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「は?」 
 理解できなかった。 
「せやから……」 
 眉間にしわを寄せ、唇をひん曲げたむずかしい顔になり、沢は繰り返した。 
「大江が線路に飛び込んで死んだて。自殺や」 
 沢はほぼ同じ言葉を正確に繰り返した。一度目とちがったのは「線路」が「電車」だったところだけだ。 
「は?」 
 輝良もまったく同じ調子で問い返した。理解できない。 
「俺に聞きないな。大江の見張りにつけといたふたりがすぐに上がってくるて。あいつらに聞かんと俺もようわからんわ」 
 大江が死んだ? なに、なんだ、それは。輝良にはなにが起こっているのか、理解できなかった。したくなかった。 
 沢に向かって手を突き出す。 
「なんや」 
「携帯。携帯貸して。直接聞くから」 
「もうふたりはこのホテルついとるて。ゆうとる間にあがってくるやろ」 
「待てない」 
 しゃあないなあとぼやいて、沢が携帯電話を差し出してくる。着信履歴の一番上にある番号を押すと、呼び出し音と重なるように「リーン、リーン」と着信音が聞こえてきた。 
 しわの寄った安物のスーツを着たふたりが、あたふたしながら急ぎ足でやってくる。 
「兄貴! すんません!」 
 輝良と沢のテーブルまでやってくると、すぐにふたりは腰を深く折って頭を下げた。 
「なにがあった」 
 どうしても厳しい口調になってしまう。一刻も早く、事情が聞きたい。 
 だが、沢に止められた。 
「ちょお待て。部屋に戻ろ。話はそれからや」 
 言われて店内を見渡せば、確かに若い衆ふたりが駆け込んできて、何事かと店の人たちが遠巻きにこちらを見ている。店内も朝食の客が増えてきている。血なまぐさい話をするような場ではなかった。通報されてもまずい。 
 はやる心を抑えて、輝良は席を立った。 
「ごっそさんなあ」 
 沢はにこやかに店を出たが、輝良にはもうその余裕はなかった。沢と若いふたりの足取りが遅いように感じられて苛立つ。 
 沢がすっと肩を並べてきた。 
「気持ちはわかるけどな。落ち着き」 
「…………」 
「……ゆうても無理か」 
 決まっている。大江に復讐してやる、その一念でここまで来たとすら言えるのに。ようやく、ようやく時が来たと思ったのに――。 
 沢の部屋に入った。 
「夜のあいだは、大江はおとなししとったんです。最初は俺らにも、娘には手を出さんといてくれゆうて泣きついたりうっとうしかったんですけど、俺らにはどないもできひん、事情はようわからんけど、輝良さんをあんだけ怒らせたおまえの自業自得やて、ゆうてきかせて……」 
「ほんでおとなししとってくれたもんで、俺ら、ちっと油断してしもて……交替で起きるようにはしとったんですけど、朝方、ふたりしてうとーっとしてしもたんです」 
 ふたりはすまなさそうに肩をすぼめてかわるがわる話す。 
「したら、大江が部屋を出てく気配がして……俺が目を覚ましかけたら、トイレです、ゆうたんで、ああシッコかて……」 
 確かに部屋には小さな洗い場しかなかった。トイレも台所も共用の、安アパート。 
「でも帰ってくるの、ちょっと遅ないか、て……様子を見に行ったら、トイレには誰もおらへん、こりゃまずいわゆうんで、俺ら急いで飛び出したんですわ。したら、あそこ、近くに線路が通ってるやないですか。その柵を大江がよじ登っとって……」 
「待たんかい!て、声かけよとしたんです。けど、なあ?」 
「あっちゅう間やったんです! 柵乗り越えて、向こう側にごろーんと落ちて、すぐに電車がごおおって来て、あいつ、じぶ、自分から……おええッ」 
 話しているうちに蒼白になったひとりが、そこでたまらず身を折ってトイレへと走った。 
「あーあ。見てしもたんか」 
「……はい。電車がパアアーってすごい警笛鳴らして、キキキキイーってすごいブレーキ音もして、大江がそんでも飛び込んで行って、電車の、下、あたりに、ばーんってぶつかって……わ、輪っかに巻き込まれて……」 
 やはり真っ青になりながらそこまで話すと、若いのは一度、込み上げてくるものをぐっとこらえるようにみぞおちを押さえた。 
「……ぐしゃぐしゃでした」 
 最後をそう締めくくると、沢がいたわるようにその肩を叩いた。 
「難儀なもん見たな。お疲れさん」 
「いえ……」 
「ところで、それ見てたんはおまえらだけか?」 
「いえ。ちょうど線路脇の道路にチャリで走っとるおばさんがおって、そのおばさんが悲鳴上げて、チャリコケて……そこに、原付のおっさんも来てなんかわやわやしてました」 
「おまえら、顔見られてへんか?」 
「はい。俺ら、ちょっと離れた脇道から出るところにおったんで。で、これはまずいわゆうんで、もうアパート戻らんと、そのままこっち来ました」 
 そこへ、トイレに吐きに行っていたほうがふらふらしながら戻ってきた。椅子に掛けて黙って聞いていた輝良の前までくると、ぺたりと床に座り込む。もうひとりもすぐさま輝良に向かって膝をついた。 
「輝良さん、すんません。俺らの不注意で、大江、死なせてしまいました」 
 ふたり並んで頭を下げる。 
「――嘘だろ?」 
 ふたりの話はしっかり聞いていた。しかし、理解するのを心が嫌がる。輝良はふたりに向かって顔を突き出した。 
「おまえら、大江にいくらもらったんだ? 自殺したって嘘をつくのに、いくらもらったんだ?」 
 ふたりがとまどったように目を見交わす。 
「なあ、いくらもらったんだ? それとも、杏奈をやるとでも言われたのか」 
「輝良」 
 沢がそっと肩に手をかけてくる。 
「このふたりがそないな嘘つくかい。俺が選んでおまえの迎えに来たふたりやぞ? だいたい、大江にそんな金があるわけないやろ」 
 そんな理屈はわかっている。けれど、やはり心が受け付けない。 
「……こいつらが、嘘を言ってなかったら……なに? 大江が本当に死んだっていうの? 俺が……俺が、殺すはずだったのに……? 俺が、なにもかもをあいつから取り上げてやるつもりだったのに、その前にさっさと破産してみじめな暮らしに落ちてて……今度は俺が殺す前に自分で死んだっての? なに、それ……なんだよ、それ……」 
 言っているあいだに腹の底から熱く狂おしいものが込み上げてきた。 
 咆哮とともに、輝良はテーブルの上にあったものをなぎ払った。灰皿やグラスが飛ぶ。が、そんなことではおさまらない。おさまるはずがない。 
 床に座り、両手をついたふたりの襟首をつかみ、ひとりひとり、思い切り平手を張った。それでもおさまらなくて、獣じみた叫びを上げながら、座っていた椅子を持ち上げ、床に叩きつけた。何度も、何度も。 
 ついに、造りのよい、頑丈な椅子の脚が折れて飛んだところで、輝良は床に膝をついた。肩で息をする。激情は収まりきらない。次はなにを殴ろう、壊そうと見回した。 
「輝良。落ち着き」 
 沢に声をかけられた。彼はいつの間にか窓際まで避難し、煙草に火をつけている。若衆のふたりもベッドのかたわらまで下がり、不安げにこちらを見ていた。 
「……沢さん」 
「……ま、落ち着けゆうのが無理やけどな。そんでも落ち着き。……火に油かもしれんけどな、俺はよかった思うで」 
「なにが」 
 低く、唸るように聞き返す。沢の眼はまっすぐ強く、そんな自分に向けられている。 
「おまえが殺し(バラシ)せずにすんだんや。おまえはこれから二葉組が大きゅうなっていくのに大事な人間や。大江みたいなつまらん小物相手に前科(マエ)がつくようなアホはせんといてほしいて、思うのが当然やろ」 
「……パクられるようなやり方はしない」 
「そんでもや。大江が勝手に死んでくれた。おっきな面倒がひとつ減って、二葉組は大事な幹部をムダにせんですんだんや」 
 輝良はゆっくりと立ち上がった。 
「沢さん」 
 正面から向き合う。 
「今の言葉、なんか腹が立つ」 
「そらそやろ。俺はおまえの復讐より二葉組のほうが大事やゆうたんと同じやからな」 
 出会った頃は見上げていた。今は見下ろす背の差になった沢をにらみつけた。 
「……沢さんには、俺の気持ちがわかってもらえてると思ってた」 
 一呼吸おいて、 
「わかっとるわ」 
 視線をそらさず沢はうなずいた。 
「……わかっとる。おまえが二葉に初めて来た日ぃから、ずっと俺はおまえの世話係やっとったやろ。城戸の組長が泊まりに来た日におまえに支度させたんも、仁和組の総長さんの家におまえを迎えに行ったんも、全部俺やぞ? ……なんで俺がわざわざ東京くんだりまで、手下ふたりも連れておまえを迎えに来た思てんねん? おまえが大江のことをくびり殺してもまだ足りんほど憎んどるのは……俺はよう知っとるわ」 
「…………」 
 沢が自分の理解者であることは輝良自身もよくわかっている。改めて、沢の口から言葉にされれば、うなずくしかない。しかし、大江に勝手に死なれた、果たされることなく宙ぶらりんで恨みの対象を失った復讐心が、輝良に沢をにらみ続けさせる。 
 煙草を咥えたまま、沢が窓際から歩み寄ってきた。 
 手を伸ばして頭をくしゃくしゃとやられる。 
「……大きゅうなったなあ、ほんま」 
「……子ども扱いすんな」 
「してへん。俺が大きゅうなったゆうんは、なんも身体のことだけちゃうで? 投資やなんやゆうてぎょうさん金儲けでけたり、知らん間ぁに華僑にもパイプ持ったり……人ひとり、今のおまえやったら、かんたんに消せる、それをゆうてんのや」 
「…………」 
「なあ輝良。おまえの全部、二葉組のために使てもらえへんか?」 
 ようやくぼんやりと、沢の言葉が胸に届く。――ああ、そういうことか。輝良は細く長く息を吐いた。 
「――……俺は、極道として大きくなる。二度と……ただの駒として使われたりしない。今は……二葉の父を助けていくことが、その道だと思ってる。……大江が勝手に死のうが、それは、変わらない」 
 その言葉に満足したのか、沢は大きくひとつうなずいた。 
 
 
   *     *     *     *     * 
 
 
 大阪へと戻る途中の車内でテレビをつけさせてみると、人身事故でJR線のどこそこで列車が遅れていると報道があった。 
『警察では目撃証言などから飛び込み自殺とみて、身元を調査し……』 
「大江は借金があったんだよね……」 
 独り言のように輝良がつぶやく。その目はぼうっと車外に向けられたままだ。激情が去ったあとの輝良は疲れ切っているようにみえる。 
「女房子どもに去られた揚げ句に、借金苦で鉄道に飛び込み自殺か。きれいな筋書きやな」 
 目撃者もいる自殺なら、たとえ身元が知られてもこちらにまで火の粉が飛んでくることはない。 
 沢の言葉にも、輝良はうなずくことさえしない。八年間、恨みを晴らすことだけを望んで生きてきて、その相手に勝手に死なれたのだ、虚脱状態になっても無理はないと沢は思う。 
 とりあえず、輝良から聞きたい言葉は聞くことができた。『俺は、極道として大きくなる。二度と……ただの駒として使われたりしない。今は……二葉の父を助けていくことが、その道だと思ってる。……大江が勝手に死のうが、それは、変わらない』、その言葉を聞くために、わざわざ大阪から車を走らせてきたのだともいえる。沢は満足だった。 
 しかし――。 
「……堪忍な」 
「……?」 
 唐突な詫びの言葉に、輝良の目線がうろんげにこちらに向く。 
「おまえ、高校ん時、一度大江を殺したいゆうて俺に頼んできたやろ。あん時、殺させといてくれたらて、思わへんか」 
「……ああ」 
 輝良が面倒くさそうに脚を組み直す。 
「……別に。あん時はあん時で……沢さん、まちがったこと言ってなかったと思うし。やっぱ無理でしょ、高校生が殺しを頼むって」 
「まあな」 
「しょうがなかったんじゃないの」 
 他人事のように輝良は言って、また窓のほうへと顔を戻す。 
「それに、俺も……」 
 言いかけた言葉が途中で切れる。 
 それに俺も……きのう、すぐに大江を殺しておかなかった――輝良の途切れた言葉を、沢は胸の中で続けた。 
 きのう、もともと輝良は大江をあのアパートから連れ去るつもりではなかったのか。当初の目的がずれたのは、輝良が大江の娘を自分と同じ目に遭わせてやると言い出したせいだ。そのきっかけは……。 
      『熊沢寛之』 
 大江が熊沢という、輝良の同級生だったという男の名前を出したとたん、輝良の様子が変わったのを、沢は見ている。大江が熊沢に輝良が大阪のヤクザに引き取られ、どうせ愛人にでもなっているのだろうと告げたところで、輝良は切れた。『おまえはすぐには殺さない』、あの時、輝良はそう言った。裏を返せば、その時までは輝良はすぐに大江を殺すつもりだったということだ。大江の言葉で、輝良はもっともっと、大江を苦しめたくなった……。 
『熊沢って誰や』 
 沢はそっとズボンのポケットに手を突っ込んだ。そこには大江が持っていた、熊沢という男の連絡先を記した小さな紙片がある。 
 輝良が決して受け取ろうとしなかったその紙片を大江から奪っておけと命じたのは、輝良の態度が引っかかったせいだ。 
 輝良には前途洋洋……というもおかしいが、極道としては上々の道が開けている。もしもその邪魔になるようなら……。 
『調べてみなあかんな』 
 小さな紙片を沢は握り締めた。 
 
 
 
 
                                                        つづく 
       
       
       
       
    
  
  
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