ちゃぷ‥‥。
誰かが湯の中で動く、音がする。
ちゃぷ‥‥ちゃぷ‥‥ぴちゃ‥‥。
「‥‥あ」
ようやく自由になった唇で、半助は言葉を紡ぐ。
「‥‥湯あたりしちゃうよ」
「かまいませんけど?」
こちらは半助の唇から離れた後、湯のきわにある半助の胸の突起をついばみに行っているために、いくぶんくぐもった響きになりながら、利吉が答える。
「かまうよ‥‥君の傷に響く‥‥」
「そしたらまた‥‥先生が手当してくださるでしょう?」
利吉は言って、白濁した湯の中へと手を伸ばす。
「こちらの面倒はわたしが見て差し上げますから、怪我のほうは、お願いしますね」
「‥‥なにを勝手なことを‥‥」
利吉の手から逃れようと半助は身をよじる。
それでも、その逃げには本気の忌避などかけらもないから、利吉はやすやすとその手の中に半助を収めて揉みしだきだす。
湯の暖かさに立ちのぼる湯気に血ののぼりもよいのか、常よりたやすく、半助は眉を寄せ、切なげな息をもらしだし、利吉を喜ばせる。
「半助‥‥いれさせて?」
ねだる利吉に、上気した頬を赤くした半助は首を横に振るけれど、湯の中、利吉の手の中で、そこは利吉の言葉に答えてひくりと首を震わせる。
「‥‥こっちは、いいよって言ってくれてるみたいですけど?」
「‥‥勝手な解釈をするんじゃない‥‥」
「じゃあ、肝心要なところに、聞いてみましょうか」
言うやいなや。
利吉の指が、くっと半助の足の間に深くもぐった。
湯が大きく揺れる。
不規則な波を描いて、それは岩で囲われた湯殿からざぶり、ばしゃん、とあふれ出す。
ここは、山合いに構えられた小さな宿屋の、谷に面して作られた露天風呂である。
深緑の香りに包まれ、蒼天のもと、湯の中で利吉に貫かれた半助は、乱れた髪から水滴を飛ばして耐えていた。
互いに荒い息をつき、
「‥‥からだ、洗おうか」
湯の中での行き過ぎた情交に照れたように、半助が言った。
今度はおとなしく半助の言葉に従って湯から上がった利吉の右肩は、布でしっかりと巻かれている。その左手もまた、布で巻かれて傷がひどい、と見えた。
利吉が湯屋用の小さな椅子に腰を下ろすと、半助が心得た仕草で、その体を洗い出す。
もう自分で洗おうと思って洗えないことはない。
それは双方承知の上で。
半助は利吉の体を洗う。
この、山奥の小さな宿屋にいる間は。
利吉が傷を治す、その間は。
久しぶりの、ふたりの休日なのだ。
昼から湯の中で戯れ、散策に出た先の木々の間で睦み合う。
いいじゃないか、と思う。
今は、いまだけは。
自堕落に、あまく、互いの蜜をすすって過ごしたい。
休日の、そのかけがえのなさを知っているから。
だから、半助はいたずらっぽく上目使いに利吉をみ、
「ここも、きれいにしておこうか」
先程のお返しとばかりに、かがんで利吉の股間に唇を寄せた。
「は、半助‥‥!」
流石にまだ日も高いうちに、山奥とは言え、露天風呂の一角で、半助がそこまですると思っていなかった利吉の慌てぶりを口の端で笑いながら、半助は咥えた利吉を丹念に舌で愛撫した。
利吉は上から、うつむいた半助を見下ろす。低い椅子にかけた全裸の自分の足の間に、同じように全裸の半助が屈み込んでいる‥‥半助の口中の熱さとその舌使いの濃さに、最前放ったばかりのそこがまた血の熱さに堅くなるのを感じながら、今の自分たちのありようを思うだけで、利吉の背をぞくり性的な興奮が走り抜ける。
かがむ半助の、くせのある毛をつかみ、ぐっと引き寄せたのは、我知らず。
喉の奥まで届いたのか、半助が苦しげな声を漏らした。
傷を巻く布を取り替え、湯上がりに宿の主人が出してくれた水菓子をつまみながら、ふたりがけだるくくつろいでいた時だ。さらっと襖が開いたかと思うと、
「ああ! やっぱ来てる!」
非難がましい大声が、二人の間に落ちた。
齢(よわい)18、利吉に劣らぬ背の高さ、半助と比べても遜色のないからだつきの若者がふたりを見下ろして唇をとがらせている。
「なんだ、きり丸、来たのか」
「やあ、きり丸、久しぶりだな」
片や冷ややかに、片や懐かしげに、しかし、平然と挨拶をよこすふたりを、きり丸は部屋の戸口に立ったまま、憮然と見返す。
「ちぇ。春休みなのに、先生、家にいないと思ったら、やっぱ来てんじゃん」
あはは、と頭をかく半助にため息をついてみせ、きり丸は矛先を利吉に向ける。
「ったく! おとなしくケガの療養をしてるかと思えば。なんだよ、先生ひっぱりこんで。治るもんも治らなくなるだろ」
「なにを言ってる」
きり丸の非難程度で揺らぐ利吉ではない。
「これだけの大ケガで一人でいたら、無理するばかりでいいことはないぞ。先生は身の回りの世話を手伝ってくださってだなあ‥‥」
「シモの世話の間違いだろう」
ごつ。
元教え子の鋭い突っ込みに、半助は思わず拳骨を見舞いながらも顔を赤くしたが、利吉は、
「世話は世話だ。おまえからも礼を言え」
と平然としている。
「なあ、頼むよ」
埒が明かぬと見たか、きり丸が利吉の前に座り込んで、今度は下手に出てくる。
「おれ一人じゃもうもたねえよ。頼むからおとなしく、余計に体力使うような真似はせずに、早くケガ治してくれよ。なあ」
「きり丸。そう簡単に弱音をはいちゃいかんぞ」
「‥‥なに言ってんだよ‥‥おれはもう何カ月も乱太郎の顔さえ見ずに頑張ってるってのに‥‥自分はちゃっかり先生ひっぱりこんで‥‥」
「そうか。たまりすぎてヒステリー起こしてんだな、おまえは」
利吉の言葉に、きり丸のこぶしが震えた。
「‥‥先生、こいつ、殴っていい?」
こらこら、と半助が仲裁に入ろうとしているのに。
利吉は言い放った。
「ボスに向かっていい態度だな、きり丸。今月の給料、削るぞ」
だからあ、ときり丸が大仰に嘆いてみせる。
「ボスの不在に、おれがどれだけがんばってると思ってんのさ。臨時ボーナスもらってもいいぐらいだってのに。いきなり消えて怪しまれないように、あの手うちこの手うちしてさあ‥‥」
ふと利吉が真顔になった。
「その後、どうだ。なにか変化はあったか」
尋ねたのはきり丸と共に潜入して工作中だった香月城のことにちがいなく、きり丸がここまでやって来たのもその話がしたくてのことと、察しをつけて、半助は静かに席を立つ。
概略は聞いている。
利吉は香月城に武者修行中の若侍との触れ込みで仕官し、きり丸はそこに出入りの商人となっていると言う。香月城と隣り合う日吉城からの依頼は、香月城主とこの地方で大きな勢力の綾雲城の姫との縁談話の進捗をつかみ、香月城内部にある綾雲と姻戚関係を結ぶのに反対する一派を支援して、この話を潰してほしいというものだ。半助が聞いた説明はここまでだったが、日吉の立場にしてみれば、いっそ香月と綾雲がぶつかって
くれれば、との願いも当然で、縁談をつぶすだけではなく、もう一歩踏み込んで、開戦工作まで見越した依頼を出したのでは、とうがった見方もできる。
‥‥どちらにせよ。
それは利吉ときり丸の裁量の話だ。
部屋から庭へと降りて、半助は谷からの風に吹かれる。
春休みが始まってすぐに、利吉から連絡があり、一時は危なかったという刀傷の療養にこの宿に逗留していると知らされた。慌てて駆けつけたここで、意外と元気そうな利吉の様子に安堵し、そのまま春の休みを共に過ごすことに決めた半助だ。
‥‥しかし。
もう数日で、短い春の休みは終わる。‥‥きり丸がこうして来たのも、事態が利吉を必要としているということで。
半助は薄く笑む。
―――いい休みだったよな‥‥。
そこへ。
「先生、ちょっと」
きり丸の呼ぶ声がした。
「実はさ‥‥」
利吉ときり丸から等間隔に腰を下ろした半助に、きり丸が言う。
「利吉さんに嫁さん見つけたいんだ」
え、と瞬間、半助はどきりとする。
「こら。誤解を招くような言い方をするな」
眉をしかめた利吉のクギ刺しに、きり丸は肩をすくめる。
「だって、縁談があったのは事実じゃん。なに、先生に話してないの? 身を固めろってあれだけしつこく勧められてたのにさ」
「それは仕事上の、虚身(そらみ)の話だ」
作り名を用いて香月城に仕官した利吉に、その上司となった侍が、自分の娘を娶らせようと盛んに勧めて来たのだと言う。
「断りましたよ、もちろん」
「でもさ」
ときり丸が口を挟む。
「ただで断れたわけじゃなかったじゃん。故郷(くに)に許婚がいるなんて嘘つくってさ。まあ、それで今回、助かってはいるんだけどさ」
聞けば、一度は綾雲城の状況もつかんでおく必要があり、あまりにしつこい縁談を断る方便にも、利吉はその国元にいるという許婚を迎えに行くという理由で、香月城に暇を請うてあったのだと言う。
「ちょうどさ、その出立の前の日だったんだよね、利吉さんがケガしたの。どうやら、香月も忍びが入ってるのに気づいててさ‥‥侵入してきた賊を手負いにしたとたんに、新顔が消えたら怪しまれるところだろう? だからあらかじめ、そういう嘘をついておいて助かったは助かったんだけど‥‥」
きり丸の言葉が歯切れ悪く途切れる。
「それも時間の問題っていうか。そろそろほんとに嫁さん連れて戻って来てくれないとおれもごまかしきれない」
波立つものを押し殺して、半助は理性だけで頭を動かす。
‥‥なるほど、利吉の不在の間、きり丸は一人で綾雲の中も探り、香月にも利吉が国への旅路にあるように装った小細工をこなしていたのか、と。通常の商人の顔を装って城や周囲の屋敷への出入りを続けながら、利吉の穴を埋めるために奮迅した元教え子の姿を、半助は頼もしく見る。
「‥‥ふむ‥‥しかし、そこまでする必要があるか? 後は一気に小細工で片がつくんじゃないのか」
利吉の言葉は、香月と綾雲の婚姻の決裂を指す。―――さらに、恐らくは開戦の‥‥。
うん、とうなずいたきり丸の顔が、引き締まった。
「‥‥だから、だよ。もうそれほどは長引かない。あと、一工作しかけるかどうか‥‥いや、もしかしたら、仕掛けなくても‥‥香月の大勢は決まる、と思う」
そこまで言って、きり丸は居住まいを正し、真剣な眼差しを利吉に向けた。
「後は一気だと思う。だから‥‥おれ一人では不安です。今、仕掛けてしまっていいのか、もう少し待ったほうがいいのか‥‥。お願いです、戻ってください、利吉さん」
利吉に小さくこうべまで垂れるきり丸に、半助は目を細める。
こうして折り目節目に、尊敬をもって頭領を立てることができるほどに、きり丸も育ったかと思う。
―――冗談口に、利吉は自分をイビりたいがために雇いいれたにちがいないときり丸はこぼし、利吉もまた、きり丸を堂々と苛められる立場がうれしいなどと言い、ふだんのやりとりはきり丸が忍たまだったころと変わらないが。実は、利吉がきり丸を一人前の、いや、一流の忍びに育て上げたいと思っているのを半助は知っているし、きり丸が利吉の技や頭領としての器に一目も二目も置いているのも感じている。
「‥‥そうだな」
顎に手を当て、利吉も考える表情になる。
「‥‥確かに、城の中の空気も見ておきたいな‥‥戻るか。‥‥しかし、それこそ独り身ではまずかろう」
「うん。‥‥ユキに頼めないかなと思ったんだけど、その、ちょっとあいつも今、忙しいみたいでさ」
「ああ、それじゃあ」
と半助は言ってみる。
「学園の山本先生にでも頼んでみたらどうだ。卒業生を紹介して下さるだろう」
利吉ときり丸は妙な顔でそう言う半助をみ、そして、互いの顔を見合わせた。
「‥‥それだと時間がかかりすぎちゃうんだよ、先生」
「ええ、無駄な経費は削りたいところですし」
なるほど、それもそうかと思った半助に、二人はさらに言葉を重ねる。
「まだ利吉さんも本調子じゃないしさ」
「戦力にもなる人が欲しいんですよ」
なんとはなしに、嫌な空気を感じ出した半助である。
「情勢が微妙なわけだから、気心知れた相手じゃないとさあ‥‥」
「わたしの怪我の具合もよく心得た人がやはり望ましいんですよね」
じり、と思わず後ろに引く半助に、仕事上の素晴らしいコンビネーションをうかがわせる呼吸で、ふたりが畳み掛ける。
「そうだ、きり丸、おまえ、その大きな荷物はなんだ」
「あ、そうだ、忘れてた。利吉さん、山田先生からご伝言ですよ、今度の休みには一度家に帰れって」
「そうか、夏の休みぐらいは顔をださんとなぁ‥‥じゃあ、その荷物は父上から?」
「ええ。お借りしたんです、女装セット一式」
「おお。ちょうどいいじゃないか!」
たまらず立ち上がって逃げ出す用意をしながら、半助は懸命の反撃を試みる。
「な、なにを考えているのか知らないが‥‥わ、わたしはだめだぞ。春休みが終わるし‥‥」
「あ」
ときり丸が笑顔を作る。
「大丈夫です、学園長に許可はもらってきましたから」
「なに!?」
「だから。先生が家にいないんなら、利吉さんとこに決まってると思って。学園長に状況によっては土井先生を少々お借りしたいってお願いしといたんです」
ぐ、と半助は天を仰ぐ。
「‥‥お借りして、なにをさせる気なんだ‥‥」
「やだなー。ふだんのまんまでいいんですよ」
きり丸がにっこり笑って答えた。
「利吉さんの生涯の伴侶です。ウソじゃないでしょ?」
こんな大女がいるものか、と半助は叫んだ。
こんな年増でつとまるか! とわめいてもみた。
「わたしがもう30をいくつ越えてると思ってるんだ! わたしが女装するぐらいならお化け屋敷のお岩さんを連れてきたほうが、まだマシだぞ!」 (注:お岩さんは江戸時代の怪談です)
「大丈夫ですよ」
利吉はきれいに整った顔でうなずく。
「あなたは昔から若く見えますから。それに化粧も衣装も整えれば。ね?」
「なにが、ね、だ。わたしはいやだぞ!」
「もー先生、そんな駄々言わないで」
「なにが駄々だ。このトシで女装なんてみっともない真似をしたくないという、それのどこが駄々だ」
「あーそういうこと、いっちゃうんだ先生。利吉さん、傷ついちゃだめだよ?」
「‥‥もう遅い‥‥ぐっさり来た‥‥」
「ほらー、先生が無神経なこと言うからー、利吉さん、傷ついちゃった」
はあ!?とトーンの高くなる半助だ。
「なんで利吉くんが傷つくんだ!」
「あ。またそういう無神経な。四十の声を聞いても女装好きだった人の息子さんを前に、まだまだ男のなりでも二十代半ばにしか見えない先生がさー、そうみっともないのイヤだの、言っちゃだめじゃん?」
「‥‥‥‥そう来るか」
きり丸が下からニヤリと笑う。
「どういうふうにでも行くよ?」
利吉がかぶせる。
「ええ。ご承諾いただけるまで」
―――面差しはちがえど。どこか似通った印象を残すふたりが、同じ表情で迫ってくる。悪戯をたくらむ子供のようにうれしげに目を光らせ、相手の隙を突かんと舌なめずりし、次々と手を打ってくる。‥‥かなわんな、と半助は嘆息する。
二人がかりというのは卑怯じゃないかと思うのだが。仕事で党を組んでいるのだから連携するのは当然だと言われておしまいだろう。
はあ、と半助はまた深くため息をついた。
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