父の思い、半助の過去 <前>

 

人あり、出会いあり、思いあり。
  出会いの重さに気づくとき‥‥人は来ている、引き返せぬところまで。


 いつかは話さねば、と思っていたことだった。
 土井はぐっと、こぶしを握り直す。
 山田利吉と躯を重ねるようになって、はや二年。
 ──言い訳するつもりはないが、ことの始めは、勢いに押されるだけだった。一途に思いを募らせる若い熱情を受け止めかねて、激しい苛立ちをぶつけられたことも、再三再四‥‥。
 それでも、憎からず思う相手、二年も肌を合わせていれば、いつしか「絆」と呼べるものが、ふたりの間に育っている。
 共に暮らそう、そんな言葉が不自然でも唐突でもなく、ふたりの間に生じるほどの。
 いつかは話さねば。
 それは年上である自分の責任なのだ、と生真面目な男は思う。


「山田先生」
 土井は思い切って、先輩格の同僚に呼びかけた。
「すいません、お話ししたいことがあるのですが、お時間をさいていただけませんか」
 改まった態(てい)の土井に、
「いいですよ」
 山田伝蔵は静かにうなづき、何げなく言い添えた。
「人をはばかる話なら、わたしの部屋はどうですか」
「‥‥あ、ありがとうございます」
 そして、二人は教職員長屋の山田の部屋で向かい合う。
「山田先生」
 いくら覚悟を決めていても、その一言を言ったきり、土井は次の言葉がなかなか出せない。年かさの教師は、若い土井の逡巡をいつもの少し厳しい顔で見守っている。
「実は‥‥」
 何度か唇を湿らせた後、ようやく土井は口を切る。
「ご子息の、利吉くんと‥‥わたしは‥‥その‥‥ふ、深い関係にあ、ありまして‥‥」
 真っ赤になって告げる土井に、山田は苦笑を見せた。
「知っていましたよ」
「え?」
「知っていました。土井先生と利吉のことは」
「え、あ、う‥‥その‥‥」
 こういう展開は、なぜか一度も予想しなかった土井である。あわてた。
「え、あの、その、と、とにかく、申し訳けありません。わ、わたしが‥‥」
「いやいや、土井先生。土井先生が謝られることはなにもありません。これでも、わたしも多少は息子のことをわかっている。最初に血道を上げて先生にご迷惑をかけたのが利吉のほうだということくらい、わかっております」
「や、山田先生‥‥」
「あれは、昔から聞き分けのいい反面、思い込んだら命懸け、なところがありましてなあ。‥‥大変だったでしょう」
 大先輩であり、想い人の父親でもある人にそう笑われて、土井は焦る。
 もうひとつ、大事なことを告げねばならない。
「‥‥山田先生。そ、それでですね、実は‥‥」
 一緒に暮らそうと思っている、と。土井は告げた。
「土井先生」
 山田の眼が鋭く光る。
「わたしも衆道には、それなりの理解もあれば知識もある。お互いの精進の助けにもなる付き合いを反対する気はありませんが、しかし、一緒に暮らすと言うのは‥‥」
 土井はうつむく。山田の言うことはわかる。この時代、特に戦場に出るのが仕事の男たちが契りを結ぶのは珍しくもない。その交わりが、肉体関係を前提にした若い頃のことだけではなく、深く精神的なつながりとして生涯に及ぶことがあることも。
 しかし。一緒に暮らすというのは‥‥嫁も娶(めと)らず、子孫も残さず互いの生活を一にするというのは‥‥行き過ぎなのだ。
「土井先生」
 厳しいが、その奥にあたたかい優しさをたたえた瞳が、じっと土井を見つめている。
「いや、半助。おまえがそこまで言うなら相当の覚悟があるとは思う。しかし、そこまで非常識なことをするからには‥‥わかるか。教職と言うのは常のほかの仕事より厳しい倫理に縛られねばならん。それでもあえて、同居に踏み切ると言うからには‥‥忍術学園の教師の職を辞することも厭わぬ覚悟がなければならん」
 それでも、いいのか、と。それで、本当に、と。
 山田の言外の意味をくみ取って、土井はうつむいた。
「‥‥本当は、きり丸が卒業するまでは‥‥あの子が卒業するのだけは見届けたかった」
「あと三年が待てぬと言うか‥‥。親として、こんなことを言わねばならんのは情けない限りだが‥‥おおかた利吉が強引に無理を言ったのだろう」 
 土井の口元がゆるんだ。この数カ月の“攻防”を思い出しての、苦笑いである。
「いえ、利吉くんのせいばかりではありません。これはわたしも同意して、わたしの決めたことでもあるんです。‥‥先生のおっしゃることも‥‥ちゃんと考えた上での、決断です」
 山田は深く息を吐き出した。
「‥‥わかりました。しかし、わたしは親として、この話に諸手を上げて賛成するわけにはいかない。反対です。明日、利吉に学園に来るように伝えて下さい。親として、話がある」
 土井はさらに言葉を重ねようと口を開きかけたが、山田の顔に父の厳しさが宿っているのを見て取ると、一礼してその部屋を出た。


 山の端から上る月が見える。弥生の夜の、冷たい夜気が着物を通して忍び込むのも、背中から土の冷たさがのぼるのも気にせず、利吉は河原に寝そべったまま、上る白い月を見ていた。
 明日、父に会わねばならない。呼び出しを掛けられた生徒のような気の重さだ。父が忍術学園でもベテランの教師であるという事実は、この場合、利吉にはしゃれにもならない。思わず知らず、ため息が出る。
 しかし。
 いくら、父に反対されようと、これは譲れない、と思う。この世の中すべてを敵に回
そうと、半助は失えない、諦められない。もし、父が強硬に反対するなら。利吉は思う。
半助と共にこの地を離れてもいい、父との縁すら、切ってもいい、と。
 そうだ。
 自分はもう、半助から離れられない。あたたかな笑い声、瞳の優しい光、自分を包み込んでくれるあの空気を、失うのはいやだ。肌を合わせた時の熱さと高ぶり、ほかの誰も与えてくれない深い満足感を、失うのはいやだ。大切すぎる人。同じ部屋にいるだけで自分は安らぐ。言葉を交わせば、満たされる。身体を重ねれば、狂わずにはいられない。これを愛しい、と一言でいうのだろうか。なくせない、この気持ちを。
 ならば。父と、あるいは母とも、たとえ縁を切ろうとも‥‥。
 知らぬ間に握り込んでいた、河原に生える草の束を利吉は引きちぎっていた。


 改めて自分の恋心の激しさを再確認した利吉の思いは、恋の始まりへと立ち返る。
 そもそもの始めは----母に泣かれるのが、いやだったのだ。
 美しくしっかり者の母が、利吉は大好きだった。初めて、その母にさめざめと言葉も
なく泣かれたのは‥‥そう、利吉が初めて忍びとして仕事を果たした後。初仕事で利吉は腕に傷を負い、それでも、初仕事の成就に意気揚々と帰宅した時だ。
 母は泣いた。黙って。利吉の腕の手当をしながら、ただはらはらと涙を落とした。
 仕事の成果を告げる言葉は、その涙の前に、利吉の舌の上で凍りついた。
 その後も、利吉が傷を負うたびに母は泣いた‥‥。
 なぜ父が仕事仕事と明け暮れて家に寄り付かぬのか、わかった気がした。母は好きだ。母が自分を大事に思ってくれているのもわかる。なぜ、泣くのかも、わかる。‥‥だから、困るのだ。泣かれるのは、困る。
 だから、あの時。初めて友の死を目のあたりにした時、自分も矢を受け傷つきながら家に帰りたくなかったのだ。いい奴だった、ひょうきんで楽しい奴だった。忍術学園で一緒に学んだ友だった。その喉が敵の刃で無残にかき切られるのを見ながら、自分はなにも出来なかった。それでも、母は泣くだろう、まだ矢尻の残る傷や刀傷を手当してくれながら、泣くだろう。 それは‥‥耐え難いことに、利吉には思えた。
 では、父は。幾多の修羅場をくぐり抜けて来た父なら、顔色ひとつ変えることなく、傷の手当をし、話も聞いてくれるだろう。‥‥そして。そして、おそらく言うだろう。戦場で命を落とすも忍びの宿命だと。任務を果たすために命を落とせるなら、忍びの本懐だとも。己の手で傷に応急処置をほどこしながら、利吉の手は震えた。いやだ、今はそんな言葉は聞きたくない。
 どうしよう。利吉はふらりと立ち上がった。
 傷の手当なら、どこかの医者がしてくれるだろう。おぼえたての酒が心の痛みも和らげてくれるだろう。‥‥でも。
 その時。ふと、利吉の脳裏に浮かんだ顔があった。父と一緒に一年は組を担当している土井半助‥‥先日、学園に父を訪ねた時、校庭で放課にこどもたちと遊ぶ彼の笑顔があった。弾ける笑い声、こどもたちと遊ぶ彼は生き生きとしていた。
 町中に、休日に過ごす家を借りていると言っていた。いきなり訪ねたら驚くだろうか。
 まずいか、と思いながら、足が向いていた。


 土井は驚きながらも笑顔で迎えてくれた。が、その笑顔がすぐにくもった。
「怪我をしている?」
「‥‥すみません。戦場帰りなんです」
 利吉が告げると、土井はもう無駄口はたたかず、てきぱきと傷の処置をしてくれた。
 薬箱をしまっている土井の、穏やかで誠実そうな横顔を見ていた利吉の口から、自然に言葉がもれた。
「友達が死んだんです」
 静かに土井が振り返った。
 土井は何も言わない。ただじっと利吉を見つめて次の言葉を待っている。
 その瞳を見たとたん、言うつもりもなかった、でも誰かに聞いてもらいたかった言葉が利吉の口からあふれた。
「わたしも敵と切り結んでました。だから‥‥手が出せなかったんです。あいつの喉に刀が食い込むのがはっきり見えた。なのに‥‥なにもあいつのために、なにも‥‥」
 土井はなにも言わない。ただ、その瞳に利吉と同じ痛みを見せて、うなづきながら、聞いている。 わかってくれている、この人は、自分の気持ちを。そう思えた。
 じわりと半助の姿がにじんだ。
 慌てて目に手をやったが、遅かった。涙が後から後からあふれ出して、止まらない。
「あ‥‥すいませ‥‥」
 その時。利吉はふわりと半助の胸に抱かれていた。
 半助はなにも言わない。ただ、静かに利吉の背をたたく。
 ‥‥泣いていいよ、と言われていれば、こどもじゃない、と虚勢も張れた。君のせいじゃない、と言われていても、何かがちがうと思えただろう。なのに。何も言わずに、黙って抱き締めてくれている半助の胸はあたたかで‥‥利吉は声を殺して泣き続けた。


「こんなところにいたのか」
 利吉の物思いは半助の声に破られた。半助が身軽く河原の斜面を降りて利吉の傍らに来る。
「‥‥思い出してたんです」
「ん?」
「覚えてますか。わたしが初めて先生の家を訪ねた時のこと」
「‥‥あの矢傷を受けてた時?」
「覚えててくれて嬉しいです。‥‥考えたら、わたしはあの時からあなたに惹かれていたんだと思う。それまで誰にも、あんなふうに受け止めてもらったことはないような気がする」
「‥‥うん、まあ‥‥」
 半助はすこし言葉を濁す。なんですか、と利吉は横に座る半助を見上げた。
「あれを境に君になつかれだしたのは、わかったよ」
「‥‥なつくって、わたしは野良猫ですか」
「扱いの難しさは似たようなものだろう」
「ひどいですねえ。それに、その頃からわかってたにしては、長いこと、ずいぶん冷たかったじゃないですか」
 半助はため息をつく。
「あのね、利吉くん。わかってたって言っても、まさか君がそういう意味でわたしを望んでる、なんて思うわけがないじゃないか。わたしは君より七つも年上で、父上の同僚だよ」
 利吉は唇をとがらせる。
「あなたは自分の魅力をわかってないんですよ。あ!それとも、わたしなんかガキくさくて相手じゃなかったとか、そういうことが言いたいんですか」
「また君は‥‥どうしてすぐ話をそういうふうにもっていくんだ」
「出会ったころは、そりゃまだガキでしたけど。今はあなたより上背もありますよ」
「わかったわかった」
 半助は苦笑いして手を振る。
「‥‥でも‥‥」
 と、利吉は少し考え込む。
「初めて会ったのは、それよりずいぶん、前ですよね」
「‥‥そうだな」
「先生が学園に来たのは‥‥」
「‥‥君が六年生の時だよ」
「なんでその時に一目惚れしとかなかったんだろう。‥‥でも、ほんとに不思議だ。半助がどこにいたって好きになってたと思うのに、その頃のことはあまり覚えてない」
「‥‥そうだろうな」
 半助は目を伏せた。
「‥‥わたしは一年の教科担当の、しかも補助教員だったから‥‥最上級生で実技が中心になってた君が、覚えていないのも無理はない」
「半助は?」
 利吉はがば、と体を起こした。
「覚えてませんか、わたしのこと。第一印象とか‥‥」
「山田先生の息子さんだと聞いてたからね。実技教科ともに学年一の実力者、ああ、あれが、と思ったよ」
「それだけですか。冷たいなあ、もう」
 また軽く言葉が返るかと利吉は思ったが、半助は黙り込んでしまった。
「‥‥半助?」
「‥‥昔話はこれくらいにしておこう。それより、あしたのことだ」
「父ですか‥‥」
「いいか、利吉」
 振り向いた半助は真顔だ。
「短慮だけはつつしめ。父上は同居には反対だが、わたしたちの仲まで反対していらっしゃるわけじゃない。話せばわかる人だ。いいか。くれぐれも熱くなって馬鹿な真似はするなよ」
 利吉はうつむく。半助の言うことはわかる。わかるが、利吉にとってこの恋の妨害者はすべて敵だ。
「‥‥そろそろ帰りましょうか。だいぶん、冷えて来た」
「まだ返事を聞いてないよ、利吉君」
「あ。半助の手もこんなに冷たい。早く布団に入らないとこごえちゃいますよ。‥‥だいじょうぶですよ。父もわたしも大人です。そう馬鹿なことにはなりませんって」
「君の父上が大人だということには、わたしはなんの異論もないがね」
「ひどいなあ。大丈夫、わたしも大人です、今日もたっぷり布団の中で証明‥‥て! ひどいなあ!! グーで殴ることないでしょう、グーで!!」
「馬鹿は河原に置いて行く」
「あ。待って下さい。半助ぇ」
 利吉は半助と派手なじゃれあいを演じながら、帰路につく。少々の不安と重い気持ちを振り払うために。


 授業がすべて終わり、生徒達が忍たま長屋に帰ったあと、利吉が伝蔵を訪ねてくることになっている。
 利吉が伝蔵に会う前に、その前にもう一度利吉にクギを刺しておきたい土井は、イライラしながら、四年への進級も間近だと言うのに、相変わらずの三人組の追試を見守っていた。
「よおし、もう帰ってよし」
「ええ、でも先生。まだ問題全部終わってません」
「なんで終わってないんだ!さっきからもう一時間も‥‥」
「だってえ」
 しんべヱが間延びした声を上げる。
「わかんないもおん」
「あ、わたし、その問題ならわかったよ」
「ええ、どれどれ、見せて見せて」
「見せ合うな!」
 しんべヱと乱太郎に大声で怒鳴りながら、土井は自分を見るきり丸の視線に気づく。
 同居を迫った時の利吉の言葉が、苦味とともによみがえる。「あの子は、きり丸は、わたしと同じ目であなたを見てるんです。あれはもうこどもじゃない」
 こうして三人並んでいる様子は一年の頃から変わらないのに。
 きり丸と目が合う。自分の決心についてはなにも告げてはいない土井である。その負い目があるせいだろうか。きり丸の視線が、きつい。
「さっさと済ませないと遊ぶ時間もないぞ」
 声を張り上げて土井はその視線を振り切った。


 ある決心。伝蔵には漏らしたが、まだ利吉にも告げてはいない決心がある。
「あの子は、きり丸は、わたしと同じ目であなたを見てるんです。あれはもうこどもじゃない」
 その言葉は何度、半助の耳にこだましたことか。
「なにをばかな‥‥」
 最初、その言葉に笑おうとした自分に、利吉は鋭い視線を向けた。
「わかってないのは、あなた一人だ。きり丸はもう男になってる。こどもじゃない。あの子があなたに執着してるのは、あなただって知ってるでしょう!」
 知っている。きり丸が自分を慕っているのは。でも、それは‥‥。
「でも、それは‥‥」
「なんであの子がわたしに張り合うのか、わからないんですか。あの子はあなたが好きなんだ。わたしと同じように、あなたのことが好きなんだ!」
 そして、利吉は低い声で半助に迫った。
「受け入れられるんですか。あなたは。わたしを受け入れているように。きり丸を受け入れるんですか」
 その利吉の言葉は肉体の交わりを強く匂わせている。
「‥‥な、にを、ばかな‥‥」
 生徒との交情?半助は笑い飛ばそうとしながら出来なかった。そうだ‥‥確かに時々、きり丸は、今この目の前にいる若者とよく似た目で自分を見ている‥‥。
「受け入れる気がないなら、さっさと切ってやるのも優しさでしょう」
 最後に一言、利吉はとどめのようにそう言った。
 それは同居に踏み切らせるための利吉の方便なのだ、と思えなくもない。しかし、半助にとってはあまりに重い、無視できぬものを含んでいる。
 利吉に行き先も告げず、ふらりと出て来た野の原で、半助は自分を責めた。
 受け入れられないなら。最初からクギを刺し、距離を取っておくべきは、年上であり、教師である自分の役割ではないか。教師を慕う生徒の例はいくらもあるが、その思慕を上手に導き、有益な方向に向けてやるのが教師というものではないのか。では、自分は‥‥自分は? 利吉と角突き合わせているきり丸‥‥。そこまできり丸の思いを募らせ、利吉が言うほどの深さを持たせてしまったのは、己の自覚のなさか‥‥?
 冬の終わりの、まだ乾いて冷たい風に吹かれながら、半助は何度も問うた。
 ──自分に教師の資格があるのだろうか、と。 
 半助は自分に甘い答えを用意するを潔しとしなかった。
 そして出た、ひとつの決意。
 ようやく追試を終えた三人を教室から送り出した半助は、その足で学園長の庵へと向かった。


 利吉は父伝蔵と向かい合って座っていた。
 職員長屋にある父の部屋は一方の隅に机と燭台があるだけで、きれいに片付いている。 たかだか六畳一間。が、その部屋の中に向かい合って座ってみると、父との距離は、広く、そして、ほかになにもない空間で、父は大きい。
 利吉はごくりと唾を飲む。
「固くなることはない」
 先に口を切ったのは伝蔵だ。
 穏やかで静かな声。その静けさが逆に不安で、利吉は傍らに置いた忍び刀を、つい、と自分に引き寄せる。
 それを見とがめるでもなく、伝蔵は言葉を続ける。
「土井先生から話は聞いた」
 思い切って利吉は顔を上げる。
「父上はわたしたちの同居に反対だと、うかがいました」
「賛成できるはずはなかろう」
「‥‥認められぬ、とおっしゃるのですね」
「利吉。そうせくな。私は話をしようと言っておるのだ」
「今、賛成はできぬ、とおっしゃった。わたしにはそれで十分です」
 そして利吉は横にあった忍び刀を手にとると、すらりと刀身を抜き放った。
 一瞬の動作で、片膝をついた姿勢で半身を横に、刀を青眼に構える。
 伝蔵は眦(まなじり)を吊り上げた息子を静かに見やった。
「‥‥利吉。父に刃を向けるか」
「‥‥いかなわたしでも、父上を斬ることはできません。しかし、これほどの覚悟を認められぬと言われるのならば‥‥」
 刀の柄を持つ手が回る。利吉は己に刃を向けた。
「半助と添えぬというなら、この命、ここで捨てます」
 父と息子の視線がぶつかる。
 伝蔵は大きく息を吸うと、今度は深く吐き出した。
「‥‥ばかが」
 小さく呟いて、伝蔵は西日を透かす障子をみやった。


「その様子では、やはり無理を通したのはおまえのほうだな。父の前で刀を振り回すほどの愚かさでは、半助も手を焼くだろう」
「無理、とは父上‥‥」
「刀をしまえ、利吉」
 利吉は動かぬ。もとより、刃を納める気はない。
 ぎらり、伝蔵の眼が光った。
「利吉!」
 一言の、しかし、厳しい声で叱りつけられ、利吉は刀を降ろす。が、そのまま鞘に納めるまでは承服できず、白刃を閃かせて、父との間の床板に刀を突き立てた。
 びぃん、堅い床板に突き立てられた刀が小さく震えて音立てる。その刃を自分のほうに向けておくのが精一杯の利吉の譲歩で、それを見てとり、伝蔵はまた深くため息をついた。
「まず、ひとつ聞く。同居の話を持ち出したのはおまえだな、利吉」
「‥‥はい」
「土井先生はすぐに賛成したのか」
 利吉は不承不承、首を横に振る。
「でも、断られたわけではありません!ただ‥‥」
「待ってくれ、と言われたのだろう。きり丸の卒業までは、と」
「‥‥はい」
「その理由は聞いたか」
 改めて問われれば、聞いてはいない。半助がきり丸を口実にするのは当然だ、ぐらいにしか思っていなかった利吉である。いや、それ以前に、半助の口からきり丸の名前が出るだけで、腹の立つ利吉なのだ。
「‥‥いえ‥‥でも、きり丸には帰る家もありませんから‥‥はん、いえ、土井先生がきり丸のことを気にかけるのは当然だと思います」
「‥‥当然、か‥‥」
 伝蔵は、また障子に眼をやる。利吉はその横顔から表情を探るが、経験積んだ父親は容易に腹の底を見せはしない。ただ若く熱い息子を苦く思う表情が、かすかにのぞくばかりだ。
「それほどおまえは、半助と一緒に暮らしたいか」
「はい」
「‥‥では、おまえは‥‥」
 ゆっくりと伝蔵は利吉に視線を戻す。
「半助に二度も生きる道を見失わせてもいい、とそこまで言うか?」
 利吉はとっさに言葉の意味を把握しかねた。
「‥‥どういう、ことですか‥‥父上‥‥」
 父と子の間に突き立つ刀が、障子越しの夕日を浴びて長く黒い影を落としていた。

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