「ついてこい」
エレベーターを降りながら、熊沢は一言だけそう言った。
「……どこ行くんだよ」
そう聞いてしまってから、後悔した。不安がっているように思われなかっただろうか。熊沢から答えはなかったが、二度も聞くのは癪(しゃく)だった。
近くの駐車場に熊沢の車が停めてあった。
「乗れ」
と、また短く命じられる。
「…………」
どうとでもなれ。なかばヤケクソな気持ちで助手席に乗り込んだ。
ハンドルを握っても熊沢は相変わらず黙り込んだままだった。その横顔は堅い。いつもと同じようなスーツは着ていたが、ネクタイをしていないせいだろうか、シャツに少ししわが見えるせいだろうか。男には常にはないどこか荒んだ気配があった。
「……なに怒ってんだよ」
走り出して二十分以上、こらえかねて輝良は聞いた。
返ってきたのは溜息だ。
だから輝良も舌打ちを返した。
「黙ってちゃわかんねーだろ」
きつめに言ってみたが、
「話さなきゃわからないのか」
と、間髪入れずに返された。
やはりあのビデオのことか。しかし輝良の思考では、呆れられ、愛想を尽かされこそすれ、ヤクザのアジトに乗り込むほどに熊沢が怒る理由はどこにもないはずだった。
「……あんさ。そっちが勝手に幻想持ってただけで……」
「輝良」
名前を呼ばれただけだったが、十分な怒気が伝わってきた。
「事故を起こしたくない。黙っていてくれ」
「…………」
さらに十分ほど走って、車は住宅街の中に建つ五階建てのマンションの駐車場に滑り込んだ。
「降りろ」
「へいへい」
黙っていてくれと言われたから黙っていたが、行き先も告げられず連れて来られた、強引な態度にはムカッ腹が立つ。不愉快を隠さずに、ジャケットをはだけて輝良は両手をスラックスのポケットに突っ込んだ。
エレベーターで熊沢は四階のボタンを押した。
「――そろそろ教えてくれてもいいだろう。どこに行くんだ」
狭い箱の中で尋ねると、ようやく、
「俺の家だ」
と返事があった。車が住宅街に入ったあたりで、もしかしたらとは思っていたが、まさかの答えだった。
「警官が、ヤクザを部屋に連れ込むのかよ」
それでも憎まれ口を叩いたが、それはあっさり流された。
エレベーターの扉が開く。熊沢の部屋は廊下の突き当たりの角部屋だった。
「……本当なら、人に見せるべきものじゃないと思うが」
鍵を開きながら、熊沢は輝良を振り返った。
「おまえと同じやり方をさせてもらう。――入れ」
あごをしゃくられた。
玄関と短い廊下にはなにもなかったが、家全体にどこか荒れた空気があるのは足を踏み入れただけで伝わってきた。
気は進まなかったが、熊沢が退路を塞ぐように後ろに立っている。しょうがないと靴を脱ごうとしたら、「靴は履いたままでいい」と言われた。
「危ないからな」
と。
「……さいですか」
小さくつぶやいて、輝良は土足のまま、木目の廊下を歩いた。突き当たりのドアは開いたままになっていて、部屋の様子が嫌でも目に飛び込んでくる。
「……んだ、これ」
ドアの向こうはリビングダイニングになっていた。手前にキッチンがあり、カウンターを挟んでその向こうにリビングスペースが広がっている。南側と東側の二方向に広い窓がある、明るい部屋だった。
――しかし。本当なら明るく居心地のいいはずのその部屋は、今、泥棒にでも荒らされたかのような惨状を呈していた。テーブルも椅子も薙ぎ倒され、壁際のスチールラックに納められていたのだろう本やCD類、小物などはすべて床にぶちまけられている。カーテンは破れてレールから垂れ下がり、床に叩きつけられたのか、食器やガラスの破片があちらこちらで光る。
「…………」
唇を引き結んで、輝良は荒れた部屋を見回した。液晶テレビが叩き割られているのには、息を飲んだ。「人に見せるものではない」と熊沢は言った。ではやったのは熊沢自身か。剥き出しの激情の痕。中学時代にも、熊沢が己を忘れるほど激怒したところなど見たことはない。クラスでも部活でも、輝良が息巻いて怒るような状況でも、熊沢はいつも冷静で「まあまあ」と輝良をなだめる役回りだった。
その熊沢がここまでのことをするのは……。もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのだろうか。
さすがに背筋が寒くなる。振り返ろうとした輝良は横手の壁に貼られた写真に再び息を詰めた。そこにはピンで何枚もの写真が留められていた。写っているのはすべて、二葉武則だ。事務所を出るところ、マンションに入るところ、車に乗り込むところ……服装と容貌から、つい最近の写真なのがわかる。そのうち幾枚かの写真は武則の顔の部分がカッターらしきもので切り裂かれていた。
「おまえは……」
低い声がした。
「あのビデオを俺に見せて、どうしたかったんだ? 武則を俺に殺させたかったのか。それともおまえ自身を殺してほしかったのか」
後ろから腕が回される。上半身と腰に長い腕が巻き付き、後頭部に熊沢の顔が押し付けられた。吐息が髪越しに当たる。
「――おまえは、なにもわかっていない」
嘆くような、諭すような。熊沢の声には『俺がなにをわかってないっつーんだよ』という軽い反論さえ許さないものがあった。
「おまえに会えなかった九年間、俺がただ、おまえを懐かしがり、なにも考えず、おまえの行方を捜していたとでも思うのか」
「…………」
忘れようとして忘れられなかったと熊沢が言っていたのを思い出す。輝良が自分のしたことを嫌がったのではないかと不安に思ったとも熊沢は言っていた。
「九年は、長いな、輝良。後悔していないというおまえの言葉を頼りに、おまえがなんの連絡もくれないのはおまえが俺を嫌ったからじゃない、そう自分に言い聞かせていたと、この前言っただろう? それはまだ、俺自身も子供だった頃の話だ。高校を卒業する頃になって、おまえはヤクザの愛人になっているだろうと聞いて……その時の俺がなにを考えたかわかるか? ……あの晩、おまえとひとつになっておけばよかった、そして……おまえを殺しておけばよかったと……」
「ッ」
不穏な言葉を吐きながら、当時の思いを証し立てるように、男の手がボタンダウンのシャツの襟を広げ、ゆっくりと喉に絡みついてきた。片手でも的確な場所を指で押さえれば気道を塞ぐことはできる。輝良は緊張から息をひそめた。
「俺のものにして、殺しておけばよかった――そうしたら、誰にも取られずにすんだのに……」
声が暗い。かつて男が陥っていた谷間の深さそのままに。
「おまえが、俺の見知らぬ男に、なにをされているのか……考えまいと思うのに、想像が消えていかなかった。寝れば夢に見る。ほかの男に犯されて泣き叫んでいるおまえの姿に飛び起きたのも一度や二度じゃない。何度か大阪にも来た。アテもなく歩き回って……ヤクザっぽいのを見つけては、あいつがそうかもしれないと後を尾けたりして……。殴りかかったこともある」
さらりと熊沢は言ったが、大阪の街中でいきなり見も知らぬチンピラに殴りかかるなど無謀以外のなにものでもない。
「そこで刺されるなら、それでもいいと思っていた。俺は狂いかけていたのかもしれない。おまえを助けるためなら、なんでもする、その思いと、おまえを殺して俺だけのものにしておけばよかった、その思いと……矛盾しているその両方が俺の本心だった」
その言葉の通り……熊沢の手は力を込めて輝良の喉元をまさぐるかと思えば、柔らかく、まるで愛撫のように首筋を撫でたりする。
熊沢の動きが読めない緊張はあったが、しかし、輝良は熊沢を怖いとは思わなかった。引き裂かれ、消息もわからなかった時間に味わった熊沢の苦悩と葛藤は、輝良自身が味わった嵐と表裏のものだ。――十五の夏、寮でのあの夜に、熊沢の手にかかっていれば、どれほど幸せだったか。
「つらかったよ。おまえと抱き合った時の温度も、おまえの肌を好きにさわった感触も、おまえの声も顔も全部、覚えているのに……それをほかの男が……と思ったら……」
声に苦しげな響きが混ざる。
「――忘れたかった。おまえのことなんて。忘れられたら、自由になる。おまえのことを好きでもなんでもなくなれば、こんな苦しむこともない……だから、男とも女ともつきあった。おまえのことを忘れさせてくれるかもしれないと感じたら、誰とでも……でも、ダメだった。おまえの目、おまえの言葉、おまえの表情……中学の二年半で目に焼き付けたおまえの姿が、どうしても消えていかない。消えていかなかったんだ」
抱く腕に力がこもる。
輝良はぎゅっと目を閉じた。――同じだと思った。忘れられたら、楽になる。だから思い出すことを自分に禁じて過ごした。大好きだった少年に与えられた口づけや愛撫の記憶をそのままにして、自分に庇護を与えてくれる男に甘えかかることはできなかった。思い出せばつらくなる。だから、思い出さないようにした。でも、それは「忘れる」とはちがう。忘れられなかった。忘れられなかったから、再会してからずっと、自分は揺らされたままだ。
輝良の後頭部に顔を埋めた男が長く、重い息をついた。
「だがな……俺はある時、気がついた。大学生の時だ。なぜ、おまえから連絡がない? なぜおまえは俺に助けを求めて来ない? 監禁されているんだ、自由がないんだとずっと思っていたが……本当にそうか? 数日のことならわかる。しかし負けん気が強くて、頭もいいあの輝良が、数年にもわたっておとなしく監禁され、ただの慰み者になっているだろうか? ……その時、わかったんだ。おまえは、おまえの意志で、俺に連絡してこないんだと。なぜだ? 俺のことが嫌いになったからか? それとも、俺に顔向けできないようなことをしているからか?」
熊沢の手が不穏に動いて輝良の顎の下に食い込んだ。
「俺に顔向けできないようなこととはなんだ? ヤクザの元に連れて来られて、おそらくは力ずくで犯されて、それを恥ずかしがっている? いや、本気で嫌がり続けているなら、助けてくれと言えるだろう。言えないのはなぜだ? ……おまえも、それを望むようになったからだ」
「く……」
喉近くに食い込む指が苦しくて、輝良は小さく呻いた。横目で男をにらむ。
「俺が……おまえのことを嫌いになったっつー可能性は、無視かよ」
苦しい息の下、男の言葉の不備を突いた。
熊沢は短く笑った。
「この態勢でそういう憎まれ口が出てくるところが、本当におまえらしい。変わらないな、輝良。……心配するな。その可能性については嫌というほど考えた。おまえがおまえを愛人にしたというヤクザを好きになっていたら? そのヤクザではなくても、ほかに好きな相手ができて、それで俺のことなどもう忘れてしまっているのだとしたら? ――輝良」
熊沢の顔が肩口に伏せられた。
「それならそれで、俺がおまえのことをあきらめるしかないと、ずっと自分に言い聞かせていた。でも、ダメだった。……わかるか、輝良……」
熊沢の指が喉からはずれる。ジャケット越しに両腕できつく抱き締められた。その腕は細かく震え、声も抑えきれないなにかに揺れはじめている。
「九年だ。九年のあいだ……ずっと……おまえのことを思い出さない日はなかった。……刺青の……ヤクザ者にレイプされて……血まみれになって泣いてるおまえの姿……そのヤクザに、笑って抱かれるおまえの姿……俺が、触れたかった……俺が、抱き締めたかった、おまえが……俺のことなど忘れたように……ほかの男の首に腕を回してキスをする……『愛している』と、ほかの男に、おまえが……ッ」
激しい力で揺さぶられた。言葉で輝良の心を揺さぶるだけでは足りないかのように。
「愛している」と二葉武則に告げたことは一度もない。養子となることを決めて二葉を受け入れるようになっても、それは恋愛感情とは縁遠いものだったし、男に抱かれて情事を愉しむようになっても、やはりそれは恋愛感情をともなわないものだった。
「クマ、ちが……」
言いかけたが、強引に躯の向きを変えさせられた。シャツの胸倉をつかまれ、怒りとかつての地獄の記憶に顔を歪める男と対峙した。
「……俺が……なにも考えていないと思ったか……能天気に、笑って過ごした九年のあと……おまえのことを忘れられない、おまえが好きだと告げたとでも……思っているのか」
食い縛った歯のあいだから、呪詛にも似た声が押し出される。
さすがにもう、憎まれ口を叩くことはできなかった。声もなく見つめ返していると胸倉を一段と強い力で締め上げられた。
「なぜ、あんなビデオを俺に見せるっ!」
吠える男の声に、怒りより悲しみを聞き取って、輝良は息を飲む。
「なぜ俺にあんなものを見せる。突きつける! 想像しなかったと思うのか、考えなかったと思うのか! おまえから見た俺はそれほどの馬鹿か!」
がくがくと揺すられる。
「俺が味わった九年間の地獄を、なぜおまえが……ッ」
男はうつむき、自分でもどうしようもない感情を抑えるように喘いだ。
「クマ……ごめん……ごめん、クマ……」
ほかに言えることがなかった。かつての愛称を口にしていることも気づかぬまま、輝良は胸から込み上げてくる謝罪の言葉を繰り返した。
「……おまえは……そうだよな。好き勝手しては……キレて……あやまって……」
熊沢が顔を上げた。正面から黒い瞳にきつい光で射られて、目をそらすことができなくなった。
「……もう一度聞く。……あのビデオを俺に見せて……どうしたかったんだ? おまえを俺から奪っていった男を殺してやりたいと、俺はずっと思っていた。おまえは、武則を俺に殺してほしいのか……?」
そんなつもりではなかった。自分はただ……――。
「それとも……おまえ自身を俺に殺してほしいのか。……俺にあんなビデオを寄越して、自分は女の香水匂わせて……!」
ぎらりと男の目が光った。熊沢の手にさらに力がこもり、喉が絞まる。殴られる、あるいはそのまま首を絞められるのを輝良は覚悟した。昨夜は馴染みのホステスの部屋に泊まり、女を抱いた。熊沢はもう自分に愛想を尽かしているだろうと決め付けて。
が――輝良の胸倉をつかんだ男は、殴ったりはしてこなかった。輝良に与えられたのは荒々しい口づけだった。
噛みつくような、というが、実際に唇にも歯にも、歯があたった。かまわず唇を吸い上げにくるから、ガチガチと歯がぶつかりあった。
「……っ」
荒さに思わず腰が引ける。熊沢は押してくる。
肉厚な舌が口の中に差し込まれてきた。舐め回される。唇も、舌も、歯列も、口蓋も。
「ふ…ッ、ん……」
乱暴なキスだと思った。下手糞だとも。
なのに、その乱暴さに、テクニックではない荒々しさに、頭はすぐにぼうっとなった。
――好きだった。とても好きだったから、思い出さないようにしてきた。あきらめようとしてきた。再会して、想いは萎えるどころか、惜しげもなく熊沢が与えてくれる言葉に酔わされるばかりだった。だから、二葉に抱かれ続けた三年間のビデオを渡したのだ。今度こそ、自分もあきらめるために。あきらめてもらうために。
嫌いなら、そんなことはしなかった。
「輝良……あきら……」
男は大きな手で輝良の後頭部を支え、固定した口を、あますところなくしゃぶる。
半開きになったままの口から唾液があごを伝った。
「ん、ふ……」
口腔を舐め回され、唇を甘噛みされる快感に陶然となる。もう子供ではないのに、濃厚で官能的で激しいキスに、胸がいっぱいになって、油断すると感極まった声を上げてしまいそうだった。
「あ……」
長いキスは、躯の力が抜けそうになった輝良が、一歩、後ろへよろめいたことでようやく終わった。
「輝良」
唇をいやらしく濡らした男にささやき声で名を呼ばれて、背筋がぞくりときた。狂おしく光る熊沢の瞳を、輝良は乱れた息をつきながら見上げる。
「……俺は……おまえが憎い……憎くて、愛しくて……どうにか、なりそうだ……」
「クマ……」
「おまえが好きだ。好きだ。好きだ。九年かけてもあきらめられなかった。おまえが……この九年、なにをしていても、ほかの男になにをされていても……」
その言葉を聞いたとたんだった。
輝良は己の双眸から熱いものがあふれだす感覚に驚いた。あわてて顔を隠そうとうつむけば、涙はぽたぽたと音立てて床に落ちた。
「輝良、輝良」
腕を引かれてかき抱かれる。
「やめろ、やめ……」
声も涙声だったが、それでも必死に輝良は続けた。
「俺は……二葉、に、抱かれてた……い、嫌がってたのなんて、さい、最初のうちだけだ……ヤクザに、なるって、決めて、からは……よ、喜んで、ケツ振って……甘えて、よがって……」
嗚咽にきれぎれになりながら輝良は言い募った。
耳の横で、男が奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「――……知ってる。ビデオは、全部、見た。怒りと……口惜しさと……憎しみで……どうにかなりそうになりながら……全部、見た。暴れながら……何度も、何度も」
きつく抱き締めて、熊沢は頬をこすりつけてくる。
「それでも、だ。それでも、俺は、おまえを、あきらめられない」
「あ……」
新たな涙があふれだして、視界がにじむ。
「クマ、クマ……」
「輝良。今度こそ、俺のものになれ」
その言葉に、輝良ははっとして身を引いた。男の眉がいぶかしげに寄る。
「輝良?」
「……ダメだ」
「なにが」
「俺……」
声が震える。
「……ごつい」
「は?」
真剣にわかっていなさそうな男に小刻みに首を振る。
「俺、ごつい。ビデオとは、もう……ちがう。……こんな……」
「……なにを言ってるかわからないが……もしかしたら体格のことか?」
「…………」
黙り込んでいると溜息をつかれた。
「じゃあ聞くが。おまえ、あのまま中三からずっと俺とつきあっていたとして、もし俺の背を抜いたら別れるとか言うつもりだったのか」
え、と思った。その発想はなかった。
顔を上げると、大きな手で濡れた頬をこすられた。熊沢は笑っていた。
「おまえは大きくなるとずっと思っていた。もしかしたら、俺より大きくなるかもしれないとも。……躯の大きさなんか関係ない。おまえは……変わらず、綺麗で可愛い」
「バ……」
頬が熱くなる。顔を赤くするなんて、何年ぶりのことか。
「輝良」
広い胸に再び抱き込まれた。
「もういいだろう。俺に抱かれろ」
はい、とも、うん、とも言えなかった。輝良はただ、男の背を抱き返した。
つづく
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