車に乗り込むと、輝良は運転席に向かい、短く行き先を告げた。
まっすぐ大阪に帰るつもりだったらしい若い衆が、とまどったようにバックミラー越しに目線を投げてくるのへ、沢は黙ってうなずいて返した。――これにつきあいたいからこそ、わざわざ大阪から車を飛ばしてきたのだ。
案の定、輝良が命じた行き先は、輝良の実家があった町の名だった。
「今ってさあ、すごいよね」
ハイエースの後部座席で、長い脚をもてあますように組みながら、輝良は機嫌のよさそうな顔でビジネスバッグの中からA4の紙の束を取り出した。
「アメリカにいてもさあ、日本のたった一個人のことがあれこれわかっちゃう。つーか、こんなかんたんにいろいろわかるんだったら、もっと早くに調べとけばよかったよ」
わからないフリをしていても仕方ない。
「大江のことか」
沢は自分から切り出した。
「そう。……沢さんは知ってた? 大江が今、どうなってるか」
「いいや」
本当に知らないことだったから、沢は首を横に振る。だが、輝良は納得しなかったらしい。軽い笑顔は消え、瞳に剣呑な光が浮かんできている。
「ホント?」
「嘘言ってどないすんねん。俺らはもらうもんもろたからな。あとは知らんわ」
「ふーん?」
まだ疑っているらしい輝良の目に、沢は軽く溜息をついた。
「言うたやろ。関東進出の足掛かりになればと思て、おまえの父親を大江と一緒にだまくらかしたて。その後は、俺ら二葉組はホンマに大江とは関係しとらん。ただ、関東におった、最初に大江に話持ちかけられた岩間いう男が二葉のオヤジの杯もろて、関東で組おこしたんや。そいつがもしかしたら大江とまだつながっとるかもしれへん」
「そういうことか」
何事か納得したように、輝良は沢に向けていた探るような目を、手にした紙の束に落とした。
「ヤクザとつながりを持った素人は骨の髄までしゃぶられる。……迂闊だったよ。俺がこの手であいつから何もかも取り上げてやりたかったのに……」
「……大江はなんもかんもなくしたっちゅうことか」
「そう」
輝良の目に今度は怒りの炎が揺らめき立つ。
「俺の父親から奪った会社は潰して、家は人手に渡ってるらしい。東京の調査会社に調べさせたんだ」
「……ヤクザが骨の髄までしゃぶるゆうても、うま味のある商売の邪魔まではせえへんで? うまいことつながりもって、細く長くもうけさせてもろたほうがええからな。岩間がなにをしたかは知らんけど……」
「大江に会社をやらせておくより、吸えるあいだにうまい汁を吸いつくしたほうがいいと岩間さんは判断したらしいね。報告を見ると、最後はヤクザのフロント企業相手に不渡り出して倒産してる」
沢は深く息を吐くと、腕を組み、輝良と同じように脚を高く組んで見せた。その膝の高さがちがうのがいまいましい。
「しょせん大江はその程度の男やったんやろ。……で? どないすんねん? 大江のタマぁとるつもりか」
「それ以外になにがあるの?」
当然とばかりに輝良が答える。
「どうせなら……じわじわと追い詰めて、会社も家も取り上げて……俺の手で絶望の限りを味あわせてから殺してやりたかったけど。……それができないなら、それはそれで仕方ない。だけど……まだあいつは生きてる。いいよ、あいつが最後に持ってる命だけは……俺が奪ってやるから。絶対、絶対……楽には死なさない」
輝良の手の中で、報告をプリントしたらしい紙の束がぐしゃりと歪む。その瞳は憎悪を宿してただ前方に向けられていた。
閑静な高級住宅街の一角に、ぽかりとそこだけ空いた更地があった。「売地」の看板が立っている。
かつての自分の家の跡地を、輝良は残暑とは思えぬ日差しが照りつける中、長いこと眺めていた。
「八年――」
その口から呪詛のような響きの声が漏れる。
「俺から……俺の家族から、この家を取り上げて……八年。こんな更地にしやがって……」
家が壊されてからずいぶんたつのだろう、そこは雑草が生い茂る空き地となっていた。
輝良に手渡されていた報告書に沢はざっと目を通した。
「大江がこの家を抵当に取られたんが二年前……そのままでは売れんかったんか、家が取り壊されたのが半年とちょっと前か。……おまえ、知っとったら買い取りたかったんちゃうんか」
「家にはそれほどの思い入れはないよ」
輝良は渡米する前に実の両親に挨拶に行っている。その時も同行したのは沢だった。数年ぶりの親子の再会の邪魔をしてはいけないと、待ち合わせのホテルラウンジではなく、近くのファミレスで時間を潰していた沢のもとへ、輝良は疲れた笑顔で現れた。
『ヤクザの金で留学すんのかって怒られたよ。おまえには恥はないのかって』
当初こそ、輝良の面倒を見てくれる人がいてよかった、借金も三百万も棒引きされてありがたい、そう言っていた輝良の両親だったが、三年のあいだに真実が見えてきたらしい。それならそれで、自分たちの無力と無知を親として輝良に詫びるべきだと沢などは思うのだが、詐欺に引っかかって先祖伝来の土地も会社もおめおめと奪われた輝良の父親は、『恥知らず』と息子をさげすむことで自分のプライドを保つことにしたようだった。
『自分で作った金だって言ったんだけど、もともとはヤクザの金だろうって。うっさいよ、あったりまえじゃん? 組長の愛人やって、ここまで来たんだ』
そうだ、無力な中学生だった輝良にほかに選択肢はなかった。そのことを誰より知っている沢には輝良の父親の言葉が腹立たしかった。反面、実の両親と輝良のあいだに溝ができれば、それだけ、輝良は二葉組により近しくなるだろうとの思いもあった――。
「親も俺の金なんかで買い戻した家に住みたくはないだろうし」
薄ら笑いでそう言う輝良の心情は沢には容易に理解できた。
「それにしても腹立たしいよね」
かつて家が建っていただろうあたりまで入って行き、輝良はがっと地面を蹴りつけた。
「自分のものでもない家や会社を欲しがってさ、横取りした揚げ句にたった数年でこれだぜ? 人から盗ったもので贅沢三昧されてても腹が立つけど、これはこれで許せねえわ」
「……せやろなあ」
沢はしみじみと同意する。輝良はくるりと踵を返した。
「次は? 大江の住んどるとこ行くんか」
報告書によれば大江は会社が倒産すると同時、妻と娘にも去られ、今は都内でバイトをしながら細々と食いつないでいるという。
「うん。でもその前に一件、寄りたいところがあるんだ。っていうか、沢さんにも会わせておきたい人がいるっていうか?」
「なんや。謎かけみたいやな」
沢が言うと、輝良はにまっと笑ってみせてくる。
「悪い話じゃないと思う。二葉のおとうさんにいい土産になるかも……けど、わかんないな。もしかしたら、俺たち、生きて帰れないかもしんない。沢さん、どうする?」
「なんや……なんや、それ」
「わはっ! 沢さん、びびってる?」
「アホぬかせ!」
びびってるなどと、極道者にとってはもっとも侮蔑的な言葉だ。沢はこぶしを振り上げた。
「おまえが行くゆうところ、俺がびびるわけないやろ! おまえが行けるとこやったら、俺かて平気に決まっとるわ!」
「上等。じゃあ行こうか」
鼻歌でも歌いだしそうな顔で輝良は車へ戻っていく。
「……なんやねん」
憮然として沢はその後についた。
おまえが行けるとこやったら、俺かて平気に決まっとる。それは本気だった。
しかし――。
輝良が車を歌舞伎町の一角に止めるよう指示したあたりから、沢は不穏なものを覚え始めた。銃は置いていけと輝良に言われて、さらに不審はつのる。
「なんやねん……えらいべっぴんさんでも紹介してくれるんか」
歌舞伎町は有名というも足りないほどの日本一の歓楽街だ。ありとあらゆる風俗業が看板を並べ、さらに看板のない怪しげな店もひしめき合っている、愉悦と暴力の街。同時にそこは、金と権勢を求める裏の世界の者たちがしのぎを削る街でもある。
「紹介は紹介だけど……べっぴんさんかどうかはわかんないなー」
気楽そうに言いながら、輝良はごみごみした路地を歩いて行く。
輝良が「ここかな」と歩みを止めたのは、比較的広い道沿いに建つ、一階には中国料理の店が入った細長いビルの前だった。
いかにも中華料理の店らしい装飾のほどこされたガラスのドアを、輝良が押し開ける。店内には、ちょうど昼と夜の客の切れ目の時間帯らしく、厨房の奥で立ち働く人以外に人影はなかった。
「こんにちは」
輝良の声に厨房に立っていた白衣の男がカウンターから顔をのぞかせた。
「フアン・ジヤンの伯父さんに会いに来たんだけど」
「……おまえは?」
「ジヤンの友達だよ」
「名前は?」
「二葉輝良」
「少し待て」
男は厨房の奥へと消える。どうやら階段かなにかがあるらしかった。
ややあって、再び現れた白衣の男が輝良を手招いた。
輝良が厨房へと入り、その奥の通路へと向かうのに、沢はそのまま後ろについて行こうとした。と、白衣の男に胸の前に腕を差し出された。
「おまえはダメだ」
すぐに輝良が振り返る。
「彼は俺の兄貴なんだ。一緒にジヤンの伯父さんに挨拶がしたい」
「…………」
男は無言のままだ。
輝良は両手を上げて見せた。同じように手を上げるよううながされて、沢もしぶしぶ両手を上げる。白衣の男が輝良、沢と身体検査をするようにぽんぽんと両手でそれぞれの身体を確かめた。
「……いいだろう、行け」
通路の奥には案の定、薄暗く、細い階段があった。ようやく許可をもらって、沢は輝良とその階段を上がる。
「なあ、輝良、ここは……」
二階につくとまず小さな小部屋があった。着ているスーツがはち切れそうな屈強な男がふたり、控えている。
「二葉輝良だ。ジヤンの伯父さんに会いに来た」
「通れ」
輝良、沢、それぞれにスーツの男が付くかっこうで、さらに奥のドアへと向かう。
『これは……』
さっきの白衣の男も、このスーツの男たちも、少しずつ言葉になまりがある。そして日本人とほとんど変わらぬように見えて、やはりどこかがちがう、大陸的な容貌――沢は腹の底に力を込めた。とんでもないところに連れて来られてしまった。
ドアが開く。そこは異世界だった。フロアのほとんどを一部屋として使っているらしく、歌舞伎町のど真ん中とは思えぬほど広々とし、そして室内は中国王朝の映画にでも紛れ込んだかという気になるほど、きらびやかでありながら重厚な、中国のアンティークもので彩られていた。
沢は自分の背丈ほどもあるバカでかい花瓶や、大の男でもふたりがかりでなければ持ち上げられそうにない翡翠の置物に目をやり、ついで、この部屋の主らしい男が一番奥の机の向こうで立ち上がるのに視線を移した。それほど身体は大きくないが威圧感がすごい。
「はじめまして。ジヤンの紹介で来ました。二葉輝良です」
輝良が臆することなく堂々と名乗る。
小柄な男が鷹揚な笑顔を浮かべた。
「ジヤンから聞いています。大阪で一家を構えていらっしゃるとか」
「組長を務めているのは私ではなく義父ですが。こちらはわたしの兄にあたる男で、沢と言います。仁和組系二葉組の若頭です」
「輝良君に、沢さん」
男は歌うように言いながら机の奥から出て来た。
「私は黄龍一家のフアン・ロウ。お目にかかれて光栄です」
『黄龍!』
驚いた素振りを見せないよう、顔の筋肉をキープすることに最大の注意を払いながら、沢は心の中で叫んだ。黄龍といえば、いまや歌舞伎町を拠点に東京全域の裏社会を牛耳る勢いだという中華系マフィアだ。
『いきなりどないなとこ連れてくんねん!』
輝良に向かって叫びたいのも我慢する。
「二葉組の沢です。こちらこそ、お忙しいとこお時間割いていただいて、恐縮です」
平静を装って頭を下げた。
「――関西は、むずかしいところです。地縁血縁が強いのも商売上手なのも、我々華僑ととてもよく似ていますが、反面、食い込みにくいところがある。上手におつきあいできれば、双方に旨味があるんじゃないかと常々、思っているんですよ」
いきなり踏み込んだ発言をされる。ここで「そうは言わはっても、ウチは中華いえば餃子とシュウマイしか馴染みがありませんからねえ」と思い切り警戒線を張ってもいいが、輝良がどういうつもりなのかわからない。沢は『おまえがどないかせえ』と視線を輝良に投げた。
「大阪、神戸をはじめとする西の街は我々にとっては故郷です」
輝良がにこりと笑う。
「大事な故郷へお客人をお迎えできるかどうか、それはお互いのビジネスモデルの相性を見てからということになると思います。幸い、この東京は私たちにとってもあなたがたにとっても、思いいれのある大切な故郷というわけではない。まずはこの地で、双方のやり方を検証させていただきたい」
「……なるほど」
フアンがにやりと笑い、うなずいた。
「東京ではそちらがアウェイ、大阪ではこちらがアウェイ、あなたの提案は双方のリスクを押さえる、よい案だ」
あからさまに溜息と気づかれぬように、沢はそっとそっと、息を吐いた。黄龍とのパイプ、とんでもないものを輝良は土産にしようとしている。
「ジヤンからあなたの話はいろいろと聞いています。なにか我々にお手伝いできることがあるとか?」
「ジヤンは私がアメリカで得た友人の中でももっとも大切な友のひとりです。彼のおかげでいい思い出をたくさん作ることができた……」
「私もそう聞いてます」
輝良がふっと息をついた。真顔になる。
「ひとり、殺したい男がいます」
「ではヒットマンを?」
「いえ……私がこの手で殺したいので、それはけっこうです。ただ、アウェイのこの地で私には死体を処理するツテがありません」
「なんだ。後片付けだけでいいんですか。お近づきの印に我儘を言ってくださってもいいんですよ?」
「我儘と言うなら……今度、ジヤンが日本に来たときにはぜひご一緒に夕食を」
フアンが手を差し出してきた。輝良が握る。
「わかりました。喜んで」
「おまえなっ!! ゆうとけやっ!!」
車に乗り込むなり、沢は輝良を怒鳴りつけた。
「いきなり……いきなり黄龍のアジトて……金タマちぢむやないかっ!」
ははは、輝良は軽やかな笑い声を立てた。
「沢さん、デカブツが邪魔や邪魔やっていつも言ってるじゃない。多少ちぢんだほうが具合がいいんじゃないの」
「アホぬかせっ!」
車で待っていた若い衆がふたり、何事かと振り返ってくる。
「たまたまアメリカで友達になった相手が華僑のマフィアやったゆうんか」
「うん。あとイタリアのマフィアと」
「なん……やと」
「また今度紹介するね」
沢は今度は思い切り大きな溜息をついて後部座席に背もたれた。
「……頼むわ。先にゆうといてくれ。心臓縮み上がるわ、ホンマ」
楽しげに笑う輝良の顔をちらりと見る。――黄龍とパイプを持つということは……大江への復讐がすんでも、極道を続けるつもりだということなのか。
「次の行き先はね……」
輝良が大江の調査結果をプリントアウトした紙をめくった。
「いよいよ俺にとってのメインイベントだ」
その瞳が暗く光っていた。
つづく
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