流花無残 十二話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>








「あ」
 靴箱の中にラブレター。男子校に通っていながら机や靴箱の中にラブレターを発見するという不思議も、輝良にとっては中学の時から当たり前のものだ。
 関西の今の学校に通うようになって、輝良は自分でも人付き合いが悪くなったと思う。ヤクザの囲われ者になってヤクザの組長の家から通う――そのことが輝良を同級生たちからは一歩も二歩も引かせていたからだ。無邪気に笑い合う同級生の姿は輝良が失くした無邪気さと輝きに満ちている。夜な夜な男の慰み者となり、その見返りとしてこの学校に通わせてもらっているのだという意識はそんな同級生たちの談笑の輪から輝良を遠ざけていた。
 わからないもので、自分でも「こんな陰キャラいやだろう」と思うのに、逆にこちらの学校に来てからのほうがアプローチは増えていた。おとなしくラブレターを忍ばせてくるのはよいほうで、上級生に呼び出されたり、校内の人気のないところで待ち伏せられたりもするようになった。そうして実際に行動を起こす者の多くはなぜだかひどく思い詰めていて、輝良が「つきあう気はない」と答えた途端、態度を豹変させる。抱きつこうとしたり、無理矢理に輝良をどこかへ連れ込もうとしたりするのだ。あらかじめ人を集めておくという卑怯な者まで出てきた。
「一度でいいから。少しでいいから」
 という彼らの切羽詰った懇願は、輝良にとっては迷惑なものでしかない。そんなふうに彼らがひそかな欲望を募らせてしまうのは、中年男に毎晩のようにいやらしいことをされているのが躯から滲み出てしまっているせいだろうかと、輝良は自分がひどく情けなくもなる。
 もともと中学時代には合気道部で鍛えていた。ヤクザの集団にはその護身術も効かなかったが、今はその喧嘩のプロたちに組み手の相手を務めてもらって、日々腕を上げている。同じ高校生に迫られたぐらいは簡単に退けることができたから実害はなかったが、うっとうしいことに変わりはなかった。
 その日も靴箱の中に置かれていたラブレターを見た輝良は『またいつもの』と溜息交じりの気分だった。読むだけは読み、もしどこかに呼び出されているなら、また返り討ちに合わせてやるか程度の気持ちで、輝良はその薄いブルーの封筒の封を切った。
「…………」
 輝良は無言のまま、二度、その手紙を読み返した。大筋はいつもと同じだ。「好きだ。見ていると苦しい。できればつきあいたい」と。
 だが……その手紙はそれまでのアプローチと決定的にちがっていた。いわく、「抱いてほしい」とあったのだ。
 高校三年の春。その前の年、輝良の身長は10センチ以上伸びていた。




 その日、輝良が学校から帰ると、珍しく二葉が一人でリビングにいた。
「ただいま……」
『やめて…ッいやだあ……!』
 二葉はテレビを見ていた。ソファに背を預け、ブランデーのグラスを揺らして。液晶の大画面には、何人もの男たちに押さえつけられたまま後ろから男に穿たれている少年の姿があった。――輝良が初めてこの二葉の家に来た日の映像だった。
 わずかに小さく、心臓が跳ねた。輝良は小さく溜息をついた。
「また……悪趣味なもん、見てんね」
 後ろから二葉の首に腕を回し、男の頬に頬を寄せた。
「いや……かわいそうなことしたなあ思て」
 輝良は喉の奥で笑う。
「どうしたの。いまさらなことを」
「いまさら、やからや。こないひどい目に遭わせたのに……おまえはよう俺に仕えてくれた」
 二葉は画像を停めると、肩越しに覗き込む輝良に穏やかな目を向けた。
「俺の知らん間にスミまで入れて……仁和組総長に歯向かってまで、俺に操を立ててくれた」
「オヤジ……」
 二葉は輝良の腕をほどくと立ち上がりDVDプレイヤーの前で膝をつく。戻ってきた二葉の手には三枚のDVDがあった。
「ほかのデータはぜーんぶ消した」
 薄いプラスチックケースに入ったDVDを二葉は輝良に向かって差し出してくる。DVDにはそれぞれマジックで乱暴に1、2、3と番号だけが振ってある。
「おまえとのこと、カメラに収めた分、これが全部や」
 事態を飲み込めないまま、輝良は差し出されたケースを受け取った。確かに二葉は時折、輝良との情交を録画させていた。以前の輝良はそれが嫌で嫌でたまらなかった――。
「おまえにやる。捨てるなり燃やすなり、勝手にしぃ」
 輝良は顔を上げた。二葉の顔を見つめる。最初は憎らしいばかりでしかなかった男の顔を見つめる。――まさか、まさか?
 男は小さくひとつ、うなずいた。
「今までよう俺の相手を務めてくれた。……もう、ええ」
「ええって……」
 二葉の顔に苦笑が浮かぶ。
「ほんまはな。去年、おまえに杯やった時に、もうアッチのお役はごめんやて言ってやりたかったんやけどな……すまんな、まだちぃと未練が切れんかった」
「…………」
 輝良は言葉もなく二葉を見つめる。――この家に来たとき、とても大きく見えた男は、今、目線の高さが輝良と同じだ。
「よう……我慢してくれた。よう、相手してくれた。これからはホントの俺の息子として、二葉組の組員として、気張ってくれ」
 二葉の言葉の意味がゆっくりと胸に落ちてくる。DVDを持つ手が小さく震えだしてカタカタと音が立った。
「……これからは……好きなヤツができたら、好きにつきおうてええんやで。俺も下手なヤキモチはやかんから」
 嫉妬しないと言われる。輝良は渡されたDVDに視線を落とした。
 これまでの二年半のことが走馬灯のように思い出される。暴力と陵辱でしかなかった初めの頃のこと、仕込まれた数々の性戯、心を置き去りにして快感に目覚めた躯が見せた痴態……その断片を記した映像を輝良に渡し、二葉はそのすべてから、今、解放してくれると言う。
「……ホントに……?」
 確認を求めた声が掠れる。ぽんぽんと輝良の肩をたたき、二葉はうなずいた。
「ホンマや。おおきにな。ええ思い、たんとさせてもろたわ。――もう、ええ。これからはちゃあんと一人のオヤジとして、おまえのことはしっかり見守ってやるさかい。これまでのことは、堪忍な」
 いつかは、と思っていた。いつかは……と。まだ実感が湧かないままに、輝良は頭を下げた。
「……ありがとう、ございます……お世話に、なりました……」




 城戸泰造がくれた言葉を思い出す。
『二葉の相手は三年も続かんやろ。どや? 三年だけ、目ぇつぶって我慢できひんか。二葉はあれはちびっと色に弱いところがあれやけど、それ以外は文句のない男やで?』と。
 結局、城戸が言った三年より早く、二年と半で輝良は解放された。もう二葉の夜の相手を務めなくてもいい。
 信じられなかった。きのうまでそれが当たり前だったことが、今日はちがう。それが自分の義務とまで思っていたことから突然に解放されて、心をどこに持っていけばいいのか、わからない。
 夕食後、いつものようにバスルームに入った。
 ジャグジーにもなる半円形の大きなバスタブ、夜空がそのまま見渡せるガラス張りの天井、大理石と黒曜石で張られた床と壁……この豪奢なバスルームでも、どれだけいやらしいことをされただろう――。
 かけ湯をしてから、ゆっくりとバスタブに身を沈める。
 ドアを見る。――こうして湯に浸かっていても、もう、いつ二葉がスケベ笑いを口元に浮かべて入ってくるかと警戒しなくていい……。
 夜の相手を務めなくていいというのはそういうことだ。お風呂の最中に石鹸だらけの手で躯を弄られ、冷たい床の上で喘がされることはもうない。テレビを見ている時に襟元から手を入れられ、乳首をまさぐられることはもうない。酒を飲んでいる男の脚の間にかしずき、股間のものをしゃぶり続けさせられることは、もうない。
「お役、御免か……」
 ようやく、じわりと解放感が胸に沁みてくる。意外なほどのすがすがしさだった。
 二葉の息子になると決めた二年前から、二葉にされることもまた、輝良は喜んで受け入れるようにしてきた。当初、輝良は男に抱かれるうちに意に反して目覚めてしまった性の快楽を否定していた。男に抱かれて喜ぶ自分の躯が、許せなかった。けれど二年前、二葉を足がかりとして極道の世界に生きるのだと決めてからは、二葉の求めには進んで応じ、与えられる快感は素直に享受するようになった。時には自分から二葉を挑発し、性愛の濃い悦びに肌を震わせてもきた。
 今の輝良は、セックスの愉しさを知らないヤツは可哀想、とまで言い切れる。
 それでも……もう二葉に抱かれることはないのだと、それは終わったのだと思うと、重苦しい暗雲が取り払われたかのような清涼感があった。やることはやったという達成感もあるのだろうか。
 しかし……――。
『おまえが二葉よりデカなってみぃ。二葉かてそんなゴツイの、抱きとなったりせえへんわ』
 城戸の言葉を思い出しながら、輝良は濡れた自分の手を見つめた。ゆっくりと拳に握って開く。
 長い指と高い節を持つ、大きな手。かつて、泣き叫ぶ輝良を軽々と押さえつけた男たちの手と同じくらい、大きな手。
 自分の手で手首を握る。手首もまた、太く、幅も厚みもある、しっかりしたものに変わっている。
 湯の中に沈む自分の躯を見る。――いつの間に、こんなに大きくなっていたのか……。
 色の白さだけは変わらないが、この二年半で少年の躯から青年の躯へと成長した自分の四肢を輝良は見つめた。
 膝を折る。お湯からにょっきりと突き出した膝を輝良は手で撫でた。丸くすべすべしていた膝は、今、力強さを増した脚の一部としてごつごつした感触を手に伝えてくる。
『そんなゴツイの、抱きとなったりせえへん』
――クマ。熊沢……。
 たった一夜だけ、恋人だった親友。
 中学に入学して以来、ずっと自分より一回りも二回りも大きいと感じていた少年の背を、輝良は去年の夏に抜いていた。
――大きく、なりたかった……。
 早く二葉から解放されたかった。
――大きく、なりたくなかった……。
 二度と会えないと諦めている。それでも、彼より大きく逞しくなってしまいたくなかった……。
『そんなゴツイの』
 会えない、会えない、会いたくない。運命に流された故とはいえ、ほかの男の慰み者になって、さんざんに性愛の愉悦を覚えこまされたこの躯で、どのツラ下げて、清い自分に好意を寄せてくれた彼に会えるというのか。
 会えない。会いたくない。会いたくなんかない。会えるとも思わない。
 それでも……。
 二葉からお役御免になった自分、抱かれる立場ではなくなった自分を思うと、胸の奥に、きゅうっと引き絞られるような痛みが走った。
 成長した躯は、まだ青く未熟な部分は残っているものの、大人の男のものになっている。高い背、ほどよい筋肉をまとった四肢、広い肩幅――どれもがもう、華奢でいたいけだった少年のものとはちがう。
 花の色はうつりにけりな いたずらに
 ふと万葉集の中の一句が浮かぶ。下の句はなんと言ったか。
「花の色は……うつりにけりな……いたずらに……」
 無体に手折られた花は残酷に散らされ、さんざんに引き千切られて、花弁は汚く泥にまみれた。花の散ったあとには、無骨な、なんのあでやかさもない若木が育ったが、誰がそんな若木を手折ろうと思うか。
「花の色……」
 込み上げてきた嗚咽に声が途切れる。
「うぅ……あ、っえ……えぐ……」
 まずいと思うのに、あふれだした涙を止める手立てはなかった。声を出して泣くのは、二年前に城戸に慰められながら泣いて以来のことだった。
――クマ……!
『輝良……綺麗だ』
『可愛い……』
 たった一夜。抱き合った、たった一夜に、何度も何度もそう言われた。
『輝良、好きだ、好きだ』
――もう俺は綺麗じゃないし、可愛くもない!
「ううーッ、うッうッ……」
 顔を覆った手から嗚咽がこぼれる。
 二葉から解放されたのは嬉しい。低い天井に腰をかがめていたのに、突然、大空のもとに連れ出されたかのような、すがすがしさと解放感だった。そして同時に、胸を食むのは……どうしようもないやるせなさと寂しさだった。自分は変わったのだという実感が取り返しのつかない時間への切なさとともに胸に突き立つ。
 湯船の中で輝良は一人、泣き続けた。




 ぱたんとドアが閉まる音がしたのは、輝良がようやく気を取り直し、バスタブから上がって躯を洗い始めた時だった。バスルームに続くパウダールームのドアが開閉する音に、輝良は顔を上げた。
「だれ」
 声をかけても返事がなく、すりガラスの向こうに動く人影もない。どうやら誰かがパウダールームから出て行った音らしかった。
 もしかしたら泣き声を聞かれたかとは思ったが、それならそれでかまわなかった。星を見ていたら悲しくなったとでも言うつもりだった。
 それきりそのことは気にしていなかった輝良だったが……。
 風呂上り、自室でパジャマ姿でくつろいでいるところにドアをノックされた。
「どうぞー」
 髪に残った湿りをタオルで取りながら返事をすると、ためらいがちにドアが開いた。神妙な顔をした沢が顔をのぞかせる。
「沢さん、どうしたの」
「……あー……今、ちょっと、ええか」
「いいよ?」
 いつも気さくで率直な沢には珍しく、部屋に入ってきてもドアの前でもじもじしている。
「どうかした?」
 重ねて聞くと、ようやく、
「あのな」
 と顔を上げた。
「あんな……愛すればこそやねん」
「……あ?」
 沢の言葉の意味がわからず口を開いて聞き返す。沢の顔にかあっと血が上った。
「だから、愛すればこそやねんて!」
「ごめん、沢さん、話が見えない」
「だから!」
 沢はダンと床を踏み鳴らした。
「愛すればこそやねん! オヤジさんはおまえのことが心底かわいいねん! おまえが立派な極道になれるように、一人前の男になれるように、オヤジさんは心砕いてんねん!」
「…………」
 なんとなく話の道筋が見えてきたが、輝良は黙っていた。
「おま、おまえをもう抱かんゆーのんも、そうや! いつ、いつまでも女扱いしとったら、おまえを男として馬鹿にしとることになるやろ! オヤジさんはあれやで、おまえのことが嫌いになったとか飽きたとかゆうんやないで! おまえを心底愛しいと思えばこそ……!」
 細面で色白な沢は一見、優男風に見える。が、実際は武闘派で、硬派でもある。愛しているとかいとしいなどというセリフを簡単に口にするタイプではないのだ。その彼が真っ赤になって一生懸命二葉の真意を伝えようとしているのが逆におかしくて、輝良はうつむいた。噴き出しそうだったからだ。
「せ、せやから! おまえはなんも心配せんでええねん! オヤジはちゃんと……」
「沢さん……さっき俺が泣いてたの、聞いてたんだ」
「……お、おう。悪かった、ちょっと洗面所にタオルを取りに行って……」
「ありがとうね……」
 わざと肩を丸めてシナを作り、なるべくしおらしく見えるように、輝良は口元に手を当てた。
「おとうさんに言われたんだ……これからは好きな人とつきあってもいいって」
「え」
 沢の動揺がダイレクトに伝わってきて、笑いをこらえるのが苦しい。輝良は上目遣いにうろたえている沢を見上げた。
「……ね、沢さん……」
 喉声で湿っぽく名を呼ぶと、あたふたと沢は後ろに下がりドアに思い切りぶつかっている。
「ぶっ……」
 限界だった。
「あはははは!」
 こらえきれなかった笑いが爆発した。
「お、おまー! びっくりさすなや!」
 輝良にからかわれたと悟った沢が怒ってくる。
「あ、慌てて……慌ててる……ひー」
「そりゃ慌てるやろ。いきなりあんな色っぽい声で呼ばれたら」
 沢は憮然とした表情で、おなかを抱えて笑い続ける輝良を見下ろした。
「しょーもないこと、すな!」
 近寄ってきた沢に髪をぐしゃぐしゃとかき回される。
「……ええか。おまえはオヤジさんの大事な息子や。俺にとっては弟分や。それは変わらんへんねんで」
「……ありがとね」
 ようやく笑いを引っ込め、輝良は顔を上げた。
「ありがと」
 沢の慰めは見当違いなものではあったが、思いだけは伝わってきた。
 その夜、独り寝のベッドの中で輝良は思い切り手足を伸ばしてみた。狩られる立場の弱々しさはもうその四肢にはない。
――俺は……生き直す。
 薄闇に浮かぶ、白い大きな手に輝良は心を決めたのだった。





                                                  つづく






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