流花無残 二十二話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>







 
 

「やめろ!」
「……輝良」
 男が口元を引き締める。その目になぜだか哀れみにも似た光があるのを輝良はただ見つめた。
「おまえが兄貴と呼ぶのは二葉組若頭筆頭の沢一(さわはじめ)か。組織図的にはおまえの上に当たる人間はほかにもいるが、実質的におまえより上位に位置するのは二葉組組長二葉武則と沢一ぐらいだろう」
「…………」
 すっと体温が下がるような気がした。輝良は手を引っ込め、無言で熊沢を見つめた。
「株や為替の売買、金の先物取引、各種投資をおこなって、今や二葉組の錬金術師と呼ばれるおまえが、五百程度の現金で困るとは思えない。思えないが、おまえが困っていると言うなら俺は助けるだけだ」
「ば……かじゃねーの……」
 笑おうとするのに、うまく顔の筋肉が動かない。
「そこまで……そこまで、俺のこと知ってて……」
 胸の中がぐるぐるした。
 二葉組内部での輝良のポジションや金作りのことまで知っているなら、なぜ金を用意した? 唯々諾々と金を差し出す男の気持ちが理解しきれない。それにそれだけ二葉組の内情について知っているなら……二葉組組長とその養子の関係についても知っているんじゃないのか? 大江も熊沢に『輝良はヤクザの愛人になっている』と話したと言っていた。警察内部の資料とその言葉を突き合わせたら、真実の姿が透けて見えるんじゃないのか。なのになぜ、もう一度つきあいたいとか、困っているなら助けるだけだなどというセリフが出てくるのか。この九年間のことを赤裸々にすべて、己の口からぶちまけなければ、この男はわからないのか。
 熊沢の言葉に胸が引き絞られるように切なくなる気持ちと、なにもかも晒して壊してしまいたい凶暴な衝動が輝良の胸の中で渦を巻く。
「――あの日」
 熊沢が内ポケットからカード入れを取り出しながら、静かに切り出した。
「突然、おまえが姿を消して……俺は……自分を責めた」
 瞠目して輝良は昔を語る男を見つめた。なぜ熊沢が自分を責める必要があったのか、わからなかった。
「俺が、おまえに、ヘンな気持ちをぶつけて……いやらしいことをしたから、だから、おまえは俺になんの連絡もくれないのかと思ったんだ」
「そ、そんなわけないだろ!」
 思わず叫んだ輝良にかまわず、熊沢はカード入れから一枚の紙片を取り出した。角がすれ、くたびれたメモ用紙を節の高い指が開く。そこには輝良自身に見覚えのある鉛筆書きの文字が並んでいた。
『父と母が事故って、オジが迎えに来た。大阪の病院に行く。』
『おれは後悔してないぞ。輝良』
 あの日、叔父である大江に呼び出され大阪に行くことになった輝良が、熊沢にどうしても一言残したくて、あわてて残したメモだった。
「おれは、後悔してないぞ――この一言だけが、俺の頼りだった。おまえはいやがっていなかった、おまえが姿を消して、なんの連絡もくれないのは、俺のことを、あの夜のことを、おまえが嫌ったせいじゃない……それを証明してくれるのは、この言葉だけだった」
 十五の輝良の筆跡をそっと指でなぞる熊沢の横顔を、輝良は声もなく見つめた。
 輝良が残した言葉を見つめる、いとおしげな、深いなにかをたたえた瞳の色に、熊沢もまた、会えなかった時間、苦しんでいたことがうかがいしれる。
「教師に聞いても、親戚が来て大阪に行ったとしかわからなかった。それから間もなくだ。おまえの両親から退学届けが出されてしまったと担任が教えてくれた。……あの日、おまえが姿を消す前日、おまえは話があると言っていた。なぜ、その話を聞いておかなかったのか、そしたら、おまえの消息のなにかヒントがあったかもしれないのに……。俺は必死におまえを探した。休みのたびにおまえの家を訪ねた。そこにはおまえの叔父だという人が住んでいたから、その人に必死におまえの行方を尋ねたが教えてはもらえなかった。ただ、何年も問い詰めるうちに、ようやく大阪のヤクザの元にいると……」
 熊沢が輝良の消息の手掛かりが得られないかと大江を何度も訪ね、大江が破産したあとも定期的に大江に連絡を取っていたことは、大江から聞いていた。
「大阪のヤクザについて調べたが、あまりにもつかみどころがなかった。なんとかもっと具体的な情報を得たい……そう思って俺は警察庁に就職することにしたんだ。大阪府警にしようかとも思ったが、もしおまえが兵庫にいたら管轄違いになってしまう。おまえの叔父さんも組の名前については知らないの一点張りだったからな」
 それはそうだろうと思った。どの組織と自分が関わりがあったかを明かせば、自分が詐欺の片棒をかついで義兄家族から資産を奪ったこともいずれバレてしまうかもしれないと大江が危惧しただろうことは容易に想像がつく。
「……知っていたか。そのおまえの叔父さんも二年前に亡くなってしまった」
「……ああ、知ってる。電車に飛び込んで自殺したと聞いた」
 本当はこの手でくびり殺してやりたかったという一言を、輝良はなんとか飲み込んだ。大江が自殺したのは、輝良が大江の娘への復讐をほのめかしたからだ。大江を自殺まで追い込んだのは自分でも、実際に手にかけられなかった恨みは今も残っている。
「たぶん……その自殺の直前だったんだろうと思う。電話をもらったんだ。早朝だった。輝良は二葉組にいると……それだけ伝えてくれた」
「ッ」
 ぎ、と奥歯が鳴る。最後の最後まで! 墓を掘り返して骨を砕いてやろうかと真剣に思う。
「その時点ではおまえの名前は警察庁のデータベースを使ってもどの組にも見つからなかったから、その情報は本当にありがたかった。それから一年半かけてやっと大阪府警に出向させてもらったんだ」
 構成員として組の名簿に載るようになったのはアメリカから戻ってからだ。二葉と沢のはからいだった。
「輝良」
 深い声で呼びかけられる。
「俺は、おまえを忘れられなかった。ずっとずっと、おまえに会いたかった。やっと会えたおまえが困っているというなら、俺は助けたい」
 そして熊沢は続けた。
「ずっと、好きだった」と。




「……馬鹿だろ、おまえ」
 ようやく出た声はかすれていた。
 手が震え始めたのを見られないように、堅く指を組み合わせる。
「……警察の、データになかったのかよ……大江に、聞かなかったのかよ……」
 冷笑も、嘲笑も、浮かべることはできなかった。顔が強張り、思うように動かせない。ただ、輝良はまっすぐに熊沢を睨んだ。
「――俺は、二葉武則の愛人だったんだぞ」
 熊沢の双眸は輝良の視線を受け止めて揺らがない。
「……大江さんは、今頃おまえはヤクザの愛人になってるだろうと言っていた。警察のデータには、二葉武則と輝良に性関係ありとの証言ありとあった。だが俺は、それがおまえの意志だとは思えなかった。今も思ってない」
「…………」
 大声で嘲笑え。頭はそう命ずるのに、実際には熊沢を睨みつけるだけでいっぱいいっぱいだ。――やはり、知っていた。自分がどういう立場にいたのかを。
「……おめでたいな……」
 自分でもわかるほど、声はかすれて震えていた。
「俺が……二葉の愛人だったと、知っていて……よく、つきあいたいだの、助けたいだの……」
「輝良」
 厳しい声だった。眼差しにも厳しさがある。怒りに似ていなくもない。
「忘れられなかったと言っただろう。――正直に言う。忘れたいと何度も思った。でも忘れられなかったんだ。俺は、どうしてもおまえへの想いを消すことができなかった。こうして再会すればなおさらだ。俺はおまえをあきらめられない」
「…………」
「いいか。俺はおまえとつきあいたいし、おまえが困っていれば助けたい。おめでたいと、当のおまえに言われてもな」
 胸が引き絞られるようだった。熊沢の本気が痛いほど、心を締め付けてくる。受け取るわけにはいかない、一途でぶれない気持ちが怖い。その気持ちを受け入れてしまったら、今までの自分が崩れていきそうな気さえする。――今でさえ、こんなに不安定にさせられているのに。
「……輝良」
 厳しい声音だったのを詫びるように、熊沢は優しく呼ぶ。
「だから、おまえも逃げるな。俺から、逃げないでくれ」
 まっすぐに見つめてくる瞳。真摯な表情。そして優しく「逃げるな」と告げる声。
 手を伸ばせば握り返してくれるのか? 望めば抱き止めてくれるのか? こんな自分を?
『ダメだ!』
 輝良はぎゅっとこぶしを握った。揺らいでどうする。期待してどうする。なくした初恋を惜しむ資格さえなくした九年間ではなかったのか。
「……うるせえ……」
 声を押し出す。
「うるせえ。うるせえ。うるせえ……」
「輝良……」
「俺を呼ぶなっ!」
 低く叫んで輝良は耳をふさいだ。子どもじみた所作だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「……頼む。もう、行ってくれ……頼むから、俺に、かまうな……」
 呻くような声になにを思ったのか。しばらく熊沢は無言のままだった。
 やがて、ゆっくりと席を立つ気配がした。
「今日は、帰る。また、連絡する」
 男が立ち去り、しばらくしてから、ようやく輝良は顔を上げた。
 テーブルには分厚い紙袋が残されていた。




『やだ……やめて、やめて……お願いです……』
『いやあああああっ!』
――初めての時。……ああ、ここに来た時は制服だったのかあ……。
『や、やだ……なに、これアツい……や、あ……じんじん……じんじんするッ……』
『ぃや、あん! も、やだ、ア……』
――塗り薬使われたんだよな……これ、撮ってたの、沢さんだっけ。嫌がってたよなあ。はは。画面ぶれまくりじゃん。
『ね、え……ちょうだい、ください……早くッ……!』
『あんあんあんっ! アッ、や、やだっ! 抜かないでっ! もッ、と……あ、ああああ!』
――高一か……あーあ、もう腰使うこと覚えてんのな。つか、顔ばっか撮ってんじゃねーよ。次は……ああ、ローター責めされた時の……このあとしばらくSMっぽいのが続いたんだよな……。
「すんません、輝良さ……あっ!」
 リビングのドアを開いた男が入り口で立ちすくんだ。
 たたみ一畳分ほどもある大スクリーンいっぱいに、刺青を背負った男に腰をつかまれて責められている白く幼い肢体が映し出されている。スピーカーからは大音量で、男の荒い息遣いと少年の媚を含んだ喘ぎ声が流れる。輝良はかつて二葉が撮影させていた二葉と輝良の淫らな場面ばかりを記録したDVDを再生していたのだった。
「あ、の……あの……」
 リビングの大画面に猛った男根を押し込まれた自身の秘孔を大写しにしたまま、輝良はソファから気だるく入り口に目を向けた。スキンヘッドのごついのがふたり、画面に目を吸い寄せられて立ち尽くしている。見覚えあるふたり組は、二年前、輝良が帰国してきた時に沢に従って東京まで迎えに来たマサルとサトルだ。
「何か俺に用?」
「あ、は、はい……」
 ふたりはぎくしゃくと近寄ってくるが、視線は画面と輝良のあいだをちらちらと行き来する。
「あ、の、沢の兄貴から……沢の兄貴から、伝言を……」
『あああんッ』
 ひときわ高く淫らな声がスピーカーから響き、ふたりがびくりと画面を見た。
「沢さんから?」
 再生を停める気のない輝良にふたりは居心地悪そうにもぞもぞしたが、マサルのほうが思い切ったように聞いてきた。
「あ、あの、これ、輝良さん……っすよね? オヤジさんとの……」
「ああ、おまえらが組入る前だっけ。俺の三年間の愛人記録。沢さんがカメラ持ってんのもあるぜ? あの人、マジメだから嫌がってんのが丸わかりだけど」
「……すげ……っす。なんか、めちゃ、くるっす……」
「輝良さん、色っぽいっすよね……」
 輝良の淡々とした態度に逆に開き直れたのか、ふたりは目を輝かせて画面を食い入るように見る。
「……買うか? エロDVD三枚組」
「え、マジっすか! いくらで……」
「アホッ!」
 サトルの頭をマサルが叩く。
「輝良さん、すんません! こいつ、ほんまアホで」
「アホてなんやねん! こんなお宝……」
「なにがお宝や! オヤジさんと輝良さんやぞ! おまえ、輝良さんで抜く気ぃか!」
 サトルがはっとしたように、「すんません」と頭を下げてくるのに、輝良は薄く笑った。
「別に、いまさら……。俺がオヤジさんに抱かれてる時、横でオナってるのなんて普通にいたし。……ま、こんなごつく育ちあがったの見て、その気になれるとは思わないけど」
「そんな……」
 今度はマサルのほうが首を振った。
「俺、輝良さんだったら今でもたぶん、余裕っす!」
「アホッ! おまえのほうがたいがいやろ!」
 漫才のようなふたりのやりとりに苦笑して、輝良はようやく一時停止を押した。
「で、沢さんからの伝言は?」
「あ、それですけど!」
 ふたりがぱっと姿勢を正す。沢が今、他の組と揉めているシマのことでいそがしいのは輝良も知っている。そんな中、わざわざ伝言とは……?
「あの、清竜会組長の、こないだ亡くならはった愛人さんですけど」
「自殺の原因ゆうんか、これが引き金っちゃうかゆうのんが出たんですけど、なんや、息子のビデオ見たらしんですわ」
「ビデオゆうてもかわいいにお遊戯しとるようなのとはちごて、竜田が『極道のエリート教育や』とかゆうて、まだ年端もいかん息子にケジメの手伝いさせたり、仕置きさせたりしとるのばっか撮ったビデオやったんです」
「で、遺書の内容ゆーのが、そんなむごいこと喜んでやるような子は私の子ぉやないとかなんとか」
 かわるがわるの報告を聞いた輝良は大きく溜息をついた。――そんなことだろうとは思ったが。竜田政宗が母の最期の手紙に受けた痛みが容易に想像できた。
「誰がそんなビデオを……」
「竜田本人らしいですわ。息子が立派に大きゅうなっとるのを見せたるゆうてたそうです」
「…………」
 輝良は顔を歪めた。竜田に関してはもともといい心証など持っていなかったが、想像以上にその性根が腐っているとしか思えない。
「そんでそのビデオを届けたのが、若頭の島崎やったそうです」
「……それは……」
 あの日、斎場で見た場面が思い出された。雨の中、道路に向かって駆け出した小さな躯、そして、一瞬なにかをためらった島崎の姿。
『島崎……』
「でも島崎も、まさか母親が自殺するとは思てなかったやろゆうのが、沢さんの意見でした」
 付け加えられたコメントに苦笑いが出た。さすがに沢は輝良の思考傾向をよく把握している。
『でも、沢さん、本当に島崎はわかっていなかったんだろうか。息子が残虐行為をはたらくビデオを見て、その母親がどう感じるか……』
 百聞は一見にしかずという。百の文言より、実際に見たほうがはるかに説得力があるし、実態も伝わりやすい。ジャーナリストが撮った一葉の写真が国際世論を動かしてしまうことがあるが、それがいい例だ。
 写真やビデオはいまや手軽な記録媒体として社会に浸透している。しかし、記録に残されるのが美しい、きれいなものばかりとは限らない。なまなましく、臨場感ゆたかな記録は、時に、知らなくていい人物の一面や、知るはずのない時間を、無垢な人に突きつけることにもなる。知らずにいれば幸せだったかもしれないのに、夢を壊し、希望を潰えさせる――それが写真やビデオの怖さだ。
 竜田も島崎も、それに思い及ばなかったのだろうか。
『俺でさえ……』
「以上が沢の兄貴からの伝言っす。なんかあれば、俺らに言ってくださいと兄貴が……」
 マサルとサトルの、いかついが素直そうな顔を輝良は見上げた。
『俺でさえ、思いつくのに』
「じゃあさ。ちょっとお使いを頼まれてくれないかな」
 ふたりに向かってにこりと笑ってみせた。




 そして輝良は、残されていた三百万と三枚のDVDをふたりに託したのだった。







                                                  つづく






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