流花無残 二十話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>







 
 ほんの一晩だけの恋人だった。それも九年も昔の話だ。
 なのに、なぜわかる。なぜためらいもなく、抱ける、抱かれる。
 九年の歳月を飛び越えて一目で「彼」だとわかるのは……それが運命の相手だからか。――運命。
 その言葉が胸に湧いた瞬間、輝良は後ろへと身を引いた。
 ダメだ。たとえこれが運命でも。この運命には従えない。




「探したんだ。元気だったか」
「…………」
 熊沢の声にあふれる喜びの色を無視して、まだ離れていかない男の手を振り払った。
「――なんだ突然。あんた誰だよ」
 必死で押さえなければ、声が震えそうだった。
「……わからないか?」
 顔を上げられない輝良に落とされる声はおだやかだ。
「熊沢だ」
「……熊沢?」
「中学の時、一緒だった熊沢寛之だ」
「……あ、ああ……そういえば、そんなヤツいたっけ……」
 平静に、本当に今の今まで忘れていたフリをしたいのに。目が泳ぐ。
「部活も一緒だった」
「……ああ、そういえば……」
「中三の時は寮の部屋も同じだった」
「……あ……悪いけど、あんたのこと、あんまり覚えてなくて……」
「おまえが学校を去る前の晩、同じベッドで過ごした」
 息が止まりそうになる。ぎくりと躯が震えるのはどうしようもなかった。
「…………」
「輝良」
 右の手首をつかまれて、男のほうを向かされる。大人の面差しに変わっても、真面目なその表情は十五の頃と変わらない。視線を外そうと思うのに、一度目が合ってしまったら、見ていたくて、もっと見ていたくて、目を動かせなかった。
「なぜ忘れたフリをする」
 正面より少し上にある男の顔は真剣だ。――こいつ、190以上あるのか。どうしていいかわからなくて思考停止寸前の頭で、そんなどうでもいいようなことに気がつく。
「……お、覚えててもしょうがないだろ……」
「なぜ」
「な、ぜ……って……」
 覚えていてもしょうがない。輝良にとっては当たり前なことを熊沢は改めて聞いてくる。どう説明すればいいのだろう。
 そこへ、
「輝良!」
 沢の声が飛んできた。早足で寄ってくると、沢は熊沢と輝良の間に割り込んだ。
「お務め、ご苦労さんです。けどなんや、ウチの若いのが粗相でもしよりましたか」
「え」
 事態を飲み込めない輝良に、沢が顔だけ後ろに向けてくる。
「サツや」
 ヤクザが大勢集まる公の場には、警察の監視がつきものだ。
「ケイサツ……?」
 事態が飲み込めない。いや、理解はできる。ただ、信じられなかった。熊沢は落ち着いた様子でうなずいてみせてくる。
「おまえが大阪のヤクザの元にいると聞いた。警察に入るのが、おまえを探すのに一番早いと思ったんだ」
「なんや、ありえんセリフが聞こえんねやけど」
 沢が熊沢と輝良のあいだで笑い声を立てた。
「にーちゃん、警察庁のキャリアちゃうんかい。こんな広域指定暴力団の組員と個人的に知り合いやとかゆうてええ思てんのか」
 警察庁。キャリア。沢の言葉が頭の中で空回りする。
「あんまりトロいこと言いないな。さ、仕事戻ってんか。こいつのことはほっといてもらおか」
 輝良の手首を握る熊沢の手を沢が払った。だが、熊沢はひるまない。
「輝良」
 名刺を差し出した。
「連絡をくれ」
「だからにーちゃん……」
 その名刺を奪おうとした沢を、熊沢は静かに見下ろした。
「連絡がもらえなければ、二葉組の事務所に行く。それでもいいのか」
「にーちゃん、強気やなあ」
 輝良は胸元に突きつけられた名刺を震える指で受け取った。名刺には大阪府警察暴力団対策課の所属と警部補の肩書きとともに熊沢寛之の名が印字されている。
「じゃあ。連絡を待っている」
 言い置いて熊沢はようやく立ち去る。
 もらった名刺を裏返してみると携帯電話の番号とアドレスが手書きで記されていた。




「会わんほうがええ」
 マンションに戻り、輝良が着替えに自分の部屋に入ると、そのまま後ろをついてきた沢は開口一番にそう言った。きつい口調だった。
「……沢さん」
 再会から数時間。情報の整理はついていた。
「熊沢のこと、知ってたね」
「大江が連絡先持っとったやろ。気になってな。調べさせた。……おまえは知らんかったらしいな。元同級生が警察庁入ったて」
 輝良はベッドに座り込んだ。
「知るわけない。もう二度と会うことはないだろうって……」
「せや。二度と会わんかったらええねん」
 沢が肩に手をかけ、顔をのぞき込んできた。彼にしては珍しい距離の取り方だ。
「おまえは二葉組の幹部や。将来はもっと大きゅうなるんやろ。警察に入ったような人間と、会う必要はないねん」
 ささやかれる。
「ええか、輝良。おまえはヤクザや。警察の、しかもキャリアの人間とつるんで得になるようなことはなんもあらへん。あちらさんにもな」
「……わかってる」
「おまえらがどういうつきあいやったかは知らん。けどもう、中学ん時の話や。……ええか。終わった話や。せやさけ、俺は今日のことはオヤジに伏せとくで」
 輝良は目を上げた。間近にある沢の目の奥を探る。きつく、揺るがぬ光がそこにあるのを確かめる。
 彼が誰よりも二葉のオヤジを大事に思い、忠誠を誓っているのを輝良は知っている。その二葉の元で強い極道になりたいと輝良が願っているからこそ、沢は輝良にも尽くしてくれるのだ。
 二葉はこの家にも夜の相手をさせる少年を連れてくる。輝良も好きに夜遊びを楽しむし、それを咎められたことはない。もちろん、沢にも。しかし今、沢は熊沢のことは終わらせろという。「終わった話だから」、二葉には話さないというのは、「終わらせておけ」ということでもある。
「――俺は」
 低く静かに、輝良も目に力を込める。
「熊沢がどうしているか、知りたいと思ったことはない。会いたいと思ったこともない。……俺は、熊沢に胸張って会えるような、そんな時間を過ごして来ていない」
 あんただって、見てきただろう。俺が二葉になにをされて、俺がなにをしてきたか。
 沢がうなずく。
 ようやく顔が離れて行く。
「……腹、減ったやろ。酒にするか。アテ、作ったろか」
 どこかほっとしたような沢に、輝良も口元をゆるめる。
「スルメあぶってよ。焼酎がいいな」
「オヤジくさぁ」
 そう。これでいい。俺は、二葉組の人間だ。


 今日は時間ぎりぎりに葬儀場に着くと、もう窓際にずらりと警察の人間が並んでいた。目を光らせる彼らの前を、悠々とヤクザの組長たちが横切り会場へと入って行く。
 輝良も、今日も沢を伴い、組長たちと並んで会場へと入る。
 スーツ姿の刑事たちの中で、ひときわ立派な体格で目を引く男がいた。熊沢寛之。その存在は目の端で捉えたが、寄越される視線は無視した。
「おるな」
 沢がささやいてくる。
「いても関係ない」
 そっけなく返す。
 当たり前だ。九年も前、まだ右も左もわからぬような未熟な中学生がほんの一夜、熱に浮かされて大人の情事の真似事をしただけ。片や警察に入り、片や極道の杯を受けたというのに、このふたりに関係などあるわけがない。
 僧侶が五人もつく長々した読経のあいだ、輝良は自分にも言い聞かせていた――関係ない、あれは関係ない人間だ、と。
 そちらに気を取られていたせいで、気づくのが遅れた。
「あれ」
 親族席に再度、目をやる。
「子ども、来てない?」
 実の母親の葬儀だというのに、竜田政宗の姿がない。
「熱出したそうや」
 沢がひそりと答える。
 思い出すのは、母親からの最期の手紙を読んでいたときの政宗の顔だ。青ざめていくのが手にとるようにわかった。雨の中、道路へと駆け出そうとした小さな躯。
 その政宗を引き止めるのをためらうように、数秒、立ち尽くしていた島崎のほうは、今日は沈痛な表情を作って勇道の後ろの席についている。
「……母親の遺書って、どんな内容だったかわかる?」
 輝良は沢のほうへと顔を寄せた。
「あ?」
「ホトケさんの遺書。きのう息子が見せられてた手紙」
「……なんや。なんか気になるんか」
「少し。自殺の原因とか」
「ふん……調べといたろ」
「ヨロシク」
 読経、納棺と式次はとどこおりなく進み、玄関ホールでの出棺見送りで葬儀自体は終わりとなった。が、ここから清竜会が手配した車に分乗し、料亭での精進落とし振る舞いが待っている。一日仕事だ。
 二葉組組長代理といっても、各組の組長や若頭クラスが集う場で輝良はまだまだ若輩者だ。慇懃に、しかし、卑屈にならぬように挨拶を交わしていると、隣にすっと影が寄ってきた。
「元気そやないか」
 振り返れば、城戸泰造翁が立っていた。もう八十にいくつもないはずだが、着物姿のその背はピンと伸び、杖もついていない。
「じいさんも元気そうじゃん」
 ついタメ口で返すと、沢に背中を叩かれた。
「おまえ。城戸の大老にどないな口きいとんねん!」
「ええ、ええ。こいつは俺の孫みたいなもんや」
 ほっほっと笑う城戸の表情は明るい。だが、老獪な城戸がここで輝良に声を掛ける意味を知らないはずがなかった。
「ご無沙汰しています」
 わざとのように輝良は綺麗なお辞儀をして見せる。
「またおいしい和菓子でも持って遊びに行きます」
「おお、来い来い。いつでも大歓迎や」
 そこで城戸は意味ありげな視線を投げて寄越す。
「羽振りようやっとるそやないか。そういう時は足元気ぃつけえ」
「はい」
「ま。おまえんとこの番頭はしっかりしとるさけ、心配しとらんけどな」
 沢がその言葉を受けて、「ありがとうございます」と腰を折る。
 輝良が二葉の愛人だったことは仁和組で知らぬ者はない。その輝良の後ろ盾に城戸がいるというアピールは輝良にとっても心強い。
「今日これからは?」
「酒も肉もそうはいらん。家に帰って寝るわ。ほなな」
「お気をつけて」
 沢とふたり、城戸を見送った。
 仁和組の総長本人は来ていないものの、内輪の葬儀と言いながら城戸まで来させる清竜会の権勢を思う。
 その清竜会の面々が各組の組長たちを車へと案内し始めている。その順番にも意味があるから、清竜会の組員たちは粗相があってはならぬと緊張した面持ちだ。
 二葉組もそろそろかと思ったところだった。
「輝良」
 後ろから低い声に呼ばれた。振り返るまでもない、熊沢だった。
「なんや、にーちゃん」
 素早く沢が熊沢と輝良のあいだに入ってくる。
「ゆうべ、連絡がなかった」
「……あんさ。連絡してどーすんの。互いの立場考えろ」
「今夜、何時でもいい。連絡をくれ。おまえから電話がなければ、明日、二葉組の事務所に行く」
「にーちゃん、脅す気か」
 熊沢が初めて沢に視線を向けた。
「脅してない。俺は自分の予定を話しただけだ」
 熊沢に引く気配はない。そこへ、
「えろう遅なってすんません。二葉組組長代理、若頭筆頭、こちらへどうぞ」
 車へと案内する声がかかった。
 これ以上ここで揉めていたら、他の組の幹部連中に痛くもない腹を探られることになってしまう。
「わかった。連絡する」
 その場しのぎに輝良はうなずき、熊沢に背を向けた。




 名刺の表を返し、裏を返し、輝良はその夜、三十分以上もぐずぐずし続けた。
 かんたんなことだった。
 連絡を欲しがっている熊沢に電話して、警察の人間になつかれるのは困ると言えばいいだけだ。もし熊沢が昔話をしたがるなら、「悪いけど、昔のこととかもうどうでもいいんで」と冷たくあしらえばいいだけ。
 方針は決まっている。
 なのに、携帯電話の通話ボタンを押すことがどうしてもできない。
『情けない』
 理由はわかっている。
 怖いのだ。熊沢になにを言われるか。自分がそれをどう感じるか。
 いわゆるマル暴と呼ばれる暴力団対応を管轄とする部署にいて、熊沢はどこまで知っているのか。葬儀会場で声をかけてきた熊沢は輝良がその場に来ることを予期していたようだった。二葉組だということは知っている? では、組長の愛人だったことは?
 誰に侮辱されてもいい。面と向かって、「ケツ使て組長に取り入ったんやろ」と言ってくる者もいるが、せせら笑って返すだけだ。しかし熊沢になにか言われたら……。
 自分はなんの痛みも覚えずにいられるだろうか?
 あるいは――もし熊沢があの夜のことを、昔のふたりのことを持ち出してきたら? 揺れずにいられるか? もちろん、平静を装って「昔のこととかどうでもいい」と言い放つフリはできる。だが、その時、心は? 痛まないか? さんざん苦しんで過去のことにしたのに、また同じ思いを味わうことにならないか?
「なにやってんだ」
 自分で自分を叱る。なにもかも、いまさらだ。熊沢になにを言われてもせせら笑って返せばいい。ほかの人間にしているように。
 長く深く息を吐き、輝良はようやく通話ボタンを押した。
 待っていたように、呼び出し音はすぐに途切れた。
『はい。熊沢です』
 律儀に名乗るところが熊沢らしい。
「……連絡しろっていうからしたけど。なに、なんの用」
 上出来な、つっけんどんな声が出た。
『輝良か』
「連絡きそうなアテがそんな何人もいるのか」
 小さく笑う気配があった。
『いや。おまえだけだ。……輝良。輝良』
「……ん、だよ」
 つまったような声になってしまう。咳払いした。
「人の名前、気安く呼ぶんじゃねーよ」
『輝良……いつ、こうしてもう一度おまえに呼びかけることができるのか、考えない日はなかった』
「…………」
『九年だ。輝良。……あきらめなくて、よかった』
「……あんさ。あんたにどんな思い入れがあるか知らないけど。俺にとってあんたはもう過去の人間なんだよ。中学の時の同級生とか、マジどうでもいいし」
『どうでもいい相手なら、久しぶりだなと笑って言えるだろう。おまえは忘れたフリをした』
「フリじゃねーよ! マジ、ホントにもう、忘れてて……」
『覚えててもしょうがないと言ったな。なら、あれはどういう意味だ』
「だから……!」
 携帯を思い切り握り締め、輝良は叫んだ。
「覚えててもしょうがねーから忘れたって意味だろ! わかれよ!」
 ダメだ。こんなふうに叫んだら。自分がまだ過去にこだわっていると認めているようなものだ。
『――輝良』
 ささやくように呼ばれる。電話越しなのに、どきりとくる自分が恨めしい。
『俺は忘れてない。忘れられなかった』
「……か、関係ねーよ、俺は忘れたんだから……」
『そうか』
 熊沢の声が沈んだような気がして、それだけで心が痛くなる。
『それでもいい。輝良、明日、会えないか』
「……は?」
『明日。時間を作ってほしい』
「な、んで、そんな……」
『おまえに会いたいからだ』
「俺は会いたくねーよ! なんで俺がサツの人間なんか会わなきゃいけないんだ!」
『警察の人間でなければ会ってくれるのか。なら俺は警察を辞める』
 当然のように言われて輝良は絶句した。熊沢の口調は淡々としているが、本気で言っていると悟らせる堅いものが声の中にある。
『もともとおまえを探すために選んだ職業だ。この職業がネックでおまえが会ってくれないというなら、辞めるだけだ』
「……かんたんに言うな。辞めてどーすんだよ……」
『そうだな。二葉組にでも入るか』
 笑い声。
「…………」
 言葉が見つからないでいると、「輝良」と呼びかけられた。
『おまえに会いたい。時間と場所を決めてくれ』
 そう畳み掛けられたら、もう逃げ場はないような気がした。
「……四時に……サザンウィンストンホテルのラウンジで……」
『わかった。四時だな』
 通話の切れた携帯電話を手に、輝良は茫然と壁を見上げた。
「俺は忘れてない。忘れられなかった」
「おまえに会いたい」
 熊沢の言葉が頭の中をわんわんと響き渡る。輝良、輝良、輝良――何度呼びかけられたか。
 もう二度と手に入らないはずだったものが、差し出されてきた。心が乱れる。けれど落ち着いて考えてみればわかる。
「……ムリだし。ムリ……」
 そう、無理だ。
 いくら熊沢が忘れてくれていなくても。九年前と同じように差し出してくれているのだとしても。受け取るわけにはいかない。
 なぜなら……。
「おまえは……なんも知らねえ……」
 この九年間、自分がどう過ごしてきたのか。もし、それを知ったら……。
 輝良はごろりとベッドに仰向けになった。
「……いくらおまえでも……無理だろ」
 小さく、苦く、つぶやいた。






                                                  つづく






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