流花無残 十九話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>







  その日は昨日やその前の日と同じような顔をして、訪れた。なにも特別なことなどないような顔をして、その日はいつもと同じように始まった。
 輝良の朝の仕事は決まっている。夜間行われた取引をPCでチェックし、電話でその日の取引のポイントを指示する。大学生のあいだは自分で行っていたネットを介しての投資や株取引を、今は人を使ってやらせていた。同じマンションの別の部屋を一部屋借り、そこにパソコンと人を詰めて組織的にやるようになってから、月に億の利益を上げるのも珍しくはなくなった。
 いまや、二葉組一番の稼ぎ頭は輝良だった。
「朝ごはんやで」
 ドアを無造作に開ける沢に、輝良は溜息をついてみせた。
「ゆうべは損した」
「いくら」
「三千万。溶かした」
「アホやな」
 投資は得もあれば損もある。いかに得を手堅くし、損を少なくするかがミソだが、安全パイばかりでは大きな利益は見込めない。そのむずかしいバランスが輝良にとってはおもしろい。
「おはようございます、おとうさん」
 日本に帰って二年。輝良は変わらず二葉のマンションで暮らしていた。別の部屋を借りて独り立ちしたいと思わないでもなかったが、二葉との同居解消にはリスクがあった。いわゆる「頭のよいやり方」で金を作るのを快く思わない古いタイプの極道者は多い。身内であるはずの二葉の側近にさえ輝良を警戒する者たちがいる。そういった「アンチ輝良派」を刺激しないためにも、二葉と輝良の絆を強調しておくのは大切なことだった。
「ああ、おはようさん」
 ゆったりと挨拶を返す二葉の横には、二葉にしなだれかかるように寄り添うバスローブ姿の少年がいる。かつて輝良がそうしていたように。
 だが、沢が「おまえは特別やねん」と以前よく口にしていたのは本当らしかった。二葉が今、相手をさせている少年は夜ごとちがう。気に入りで、何度か同じ顔を見かけることもあったが、家に住まわせることは決してない。二葉はそういう少年たちを専門の店で調達してくることが多いらしかった。
 そういう商売の少年たちは割り切りもよく、二葉に甘えたその口で、廊下ですれちがった輝良にも「今度はおにいさん、遊んでね」とコナをかけてきたりする。そういう身軽な少年たちを見ていると、輝良はしみじみ、『俺は真面目だったなあ』と思わずにいられない。真面目にヤクザの愛人を務めた三年間。
 席に着くと、沢がコーヒーとトーストを置いてくれる。
 以前はただの「若頭」だった沢も、二葉組が輝良の資金力を背景にさらに大きくなるに合わせて、今では「若頭筆頭」となった。沢の下に三人の若頭と四人の若頭補佐がいるという構成だ。組長の身の回りの世話や、こんなふうに月の半分は泊り込むような生活は本来ならもっと下っ端の組員の仕事のはずだが、沢は「俺はオヤジのそばでちょこまかしとんのが似合うとんねん」と意に介さない。
 輝良がトーストをかじったタイミングだった。
「オヤジ。さっき清竜会の島崎から連絡がありました。竜田勇道が囲っとったオンナが亡うなったそうで、今夜通夜、明日葬式やそうです」
「ああ? なんやその話は」
 二葉が眉を寄せるのも無理はない。冠婚葬祭など義理がらみにはメンツをかけて臨むのが極道の流儀だが、組長の愛人が死んだからといって葬儀に呼びつけられるのはスジ違いだ。
「そこなんですけど、亡うなったのは竜田の一人息子・政宗の産みの親やそうです。竜田としては正妻さんもおる手前、盛大に葬式出すわけにもいかんけど、大事な大事な跡継ぎの母親をないがしろにしてもろても困るゆうとこやないですか。街中の斎場で通夜と葬儀やそうです。あんまり派手にはせんと、身内だけでひっそり見送りたいそうですわ」
 身内だけでひっそりと言いながら、二葉組の若頭に連絡してきたところを見ると、仁和組の主だった幹部には声をかけているはずだった。派手なひっそりもあったものだと、輝良はコーヒーで口の中のものを流し込む。
「面倒やなあ」
 二葉が心底面倒くさそうに言う。
 沢がちらりと視線を寄越した。ん?と思えば、案の定――。
「代理立てればええんちゃいますか。寺借りて大掛かりにやるわけやなさそうですし」
「……せやな」
 二葉の視線までこちらに向けられる。輝良は溜息をついた。
「はいはい、行きますよ、通夜でも結婚式でも。どうせだったら、香典ばーんと百万ほど包んでいきますか」
「そりゃええわ。みみっちい街の斎場でもこっちはちゃーんとやることやるっちゅうのを見せたらんとな。そしたら、沢、輝良とふたりで行ってんか」
「わかりました」
 うなずく沢にならって、輝良も「行ってきます」と頭を下げた。
 ふと目を上げると、広い窓の向こうに黒く重い雲が垂れ込めていた。寒い秋の日。夕方には降り出しているかもしれないなと思った。


 輝良が沢を伴って通夜の会場である葬儀会館に入るころには、重く垂れ込めていた雲から、ぽつぽつと細かな雨が落ちだしていた。
 入り口に案内を出された故人の名前が「成瀬」となっているのを見て、輝良は沢を振り返った。
「そういえば、竜田は息子を母親から引き離して育ててたんだっけ?」
「ああ。息子は竜田姓や。養子にしたんやろ。まだ幼稚園ぐらいの時に引き取ったゆう話やで」
 むごいな。輝良は口の中でつぶやいた。竜田の息子・政宗は小学六年生になっていると聞いた。年端も行かぬ子どもが実の母親と引き離され、その母の葬儀に出るなどと、むごい以外の話ではない。しかも、その死因が自殺だという。
「俺、帰りたくなってきた」
「なにゆうとんねん」
 沢に背中をばしりと叩かれる。
 ひっそりと身内だけでと言いながら、清竜会は会館最上階の、ワンフロアすべてを会場にした大ホールを押さえていた。壁には仁和組系列の組や幹部たちの名前の付いた供花が所狭しと並び、正面の祭壇は縦横数メートルを白菊で埋め尽くした立派なものだった。
 輝良たちの到着は早いほうだったらしい。まだ会葬者の姿は少なかった。会場の入り口で厚みのある香典を渡し、遺体を納めた棺の前で手を合わせて、輝良は手持ち無沙汰に壁の供花を眺める。よく知った名前ばかりだ。ひときわ大きなスタンド式の花輪に城戸泰造の名前もあった。ここのところ会っていないが、今日は来るのだろうか。会えるならうれしいが。
 そんなことを思いながらぶらぶらしていると、背後がなにやら騒がしくなった。
「かあちゃん」
 声変わり前の幼く高い声が天井の高いホールに響く。
 竜田の一粒種、政宗が棺に駆け寄るところだった。後ろを清竜会若頭の島崎が沈痛な面持ちでついている。
「かあちゃん……かあちゃん……」
 棺に手をかけ、身を乗り出し、冷たくなった母を呼ぶ。
 母譲りなのだろう、色白で華奢で、まるで人形のように可愛い少年だった。政宗という名は似合わない。おそらく父親がつけたのだろうが……。
「かあちゃん」
 あふれる涙を何度もぬぐいながら母を見つめる政宗の横顔を、輝良は胸痛む思いで見つめた。本来ならここで、遺族である政宗にも清竜会幹部である島崎にも自分から歩み寄って挨拶するべきなのだろうが、母と子の別れの時間を邪魔したくはなかった。
 聞いた話では、竜田政宗は同い年の少年を「犬」と呼んで「飼って」いるという。その父親の血を引いてなかなかの下衆ぶりだと陰口を叩く者もいる。だが、初めて見る政宗はそれほど残忍な性質を持っているようには見えなかった。むしろ、神経の細い繊細な印象があった。それともそれは実の母親を亡くしたばかりだからなのか。
「ぼっちゃん」
 棺にかがみこむ政宗に、島崎が一通の封筒らしきものを渡すのが見えた。遺書らしい。
 自分に向けられた母親の最期の言葉を早く見たいと思うのだろう、封筒から取り出した便箋を開く政宗の手は震えながらも急いていた。――が。食い入るように便箋の文字を追っていた政宗の顔色が、離れて見ている輝良にもわかるほど青くなっていく。
――まずい。
 輝良は思わず一歩踏み出した。死にゆく母が息子に送る……最期の言葉はなんだろう? 普通ならそれは、愛を伝える言葉であったり、詫びる言葉であったり、子どもの幸せを祈る言葉ではないだろうか。――普通なら。では、ヤクザの世界で生きる子どもは普通だろうか?
 輝良の父親は己の無力を棚に上げて、ヤクザの世界に染まった息子に「恥知らず」という言葉を投げつけてきた。その時のさげすむような眼差しは忘れられない。もし、政宗の母親が輝良の父親と同じような感情を我が子に抱いていたとしたら……?
『手紙を取り上げなければ』
 だが、輝良が二歩目を踏み出すより早く、政宗は走り出した。手紙を島崎に放り出して。
 島崎があわてた素振りで手紙に目を落とす。その顔も見る見る間に強張っていく。
「ぼっちゃん!」
 政宗のあとを追ってホールを飛び出す島崎の背を輝良は溜息をついて見送った。


 深い考えがあったわけではない。ただ、エレベーターホールに向かえば会葬に来たほかの組の幹部たちと顔を合わせてしまう。こういう冠婚葬祭の場での「おつきあい」は極道にとって大事な政治の場でもあったが、政宗の涙を見た直後に愛想笑いはしたくなかった。
 沢と離れ、輝良はぶらりと会場を出ると、通路を端まで歩いた。
 突き当たりに窓があり、見下ろすと、ちょうど会館の正面玄関が見えた。
 両開きの自動扉が開いた。中から小さな躯が飛び出してくる。政宗だった。そのまま政宗は駐車場を駆け抜ける。
 続いて、黒スーツに身を包んだ島崎が出て来た。駐車場を突っ切り、道路へと走る政宗を追う。……はずだったが。
「え」
 思わず声が出た。
 島崎が駐車場の中ほどで立ち止まったのだ。なにごとかをためらうように。
 もう雨は本降りだ。派手なしぶきを上げながら、大型のトラックが疾走してくる。政宗の足は止まらない。
――見殺しにする気か!?
 息を呑んで輝良は身を乗り出した。窓を開いて叫ぼうとして、開閉のできないはめ殺しの窓であることに気づく。
 トラックが迫る。轢かれる! そう思った瞬間に、弾かれたように島崎が駆け出した。間一髪。島崎の腕が、政宗を抱え込む。そのすぐ脇をトラックがクラクションの音を響かせながら走り過ぎた。
「セーフ……」
 つぶやく。他人事ながら、ほっとした。しかし、確かに見た。確かに数秒、島崎は立ち止まっていた。何事かをためらうように。あれは……まさか、政宗が死ねばいいと……?
 物思いは、低く張りのある声に破られた。
「輝良」
 横合いから名を呼ばれたのだ。
 誰かが早足でこちらに向かってきながら、輝良の名を呼ぶ。
 聞き慣れた声ではなかった。沢の声とはちがうし、イントネーションもちがった。
 だが――知っている声だった。顔を上げる前に、誰の声だか、わかっていた気がする。
 嘘だとも、まさかとも。
「輝良!」
 なぜ、わかってしまうのか。
 顔を上げて、男を見る。見知らぬ男のはずだった。さっぱりと短くカットしたスポーツ刈りがよく似合う――骨太な男らしい四角い顔、意志の強そうな濃い眉、涼やかな一重の目尻の……見知らぬ男のはずだった。輝良が知っているのは、まだヒゲも生え揃わない、頬の丸みに子どもの名残のある少年だったのに。
 なのに。
『クマ』
 ほんの一瞬の迷いもなく、記憶を探ることもなく、誰なのかわかってしまうのは、なぜなのか。瞳を輝かせる男も、成長前の姿しか知らないはずなのに、なぜ、こんなに確信に満ちて人の名を呼べるのだろう。
 広い胸に抱きこまれた。
「……やっと会えた」
 万感こもるつぶやき。
 熊沢寛之の腕の中で、輝良は茫然と目を見開くしかなかった。






                                                  つづく






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