流花無残 十四話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>








 そうして――二葉輝良は渡米し、カリフォルニアに暮らすことになった。
 気候も、すれちがう人種も、なにもかもがちがう異国で、日本とは土地の使い方が根本からちがうアメリカで、乾いた空気と高い空が世界中から人を集める陽気な西海岸で、輝良は大学生になった。
 広いキャンパス、刺激に満ちた講義、新しい友人たちとの交流――それはこの四年間、輝良が忘れていた解放感に満ちたものだった。
 肌の色も骨格も、実にさまざまな人種が行きかうカフェテリアで、真新しいテキストを開き、早くも顔見知りになった同じ海外からの新入生たちと、互いに母国語なまりのひどい英語でしゃべりあう。そんな時は輝良も束の間、自分の未来はただただ希望に満ち、明るく可能性に満ちたものでもあるかのような錯覚を覚えることがあった。
 同級生たちは無邪気に将来の夢を語る。
 アフリカに渡って人道援助に尽くす、国連に入って世界中を飛び回る、ニューヨークで会社をおこす、引退後は北欧でのんびり過ごす……希望の大学で学ぶという最初の切符を手にした彼らは、その切符を最大限有効に使って、次の道、次の道と考えるのが楽しくてならないように輝良には見えた。
――俺はこの切符を使って……。
 極道の世界で大きくなる。そして、叔父・大江に復讐する。
 誰かに話せば、なぜわざわざUCLAを卒業して、そんなイバラ道を選ぶのかと聞かれるだろう。だから輝良は誰にも本心を告げなかった。
 輝良自身、UCLAという舞台から世界のビジネスや政治という舞台へと活躍の場を広げようとすることもなく、ただ日本の中の、しかも極道の世界でのし上がることだけを考えている自分が愚かだとはわかっている。
 が、どれほど愚かだと思ってみても、ほかの道は考えられなかった。
 憎かった、大江が。
 その憎しみさえ捨てれば、もっと自由に未来を選ぶことができる。
 それもわかっていて、なお、大江への憎しみを捨てることはできなかった。
 UCLAで学ぶ、それは望めば誰でもできるというものではない。財力、知力、語学力、そして実行力がなければ、ここで学ぶことなどできない。自分はそのすべてを、ほぼ自分ひとりの力で得てここまで来た。なのに、なぜたったひとりの男への恨みで、極道の世界で生き続けると決めてしまうのか。なぜ、憎しみを捨てられないのか。
――それは。
 過去は消せないからだ。
 いくら、明るい西海岸の空の下で、友達とふざけていても。いくら、厳しいスケジュールに追われながらレポートをまとめていても。
 二葉の家に初めて連れて行かれた日が消えるわけではない。
 数人の男たちに手足を押さえつけられて、男に奪われた、その事実が消えるわけではない。
 数年にわたって、生活費と学費のために、男にいいように弄ばれた、その事実が消えるわけではない。
 胸に彫った刺青は、世界中、輝良がどこに行こうと消えない。
――あの叔父さえいなければ……。
 人に話せば、つまらない過去に捉われていると言われてしまうとわかっていても。あの男に復讐したい、そして、自分を絡め取ったヤクザの世界で、二度と誰の勝手にもされない強い自分になりたい。
 日差しに溢れ、抜けるような青空が広がるカリフォルニアの地で、改めて輝良は己の黒く燃える思いを確かめたのだった。




 話には聞いていたように、アメリカの大学は課題の量がすさまじかった。量だけではない、なにかのテキストを丸写しすればすむというような簡単な作業ではすまない課題の内容も、複雑で高度だった。
 講義に出れば予習に裏打ちされた発言を求められ、レポート提出の期限は途切れもない。そんなハードな勉学をこなしつつ、輝良は気の合う仲間とボートやサーフィンを楽しみ、キャンプやパーティにも積極的に参加した。せっかく留学しているのだ、遊ばなければ損だという思いもあれば、世界中から人が集まっている大学で、多彩な人脈を築いておきたいという思惑もあった。
 そんなアメリカでの生活が二年を過ぎる頃――輝良は初めてゆっくりと、無残な形で終わった「初恋」について思い返すようになった。いや、思い返せるようになった。
 クマ。熊沢寛之。
 入学した中学で、前後の席に着いたのが出会いだった。熊沢は躯も大きく、しかもなにをやっても輝良よりいつもわずかずつ、優れていた。くやしくて、腹が立って……でも、大好きだった。
 そういえば、初めて「可愛い」と言われたのはいつだったろう?
 あれは、確か、部活から寮へと帰る道の途中……もしかしたら、その時から熊沢は、いつも傍にいる小さい同級生のことを「そういう目」で見ていたのだろうか。
 二十歳を超えて、遠い異国で思い出す初めての恋は、やたらと甘酸っぱく、そして切なかった。現実では、誘われてその気になれば、すぐに誰とでもベッドを共にするという乱れた生活を送っているのに、熊沢との初めてのキスは思い出すだけで顔が火照った。
「一回寝ただけで、恋人ヅラされても困るんだけど?」
 顔色ひとつ変えずに平然と、それこそ破廉恥の限りを尽くした夜のあとに言い放つこともできるのに。熊沢とのたった一夜を思い出すと胸がドキドキしてしまう自分に輝良はとまどった。
 アメリカに来て、何人もの男女とつきあった。一夜限りの遊びもあれば、数ヶ月続いた恋人と呼べる関係もあった。だが、どれほど交際が長期になっても、いったん別れたら二度とその相手を懐かしく思うことはない。別れに涙することも一度もなかった。それなのに……クマとの一夜はもう五年以上も昔のことなのにまるで昨日のことのように思い出すことができた。そのときめきも、うれしさも……そして、さよならも言わずに会えなくなった別れの痛さも。
 あの引き裂かれ方が、あまりにもひどいものだったからだろうか。
 それとも、初恋というものは、誰にもこんな深い想いを残すものなのか。
「切ないな……」
 小さく呟く。
 封印していた記憶を呼び覚ましたのは、遠く日本の地を離れ、『もう大丈夫』と思ったからだった。もうそれほどの痛みはないだろう、思い返してもつらくはないだろうと。
 もう、自分は十分に大人だから。
 傷ごと、思い出を抱えていられるだけの大人になったから。
 それでも、乾いたはずの傷口が、思い出すだけで疼くのは……「初恋」が誰にもそういう痛みをもたらす特別なものなのか、それとも実りきらずに落ちた果実だったからなのか、誰かに聞けるものなら、聞いてみたい輝良だった。




 表面的には、少々金遣いの荒い、気さくで遊び好きな留学生としてカリフォルニアでの大学生活を謳歌しながら、輝良はどこかに「過去」を負っていた。
 その仄暗い波動が、やはり同じ匂いの人間を引き寄せるのか……。
「それ、『家紋』ってヤツだろう?」
 海岸にサーフィンに出た時だった。輝良の左胸を指差し、聞いてくる者があった。同じ国際商業法科のクラスを取る学生で、それまで何度か遊びの場でも一緒になったことのある、香港からの留学生だった。
「クールなタトゥをいれたアジアの王子様だって、女たちがおまえのこと、噂してる」
 輝良はそのフアン・ジヤンという青年を黙って見返した。
 日本ではまだ、ファッションとしてのタトゥが浸透しているとは言い難いが、アメリカでは腕や胸におしゃれとして墨を入れている者が少なくない。輝良の胸の刺青も、木の葉(リーフ)をかたどったロゴとして、なんの抵抗もなく受け入れられているようだったから、高校時代は絆創膏で隠していた輝良も、こちらに来てからは隠す必要を感じていなかった。
 フアンは口元に思惑ありげな笑みを浮かべ、上目遣いに輝良を見た。
「――俺は知ってる。これは日本ではそれぞれの家のマークとして使われる『家紋』ってやつだ。そして俺はもうひとつ、日本について知ってることがある。日本では家紋を肌に彫りつける習慣はない。そんなことをするのは『ヤクザ』だけだ」
「……なるほど。おまえは日本と日本のヤクザについて詳しいようだな」
 輝良が返すと、フアンは軽く肩をすくめた。
「ほぼ同業だからな」
 意外な言葉だった。フアンは輝良の目には、お金のある華僑の道楽息子と見えていたからだ。
「いずれ俺は親父の跡を継ぐ。その時のための人脈作りさ、アメリカに来ているのは。なんといってもUCLAってのは世界のエリートが集まってくる大学のひとつだからな。いろんなパイプを作りやすい」
 フアンの狙いは輝良と同じだった。
「中国系のマフィアは仲間同士の結束をなにより大事にすると聞いているが」
 輝良がそう話を振ると、フアンはにやりと笑った。
「血縁が一番大切だ。信頼できるのは同族のものだけだ。……だが、この時代だ。国際化ということを無視して組織の発展はない。おまえもそのためにここに来ているんじゃないのか」
「――大きな金を作りたいんだ」
 カリフォルニアに来て初めて、輝良は自分の本当の目的を口にしてみた。
「好きに組織を動かすには金の力がなければならない。そのために人脈を築くのも大切だと思っているだけだ」
 満足気にフアンはうなずいた。トンと輝良の胸をついてくる。
「これからは仲良くしようぜ? どうやらおまえとは話が合いそうだ」
 フアンとはそれが縁でほかの学生よりも親しくなった。互いの素性を明らかにしたつきあいは気楽で、しかも実利があった。輝良はフアンとふたりでずいぶんと悪いことをやった。女子学生に声をかけてデリヘルまがいの仕事をさせたり、工学部の学生と組んで組み立て式の拳銃を密造したりした。さらにはその拳銃を数人に分けて持たせ、日本に持ち込ませるところまでやった。いつも冗談めかして、どちらも口には出さなかったが、それらの「悪さ」はすべて将来のビジネスの予習であり、互いが信頼のおけるパートナーになりうるかを見定めるための試金石だった。
 そして、もうひとり。経緯はまったくちがうが、輝良には卒業間際に「親密」になった友人がいたのだった。




 イタリアからの留学生、ジェリーノ・アルギィジはイタリア人は陽気だというステレオタイプな先入観を激しく裏切って、内気で人見知りだった。明るい金髪に空の青さを映したような青い瞳。すらりとした長身で、バランスよい四肢を持った彼は、その外見の伸びやかな魅力を恥じてでもいるかのように、いつもひっそりと静かだった。
 その彼が、なぜだか不思議と輝良とは馬が合い、週末ともなればあちらこちらのパーティを渡り歩く輝良と、週末は図書館にこもるジェリーノは、それでも週に何回かはどちらからともなく誘い合ってランチや夕食を共にしていた。
 あとから思えば、ジェリーノとの話題は不思議に過去にも未来にも触れないものばかりだった。締め切りの迫ったレポート、偶然見かけた面白い光景、教授の噂話……ジェリーノとの話はいつも「今」「ここ」に限定されていた。親のことも、故郷のことも聞かない、言わない、未来についての夢も希望も話さない。
 ジェリーノと過ごす時間はいつも、穏やかで静かな笑いの気配があったように思う。ほかの留学生のように故郷の家族や未来についての計画を尋ねることも語ることもしないジェリーノは、フアンとは別の意味で、輝良にとって痛い部分に触れられずにすむ唯一ともいえる相手だった。
 互いのことについて知ったのは、大学四年、卒業間際のある事件のせいだった。
 その日、輝良とジェリーノは同じ講座を取る女性ふたりと連れ立って、大学近くのドラッグストアに買い物に出た。ジェリーノと輝良は店の入り口とは反対側にあるレジ近くで飲み物類を物色していた。そこへ響いたのは、突然の怒声。
「動くな!」
 続いて耳を弄する爆音が二発続く。天井のライトが音高く割れ、店内にガラスが飛び散った。
 輝良は咄嗟にショーケースの陰に身をかがめた。と、同時に、軽い「パン」という破裂音にも似た音を聞く。その音の出所も意味もわからなかったが、女性客の悲鳴を聞きながら、輝良はジェリーノを振り返った。
 ジェリーノは中腰になってショーケースの影に隠れるような姿勢を取りつつ、両手を前に伸ばしていた。そして、その手の中には――。
 もう「動くな!」と命じたガラガラ声は聞こえない。天井のライトを割った銃ももう爆音を響かせることはない。すべてが一瞬のことだった。
 照明が消え、外からの光だけになった店内で輝良はゆっくりと立ち上がった。ジェリーノもゆっくりと腕を下ろす。
「撃っちゃった」
 小声ですまなそうにジェリーノが呟く。手の中の小型拳銃を見下ろしながら。
 すまなそうで、自信なさげで、それはいつものジェリーノだった。恐ろしいほどに、いつものジェリーノだった。
 ガラスの破片が飛び散る店の中を、輝良は足元に気をつけながら店の入り口へと向かった。ようやく我に返ったらしい店員が慌てて警察に連絡しはじめる。
 ドラッグストアに押し入り、威嚇射撃を天井に撃ち込んだ強盗は、顔をすっぽり覆ったマスクをかぶって、仰向けに倒れていた。手には黒光りする拳銃を持っているが、その手はぴくりとも動かない。
 マスクの、ちょうど眉間にあたる部分に銃痕があり、わずかに血が沁みていた。




 先に発砲したのが強盗のほうだったのは、店員も店にいた客も皆が証言してくれた。ジェリーノは正当防衛が認められ、なんのお咎めもなかった。犯人が前科を持つ、強盗の再犯者であることもジェリーノに有利に働いた。
 警察でジェリーノは高校では射撃部に所属し、今も定期的に射撃練習場に通うと話したらしい。
「いい腕前だ、卒業したら州警に入らないかって誘われちゃった」
 事情聴取を終えたジェリーノは、付き添った輝良にそう言って、また内気そうな笑みを浮かべた。だが、輝良には「そうか」といつものように穏やかな笑みを返す気はなかった。
「人を撃ったのは何回目?」
 警察署の階段を降りながら、真顔で尋ねた。
 青い眼が少しだけ大きく開き、そしてまたすぐ、いつものように伏せられる。
「えっと……五人目かな、六人目かな……」
「慣れてるように見えたから」
「うん……銃を向けられたら、反射的に撃つように訓練されてる」
「訓練?」
 淡々と言葉を交わしていたが、ジェリーノはそこで足を止めた。まだ警察署の敷地内だった。暗い顔でうつむく。
「ぼくの家はシチリアンマフィアだ。父はビッグファザーと呼ばれてる」
 輝良は無言で嘆息した。馬が合う理由を納得する思いだった。
「……今まで、黙っていて、ごめん。……家は家だから……話す必要はないかなって……」
 己の出自を恥じているようなジェリーノに輝良は笑顔を作った。自然に笑みが浮かんだ。
「あやまるな。俺だって同じだ。……俺は……中学の時に日本の『ヤクザ』に引き取られた。ずっとそのボスの愛人だったんだ。この胸のタトゥはその証だ」
 輝良が打ち明けると、あろうことか、ジェリーノは顔を輝かせた。
「よかった! じゃあぼくたち、同じなんだね!」
 嬉しそうにそう言ったジェリーノの肩に腕を回し、輝良はその顔を引き寄せた。
「なに、おまえ、嬉しいの?」
「そりゃあ! だって、なかなかないよ? UCLAにまで来て、仲良くなれた相手がぼくと同じマフィアだなんて!」
「……ぼくと同じって……おまえはもう、マフィアになると決めているのか」
 間近にある青い瞳が、穏やかに、けれどまっすぐに輝良を見る。
「決めてるんじゃない。ぼくはもうすでに、マフィアの一員なんだ。ぼくにはファミリーがいる。兄弟も、叔父も、イトコも。ぼくは彼らの仲間だ、生まれた時から」
 明るくはっきりとそう言い切るジェリーノを、輝良は不思議な気持ちで見つめ返した。ヤクザになるというのは、もっと暗く悲惨な覚悟がいるもののように自分の経験から思っていた。
 ジェリーノは肩から輝良の腕を外すと、「でもね」と呟いた。
「ぼくにファミリーの一員として生きる以外の道がないのも、本当。今日、気がついたでしょ? ぼくは前にも人を殺したことがあるんだ。ファミリーに守られていなければ、ぼくは刑務所に行くしかない」
「それは……なかなかハードだな」
「ハードだよ。マフィアだもん」
 ふたりして小さく噴き出した。
「アキラ。これからはぼくの家族の話も聞いてくれる?」
「ああ。俺も話すよ。……これまでのこと」
 それが、それまでの親密さとはまた別の、新しい親近感がふたりの間に芽生えた瞬間であり、輝良が真の友人を得た瞬間でもあった。





                                                  つづく






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