腰に腕を回されてベッドルームへと誘導される。そのあいだも熊沢は何度も唇を求めてきて、輝良は足元がおぼつかなくなりそうだった。キスだけでふわつくなんておかしいと思っても、熊沢に触れられているだけで強烈なアルコールに酔わされているような酩酊感が生まれてどうしようもない。
当然のようにベッドへと導かれ、腰を下ろさせられた。自分も膝をベッドに乗り上げ、キスをしながら上からジャケットを脱がせにかかる男の胸を、輝良はなんとかそこで押し返した。
「ちょ……ちょっと待とうか」
どこまでも押し流されてしまいそうな気がしたからだ。だが、
「九年も待ったのに、まだ待つのか」
真顔の男には引いてくれる気配は微塵もなかった。
「九年の前も三年待った。これ以上、俺は一秒だって待ちたくない」
ぐっと体重をかけてくる強引な熊沢に輝良は後ろ手に手をつき、なんとか抵抗を試みた。
「そ、その三年は知らねーけど、この九年はお互い様っていうか……」
「お互い様ならなおさらだ。待つ理由はない」
額と鼻の頭をぐりぐりと擦りつけてきながら言う男に、返す言葉が見つからない。
「――輝良。嫌がらないでくれ。俺はおまえを確かめたい」
そう熱くささやかれたら躯を支えるはずの腕からも力が抜けた。
脳裏を二葉武則や沢の顔がかすめる。今までどんな相手とどんな遊び方をしても彼らはまったく意に介さず好きにさせてくれていたが、相手が警官となればさすがにそうはいかないだろう。沢が般若の顔になるのが容易に想像できた。
「あきら……」
唇を唇にこすりつけられ、名を呼ばれるだけでぞくりと来る。
『ごめん、沢さん』
ベッドに倒れ、熊沢の重い体重を受けるだけで感極まった声が上がりそうになる。意識から二葉も沢も消えていく。輝良は求めに応じて肉厚な舌を口を開いて迎え入れ、流れ込む男の唾液を飲み込んだ。
服を脱がせる手に逆らわず、自分で袖から腕を引き抜いた。服を脱ぐ男を手伝って、男のベルトを外した。
全裸になって素肌を重ねれば、ほかの誰も与えてくれない温かさに躯の芯から喜びが突き上げてきた。
「クマ、クマぁ」
自分の声が甘くかすれて男を呼ぶのを、輝良は羞恥で顔から火を吹く思いで聞いた。こんな甘ったるく無防備な声を自分が出せるとは思っていなかった。二葉に甘えかかった時にもこんな声を出したことはない。媚ではない、素直さがにじみ出ていて、かえって恥ずかしい。
「輝良、輝良、好きだ」
熊沢の声も息の乱れを映して震えていた。再会してからもずっと、大人で落ち着いた物腰だった熊沢からは想像できない感情的な声だった。
こんなふうになるのは相手がおまえだからだと、言わなかったし聞かなかったが、想いはキスの前に、後に、見交わす瞳で分かち合えた。
硬く引き締まった男の背を輝良は何度も撫でた。同じように、男に脇腹を、胸を、撫でさすられた。弾力のある耳朶を甘噛みすれば、乳首を指先でこすられた。
煽る。煽られる。
なにをしてもされても、鋭く甘い快感がそのたびに電流のように肌を走った。
「あ……」
輝良の膝のあいだに己の脚を割り込ませた熊沢が股間のものへと手を伸ばしてくる。硬さと大きさを確かめるようにやわやわと握られた。
「女の移り香つけてるわりには元気じゃないか」
「うる、せ……」
「結婚を考えているといった女か」
そういえばそんな嘘をついたと思い出す。能天気に「つきあいたい」と言い出した男に愛想を尽かさせたくてついた嘘だ。
「嘘に、決まってんじゃん……」
性器を愛撫する手に喘ぎそうになりながら、告白する。
「……本気に、なった相手なんか……いねーよ……ずっと……」
「そうか」
上から見下ろす男の双眸がうれしげに細められた。
「俺と同じだな。俺もおまえ以外に誰にも本気になれなかった」
俺はおまえ以外とは言ってない――そう憎まれ口を叩いてやりたい気もしたが、圧力とスピードを増して、猛ったペニスをこすりたてる手になにも言えなくなった。
「ふ、あ、アッ……んんっ……んあ…ッ……」
腰を揺らめかせて耐えたが、すぐに限界が来た。熊沢がソコを弄るだけではなく、耳たぶを吸ったり、唇を舐めてきたり、あいた手で胸の尖りをつまんできたりするからなおさらだ。
「も……ダメだ、やめろ……出る、ぅ……」
熊沢が含み笑いを漏らした。
「やめていいのか。いきたいならいけ」
そうだ。いきたいならいけばいい。二葉にも何百回となくいかされたし、そのあと遊んだ幾多の相手に口や手で射精まで導かれたことも数え切れないほどある。女を抱けば女性の内部に精を放つ。なのに今、熊沢の手に高められて、輝良は身も世もなく身をよじり、「やめろ」と喘がずにいられなかった。
余裕がない。性器を大きな温かい手で包まれて、それだけで躯が芯から熱くなる。熱はじくじくしたもどかしさをともなって、輝良の内部を焼いていく。手を動かされるたび、痛烈で大きな快感が熱で炙られた体内を駆け、輝良は身をよじらずにはいられなかった。快感は潮のように輝良の体内で高まり、今までのセックスでは経験していない高みまで輝良を引き上げる。ここで弾けたらどうなるのか。どこまで落ちるのか。
「やめ…ッ、やめろ……!」
容赦なく追い上げにかかってくる男の腕をつかんで繰り返す。これでは初めての感覚に怯える処女と変わりない――頭の隅で自嘲する声があった、その瞬間、熊沢は激しく輝良の興奮を愛撫する手は止めぬまま、上体をわずかに下にずらすと、さっきまでの愛撫に充血して硬くしこっていた輝良の乳首を舌で丸くくるむように舐めてきた。
「アッ――!」
胸への刺激が腰の奥まで響く。――限界だった。勝手に背が反り、射精の快感に頭が真っ白になる。
「……ッ……ッ」
どくどくと、白濁が長く放射される。全身の細胞が性の絶頂に声のない叫びを上げて震えるようだった。
「……あ……」
――気持ち、いい……。
心地よさと満足感が全身をひたす。ただ手で吐精まで導かれただけなのに、躯の芯から解放されたかのようなこころよさに、輝良は口で息をついた。
長く深い余韻からようやくうっすらと目を開く。視界が潤んでいた。その潤んだ世界いっぱいに熊沢の顔がある……と思ったら、唇に熊沢の唇が触れた。長く吸われ、優しく口の中を舌でまさぐられた。
「輝良。好きだ」
ささやきも優しい。
だが、それはほんの一時の小休止だった。熊沢の手に脚を持ち上げられて、輝良はそれを悟る。
さっき放ったものを双丘の奥に塗られる。もういまさらなにをされても拒否するつもりはなかったが、いいかなと、ふと不安が兆した。
「どうした?」
微妙な気配を感じ取った熊沢に尋ねられる。
「……いや……」
不安をそのまま口にするのはためらいがあった。熊沢は二葉にさんざん遊ばれた記録を見ている。いまさら、と輝良自身も思う。
ぬめりを秘孔に与えていた熊沢の指がすぼみを押し広げるように動く。その指が何かに気づいたように止まった。
「輝良……?」
「あ、うん、大丈夫……」
「でも……」
「大丈夫だって。ほら」
自分から脚をさらに開いて、輝良は熊沢をいざなった。ここまできたら熊沢とひとつになりたい。
「…………」
いくぶんまだ気掛かりがあるような表情で、熊沢は輝良の脚のあいだに腰を進めてくる。広く逞しい男の肩に輝良は手を掛けた。深く息を吐いて、すぼまりに押し付けられる雄の圧力を受け入れようとする。
「輝良」
咎めるような響きがあった。
「大丈夫、大丈夫だって。一気に来いよ」
そう言って自ら腰を持ち上げ、さらに奥へと男を誘う。
不安を目に浮かべながら、熊沢が慎重にそこに体重をかけた。
「……っ」
瞬間、息が詰まった。男の先端を肉の洞にわずかばかり迎え入れただけで裂けるような痛みが走ったのだ。
「――ダメだ、輝良」
熊沢はすぐに腰を引いた。
「このままではおまえを傷つける」
「き、傷つくわけねーじゃん!」
痛みに顔も歪めなかったし、呻きも漏らさなかった。輝良は言い募った。
「なに言ってんだよ。おまえが遠慮してるから入りにくいんじゃん! ガッとやっちゃえば……」
「輝良」
溜息交じりに名を呼ばれる。
「こんな固さときつさでは無理だ」
「んなわけない! あんなズコバコやられてて……」
「いつの話だ」
「え」
「ここを使ったのはいつの話だ」
改めて考える。二葉にお役御免となってからいろんな男とも女とも寝たが、そういえば後ろを使わせたことは一度もなかった。なかには使いたがる男もいたが、たいていはちょっと凄んで見せれば引っ込んだし、強引な男には容赦なく拳を見舞った。
「……六……年、前?」
長々とした溜息をつかれた。
「それで大丈夫なわけがないだろう」
「なに言ってんだ」
引いていきそうな男の気配に、輝良は上体を起こすと男の肩を押した。体勢を入れ替えて熊沢に伸し掛かる。
「大丈夫だって言ってるだろう」
「輝良、無理は……」
「俺は無理してなんぼの極道なんだよ」
薄く笑って、寝転んでいても厚い熊沢の胸に手をつき、輝良は腰の位置を熊沢の局所の上へと調整した。手で、もう十分な硬さで反り返っている剛直を己の秘部へと押し当てる。
「輝良! 無理だ! もう少し慣らさないと……」
「ぬるいこと言ってんじゃねーよ」
九年前のあの夜も、熊沢は輝良の躯を思いやって最後の一線は守ってくれた。そのことを後悔しなかった日はない。
「九年、いや、十二年待ったんだろ」
「輝良……」
ここまできて、自分の躯の事情でつながれないのは嫌だった。熊沢はひとつになろうとしてくれた。自分は受け入れようとした。熊沢が輝良の躯を心配して引くなら、今度は自分が押すだけだ。
きつく締まった肉の環に男のものを押し当て、腰を落としていく。秘孔に恐ろしいほどの圧迫感があった。それをこらえてさらに上体を落とせば、躯を裂かれるような鋭い痛みと灼熱の楔に貫かれる重く熱い痛みが弾けた。
「……っ……」
熊沢のかっきりした眉の男らしい顔が歪む。熊沢もまた、狭すぎる秘肉の環に食いつかれて、圧迫と痛みを覚えているのかもしれなかった。
「輝良、輝良、無理、無理する、な……!」
「……もう、おそ、い……グ…ッ」
体重をかけて腰を落とせば落とすだけ、痛みが激しくなる。焼けるような痛みと、大きく硬い異物で躯の中央を貫かれる苦しさ。内臓が押し上げられ、胃のほうにまで圧力がかかるような気がする。息を吐けば楽になるとかつての経験からわかっているが、躯の内部を押し広げられる痛みに息が詰まってしまう。
苦しげな表情は見せたくなかったが、眉を寄せ、痛みを耐えるために歯を食い縛るのをやめることはできなかった。
「んッ……ぐ……ッ!」
それでも輝良は腰を落とし続けた。――受け入れたい、全部。今度こそ。
無理矢理に奪われた十五の時とはちがう。自分から望んで受け入れる。二葉の形しか知らなかった肉の隘路を愛しい男の形に拓かせていく――。
「ふ、あ、あッ――!」
ついに男のものを根元まで飲み、その衝撃に輝良は声を上げて喉をそらした。
「輝良」
下から見上げてくる男の瞳がどうしようもなく熱く、そして優しい。そっと頬を撫でられた。
「はいっ、た……」
「ああ」
「クマ……」
「輝良……好きだ。おまえが可愛くて……どうにかなりそうだ」
どうにかなりそうなのはこっちだと思う。数年ぶりに男を咥えたソコには疼痛に似た痛みがあったが、痛みの奥から、かつて知っていた穿たれる快感の記憶がじわじわと立ち昇ってきてもいる。これがもっともっと大きくなったら、それこそどうなってしまうのか。
「クマ、クマ……」
「…………」
熊沢が限られた可動範囲の中でわずかに腰を引き、引いた分だけ突き上げてきた。
「あ!」
新たな痛みと衝撃と、そして確かに快感があった。官能の蠱惑的な痺れ。
二度、三度とその動きを繰り返されるうちに、苦痛より快感がまさってくる兆しが生まれる。
起き上がった熊沢に抱き締められる。広く温かな胸に抱き締められる心地よさにうっとりしそうになったところで、くるりと体位を返された。
自在に腰を使える体勢に持ち込んだ熊沢がゆっくりと雄根を引き抜き、またゆっくりと輝良の体内を穿ってくる。
「ふはぁッ! あッ、あんっ……ん、くッ……!」
苦痛と快感が練り合わせた二色の飴のように絡み合い、一部は混ざり合って躯を痺れさせる。――痛い。痛い。……でも、いい……。
「く、ま、クマ…あ……!」
すがるものを求めて手を伸ばす。そこに男のがっしりした肩と首があったから、輝良はそれにすがりついた。だんだんと速くなる男の責めに耐えるために、無意識に爪を立ててしがみつく。
「輝良、あきら……ッ」
乱れて荒ぐ息が混ざり合う。腰で繋がったまま、口づけを交わした。甘くて、濃くて、気持ちがよくて、それだけで泣きそうになる。
「輝良、好きだ、好きだ……!」
「クマ、俺も、俺も好き! め、めちゃくちゃにして、いい、いいから……ッ」
もう二度と離れないでほしい。
「ずっと……」
一緒がいい。
男に貫かれ、躯いっぱいでその責めを受け止めていなければ口にできない言葉をうわ言のように紡ぐ。
「輝良! 離さない、もう絶対に……!」
深く深く、己自身を輝良の中へ埋め込むようにしながら、熊沢も誓いの言葉を口にする。
瞬間、苦痛をはるかに凌駕する快感が生まれ、輝良は熊沢にしがみついたまま、小刻みに躯を震わせた。
「あ、あ、ア――ッ!」
「……く」
熊沢がかすかに眉を寄せたが、もうそれも輝良には見えていなかった。
「あきら、そんなに、締め付け、るな……」
「ア、やっ……ああ!」
快感の熱い粒子に全身を犯される。震える輝良の肩を押さえ、男が深い位置からさらに奥を抉る動きで腰を使う。
「アッ! アッ! ん、あ、いい…ッ、や、やめ……ん、ああ……ッ」
やめてほしいのか、もっと抉ってほしいのか。わからない。
熊沢のたくましい肩に爪を立ててすがりながら、輝良は首をいやいやをするように打ち振る。
――こんな快感は知らない。
どこまでも崩されていくような、自分という核さえも甘く蕩けていくような。
繋がれているのがうれしい、自分を貫くのが熊沢であることが、うれしい――。
「く、ま…ぁ」
「輝良…っ」
抜いて、また、最奥へ。大きく速い動きに変わった男の責めに、火のついた官能は煽られるばかりだ。躯のなかで赤い炎がうねる。もう無理だと思う、さらにその先へと追い詰められ、輝良は喉をそらせて声を上げた。
それでもまだ男の勢いは続いていて……すがるもののほかにない輝良は男の肩をつかむ指先に力を込め、己の中がきつすぎる快感に真っ白に焼き尽くされていくのを、ただ、感じていた。
「……悪かった」
「いや、俺も……」
何度求め合ったか、何度睦みあったか。
終わりは覚えていない。いつの間にか、互いに手足を絡めあうようにして眠りに落ちたらしい。気づけば明るかった部屋はもうすっかり暗くなっていて、ベッドサイドにあるライトを点けなければ脱いだ服さえ見えなくなっていた。
光のなかで無言でキスを交わしたまではよかったが、ふと周囲を見渡してふたりは揃って眉をひそめることになった。シーツにはあちこち血が飛び散り、熊沢の背には幾筋も引っ掻き傷や爪の深い痕があったからだ。
出血は輝良からだったが、熊沢に傷をつけたのも輝良だった。
「痛むか?」
「いや、おまえこそ」
そんな会話を何度か交わして、そのおかしさに小さく笑い合った。
まだ互いに躯はドロドロだったし、真っ裸のままだったが、ふたりともシャワーを浴びたり服を着る気にはなれなかった。そのまま枕に頭を乗せて向かい合う。
「……輝良」
「……なんだよ」
「おまえとこうなれて……とてもうれしい」
そっと頬を撫でられる。赤面しそうになるのを輝良はこらえた。
「……そういう恥ずかしいこと、よく平気で言えるよな」
「俺も、とは言ってくれないのか」
今度こそ頬が火照るのを覚える。それでも素直にその言葉を繰り返すのは嫌で黙っていると、熊沢の瞳がさらに優しくなった。
「……言いたくないなら、いい。言わなくても、わかる」
少しだけカチンと来た。
「はあ? おまえ、なにがわかるって……」
「たとえば、再会した時だ。葬儀会館で」
なにを言い出す。思わず目を見開くと、おだやかに、とんでもないことを次々と告げられた。
いわく――本当に熊沢のことが過去のことになっていれば、忘れたフリなどする必要がない。忘れたフリをされたことで、まだ脈があると確信した。さらにすぐに連絡がないことで、輝良の過去へのこだわりが相当なものだとわかった。ホテルで会った時には、金をせびることで愛想を尽かさせようとしているのはすぐにわかったが、こんなことぐらいで縁を切れるのだと思われたくなかったからあえて応じた。さらなる増額を言い出しながらも持って行った金は受け取ろうとしない姿に、周囲に人がいなければ抱き締めたいほど愛しさが募った――。
はあ、なに言ってんだ。ちがうし、そんなの……。ちょお待て……。
なんとか熊沢の言葉を否定しようとしながらも、熊沢の言うのが真実だったから反論しきれない。
最後に、「本当だ。抱き締めたいほど可愛かった」と告げられたところで、輝良は真っ赤になった顔を隠すために枕にうつぶせた。
ゆっくりと背中に乗られる。
「輝良、輝良。顔を見せてくれ」
「うるせえ」
頑固にうつぶせていると、うなじにキスを落とされた。続いて、ふ、と小さな溜息が肌をくすぐる。
「――でも、わかっていても……あのビデオはきつかった」
暗くなった声が呟く。
「おまえは……俺がなにも考えず、なにも思わず、能天気に九年間、ただおまえのことが好きだ好きだとだけ、過ごしていたのだと思っているのかと……」
「……悪かったよ、それは、ホントに」
少しだけ枕から顔を浮かせて謝る。
「輝良。覚えていてくれ」
指を絡められ、ぎゅっと握られた。
「おまえの過去になにがあろうと、俺はおまえを愛している。これからおまえがどの道を選んでも」
「熊沢……」
「だから、おまえももう逃げるな。俺から、逃げるな」
背に伏せられた男の顔が熱い。さらに熱い雫が背を伝う感覚に、輝良は熊沢の手を強く握り返した。
「うん。……逃げない」
思いのすべてを込めて、輝良はささやいて返したのだった。
もう二十四才だ。だいたい門限など今まで聞いたこともない。
それでも、帰宅した輝良は音を立てないようにしかドアを開くことができなかったし、中の様子をうかがうように首を突き出さずにはいられなかった。
広く立派な玄関に人影がないのにほっとして、足音を忍ばせて中に入る。しかし自室のドアに手を掛けたところで、
「何時や思てんねん」
尖った声を掛けられた。後ろを振り向けば、苦虫を噛み潰したような顔の沢が立っていた。
「えっと……十時?」
「もう十一時や。七時には帰れゆうたやろ」
「そんなさあ、中学生じゃあるまいし……」
「今まであの男と一緒か」
「…………」
チッと沢は音高く舌打ちした。
「おまえ、なに考えとんねん。あーもう、そないな顔して帰りやがって」
「顔?」
本気でわからなくて聞き返すと、沢は手を伸ばして輝良の背後のドアを開いた。部屋の中へと肩を押される。
「な、に。なんだよ」
勝手知ったるなんとやらで、部屋の壁にあるスイッチで明かりを点け、しげしげと輝良の顔を見ては溜息をつく沢に輝良は尋ねた。
「あかん。おまえ、それはあかんわ」
「だからなにが……」
「やったやろ、あの男と」
単刀直入に聞かれる。「うるさい」と答えても「あんたには関係ない」と答えても、意味はイエスだ。ならばノーと答えるか。迷った輝良が口を開く前に、沢はまた深い溜息をついた。
「あかんわあ。あかん」
「だからなにが『あかん』わけ?」
少しイラついて声を尖らすと、非難がましい視線が飛んできた。
「サツの人間としっぽりずっぽりやった揚げ句に、なにがあかんもないやろ」
確かにそれを言われれば返す言葉はない。
「おまけにおまえ……なんや、その一皮むけましたーみたいなさっぱりした顔は。好いた相手と存分に乳くりおうてきましたゆう顔やで。あーあかん。いっぺんに色気出しやって。そんなんおまえ、おまえが口でどう言おうと、好きな男とずぶずぶな間柄やて言い振らしとるようなもんや」
「……そ、それは沢さんがそういう目で見るから、そう見えるだけで……」
「あほぉッ!」
頭を叩かれた。さらに胸倉まで掴まれる。
「そんなつまらん言い草が通じる思とんか。てめえの顔、いっぺん鏡でよう見てみぃ! ええ顔になりすぎや、アホンダラ」
「…………」
突き放すように押しやられた。
「どないすんねん、ホンマ……」
「組のことはなにも話さないし、金作りは今まで通り……」
「そんなことやない。……ああ、それも大事や。せやけど……」
苦りきった顔で、沢は自分の頭をがしがしと掻いた。
「オヤジになんちゅうか……。サツの人間が今日、組まで押し掛けて来たちゅうのも、それがおまえの中学時代の同級生やゆうのも、もうオヤジの耳に入っとる。……どうすんねん」
「……組の不利益になるようなことは絶対にしない。俺が熊沢とどうこうって沢さんが黙っててくれれば……」
沢が黙っていてくれれば済む、輝良は単純にそう考えたのだったが。
己の甘さを、輝良はすぐに思い知らされることになったのだった――。
つづく
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