流花無残 十七話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>






  それまでに立ち寄った輝良の実家跡と黄龍の事務所では、輝良は車を邪魔にならない位置に停めさせ沢にだけ同行を求めたが、最後の目的地では、ごみごみした路地裏の細い道をふさぐように車を停めさせ、若い衆ふたりにもついてくるように命じた。
「うざいのいたら、はじけてくれちゃっていいから」
 と、言い添えて。暴れてもいいと上の人間にお墨付きをもらって、とたんに張り切りだした若いふたりが肩で風切って歩き出す。
 それが、自分がヤクザの世界で十分に力を持った存在であることを誇示するためのものであるのは沢にはわかりすぎるほどにわかる。
 輝良のあとについて、沢は細い路地から、さらに下へとつながる細い階段を降りた。ごみごみした古い建物の中でもひときわ古いアパートが、路面より低い土地にうずくまるように建っている。
 見るからに薄いベニヤのドアの前で足を止めると、輝良は横を向いたまま、無造作にドアを叩いた。
 返事はない。
「大江さん? いるんでしょう? 大江さん」
 優しいけれど、どこかねっとりした声。もそもそと、内部で動く気配があった。
「だ、誰だ」
「あなたに会いたくて来た人間ですよ。本当にもう、ずーっとあなたに会いたくて」
「……誰だ、おまえは、誰だっ!」
 大江らしき男の声に怯えが混ざる。
「輝良ですよ。あなたに会うために、大阪でずーっとがんばってきた、あなたの甥です」
 薄いドアの向こうで男が凍りつく気配がまざまざと伝わってくる。
「おじさん? ここを開けてくださいよ。あなたに会いたくて来たんですから」
「…………」
「おじさん?」
 ねずみをいたぶる猫のごとく。楽しげに、けれど、絶対に逃がさぬと決めた凄みを込めて。輝良が笑っている。
「開けてくれないんですか? じゃあ、このドア蹴破りましょうか。風通しがよくなりそうだ」
「……ま、待て、待て! い、今、開けるから、今っ!」
 がちゃがちゃとドアノブを回す音。輝良がくいっとあごをしゃくると、若い衆がドアが開くと同時に中に押し入った。
「ああっ! おま、誰に向かってもの言うとんじゃ! 兄貴待たすとか待てとか、ようもえらっそうにぬかしとんなあっ!」
 ふたりは土足のまま部屋に上がり込み、作業着姿の中年男の襟首をつかみ上げる。輝良がゆったりと狭い土間へと足を運んだ。
「――お久しぶりです、おじさん」
「あき、あきら……?」
 輝良の目配せに若い衆が大江を突き飛ばした。成長した輝良によほど驚いたのか、大江は尻餅をついたまま、目を丸くして輝良を見上げている。
 あちこちシミやほころびの見える作業着、生活苦のにじんだやつれた顔、真っ黒な爪、みじめな姿の大江に、輝良が笑いかけた。
「そうですよ、おじさん。ぼく、大きくなったでしょう?」
「あ、輝良っ!」
 やおら、大江は身を折ると、がばりとその場で土下座した。
「輝良っ! すまんっ! おまえには悪かったと思っている! でも、でも、俺もヤクザにおどされて、あの時はああするしか……!」
 輝良が今度は自分へと目線を投げてくるのへ、沢は黙ってうなずいて返した。輝良の脇を抜けて、やはり土足のまま、室内へと上る。
「おっさぁん、嘘ゆうたらあかんわあ」
 大江の傍らに大股開いてしゃがみこむ。
「俺の顔、覚えてるやろ。二葉組の沢や。いつ、俺らがおまえをおどしたゆうねん? あ?」
 顔を上げた大江の目が、自分を認めてうろたえるのを見て、沢はにこりと笑った。
「なあ、おっさん。いつ俺らがおまえをおどしてん?」
 笑みを消す。
「寝言ほざけやっ!」
 上がりかけていた大江の頭を後頭部から思い切り畳へと押さえつける。ぎゃっとくぐもった悲鳴が聞こえるのも無視して、ぐりぐりと顔面を畳へこすりつけた。
「家と会社がもらえるんならゆうて、ニコニコ笑て木下の息子譲るゆうたんはおまえやろっ!」
「あ、あの時はっ!」
 大江が顔を上げた。
「あの時はだまされたんだ、俺もっ! おまえら、おまえらヤクザはダニと同じだっ! にこにこ、にこにこ調子いいこと言いやがって! 結局は俺のこともだまして、なにもかも持ってったじゃないかっ! 輝良っ!」
 まだ玄関に立ったままの輝良の元へ、大江は救いを求めるように這いよった。
「信じて、信じてくれっ! 俺もだまされたんだっ! こいつらが俺からもなにもかも取り上げて……!」
 ふーん? と輝良は鼻で笑う。
「俺の兄貴のこと、ダニ呼ばわりってずいぶんだね? いくらおじさんでも許せないよ? それにね。最初に木下の家からなにもかも奪ったのは、おじさん、あんたなんだよ。その後のことなんか、知ったこっちゃねえ」
 大江があわてて周囲を見回す。仁王立ちの、見るからにヤクザな風体の若いふたり、しゃがんでにやにや笑っている沢、そして、小金を持った若い実業家のような輝良。そうしてようやく、彼らがファミリーであり、自分はその敵でしかないのだと認識できたらしい。小刻みに震えながら、大江は必死に応戦しようとしはじめた。
「お、おまえの父親が悪いんだ……! 俺、俺がどんなにがんばっても役員止まりで……おまえに、おまえに全部継がせるつもりで……」
「それのどこが悪いの?」
「じ、時代がちがうだろうっ!」
 大江が悲鳴のような声を出した。
「ちゃんと、ちゃんと有能な社員を引き立てて会社をまかせればいいじゃないかっ! い、いくら息子でも海のものとも山のものともわからないもんに会社を継がせるなんて……そんなのは時代錯誤だっ!」
「で? おじさんが横取りしてつぶしてくれたってわけ?」
「お、おまえが継いでたって同じことだ! おまえみたいなぼんぼんに、今の時代に会社なんかやってけるもんかっ! おまえにまかせてたって会社はどうせダメになったんだ!」
 沢は小さく噴き出さずにいられなかった。輝良も短く笑い声を立てる。
「本来継ぐべき人間に任せていたらダメになる、だから横から奪ってやってダメにしてやっただけだ、自分はなにも悪くないっていうの? すごいよおじさん、ヤクザも真っ青なクソな言い分だ」
 後ろに立っていた若い衆ふたりがじわりと大江への距離を詰める。その気配を敏感に感じ取った大江は再び土下座の格好になった。
「俺が悪かった! おまえには、おまえには本当に悪いことをしたとずっと……あ、あ、そうだ! おまえの友達、おまえの友達の連絡先を預かってるんだ!」
「友達?」
 輝良の意外そうな声に希望を見出したのか、大江は四つん這いのまま狭い部屋を押入れへと向かった。ふすまを開き、ごそごそしている。
「これ、これだ。輝良、熊沢って知ってるか。そいつが俺を訪ねてきて……」
 熊沢と聞いた瞬間に、輝良の身体が電流でも通ったかのようにびくりと震えたのを沢は見逃さなかった。
 小さな紙片を手にした大江は得意顔だ。
「中学の同級生だって? 輝良と連絡が取れたら渡してくれと言われて……ほら、携帯電話の番号とアドレスが書いてある! 預かったのはもう五、六年前だけど、半年に一回ぐらいずつ、俺にも会いに来てくれんだよ。輝良と連絡はついたかってさ」
 大江が差し出す紙片をにらんだまま、輝良は手を出そうとはしなかった。
「どうして……あいつが……」
「ずっとおまえのことを心配してくれてたんだよ。いい友達だなあ。初めて来たのは、おまえが大阪行って一ヶ月ぐらいの時だったかな。あの埼玉の家に訪ねてきたんだ。おまえはどこにいる、おまえの両親はどこにいるって、そりゃあもう心配して……」
「……話したのか……?」
 輝良の声が奇妙にかすれている。
「俺のことを……話したのか……?」
 大江の顔が決まり悪そうな笑みに歪んだ。
「は、話してねえよ。そんな、組の事務所がどこにあるのかなんて俺は知らなかったし、おまえの親がどこにいるのかも知らなかったし。大阪にいる親戚におまえは引き取られたんだって……」
「……そいつはそれで納得したのか」
 さらに決まり悪そうな表情になると、大江は目をそらした。
 輝良が大股に歩み寄り、大江の胸倉をつかみ上げる。
「言え。おまえはどこまでしゃべったんだ!」
「ずっと……ずっと大阪にいる親戚のとこだって嘘を言うつもりだったんだ! けど、それならその親戚の連絡先を教えろとうるさくて……それが出来ないなら、せめて手紙を届けてくれと、休みのたんびにピンポンピンポン……」
「……それで!」
「……あきらめさせようと思ったんだ! だから……大阪のヤクザのところだと言ったら、今度はどのヤクザだ、組の名前を教えろってしつこいから……どこの組かは知らないが、ホモのヤクザだ、今頃はもうヤクザの愛人になってるだろうって……もちろん、じょうだ……ぎゃっ!」
 ごすっと鈍い音がして、輝良のこぶしが大江の頬にめりこんだ。一発でのけぞり倒れた大江に馬乗りになり、輝良が立て続けにこぶしをふるう。
 沢は溜息をついて、若いふたりにあごをしゃくって見せた。ふたりが心得て輝良を止めに入る。
「そのへんにしとけや、輝良。ここで死んだら厄介やろ」
 口からも鼻からも血を垂らした大江が半泣きで身体を起こす。
「うわ……血が……血が……」
「血ぐらいなんだ」
 獣じみた低さの輝良の声。
「今、決めた。おまえはすぐには殺さない。おまえに……俺が味わったのと同じ思いをさせてやる。杏奈を組事務所に連れてって、輪姦させてやる……」
 泣き声を立てていた大江がはっと顔を上げた。初めて見せる本気の顔だった。
「……おまえ、おまえ、杏奈はおまえの従姉妹じゃないか! なのに……」
「俺だっておまえの甥だろう!」
「あ、輝良、輝良……俺が悪かった! この通り! なんでも、なんでもするっ! だから、だから、杏奈には……!」
 すがりつく大江を輝良が思い切り蹴り上げる。うがっと叫んで大江はひっくり返ったが、すぐさま飛び起きて、再び輝良の脚にすがりついた。
「輝良、輝良……そうだ! 俺の、俺の腎臓をやる! 売らないかって何度も誘われてるんだ! 臓器売買ってのはいい金になるんだろう? なあ、俺の腎臓、売ってくれていいから、だから、杏奈には……」
「てめえのきたねえ腎臓なんかいらねえんだよ」
 大江の腹部に再度、容赦ない蹴りが入る。
「覚悟しとけ。杏奈が二度と、笑って胸張って外を歩けないようにしてやる。おまえの始末はその後だ」
 沢はかつての輝良と同じように、身をふたつに折って胃の中身を吐いている大江の姿を冷たく見下ろした。七年前、大江はいい厄介払いができたとばかりに輝良を二葉の元へと差し出したが、万にひとつも、輝良がそこでしっかりと力をつけて自分に復讐に来るなどとは考えなかったのか。
「アホやな」
 小さくつぶやいて、沢は「行くぞ」と踵を返した輝良のあとに続いたのだった。


   *     *     *     *     *


 都内の高級ホテルに、沢とそれぞれ部屋をとった。ひとりになったとたん、溜息が止まらなくなった。
『クマ……』
 ベッドに腰掛け、輝良は何十回目かの溜息をついた。
『探してくれていたなんて……』
 そして、大阪のヤクザに引き取られたのだということも、そこでなにをさせられていたのかも、とっくの昔に知っていたなんて。
「日本に帰ってきて、いきなりこれか……」
 アメリカで過ごした四年間で、もう、咲きかけたところで奪われた初恋は忘れたつもりでいた。それなのに、大江に熊沢の名前を出されただけで、驚くほど心が揺れた。大江は冗談っぽく言ったのだとでも弁解しようとしていたが、「ヤクザの愛人」という言葉を聞いた瞬間に、胸が引き裂かれるほどに痛くなった。そんなことを熊沢に教えた大江は百回殺しても飽き足らない。
 輝良は髪に両手を突っ込むと、がしがしと掻きむしった。
 二葉とのあいだに何があったか――誰に知られてもかまわない。実際、仁和組の幹部連中のほとんどが、自分が二葉の養子となった経緯を知っているのだ。だが、クマにだけは……クマにだけは……。
 そんなふうに考えてしまう自分はまだどれほど熊沢のことを引きずっているのか。
「ダメ過ぎだろ、俺」
 もう、住む世界がちがう。心を痛める必要もない。とっくにわかっていたことなのに、それでもグズグズと断ち切れていない未練を自分自身に見せつけられているようだった。
 とりあえずもう休んでしまおうと横になったが、時差ボケもあるのだろう、寝返りばかりうって、ほとんど眠れぬうちにカーテンの隙間がほの明るくなってきた。
 隣の部屋にシングルを取らせた沢を内線電話で呼び出した。
『……んや、モーニングコールかいな』
 まだベッドの中だったらしい沢のぼけたような声がする。
「おはよう、沢さん。朝飯食いに行こうよ」
『……朝飯ておまえ……まだ五時半やないか……』
「六時から朝食とれるんだよ。ここの和食、評判いいんだぜ? シャワー浴びて支度してたらすぐ六時になるよ」
『アホかおまえは。支度なんざ五分ですむわい。こんな早よに起こしやがって』
 電話の向こうで沢はぶつぶつ言ったが、話しているあいだにしっかり目覚めたらしい、声がどんどん明瞭になってくる。
「じゃああとでね」
 電話を切り、輝良はバスルームへと入った。沢と話しているあいだはいいが、ひとりになるとすぐ、熊沢のことを考えてしまう。――考えてもどうしようもないことなのに。
『“大阪のヤクザ”なんてごまんといる。組の数だけでも数百はある。どの組に俺がいるかなんてわからないし、シロウトには調べようもないはずだ。万一、本当に万一、どこかで顔を合わせたとしても、俺はもうあの頃とはまるで面差しが変わってしまっている。身長だって三十センチ近く伸びたし、顔だって面長になったし……クマに気がつかれるはずがない』
 一度は悲しんだ自分の変化。だが、今となってみればありがたい。
『クマ。おまえが好きになった輝良はもういない』
 頭の中の、大好きだった少年の面影に向かって告げる。
『いないんだ』
 そう言い切ると、少しだけ気持ちの整理がつくような気がした。
 熱いシャワーを浴びて、心を落ち着ける。
『もう接点のない相手だ』
 さっぱりしたシャツとジャケット、チノパンを身に着け部屋を出ると、もう廊下に沢が立っていた。
「お待たせー。行こうか」
 笑顔を作ったのに、
「寝れへんかったんか」
 すぐに聞かれる。
「んー時差ボケかなー」
 それ以上、沢はなにも言ってはこなかったが、バレているのかもしれないなと思った。もしかしたら、自分の感情を汲み取るのが沢は誰よりもうまいかもしれない。
 高層階にある和食処は正面の窓からの見晴らしが素晴らしかった。
「バイキングと迷ったんだけどねー、お膳のほうが落ち着いて食べられるでしょ」
 洒落たパーティションで区切られた席で向かい合うと、沢は不満そうに首をひねった。
「まあな、おまえは今、金持ちやさかいな、こないな店も慣れてるやろけど、俺はどーもあかんわ。こういうお高くとまった店は肩がこってしゃーない」
 このホテルに泊まると決めたときも、沢は難色を示した。車の中で寝るからいいというのだ。
『若頭、あんまり情けないこと言わんといてください』
 輝良は強引にチェックインを済ませたのだった。
「沢さんってあいかわらず欲がないよねー」
「あん?」
「いいもん着たいーいいもん食いたいーいいとこ住みたいー、そういう欲」
「おまえ、ひとつ大事なもん忘れとるわ。いい女抱きたいーて」
「あれ? 沢さん、姐さんでもできたの? 俺が知らないだけ?」
「……うっさいわ。失言や。決まった女はまだおらん」
「なんだ。そろそろ身を固めたら? 沢さん、いい年でしょ?」
「よけいなお世話じゃ」
 出汁のきいた本格的な和膳をつつきながら軽口を叩く。
「そういや、おまえ、杏奈っておまえの従姉妹か」
「うん。大江の一人娘。俺のふたつ下」
「……きのうゆうたん、本気か」
 輝良はちらりと目を上げた。
「――当たり前だろ。……大江は殺す。でもその前に、自分が俺になにをしたのか、しっかりと理解してもらう」
「……調査書に、娘の居所も書いてあったな」
「……もしかして、沢さん、反対?」
 沢はすぐに軽く首を振った。
「いや……おまえが大江に仕返ししたいゆう気持ちはようわかっとるつもりや。……まあ、娘はちっと気の毒やけど」
 聞かないほうがいいと判断しているのか、沢は熊沢の名前は口にしない。
「けっこう可愛い子だったよ。マワしたあとは風俗にでも飛ばせばいいんじゃない。それまで大江は生かしとかなきゃいけないのが腹立つけど」
 自分はきっと今、恨みで醜い顔をしている。杏奈にどんな罪があるというのか、単なるとばっちりだとは自分でもよくわかっていた。
 そんな理不尽は極道の世界でいやというほど見てきているのだろう沢が、綺麗ごとで反対しないでくれているのがありがたい。
 その時、沢の携帯が鳴った。
「お? なんや」
 気軽そうな様子で携帯を開いた沢の顔が、すぐさま、緊張感をはらんだものに変わる。
「……おう……おう。そんで? ……ああ、わかった。おまえら、すぐこっち来ぃ。なんや、下まで来とるんか。……ああ、和食の店や。上がってき」
「……なに?」
 昨夜は大江の見張りに若い衆ふたりを残してきた。電話はそのふたりのうちのひとりかららしかった。
「……あんな……」
 口を開いた沢の目に、珍しく迷いの色がある。
「……なに」
 うながしながら、輝良は胸が嫌な感じにざわめくのをおぼえていた。





                                                  つづく






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