。
「‥‥わたしのはそんな、はっきり見えるわけじゃないから‥‥。文次郎先輩はかなりはっきり見えたらしいんだけど‥‥もう卒業しちゃってるし‥‥」
「ほかに誰かいないのか、そういうことに、その、詳しい人」
「うーん」
 うなっていた乱太郎が上げたのは、鉢屋三郎の名だった。
「確かめたことはないんだけど、あ、もしかしたら見えてるのかもって思ったことがあるから‥‥」
「おっし」
 きり丸がうなずいた。
「鉢屋先輩だな。話してみようぜ」

 

 

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