「クマ! クマ! ぼーっと突っ立つな! 邪魔なんだよ、おまえ、デカいから!」
今から思うとずいぶんとひどいことをぽんぽん言っていた。
「クマ、球技大会、なんに出る?」
きつい言葉を投げつけていたくせに、まとわりついていたのは自分のほうだった。
「修学旅行、同じ班になれるかな」
ずっと一緒にいたかった。
* * * * *
全寮制の中学に入学して、木下輝良は熊沢寛之(くまざわひろゆき)と出会った。出席簿順に席が並べられていたから、輝良のすぐ後ろの席が熊沢の席だった。入学当時、輝良の身長は平均より低く、150をわずかに超えるほどしかなかったし、声変わりもまだだった。対して熊沢は当時すでに170あり、声も大人びて低く、輝良がプリントなどを回そうと後ろを向くと、目線はちょうど熊沢の胸のあたりになり、それが輝良にはおもしろくなかった。
「なに食ったら、そんなデカくなんの?」
確か初めての挨拶にそんなことを言った気がする。
突然の質問に熊沢は瞬間、固まったようだったが、一拍置いて、
「……いろんなもん」
と、ぼそりと返してきた。
「ふうん」
それだけで輝良は前を向いたが、内心、『おれだっていろんなもん食ってるのに』と思わずにいられなかった。
熊沢は体格がいいだけではなく頭もよかったらしい。秀才揃いで地域では有名な進学校で、熊沢は特待生だった。
「ほら、あいつだ。入試で一番の」
そういう話はすぐに広まる。
「なあ、おまえ」
二回目に話しかけたのも、やはり輝良からだった。
「特待生って、ホント?」
熊沢はおごるふうもなく、淡々と「うん」とうなずいた。
「一番だったって?」
「そうらしい」
「ああそう」
輝良は細い顎をそらした。熊沢の悠揚せまらぬ態度がよけいに癪にさわったからだ。
「けど、次はおれだぜ、一番。絶対に」
初めて熊沢の表情が動いた。目を丸くしたあと、彼は小さく笑みを浮かべた。
「……おまえ、負けず嫌いなんだな」
「おう。おれ、負けるの嫌い」
「そうか。頑張れ」
他人事のようにうなずく熊沢が面白くなく、
「おれが勝ったら、おまえ、子分な」
輝良は自分でも思ってもいなかったことを言い出していた。
「子分?」
また熊沢の目が丸くなった。
「そうだ。おれの言うこと、聞けよ」
熊沢は少し考える素振りを見せた。
「俺は誰かの子分になるのは嫌だ」
「じゃあおまえも勉強頑張ればいいだろ。おれはもっと頑張るけどな」
そんな輝良の言葉に、熊沢は「そうか」とうなずいただけだった。――いつも、そうだった。輝良がどれほど生意気で挑戦的な言葉を吐いても、熊沢はおっとりと受け止める。そんな態度を、輝良がさらに「おまえはオヤジくさい。若さがない」とけなしても、やはり「そうか」と笑う。
まだ中学生だったが、熊沢は将来の器の大きさを予感させる少年だった。
そして、輝良がその中学に在学していた二年と半年の間、熊沢は一位を取り続け、輝良は二位にあまんじるしかなかったのだった。
熊沢寛之は躯が大きいだけではなく、中学生らしからぬ落ち着きと余裕を持っていた。そういう人柄は本人が喧伝しなくても自然に理解されるもので、熊沢は一年の最初からいつも級長やなにかの委員長に選ばれていた。いかついほどではないが、顎とえらのしっかりした男らしい顔型に太い眉、眼は切れ長の一重で、その顔には五月人形の若武者のような凛々しさがあった。
対する輝良は西洋人形だった。白い肌に睫毛の長いくっきりした二重の眼、形のよい唇は紅く、まだ幼さの残るふっくらした頬は愛らしく薄ピンク色をしていた。
とはいっても、輝良の性格はその華奢で可愛らしい外見をはなはだしく裏切り、負けず嫌いの上に、超がつくほどの強気で短気だった。そういう性格も周囲の人間にはすぐに理解されるもので、クラスや学年がちがう生徒たちからは憧憬を含んだ眼差しを向けられたが、クラスの中では「困った暴れん坊」扱いだった。それでもクラスの中で浮くことがなかったのは、裏表がなくまっすぐな輝良の性格がやはり周囲に理解されていたせいだったろう。
熊沢とは席が前後していただけではなく、選んだ部活動まで輝良と同じだった。合気道部だ。
人の動きと気の流れを読み、護身に利用する武術の一種。その合気道でも、熊沢はスジがよく、負けず嫌いの輝良を口惜しがらせた。
「クマ、ずっこいよな」
一学期ももう終わろうというある日、輝良は口を尖らせて熊沢に絡んだ。その頃には、なんだかんだと言いながら、輝良はいつも熊沢とつるむようになっていた。
「身体もでかくてさ。成績もいい、運動もできる、一人勝ちじゃん」
「……一人勝ちの意味がちがわないか?」
「いいんだよ、細かいことは!」
輝良が怒ると、熊沢は珍しくなにか言いよどみ、口を開きかけてはうつむいた。
ちょうど部活のあと、寮へと帰る道だった。当番で片づけをしていて、木々の間を抜けていくレンガ敷きの道に、ほかにもう部員の姿はない。
「なんだよ。なにか言いかけたんなら、ちゃんと言えよ」
輝良が持っていたスポーツバッグを振り回し、熊沢の尻にヒットさせると、熊沢はようやく重い口を開いた。
「……でも、俺は……可愛くない」
「はあ?」
なにを言い出したかわからず、輝良は思わず足を止めた。熊沢の足はその一拍前に止まっている。
「俺は……可愛くないし、綺麗じゃない。……おまえみたいに」
「はあッ? な、に、言ってんだよ!」
怒鳴ろうとした声が掠れて裏返り、輝良はよけいに腹を立てた。
「わっけわかんね! なに言ってんだ、おまえ!」
「おまえは」
輝良がどれほど怒って見せようと熊沢が慌てたりしないのはいつものことだったが、その時の熊沢はなにか覚悟を決めているかのように輝良を見つめてきた。
「おまえは可愛いし、綺麗だ。顔だけじゃない。自分の気持ちに素直だし、いつも正直だ。……それが可愛い」
かあっと顔が火照った。
「可愛い、言うな!」
輝良は赤くなった顔を見られまいとスポーツバッグを大きく振り回した。
「おまえ、おれのこと、バカにしてんだろっ! 人のこと、チビだと思って……!」
大きなカバンを振り回していた手を、突然、つかまれた。熊沢が上から見つめてくる。
「バカにしてない。チビだとも思ってない。……きっとおまえは大きくなる」
「は、なに言って……」
「四月からでもずいぶんと伸びたじゃないか。おまえのおかあさんもおとうさんもすらりとしてる。大丈夫だ。おまえは大きくなる」
「じゃ、じゃあ、可愛い、取り消せ」
熊沢は困ったように眉を寄せた。
「……おまえは、たぶん、ずっと可愛い。綺麗だ。それは顔とかじゃなくて……」
「やっぱりチビだって言いたいだけだろっ!」
そうじゃない。熊沢がそういうことを言おうとしているのではないことは、輝良にもなんとなくわかっていた。わかっていたが、上から見下ろしてくる熊沢のやけに真剣そうな瞳には、なにか輝良の胸を落ち着かなくさせるものがあって輝良は怒って見せるしか、なかった。
「ばっかやろう!」
力の弱まった熊沢の手を振り切ると、輝良は思い切り大きくスポーツバッグを振り回して熊沢の背を打った。
* * * * *
ぽんぽん好きなことを言える相手だった。会えなくなって、最初は思い出すのもつらくて記憶を封印していたが、二十歳をいくつか超える頃になってようやく、輝良は大事な親友だった少年のことを思い返せるようになった。
――大事な親友。……でも、それだけじゃなかった。
いつからだったか。二人の間に、それぞれの心に、単純に嬉しい友情以外の、微妙で深い色合いの感情が混ざりだしたのは。
「おまえは、可愛い」
熊沢が真顔でとんでもないことを言い出した、あれが最初だったんじゃないかと思う。
バカにしやがってと怒って見せながら、その時、自分はドキドキしていた。初めてだった。あんなふうに、恐怖や期待や、そんなものとは関係なく鼓動が速くなったのは。顔が熱くなって、躯もポッと火照っていた。心臓がとくとくと速くなって……不思議な甘さが胸の奥から湧いてきて、どうしたらいいかわからなかった。
熊沢も、同じだったんじゃないだろうか。
いつもあまり表情を変えない大人びた熊沢だったが、あの時、まだ子供っぽさの残った顔はやけに真剣だった。
同い年の同級生を可愛い、綺麗だと思う、その心がどこから湧いてくるかわからず、彼もとまどっていたんじゃないだろうか。
自分たちは、子供だった。
ほのかな恋心にさえ、とまどうほどに。
もし、もっと勇気があったら。もっと自分の欲情に素直だったら。
二人の関係はもっと早くに、友人とは呼べないものに変わっていただろう。そうしたら……。
「ガキってのは、しょうがないよな」
ロスのぽおんと突き抜けたような青空に、二十歳を超えた輝良は苦く笑うしかなかった。
* * * * *
「あ」
中を見もせず、靴箱から上靴を引っ張り出した拍子だった。ぱさりと封筒が足元に落ちた。
「……またか」
熊沢がかがんで拾う。
「ほら」
「いらねーよ」
差し出された封筒に輝良は唇を尖らせる。
「どーせ断るんだし」
「それでも、きちんと読んで返事をするのが礼儀だろう」
胸元に押し付けられた封筒を輝良はしぶしぶ受け取った。
輝良の靴箱や机にラブレターが入れられているのはよくあることだった。
「口きいたこともないのに、あなたが好きですとかよく言えるよな。しかも同性相手に」
輝良が文句を言うのもいつものことだ。輝良と熊沢は二年生になっていて、同学年のみならず上級生、下級生からも寄せられる熱いラブコールに輝良は食傷気味だった。
受け取った封筒を指に挟んでひらりと裏を返し、差出人の名前を確かめる。案の定、知らない名前だ。
「あ」
その時、熊沢の動きが不自然に止まった。
「え」
振り返った輝良の視界に、熊沢の大きな上履きの上に乗せられた白い封筒が飛び込んできた。
「なんだ、これ!」
反射的に手を伸ばし、輝良はその封筒をつかんだ。そのままの勢いで封を切ろうとすると、
「待て」
と手を押さえられた。
「なんだよ」
「それは俺の靴箱に入ってたろう。返せ」
すっと上から抜き取られる。
「な、なんだよ、どうせラブレターだろ! おれが見たっていいじゃんか!」
「よくないだろう」
真顔で言われて、輝良はなぜだか混乱した。
「ひ、秘密にする気か!? もしかしてつきあいたいのか!」
「なにを言ってる」
「だから隠すんだろ!」
興奮して叫ぶと、ぽんと頭に手を置かれた。
「これがラブレターかどうか、わからないだろ。とにかく誰かが俺に手紙を寄越したんだ。俺自身が目を通すのが礼儀だろう」
輝良にも自分が理の通らないことを言っているのはわかっていたが、おさまらなかった。
「誰からだよ! それぐらい教えてくれたっていいだろ!」
「とにかく中をゆっくり見てからだ」
熊沢は歩き出しながら輝良の胸元を指差した。
「おまえも。ちゃんと読めよ」
読めと言われても。ラブレターの中身はだいたい似通っている。綺麗だ、可愛い、君を見ているとドキドキする、独り占めしたい……熱い想いの吐露は、しかし、輝良の外見に勝手に幻想を抱いたものばかりだ。一人ぐらい、「君の怒鳴り声、勝手きままな振る舞いがとても愛しくて」ぐらいのことを言ってみやがれと、十四の輝良は思う。
―― 一度だけ。
熊沢が言ってくれたことがある。「おまえは可愛いし、綺麗だ。顔だけじゃない。自分の気持ちに素直だし、いつも正直だ。……それが可愛い」と。
あれ以来、熊沢が輝良のことを「可愛い」と言うことは一度もない。輝良が自分の外見を可愛い、綺麗だと褒められることを内心嫌っていると知っているからかもしれないが……。
――今はどう思っているんだろう?
輝良は並んで歩きながら、斜め上にある熊沢の顔をちらりと見上げる。まだ熊沢のほうが十センチ以上も高いが、前よりは少し目の高さが近くなったような気がする。輝良もこの一年で大きくなった。それでも……熊沢は自分の気持ちに素直なのが可愛いと、今でも思ってくれているだろうか? 聞きたいのに聞けない。じりじりする。自分でも、そんなことを確かめたがるのはバカらしいと思うからだ。
熊沢がもらった手紙は誰が、どういう気持ちを込めて書いたものなんだろう? 万が一にも、熊沢がその手紙の差出人を「可愛い」なんて思ったらイヤだと、輝良は痛切に感じていた。
輝良あての手紙は高校一年生の先輩からのもので、顔も知らない相手からの交際の申し込みを、輝良はいつも通り無視することに決めた。
熊沢の靴箱に入っていた手紙は、一年生からの告白だった。
「無視するんだよな?」
昼休み、廊下の隅で輝良が詰め寄ると、熊沢は困ったように眉を寄せた。
「……委員会が同じなんだ。断るにしても、一度きちんと話さないと」
「断るにしてもってなんだよ! 断るに決まってるだろ! それともなにか? 話次第ではおまえ、男とつきあうのかよ!」
「……俺とおまえがつきあっているのは知っているけれど、とか書いてあるんだ」
言いにくそうに落とされた言葉。その言葉は輝良も輝良宛てのラブレターの中で何度か見たことがあった。
「あ……ああ、なんかそんなふうに見えるみたいだな、おれら」
「誤解は解かないといかんだろう」
「え」
誤解、という言葉に突き放されたように感じた。
「べ、別にいいじゃん。思いたいやつには勝手に思わせとけば」
「俺とおまえが……友達じゃない、その……彼氏彼女のようなつきあいだと思い込んでるんだ。それは……まずいだろう」
輝良はいらいらと足を踏み替えた。
「だからさ。思いたいやつには思わせとけばいいんだって。誤解を解いたら、それこそ、じゃあフリーなんですね、ぼくとつきあってくださいってことになっちゃうじゃないか!」
熊沢は黙り込んだ。じっと輝良の眼を正面から見つめてくる。いつも泰然とした、あたりにかまわぬ風な表情の熊沢だったが、あまり変わらぬように見えて、今の表情にはなにか重く深いものがあった。
おれはまちがったことは言ってないぞと、輝良はむきになってその熊沢の視線をきつい視線で受け止める。
「――じゃあ、おまえは、周りに俺と深い仲だと思われていていいのか」
問いかける声は、いつもの熊沢の声のままのようで、やはり、奥に硬いものを秘めているように感じられた。いつものように反抗的に、「思いたいやつには勝手に思わせとけばいいじゃん」と返そうとして、しかし、輝良は口ごもった。
後年、二葉輝良となった輝良はその時のことを思い返す。
もしあの時――「おれはそれでいい」と、熊沢の視線や声と同じだけの真剣さを込めて返していたら……熊沢はそれから一年以上も、「ただの友人」であり続けただろうか? ……いや。あの時の熊沢にはなにかもっと深い覚悟のようなものがあった。もし、輝良が「深い仲だと思われていてもいい」と真剣に返していたら、「なら、本当にそういう深い関係になってもいいのか」と……さらに踏み込んできそうな、そんな覚悟が。
あの時――自分は一瞬怯んだのだと、成人してからの輝良は認めることができる。自分は友達としてのバランスを崩してしまいそうな熊沢の本気が怖かったのだ。
熊沢がラブレターをもらったことに嫉妬し、熊沢が自分以外の誰かとつきあうんじゃないかと危惧しながら、熊沢との関係を深めたり変化させたりすることが、その時の自分は怖かった。
だから、
「そ、そういうの……ホンキで思ってんのかな。キショイよな」
結局、十四の輝良はそんなふうに茶化すように言うしかできず、やはり十四だった熊沢は、
「――……そうだな。気持ち悪いな」
と、口元に苦い笑いを浮かべたのだ。
いったい自分はあの時、なにを恐れていたのか。もしあそこで、一歩踏み込んでいたら……。
取り返しのつかない時間に思いを馳せ、取り返しのつかないことに歯噛みするのが後悔なのだと、異国の空の下で輝良は思い知っていた。
一年と二年はクラスが同じだったが、三年生では別になった。
が、その代わりとでもいうのか、四人部屋の寮の部屋が同じになった。
春休み、帰省先から戻ってきてホールに張り出された部屋割りの発表を前に、熊沢は長いこと、動かなかった。
「よう、クマ! 久しぶり! なに見てんだ?」
春休み中も何度か一緒に映画に行ったり遊びに行ったりしていた。数日ぶりの再会に、輝良は気安く熊沢の肩に腕を回し、彼が見つめていた部屋割り表を覗き込んだ。
「……やった! おれら、同じ部屋じゃん!」
喜色満面、熊沢を振り仰いだ輝良は、彼がうっすら眉間に皺を寄せているのを見て首をひねった。
「なに、クマ、嬉しくねーの? っともなに? 同じ部屋にヤなやつでも……」
改めて残り二人の名前を確認する輝良に、熊沢は苦笑をもらした。
「たまらないな」
小さく、本当にぽろりとこぼれたように漏らされた一言だった。
「え? たまらない……って?」
心底わからなくていぶかる輝良に、熊沢は首を振った。
「いや、なんでもない。……よかったな、同じ部屋になれて」
「あ、うん。……なあ、クマ、今なんで……」
しつこく食い下がろうとした輝良に、熊沢はふいっと背中を向けた。
「昼飯。寮で食うだろ? 予約入れとかないと」
「あ、ああ」
そんなふうに熊沢のほうから会話を打ち切るようなマネをされたことは今までなかった。いぶかしく思いながら、輝良は熊沢のあとを追った。
* * * * *
ただ――思い返せば、冷たく背けられた背中の、予兆はあった。
アメリカでの生活も二年、三年と過ぎ、ようやく、本当にようやく、「その前」を思い出せるようになってから、輝良は「初恋」の細かな経緯を検証するようになった。それはまだ、輝良の胸を切なく痛く、疼かせるものだったけれど。
中二の、夏ごろからだったろうか。時にふっと、熊沢の視線がはずされるようになったのは。
「なあ、クマ?」
見上げた時などに、ふいっと横に目線がはずされる。「なんだよ」と聞きたくなるほどあからさまではなく、ちょっと傍らに目が行ったのか程度のさりげなさで。それは……ある時は並んで中庭のベンチに座り、硬いベンチの背より心地いい熊沢の身体に輝良が身体をもたせ掛けて一緒にノートなど広げて見ている合間に、ふと輝良が友人に同意を求めて顔を上げたタイミングだった。ある時は、部活の休憩時に、輝良が道着の胸元を大きく帯のあたりまで広げ風を入れながら、「なあ」と友人を振り返ったタイミングだった。
思い返せば、寮でも部の合宿でも学年での野外学習でも、その頃から熊沢と一緒に風呂に入った記憶がなかった。今から思えばあからさまに一緒になるのを避けられていたが、当時の自分は「なんだよ」程度にしか思っていなかった。
――今なら、わかる。
きっと、同い年の親友は、輝良が振り向くまで輝良を見ていたのだと。おそらくは、首筋や胸元、まだ細かった肩先などを。なぜだか眼を奪われることにとまどいながら。なぜだか触れたくなることに怯えながら。
だから一緒に裸になることを避けられていたのだと。
無防備に甘えてくる親友に、寡黙で温厚な少年がなにを感じていたのか……大人になった今ならわかる。
もし、あの時、彼のほうから一歩踏み込んでくれていたら。もし、自分がもう少し、自分の気持ちに気づいていたら。
後悔ばかりがめぐる。
「しっかたないよな……」
そう、しかたなかった。どちらにとっても初めての恋だった。一緒にいたくて、一緒にいると楽しくて、教室でも部活でも一緒にいて、でも自分たちはただの友人同士だと思い込んでいた。
その友人相手に、なぜ視線が向いてしまうのか、執拗に舐めるように見てしまいたくなるのか、なぜ触れたくなるのか、独占したくなるのか、もっともっと、近くにいたくなるのか。「好きだ」とか「恋」だとか。自覚するのを、とまどいが邪魔をしていた。
幼かった。未経験に過ぎた。
そんな自分たちがようやく一歩を踏み出したときには、もう、なにもかもが遅かった。圧倒的な悪意と策謀が、形になって襲い掛かってきていたから。
――そうだった。中二と中三の、間の春休み。
輝良は暗く剣呑な瞳を部屋の天井に向ける。
閑静な住宅街の、瀟洒な洋館風の大きな家に、よくあの男が訪ねてきた。物心つく前から、母の妹の夫であるその男は親戚顔で輝良の家に出入りしていたから、少々頻繁な訪問も不自然に感じなかった。くれば気さくで明るい笑顔で輝良にも話しかけてくれたし、小さな頃からお土産だと言ってはケーキやゲームのソフトなどを持って来てくれていた叔父の訪問は輝良にとっても嫌なものではなかった。
その春、叔父は来るたび父となにやらむずかしい顔で話し込んでいた。「海外」「投資」「チャンス」、そんな言葉が何度も漏れ聞こえた。
父と母が何度も遅くまで話し込むようになったのもその頃だ。
「大丈夫だろうか」「銀行の保障が」「現地で実際」、父母の間ではそんな言葉がよく交わされていた。
あとでわかったことだったが、その時、父は南アジアでのエビの養殖プラントの話を叔父から持ちかけられていたのだった。もともと地元では何代も続けて市議会議員を務める名家の長男であり、自身も東京近郊で野菜を買い付け、大手スーパーにまとめて卸すという商売があたって木下産業という会社を興した輝良の父はプライド高く、常に事業の拡大を狙う野心家でもあった。
叔父が持ち込んだ話は父の海外進出の野望に火をつけたのだろう、父は熱心に叔父の話を聞いていた。
父の過ちは――現地の確認まで叔父に任せてしまったことだ。
木下産業の社長業で忙しかった父は叔父が現地で撮って来たという写真と現地の銀行の融資保証書を信じ、大勝負に打って出た。
「しょせん、いいとこのぼっちゃんだ。脇が甘いなあ」
などと、陰で笑われていることも知らず。
ギリギリと口の奥で音がして、輝良は自分が知らぬ間に奥歯をきつく噛み締めていたのに気づいた。
ベッドから起き上がり、窓へと歩み寄る。ロスの空は今日も明るい。
見ていろ、と思う。
今度はおまえが笑われる番だ。「しょせん、素人だ。脇が甘い」と。
輝良は左胸をそっと抑える。はかなく散ってなにも残らなかった初恋の代わりに、今、そこには関西一円をシマに持つ仁和組系列二葉組の代紋が彫られている。
それは輝良自身が望んで背負った、極道の証だった。
つづく
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