流花無残 二話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>











 寮の部屋は四人部屋で、二段ベッドが左右に一対ずつあり、部屋の中央にやはり二つずつの机が向かい合って並べられている造りになっていた。輝良と熊沢は同じベッドの、輝良が上、熊沢が下になった。
 クラスは別になっても、寮の部屋が同じ、部活も同じ。輝良は今まで通り、いや、今までよりもっと熊沢と一緒にいられるつもりだった。
 なのに。
 気がつけば熊沢に置いて行かれることが多くなった。寮から校舎への異動も、部活後、寮へと戻る時も、気がつけば熊沢は先に行ってしまっている。せっかく寮では同じ部屋だというのに、熊沢は夕食後の時間のほとんどを寮内の自習室で過ごして、消灯ぎりぎりになってからしか戻らない。
「なあ」
 ある夜、輝良はベッドの柵から身を乗り出し、下を覗き込んだ。
「……なんだ」
 壁際に身体を向けていた熊沢は、振り返りもしない。
「なあ……おまえ、おれのこと、避けてない?」
 単刀直入に聞いてみる。
「避けてない」
 熊沢の答えは早かったが、逆に早過ぎた。まるで用意してあった答えのように。
「でもさ。最近、いっつも先に行っちゃうじゃん。おれ、置いてかれてばっか」
 熊沢は短く笑い声を立てた。
「もう中三だぞ? 置いて行かれるとか、ないだろ」
 輝良は小さく唇を舐めた。本当はもっと直接的なことを聞きたい。しかし、部屋の反対側のベッドにはもう二人いる。ここであんまりヘンなことを言い出せば、それこそ笑われてしまう。
「なんか……おれ、最近ひとりが多いかなって」
 それでももう一言踏み込みたくて、ぽそりとそう言ってみれば、
「木下、寂しがり屋さん?」
 案の定、部屋の反対側から茶化す声が上がる。
「っせーな。寂しがりで悪ぃか!」
 開き直って言い返し、輝良は頭を引っ込めた。
 下の段からはなんのフォローもなかった。



 熊沢との間に妙な距離感が生じたまま、一学期の終業式を迎えることになった。
 長期休暇中には寮は基本的に閉鎖となり、ほとんどの生徒が家に帰る。輝良も埼玉の実家に、熊沢も都内の実家に帰る。今までならそうしてそれぞれの自宅に戻っても、互いに連絡を取り合い、映画に行ったり本屋に行ったりと遊んでいたし、互いの家に泊まりあったこともあったが、その夏休み、輝良の事前の打診はことごとく熊沢に却下されていた。
「なあ。なら、一緒にプール行かねえ? おれ、おまえの近所まで出てくし」
 これが最後とばかり、終業式の日に必死の思いで誘ってみたが、
「……悪い。たぶん、親戚の家に遊びに行くと思うんだ」
 と、またものらりとかわされた。
「んだよ!」
 かっとなって輝良は大声を出した。
「夏休み中、ずーっと法事か親戚んちかよ! 一日ぐらい、おれにつきあってくれようって気はないのかよ!」
 それはちょうど、校舎入り口にある靴箱の前だった。ほかの生徒たちは帰省の準備を急ぐためにもう足早に寮へと戻って行って、なんとか夏休み中の確約を得ようと話しかける輝良と、引き止められている熊沢のほかに姿はない。
 ほかに人影がないことが、輝良の感情をさらに昂ぶらせた。
「おまえ……おまえさ!」
 思い切り足で地面を蹴りつけて、輝良は熊沢を睨んだ。
「なんでおれを避けるんだよ! なんか気に入らないことがあるならはっきり言えばいいだろ! 男だろ! 腹が立ってんのか、イヤなことがあるのか! はっきり言えよ!」
 じわりと目頭が熱くなっていたから、おそらくその時、自分の目には涙がにじんでいたのだろうと思う。
 熊沢は、いつも落ち着いて慌てない熊沢には珍しく、短くスポーツ刈りにしてある頭に手をやり、困惑したように視線を左右に泳がせた。
「……別に……避けてないし……」
「嘘つけ!」
 感情の昂ぶりのまま、輝良は熊沢の胸元に掴みかかった。気分としては掴み上げたいところだったが、その頃まだ身長差は十センチ、体重差はおそらく十キロ以上あり、物理的に掴み上げるのは無理だった。
「嘘つけ! ホントのこと言えよ! おれが嫌いになったなら、ちゃんと言えよ!」
「……嫌いじゃない」
 至近距離で怒鳴る輝良に、熊沢はますます困ったように眉間にしわを寄せた。
「嘘つけ!」
「本当だ。絶対、嫌いじゃない。けど……おまえといると……苦しい」
「……は?」
 わからない言葉に、熊沢の制服の白シャツをつかんでいた手がゆるんだ。その手は上から熊沢の手に握りこまれる。七月の暑い日だったが、気温の暑さ以上にその手は熱かった。
「苦しい……」
 低く呻くように熊沢は繰り返す。輝良のほうはわけがわからないままに、呆然と親友の顔を見つめた。硬派な男前に育ち上がりそうな整った顔は今、確かになにかの苦痛を耐え忍ぶかのように……湧き上がるものを押し殺そうとするかのように、歪んでいる。
「クマ……」
「おまえ、嫌いだろう。ラブレターとか。いつも無視する。気持ち悪いんだろう、男同士が」
 短い言葉が激しい想いとともにあふれる。
「俺は……」
 言葉が切れた。輝良は熊沢の両腕に抱き締められていた。



 大柄な少年の白いシャツの肩越しに、校舎の前に広がる植え込みの緑が、夏の日差しの下、きらきらと葉色をきらめかせていた。



 唇を唇に押し付けられた。
 友人の強引な動きに驚くより、キスを自然に受け入れている自分に驚いた。こうなるのが、ずっと前から決まっていた当たり前のことのように感じている自分が不思議だった。
 初めてのキス。初めての。
 唐突に奪われたキスは唐突に終わった。熊沢に突き放すように身体を遠ざけられたのだ。
「……ごめん!」
 呻くような謝罪の言葉を残して、熊沢は駆け去った。輝良はただ呆然と、その後姿を見送る。
「……クマ……」
 唇に残る感触を指で押さえた。じわりと、友人と、一番親しく近い友人と唇を重ねたのだという実感が湧いて、急激に心拍が早くなった。
「あ……」
 声にならない声をこぼし、輝良は傍らの靴箱によろりと肩を持たせかけた。



 地に足をつけているという実感もないままに輝良が寮に戻ると、もう熊沢の姿はなかった。
「なんかえらく急いで出てったぞ」
 と、同室の友人が教えてくれた。
――おまえといると、苦しい。
 そして、抱擁。そして、キス。
 親友だった少年が残していったものを抱えて、輝良は家へと帰った。落ち着いて、なにがあったのか、二人の間になにがあるのか、自分の中になにがあるのか、考えたかった。
 困惑、惑乱……だが、その惑いはどこか甘いものを含んでいる。大きく、自分たちの関係が変わりそうな予感。ドキドキするような、胸が甘酸っぱく疼くような、その予感を、輝良はゆっくりと検証したかった。
 が……帰省した家の空気には、そんな輝良の甘い惑いなど飛んでしまうようなものがあった。
 三ヶ月前、春休みが終わって寮に戻る時に見送ってくれた父母にはあった笑顔が、消えていた。父も母もげっそりとやつれ、会話もない。時に交わされる言葉にはどこかトゲがあった。輝良が帰ったその日こそ二人とも喜んでくれているように見えたが、家の中の荒んだ雰囲気は隠しようがなかった。いつもの帰省なら、一日二日は家庭料理を楽しんだあと、「うまいものでも食いにいくか」と父親の音頭とりでホテルなどに出掛けてはフランス料理や中華料理などを楽しみに行くのに、今回はそれもない。夏休みには一週間ほどかけての海外旅行が定番だったのに、その話もなかった。
 気をつけて見れば、玄関の門灯も二つある風呂場の明かりもひとつは電球が切れたまま、階段の踊り場には天井にクモの巣があった。食卓も一品少なく、おかずもどこか貧相だった。
 なにが起こっているのか。
 輝良は父親に尋ねてみた。
「心配するな」
 そう言って笑顔をつくった父親の表情は以前と変わりないように見えた。
「少しな、少し、会社のほうがうまくいってなくてな。でもおまえが心配することはないぞ。事業をしていれば波があるのは当然なんだ。それを切り抜けてこそ、会社は大きく成長できるんだ」
 力強い父の言葉は信頼できそうに思えた。しかし――……。
 それまで専業主婦だった母が朝から晩までパートに出るようになり、欲しい本があると小遣いをねだっても、しぶい顔で「少し我慢してちょうだい」などと言われる。節約など言われたことがなかったのに、少し長めにシャワーを浴びているだけで「水道代が」と母は眉を寄せ、門灯も玄関灯も暗くなっても点灯されなかった。
 おかしい。
 日がたつにつれ、いいようのない暗い影に覆われている家の状況が実感され、輝良は再度、父親に尋ねた。「おれ、学校続けられるの?」と。
 深く切り込むような輝良の質問に、父親はたじろいだ様子を見せた。あとからわかったことだったが、この頃、状況は日増しに厳しさを増していたらしい。
「……大丈夫だ」
 それでも父親はしっかりした声でうなずいてくれた。
「おまえの学校だけは。あの口座だけは押さえられないようにしてあるから」
 輝良を安心させようとした父親の言葉は逆に木下家が陥った苦境の一端をこぼしていた。
『ほかの口座はもう……』
 父母の自由のきかないものになっているのだと、輝良は悟った。
 


 その夜、ベッドに入るとたまらない不安に襲われた。
 家が大変だとか、もしかしたら路頭に放り出されるかもしれないとか、それよりも。学校を続けられなかったら、もう、熊沢に会えなくなる……その不安がなによりも大きかった。
 自分は薄情なのかもしれない、おかしいのかもしれないと、輝良は考えた。
 家がこんな状況なのに。友人に会えなくなる、そのことのほうがつらいなんて。
――力強い腕だった。白シャツ越しに心臓がばくばくいっているのが伝わってきた。あたたかくて……。
 終業式の日、抱き締められた。改めてその感触を思い出すと、躯がかっと火照った。その熱は簡単に下腹部にわだかまり、まだ幼い形の性器が堅く勃ち上がり、輝良を驚かせた。
『気持ち悪いんだろう? 男同士が』
 そんなわけはない。――だって、おれ……おまえのこと、思い出して……。
 パジャマの下に手を入れ、大きくなったペニスを握る。
「……ッ……」
 声が出そうになるのを顎を引いてこらえた。
――クマ……クマ……教えて欲しい。
『絶対、嫌いじゃない。けど……おまえといると……苦しい』
 どうして苦しい? なにが苦しい? ちゃんと教えて欲しい……。どうしてキスしたのか。教えて。突然重ねられた唇。その理由を……。
 いつも穏やかな友人の顔を思い出す。輝良とは正反対の、骨格のしっかりした硬派な印象の、整った顔。その顔が、『苦しい』と告げた時に歪んでいたのを思い出す。
 どくん……下腹部が脈打ち、手の中のものが張りを増した。
――クマ。おれ、おまえのこと思い出して、こんなになってる。
 そっと、それを握った手を上下させ、優しく刺激を与えながら、心の中で輝良は親友に問いかける。
――恥ずかしいよな。おまえにバレたら、おれ、どうしたらいいんだろう。……なあ。苦しいってこういうこと? おまえに会いたくて、またぎゅっとされたくて……でも、そんなのがバレたら超絶恥ずかしい。おまえに嫌がられたらって思ったら、死にたくなる。……なあ、苦しいって、そういうこと?
 答えのない問いを続けるうちに、股間のものはいよいよ余裕なく、もう痛いほどに張り詰めて、己の手に与えられる愛撫にしずくを零しだしている。途方もなく恥ずかしいのに、やめられない。親友の苦しそうな表情、白シャツの肩、背中を抱いた強い腕、密着した胸と重ねられた唇……それらの感触と映像が入り乱れて脳裏にフラッシュする。
『輝良』
 親友が自分を呼ぶ声が耳の奥に響いた。その瞬間、輝良は自分の手の中で爆ぜていた。



 輝良と母が父に呼ばれたのは、もう夏休みも残り一週間という時だった。
 憔悴しきって帰宅した父は、それまで見たこともないほど肩を落とし、
「とうさんな、社長じゃなくなったぞ」
 と告げた。
「あなた!」
「やられた……やられたよ。今日の役員会で解任動議がされて……孝義にしてやられた……!」
 憎々しげに叔父の名を呼ぶ父の苦い声から、常務であった叔父が社長解任に暗躍したのであろうことは推察がついた。
「会社の名義にしてあったから、車は……もうない。家は……抵当に入ってるが……これも今年中には差し押さえということになるだろう。……すまない。俺がしっかりしてなかったばっかりに……」
 いつも堂々として明るい父が、初めて気弱に家族に頭を下げた。
「おとうさんが悪いんじゃないわ」
 母が父の傍らに膝をついた。
「孝義のせいよ。ありもしない投資話をでっち上げて……最初からわたしたちの財産を横取りする気だったのよ! ねえ、おとうさん、訴えましょう! わたしたち、騙されたのよ!」
 父は額を押さえたまま首を横に振った。
「だめだ……孝義も投資してる。……奴は自分も被害者だというだけだ……」
「そんな……」
「今回の解任も……法的にはなんの問題もない。合法的なものなんだ。裁判にかけようにも……俺にはもうその金もない……」
 深く溜息をつくと父は輝良を見上げた。
「輝良……すまない。おまえに継がせるはずのものを……全部、取られてしまった」
 事態を理解することはできたが、まだ信じきれない気持ちのほうが大きかった。それでも、輝良はなんとか父に向かって首を横に振って見せた。
「謝らないでよ、とうさん。……おれ……そんな、もらわなくても……自分で稼ぐし」
「そうか、そうか……」
 笑おうとした父親の眼に光るものがあった。
「すまない。輝良。……おまえにはいい教育をと……すまない。中学卒業まではなんとかなるが、高校は……すまない、公立に……」
 すまないを連呼する父親に輝良もまた、目頭が熱くなるのを覚えながら笑って見せた。
「だから、大丈夫だって。おれ、頭いいもん。奨学金だってなんだって取れるし、公立行ったら行ったで、しっかりやるし」
「そうね」
 母親もうなずいた。
「輝良は成績優秀だから。もしかしたら、奨学金で高校に上がれるかもしれないわ。今の学校が無理でも……公立でしっかりやれば……」
「うん。おれ、頑張るよ」
「輝良……」
 立ち上がった父親に頭を抱え込まれた。母がその傍で涙をぬぐう。
 突然の悲劇の中で励ましあった。しかし、まだその時、父も母も輝良自身も、木下家を襲った悲劇の全容に気づいていなかった。



 その日の夜だった。母の義理の弟である叔父が訪ねてきたのは。
 インターフォンが鳴り客かと思ったら、玄関から母のヒステリックな声が響いてきた。リビングにいた輝良と父はその声に腰を浮かせた。
「まあまあまあ、ねえさん、落ち着いてくださいよ。今度のことはぼくもね、気の毒だと思ってるんですよ。だから親戚のよしみでこうして善後策を話し合おうと……」
「い、いまさら親類顔しないでくださいっ! あ、あなたのしたことは詐欺ですっ! わたしたちを騙して……」
「ねえさんねえさん、それ以上言ったら、ぼくも出るとこ出なきゃいけなくなりますよ。侮辱罪もいいところだ」
 叔父の人を食ったような声も聞こえてきて、嫌悪感に輝良はぶるりと身体を震わせた。
「あいつ……!」
 父が拳を握り締めて部屋を出て行く。
「いい加減にしろっ! おまえにこのうちの敷居はまたがさん!! 出て行け!!」
 父の怒鳴り声が家中に響く。
「ご挨拶だなあ、にいさん。ぼくはにいさんたちが心配でこうして来ているのに」
「なにをいまさら……! なに?」
 叔父がなにやら小声で言う。
「そんな……!」
「そんなことはさせん!」
 父と母の声は聞こえるが、叔父の声は小さくぼそぼそしていて聞き取れない。輝良は必死で耳をそばだてた。
「うるさい! 出て行けっ!」
 思わず輝良さえ飛び上がるほどの大声だった。
「もう、もうこれ以上、俺の家族に手出しはさせん! 出て行けっ!!」
 部屋に戻ってきた父も母も形相が鬼のようになっている。
「とうさん、かあさん……」
「大丈夫だ、大丈夫だぞ、輝良」
 父親が大きな手で輝良の背中をばんばんと叩く。
「どんなことになっても、俺はおまえたちの手は放さん」
 いったいなにが起きているのか。叔父がなにを言ったのか。まだ大人になりきっていない輝良には想像することもできなかった。
「とにかく……おまえは勉強をしっかりやれ。いいな? もう新学期も近い。寮には戻れないのか?」
「寮なら……新学期一週間前だから……申請すれば戻れます」
「そうか。ならとにかく、おまえは学校に戻れ。そして勉強を頑張れ。おまえはおまえにできる精一杯のことをしろ」
「……はい」
 輝良は父の言葉にただ真剣にうなずいた。



 家を出る前、輝良は熊沢の家に電話を入れた。あいにくと熊沢は地元の友人と遊びに行っているとかで留守だったが、
「急なんですが、ぼく、今日寮に戻ることにしたんです。一足先に学校に戻ってるからって、寛之君に伝えてもらえますか」
 伝言を頼んだ。
 夏休みに帰省して初めてわかった家の窮状について、輝良はまだ熊沢に伝えていなかった。一学期の終わりにあんな別れ方をして、どんな顔で連絡すればいいのかわからず、熊沢のほうから連絡があったら言おうと思っている間に日がたっていた。考えてみれば、『あんな別れ方でどんな顔をしていいかわからない』のは熊沢のほうだったろう。
 寮では携帯電話の持ち込みも使用も一切禁じられていて、輝良も熊沢も自分の携帯を持っていない。どんな顔で伝言を聞くのか、どう思うのか……気になりながら、輝良は家から電車で二時間の寮へと戻った。
 帰寮届けを出し、今日の夕食から食堂でとる申し込みを済ませ、まだほとんど生徒の戻っていない寮の中を歩いた。まだあと四年、ここで過ごすのだと思っていた。けれど……父の経済状態ではたとえ奨学金がもらえても、この学校に残るのはむずかしいだろう。父も母も、あと半年と少しの中学の間の学費は大丈夫だと言ってくれた。本当なら今は一円でも惜しいのだろうに……いい環境でしっかりと勉強して、この学校には及ばぬまでもレベルの高い高校に合格してほしい――そんな親心が痛いほど伝わってきた。ならば輝良にできることは、次を見据えて、親の期待と犠牲に応えるべく、勉学に励むこと、だった。
 終わりのくるのはまだまだ先だと思っていたのに、残りはあと半年と少し。巣立たねばならない懐かしい寮を、輝良は一歩一歩、思いを噛み締めながら歩いた。
 その時。
 玄関ロビーにあわただしく駆け込んでくる足音が聞こえた。また誰か帰ってきたのかと、ちょうど二階の吹き抜けを巡る通路を歩いていた輝良は階下を見下ろした。眼に飛び込んできたのは、大柄な……。
「あきら!」
 低く、響きのいい声に呼ばれ、瞬間、眩暈を覚えた。
 夏休みの間、会わなかっただけなのに、また大人びたように見える。よく日に焼けた精悍な少年は、玄関ロビーからまっすぐに輝良を見上げてくる。
「……くまざわ……」
 きっと、こいつにさらわれる。――どこへ? どうやって?
 わからないけれど、どこか、遠くへ。今までとはちがう世界へ。
 予感に輝良はきつく手すりをつかんだ。









                                                  つづく






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