流花無残 二十一話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>







 
 サザンウィンストンホテルの一階ロビーは四階まで吹き抜けの開放的な造りになっている。そのロビーを半分ほども占める広いスペースに、輝良が待ち合わせを指定したカフェラウンジがあった。ローテーブルに革張りの椅子やソファが置かれた高級感のあるカフェだ。
 約束の時間よりかなり早く着いた輝良は、ロビーのどこからでも見える、中央付近のテーブルを選んだ。熊沢が見つけやすい場所を心掛けたわけではない。警察の人間とこそこそと会っていたなどと噂されないように、あえて選んだ場所と席だった。
 一晩、考えた。
 どう考えても、友人としてであれ、熊沢とつきあうなどありえない。熊沢はヤクザの実態を甘く見ているのだとしか思えなかった。ならば――。
「輝良!」
 約束の四時に数分遅れて、熊沢は息を切らせてやってきた。
「すまない、遅れて」
 幅の広いテーブルにへだてられるのが嫌だったのか、熊沢は輝良と直角の位置になる場所に腰を下ろした。ぎょっとしたが、ゆったりとスペースをとった配置のせいで、「邪魔だ、あっちに行け」といえるほどの距離はない。
「よかった」
 笑みにやわらいだ瞳を向けられる。
「本当に来てくれるか、不安だった」
「……ああ、まあ……二葉組に来られたら迷惑だし」
「おまえが外で会ってくれるなら、二葉組に迷惑をかけるようなことはしない」
 輝良は苦笑いしてみせた。
「会ってどーすんだよ。もう、俺とおまえは住む世界がちがうじゃん」
「輝良」
 熊沢が改まった様子で躯ごと輝良のほうに向けてくる。
「九年前に交際の約束をしたからといって、それでおまえを縛れるとは思ってない。おまえがもし今、誰か交際している相手がいるというなら、俺はいつまででも待つ」
「ま、つって……」
 目が丸くなる。
「なにを?」
「おまえが別れるのを。あるいは、おまえが心変わりしてくれるのを」
「は!」
 演技ではなく、呆れたような声が本当に出た。
「なにいってんの、おまえ。じゃあ俺がいいっつったら、おまえ、俺とつきあうとでもいうの」
「そのつもりだ」
 熊沢は落ち着いてうなずく。
「おまえさあ……」
 腹立たしさに、いっそ笑いがこみあげてくる。
「中坊のたわ言だろ。九年も前のガキの頃にちょっとなんかあったからって、なんで俺とおまえがつきあうの。おまえ、ちゃんと俺を見た? 180超えてんだぜ? 確かに中学ん時の俺は可愛かったよ。けど、見ろよ。この手も、脚も、どこが可愛いよ?」
 ヤクザの組長の相手ももう六年も前にお役ごめんになっている。それを言ってやろうかとさえ思う。
 しかし、
「ああ。背が伸びたな。骨格ももうしっかり大人の男だ。よかったな、輝良。おまえ、大きくなりたがっていただろう」
 熊沢は笑みさえ浮かべる。
「だから、こんなごついの……」
「会うまでは、正直、心配だったんだ。おまえがもう、変わってしまっているんじゃないか、俺が好きだった輝良はいなくなってしまっているんじゃないかと。けれど杞憂だった。おまえは変わってない。可愛いままだ」
 本気で腹が立った。
「なにが変わってない? 九年だぞ、九年! まだこんな短い時間しか会ってないのに、おまえになにがわかるんだよ!」
 輝良が声を荒げても、熊沢は落ち着いた表情のままだった。
「――おまえの目が、同じなんだ。確かにおまえの躯は大きくたくましくなった。九年のあいだ……ヤクザの中で暮らしてきたおまえにいろんなことがあったのも想像がつく。けど、変わってないんだ。おまえの目が。俺が大好きだった輝良のまま」
 じゃあこの目がなにを見てきたか、全部教えてやろうか。そう言おうとしたところで、熊沢が言葉を継いだ。
「それに、性格もあんまり変わっていないようだ。あの葬儀会館で、おまえ、中学で初めて会った時と同じ顔をした」
 再会してすぐ自分がどんな表情をしていたか、思い出せない。とにかく驚きでいっぱいだったことしか。
「おまえ」
 熊沢の声に少しだけからかうような色が混ざった。
「なんでコイツ、こんなでかいんだって顔をした」
「…………」
 そうだ。日々たくましく男らしくなっていく自分の躯に、別れた時の熊沢の身長を抜いてしまったと泣いたこともあったのに、再会した熊沢は長身の輝良よりさらに十センチ近く高く、肩幅も胸の厚みも輝良よりあった。なんだよ、と思ったのは本当だ。
「輝良。俺は今でもおまえが好きだ。あきらめが悪くて気持ち悪いと思われるかもしれないが、もう一度、おまえとつきあいたい」
 ストレートな言葉だった。そして言葉以上にまっすぐに、輝良を見つめる瞳が想いを伝えてくる。
『熱が』
 胸に刺さる。全身にその熱が回ったら、もう、これまでの自分ではいられないような気がする。
 輝良はとりあえず首を横に振った。カリフォルニアの青い空の下、もう二度と取り戻せないものはあきらめた。
「こんな……ホテルのラウンジで、真昼間から口説くような男は、嫌だ。それに……俺、今、つきあってる相手、いるし」
「……そうか……」
 広い肩を落とし、熊沢がうつむく。だが、すぐに顔が上がった。
「相手は、男か女か、教えてもらえないか」
 嘘に突っ込まれる。
「女」
 反射的に、ハードルが高いだろうほうを答える。実際には男も女も一夜限り、せいぜい数日の遊びの相手しかいない。
「本気なんだ。結婚も考えている」
 熊沢は太く長いため息をついた。背を丸め、額を押さえる様子にわずかばかり胸が痛む。
「……そう、か。……そうか。仕方ないな。……いや、それも想像したうちだ」
 吹っ切ったように顔が上がる。
「輝良。じゃあ友達としてでいい。これからは時々、俺と会ってほしい」
「……会って……会ってどーすんだよ……」
「友達としてメシを食ったり、酒を呑んだりしたい。そして、そのうち、その女性より俺のほうがいいと思うようになったら、俺とつきあってほしい」
 今度は輝良のほうが額を押さえてうずくまりたくなる。揺るがない男の言葉を喜びそうになる自分がいっそ、うとましい。
「おまえ……なに言ってんの。わかってんの? おまえはサツで俺は極道だよ? んな、メシ食ったり酒呑んだりできるわけ……」
「ゆうべも言っただろう。おまえに会うためなら、警察はいつでも辞める」
「なに馬鹿な……」
 ムキになりかけて、思い直す。コイツはなにもわかっていないのだ。金銭的に恵まれた家庭の子弟がつどう一流の私立校から大学に進学し、公務員T種試験に合格して警察庁に入庁した、いわゆるエリート。そのありがたさも、輝良が立っている位置と自分の位置の落差もわかっていない、世間知らず。
 ヤクザがどういう人種なのかも、本当にはわかっていないにちがいない。
「まあ、さ」
 無理矢理に笑顔を作る。
「警察やめるとか、かんたんに言うなよ。給料、いいんだろ?」
「今は警察庁から府警へ出向の形になっている。警察庁のほうが賞与や昇給はいいらしい」
「なら、戻れるまでがんばれよ。もったいないだろ。……俺もさ、おまえがそう言ってくれるなら、目立たない程度に会える時間作るからさ。昔の友達なんて、もうひとりもいないから、俺も懐かしいし」
「無理のない時間でいい。それはわきまえている」
 時間という言葉で思い出したかのように、輝良は腕時計を見た。
「ああ、悪い。俺、そろそろ行かないと」
「忙しいのか」
「うん……ぶっちゃけ、金策? 上の人間に無理言われちゃってさ。ちょっとツテがあるから、今から人に会うんだ」
「急ぎで金がいるのか」
 少し卑屈に笑ってみせる。
「俺たちの世界は綺麗に動く金ばっかじゃないもんでさ。出せって言われたらすぐに出さないと。ああ、大丈夫。そういう時に融通してくれる人間もちゃんといるからさ。……ま、多少? 向こうのワガママも聞いてやんなきゃいけないけどさ」
 自分にも負担があることを匂わせる。性的なことと結びつけてもらえるように、意味ありげな流し目をつけることを忘れない。
「後腐れのない金なんて、この世界にはないからしょうがないよ」
「いくらいるんだ」
 乗ってきた。そんなかんたんに乗ってどうするという怒りを笑いにまぎらわせる。
「百…いや、三百。うん、三百あれば……」
「いつまでだ」
「明日」
「わかった。用意する」
「え」
 目を丸くしてみせる。わざとらしく。
「そんな。悪いよ、久しぶりに会ったばっかなのに……」
「必要な金なんだろう」
「そりゃあ……あれば助かるけど」
「なら用意しよう」
 あっさり言う男。けれど、こうした金の無心が二回、三回と続けば、態度は変わっていくだろう。いや、今日のうちにも。いざ、自分の口座から金を引き出す段になれば、なにをしているんだろうと己の愚かさに気づくだろう。
 さっさと愛想を尽かしてほしい。どれだけ自分が汚れているか、本当のことをさらさなければならなくなる前に。輝良は本心からそう願っていた。




 夜、熊沢から電話があった時、輝良は若いのをひとり連れてバーにいた。静かに飲む店ではない。色っぽいホステスが相手をしてくれるにぎやかで刹那的な場だった。
「え、あ、なに? 悪い、聞こえないんだけど」
 高い女性の笑い声や酒に酔った男の声。店の喧騒を伝えるのも計算のうちだった。
「金は用意した。明日、どこに持っていけばいい」
 本当は聞こえていたのに。男は律儀に、少し大きな声で繰り返す。
 馬鹿じゃないか、アホじゃないか。ヤクザに頼まれてその日のうちに実際に金を用意するなんて。呆れてしまう。
「マジ? 助かる! じゃあ昼ちょうどに今日と同じ場所で」
「輝良」
 少し堅い声で呼びかけられる。
「ひとつだけ、いいか」
 ほらきた。金の用途はどうだとか、こういうことはこれきりにしてもらいたいとか。そうだ。そうでなくては。
「なに?」
「受け取りにはおまえ本人が来い。代理の人間には渡さない」
「…………」
 虚を突かれた。そんなこと? 本当に?
「……あ、ああ……大事な金だし……俺が行くよ……」
「ならいい。じゃあまた明日」
 電話が切れたと見たとたん、「お仕事終わりはった?」とホステスが腕に胸を押し付けるようにしなだれかかってくる。
「ああ、終わったよ」
 上の空で答えながら、輝良はそのホステスの肩を抱き寄せた。きゃあっと嬌声が上がる。いつもなら店が上がるまで飲み、ひとりかふたり、連れて帰るぐらいのことはするのだが。
 今夜はもうそういう気分にはなれないだろう――表面は騒いで見せながら、輝良は酔えない酒を喉の奥に流し込み続けた。
 次の日、わざと遅れて着いたラウンジには、もう熊沢の大きな影があった。
「悪い。待たせて」
 席に着くとすぐ、熊沢が分厚い紙袋をテーブルに置いた。
「三百万、入ってる」
 輝良は目を見開いた。まさか本当にこんな素直に差し出してくるなんて……。
「……あ……」
 ダメだった。手が伸ばせない。
「……悪い。兄貴が、こんなはした金って……ご、五百、五百用意しろって……」
「わかった。じゃああと二百用意すればいいんだな」
 熊沢は微塵も揺らがない。平然とそう言った。
「お、まえ」
 やっと輝良は熊沢に視線を向けた。
「やっぱ金持ちだよな。ぽんと三百とか五百とか用意できるとか……」
「五百はさすがにない。まだ勤めて二年だからな。親に借りる」
「……そんな……」
 中学の時には長期休みのたび、電車に乗って互いの家に遊びに行ったり来たりした。熊沢の母親はこんなたくましい息子を産んだのが不思議なほど、小柄で華奢な女性だった。
「そんなことまで……」
「おまえに必要な金なんだろう」
「…………」
「とりあえずこの三百万は持っていけ。あと二百万は明日までに用意する。それとも今日中でないとまずいのか」
 畳み掛けられる。とにかく今は、テーブルの上の三百万を取り、次の二百万の念押しをしなければならない。熊沢は馬鹿だ。馬鹿には繰り返してやらなければわかってもらえない。ヤクザになった人間に金を差し出すのがどれほど馬鹿げたマネなのか。どれほど自分が変わってしまったか。そうして早く愛想を尽かしてもらわなければ……。
 なのに手が動かなかった。どうしてもテーブルの上の紙袋に手を伸ばせない。
「……あ……その……五百、まとめていかないと、兄貴が……」
「わかった。じゃあ今すぐ、親に連絡しよう」
 そう言い、熊沢は内ポケットから携帯を取り出した。ロックを解除し、通話を始めようとした男の手首を、輝良は思わずつかんでいた。




                                                  つづく






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