流花無残 二十六話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>








 次の日、輝良は組の事務所に呼び出された。最上階にある組長室の重い扉を開くと、防弾になっている分厚いガラスの前に二葉武則が立っていた。逆光になっていても、二葉の表情が硬いのは見てとれる。
 生え際に白いものがチラチラするようにはなったが、相変わらず血色もよく、躯つきもしっかりしている。男盛りといっていい二葉の前で、輝良は軽い緊張を覚えた。ふだん、私宅で過ごす時のリラックスした様子とはちがい、スーツ姿の二葉にはやはり極道の組をしょって立つ重さがあった。
「どや、最近。調子は」
 同じ家に住んでいる。それぞれに仕事があるからすれちがうことも多いが、それでも何日かに一回は必ず朝食か夕食を一緒にとっている。それなのに改めて「調子は」と聞かれて、輝良は身構えた。
「おかげさまで」
 慎重に答える。すぐに、
「収益が落ちてきとるそやないか」
 厳しい口調で問われた。
「……為替も株も今は動き自体が低調なので、利が上がりにくようには見えますが、細かいところできちんと利益は取れていますから……」
 二葉に金の動向を聞かれたことは今までにもあったが、咎めるような口調でチェックされたことはなかった。損が出ていないのは事実だったから、輝良は冷静に答えた。
「ふん……」
 二葉は不満そうだ。
「全体に低調やったら、半日も仕事ほっぽって遊んどってもええんか」
「…………」
 昨日のことを言われている。輝良は後ろで手を組み、背を反らした。様子を見ながら、しかし腹をくくるしかない。
「なんやきのう、おまえの中学時代のお友達がここまで来たそやないか。おまえに話があるゆうて。サツの人間にそない親しい相手がおったんか」
「……大阪に来てから、先日再会するまで、一度も会っていませんでした。彼が警察に入ったとは知ったのは再会後です」
「なんで会うたんや。おまえ、自分の居所を知らせとったんか」
 嫌な流れだと思った。これではまるで……まるで、浮気を咎められているようだ。
「……知らせてません。……先日の清竜会組長愛人の葬儀で、会って……」
「ほう。偶然か。偶然会うたんか」
 偶然だと言い張りたいところだったが、沢は熊沢が大江にまで迫って輝良の行方を追っていたのを知っている。どこまで沢が二葉に報告しているのか……。
「……いえ……彼は、俺の行方をずっと探していたと言っていました」
「おまえが大阪に来てから九年や。たかが中学ん時の同級生ゆうだけで、九年も探し続けるておかしいやないか。え」
「…………」
 二葉が大きな机を回って近づいてくる。
「九年も探して、組の事務所まで押しかけて……えらいお熱の上げようやなあ」
 かつて見上げていた男に見上げられる。今ではもう輝良のほうが五センチばかり背が高いが、それでも向かい合って対峙すると、二葉にはいいようのない圧力があった。
「ああじゃこうじゃうっとうしいのはいらん。正直に言え。……おまえが、ここに来てしばらく、俺に抱かれとっても心開かんかったんは、熊沢寛之ゆうおまえの同級生のせいちゃうんか」
 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。二葉が九年も前の、輝良が大阪に来た当時のことを言い出すとは予想外だった。それも、二葉に生活の保証と引き換えに愛人になることを強要されてからしばらくの、ただ躯だけ好きにさせ、決して心は許さなかった当時の態度を非難がましく口にされるとは……。
 ポーカーフェイスのまま、輝良は風向きが怪しいのをようやく実感した。昨夜、沢がしきりに『あかん』と繰り返していたのが腑に落ちる。
「派手に血ぃ出て、えらい痛がりようやったさかい、だまされたわ。おまえら、ええ仲やったんやろ。せやろ」
 嫌な光が目に宿っている。では、これは嫉妬か。
「処女か思とったら、とんだ『オマセ』やないかい」
 畳み掛けられて、
「肉体関係はありませんでした」
 つい答えてしまう。輝良は自分の迂闊さに臍を噛んだ。これでは「好き同士だった」と認めたと同じだ。
 二葉の目が剣呑に光った――と思った瞬間、大きな手で後頭部を掴まれていた。ぐっと引き寄せられる。
 口づけられていた。




 もう閨の相手はしなくていいと告げられてから六年。以来一度も二葉から肌の接触を求められたことはない。もちろんキスなど。
 六年ぶりの男のキスは乱暴で、濃かった。舌をねじ込まれ、口腔を舐め回される。
「……っ……ちょ、ン……」
 初めて二葉にキスをされた時のように挿し入れられた舌を噛んでやろうかとチラと思ったが、ここで歯向かえば確実に二葉を怒らせ、それこそ熊沢になにをされるかわからない。
 輝良は眉を寄せて耐えた。
――そうだ……九年前も、前夜熊沢とディープなキスをしたばかりの唇を二葉に吸われたのだった。よみがえる悪夢。だが、あの時とは自分はもう、ちがう。奪われるだけの弱い存在ではない。……ないはずだ。
 キスは唐突に終わった。
 二葉は輝良のシャツの胸元を掴むと、強い力で両側に引っ張ってきた。ボタンがいくつか弾け飛び、胸がはだけた。
「俺のもんや」
 左胸の、二葉の紋を彫った墨を二葉に指差される。
「おまえは俺のもんや。おまえが自分でその墨、入れたんやろ。いまさら、どのツラ下げてほかの男に走れんねや」
「…………」
「おまえは二葉輝良や。ええか。俺はおまえを誰にも渡さん」
 なら俺を抱けますか。
 すんでのところでそう言い返しそうになって、輝良は唇を噛んだ。二葉の好みはまだあどけなさを残した少年だ。その好みから大きく外れて成長した輝良を抱くことができるのか。
 聞かなかったのは、やぶ蛇になるのが怖かったからだった。二葉がまだここまで自分に執着しているとは知らなかった。今まで誰とどんなふうに遊んでもスルーされていたのは、それが遊びの相手だったからか。本気の相手は許さない、そういうことか。
「……確かに」
 シャツを合わせて残ったボタンを掛けながら、輝良は二葉を見た。
「俺は二葉輝良だ。あなたと養子縁組している。あなたと組への忠誠の証として、紋も彫った。でも……」
「もうええ」
 言いかけた言葉は二葉の苛立ったような声にさえぎられた。
「もうええわ。おまえは俺のもんや。その証拠もおまえはしょっとんねん。そんだけ、おまえはわかっとったらええねん」
「おとうさん、でも俺は……」
「ええっちゅうとるやろ!」
 怒鳴られる。
 にらみ合いになった。
 ここで熊沢への想いを吐露し、これからもつきあうと宣言したら、どうなるのか。二葉が熊沢との交際は認めない、すぐに別れろと言ってきたら、どうなるのか。
 二葉は熊沢を消そうとするのか。自分は足を洗って組を抜けるのか。
 一般人ではない、警官に手を出せば、最悪、二葉組も解体するまで警察に痛めつけられる。輝良のほうも。これだけ二葉組の資金作りに関わってきてハイさようならといくわけがない。やはり最悪、口封じも兼ねて消されることになりかねない。
 肉を切らせて骨を断つというが、相打ちになって双方が取り返しのつかない痛手を負うという事態が容易に想像できる。
「……もう、下がっても、いいですか」
 二葉も熊沢と別れろ、二度と会うなとまでは言えない。自分も。熊沢を愛しているとここで告げることはできない。
 追い詰めない、追い詰められない。
 大噴火につながるマグマ溜まりがそこにあるのを痛烈に感じながら、輝良は頭を下げて二葉の前を辞した。




 その足でビル地下の駐車場に戻ると、輝良の車の横に二葉組の組員が立っていた。顔は見知っている相手だ。
「どうも。自分、村田言います。今日から輝良さんの運転手せえって組長から言われました。よろしゅうお願いします」
 三十をいくつか超えているだろうか。トカゲのような目をした細身の村田の表情は決して友好的なものではなかった。運転手などというが、実態は監視役だろう。手回しのいい二葉のやりように苦々しいものが込み上げてくる。
「いらない。運転ぐらい自分でできる」
「そないなわけにはいきません。輝良さんほどのお人が……」
 言いかけて村田は言葉を切った。右手をかざして見せてくる。その右手の小指は第一関節から上がない。
「車のカギを預けてください。せやないと、私はこの指、根元から落とさななりません」
 白々しさをかなぐり捨てた相手に顔が歪む。
「……車の運転ぐらいで大袈裟じゃないか」
「大袈裟やありません。少なくとも、オヤジさんは大袈裟やとは思てはりません」
「…………」
 輝良は無言でスーツのポケットから車のキィを取り出すと村田が広げる手の中に落とした。村田はにこりともせず、後部座席のドアを輝良に向かって開いた。
 聞かなくてもわかる。村田は監視役だ。車の運転を言い訳に輝良に付いてまわり、その動向を見張るように二葉に命じられているにちがいなかった。
 村田の運転でマンションに戻る途中、輝良の胸ポケットに入れていた携帯電話が震えて鳴った。小さなウィンドウには「熊沢」の文字が光る。
「…………」
 バックミラー越しに村田の目が光っているのに、電話に出たくはなかった。無視していると、
「……どうぞ。お電話出てください」
 平板な声で村田が言ってくる。
 輝良は後ろから思い切り運転席の座席を蹴った。
「うるせえっ! てめぇいつから俺に指図できるほどえらくなった!」
 どやしつける。
「……すんません」
 自分が育てた部下には輝良は基本、横柄な口のきき方はしない。上下の別をしっかりわきまえていてさえくれれば、それほど腹の立つこともない。気分で子分や弟分を半死半生の目に合わせる極道とは輝良はちがった。が、十五の年から身近で極道の流儀というものを見てきている。村田相手に甘い顔をしてやるつもりは一切なかった。
 マンションに着くと当然のように村田も降りてきた。うっとうしさを覚えながら、二葉と同居している家のほうには戻らず、まっすぐ仕事部屋に向かい、村田の鼻先でドアを閉めた。
 村田は部屋の中にまでは付いてくるつもりはないらしい、騒ぐこともなかった。
 輝良が金作りの拠点にしているその部屋は、輝良が立ち上げた投資会社のメインオフィスでもある。広いリビングには机とプリンターを並べてPCルームとし、ほかに輝良専用のオフィスである社長室、社員たちが仮眠できる仮眠室を設けてある。輝良は、常時数人の男たちがモニターを見つめているリビングをまずのぞき、金融市場に変わった動きはないか、指示通りに取引が進んでいるかどうかをチェックした。
「じゃあ俺、社長室にいるから」
 言い置いて、リビング横の部屋に入る。そこは輝良専用のパソコンとデスク、本棚があり、壁際には仮眠用のベッドもある。
「当分、この部屋だな……」
 つぶやいて、ようやく胸ポケットから携帯を取り出した。着信履歴から熊沢に掛ける。
「輝良か」
 電話口の声は少し急いでいるようにも聞こえた。
「悪い。さっきはちょっと出られなくて」
「いや、いい。……いや、またおまえと連絡が取れなくなったらどうしようと思っていた」
 輝良は小さく笑った。
「今の俺をかんたんに誘拐できるヤツはいねーよ。今の俺には金もある、組織の力もある。今度はおまえの前から突然消えたりしねーから」
 電話口の向こうでほっと息をつく気配。
「俺もだ。おまえに何かあれば、今の俺にはおまえを探し出す手段がある」
 なんの力も知識もない中学生だった。あれから九年。それぞれの軌跡を描いて、互いの手を取れるようになった。……はずだったが。
「あー……なんだけどさ」
 口ごもってから輝良は切り出した。
「ちょっと、またしばらく、会えないかも、かなっと」
 短い沈黙のあと、
「武則か」
 熊沢は図星を突いてきた。
「やっぱほら、警察の人間とどうこうってさ、なにかと問題があるっていうか……」
「ちがうだろう。俺の職業なんか関係ない。いや、多少は関係しているだろうが……武則はおまえに本気の相手ができるのが嫌なんだろう」
 さらに核心を突いてくる熊沢に驚きながら、輝良はあせる。
「いや、ホントに……まさかそんな……マジ、高校卒業してから一度もそういう……相手をさせられたこともないし」
「抱かないからといって執着が消えたことにはならない。逆に……おまえを男として尊重することで、武則はおまえと深い絆を結ぼうとしたんじゃないのか」
「…………」
「いまいましい」
 吐き捨てるような声だった。荒く低い声は熊沢が暴れまわったあとの部屋を輝良に思い出させる。温厚で物静かな男の内に、あれほど暴力的な怒りが潜んでいるとは思いもしなかった。その怒りが二葉武則に向けられたらどうなるのか。そして二葉が輝良への独占欲と執着を剥き出しにしたら、どうなるのか。
「武則が怒るから会えない。おまえはそれでいいのか」
 咎めるような口調だった。熊沢にすればもっともな理屈だ。俺よりも昔の男を取るのかと詰め寄られても仕方のない状況なのは、輝良にもよくわかっている。わかっていても、ここで迂闊に動くことはできない。
「――熊沢」
 静かに名を呼んだ。
「俺は警察を信じていない。警察の力を信じていない」
「……俺は今すぐにでも武則でも沢でも塀の中に放り込めるぞ」
「一時的にはな」
 むごい言葉と知っていて輝良は続ける。
「なあ、クマ。じゃあ、九年前におまえが警察にいて……ヤクザの元にいる俺をどうやって助け出せた? 監禁や性的虐待の証拠もないのに、家に踏み込めたか? 踏み込んだとして、保護した俺をどうした? 借金まみれの親の元に返していたか?」
「…………」
「あの時『保護』されていたら、両親の元へ返されていても、施設に送られていても、今の俺はない。アメリカに留学もできなければ、自分で自分を守る力も金もないままだ」
「…………」
「俺はさ、大江を殺してやりたかったんだよ。復讐してやりたかった。あと一歩のところで、奴には自殺されちまったけど」
「……大江さんの自殺にはなにも怪しいところはなかった。前日、ヤクザらしい風体の男が数人、大江さんの家を訪ねたのは目撃されている。そこでなにか揉めているらしい物音や声があったのも近所の人が聞いている。だが、大江さんは自分で線路沿いの柵をよじ登って電車に飛び込んだんだ。その時、周囲に不審な人影はなかったという証言もある。自殺する直前、大江さんは俺におまえが二葉組にいると電話をくれたが、その電話でも、大江さんは誰かに追われているとも脅されているとも言ってはいなかった。警察ではそこになんの事件性もないと判断した」
 輝良は声もなく笑った。
「そこが警察の限界だろ」
 これを口にしたら、熊沢に呆れられるかもしれない、九年も想い続けてくれた男にさえ、愛想を尽かさせるかもしれない。だが、輝良は隠しておくつもりはなかった。
「奴を自殺まで追い詰めたのは俺だよ。あいつが欲をかいてヤクザを引き込んで、俺んちからなにもかも盗ってったんだ。あいつさえいなきゃ、俺はヤクザの愛人になんかさせられずにすんだんだ。なのにあいつ、俺の家から仕事も財産も全部奪ったくせに、たった数年で落ちぶれてボロアパートに住んでやがった。それで言うことがいい、俺が父親の跡を継いでたらどのみち会社は潰れてただろうだとさ。……本当はさ、俺はあの日、大江を連れ出してそのまま大江を殺してやるつもりだったんだ。だけど、あんまり腹が立ったから、ただ殺したんじゃ腹の虫がおさまらねーと思ったから、大江の娘を俺と同じ目に遭わせてやるってあいつに言ったんだ」
「…………」
「そしたら次の日の朝、あいつは電車に飛び込みやがった」
 重い溜息が薄い機械から伝わってくる。
「……ヤクザらしい風体の男たちの中に、やたらといい顔の若い男がいたと聞いた。長身でモデルかホストかと思ったそうだ。もしかしたら、おまえかもしれないと思っていたが……」
「警察はそこまで掴んでいても、なにもできなかっただろう。大江は素人だった。だから大江の自殺は警察にしか捜査されなかった。もしも大江がどこかの組の組員だったら、あんな訳のわからない自殺、組がそのままにはしておかない。俺のところにまで絶対に探りがきた。もし大江が組にとって大切な人間だったら、俺は大江を追い詰めた張本人として落とし前をつけさせられていただろう。最悪、消されていたか……」
「……警察は法にのっとって動いている」
 苦しそうな声だった。
「知っている。それが警察の強みだし、限界だ」
 熊沢が黙り込む。輝良もしばし、口をつぐんだ。
「――熊沢。俺は足を洗う気はない。警察に守ってもらえるとも思えないのに、警察の力を当てにするしかない一般市民には、戻りたくない」
 再び重い溜息が聞こえた。
「おまえ、よく警察の人間に……」
「それが許せないなら別れてくれていい」
 今度は溜息は聞こえてこなかったが、がしがしと頭を掻いているような気配が伝わってきた。
「……言っただろう。おまえがどの道を選ぼうと愛していると」
 眉間に皺を寄せ、苦りきった顔をしている熊沢が見えるようだった。
「――つまりおまえは、足を洗う気はない、だからコトを荒立てるわけにはいかない、武則がヤキモチを焼いているなら、しばらくはおとなしくしていよう、そういうことか」
「理解が早くてありがたい」
「もしまた武則が愛人関係を望んできたらどうする」
 二葉にキスされた一場面が頭をよぎった。だが、ここで言い淀むわけにはいかない。輝良は頭の中に浮かんだ映像をすぐに打ち消し、「応じない」とすぐに返した。
「オヤジもバカじゃない。俺にその気がないのはわかってる。それでも無理強いしてくれば、二葉組をふたつに分けても俺は抵抗する」
 今では輝良の金がなければ二葉組は回らなくなっている。輝良自身に忠実な部下も数十人単位で育ってきている。二葉にこの状況が見えていないはずがなかった。自身の痴情のもつれで、せっかくいい具合にまとまっている組の中を荒れさせたいわけはないだろう。
 沈黙があった。輝良の言葉すべてを納得はしないまでも、なんとか受け入れようとしてくれているのが伝わってくる。
「……おまえに、会いたい」
 しばらくしてから聞こえてきた声はささやきだった。
「やっと、会えた。やっと……。俺はあとどれだけ我慢すればいいんだ」
 嘆くような男の声に、きのう重ねたばかりの肌がざわめく。輝良はぎゅっと目を閉じた。濃く、絡みつくような熱が躯の奥に灯ってしまう。
「……俺だって、会いてーよ」
「どこにでも行く。短い時間でもかまわない」
「また、連絡するから。また」
 これ以上声を聞いていたら我慢できなくなりそうだった。
 輝良は自分から電話を切った。




 監視される日々が始まった。
 思ったとおり、村田は車の運転だけではなく、輝良が行くところどこにも付いてきた。
 輝良は輝良で二葉に呼び出された日から家に帰るのをやめてしまった。海外市場での取引に対応するためという名目で、輝良は会社の一室で寝起きした。
 二葉組に対しては今までと同じように忠誠を尽くす、しかし、自分は自分の好きにさせてもらうという意思表示のつもりだった。
 村田はいくら帰れと言っても聞かず、輝良の部下にも村田を追い出すことはできなかった。聞けば、村田は懲役をくらって刑務所で何年か過ごしたことがあるらしい。いわゆる「鉄砲玉」として二葉に飼われている村田は輝良の子飼いの組員に少々脅されても怯まなかった。夜は夜で、輝良がなにも言わなければ、マンションの外廊下でよれよれのスーツのまま丸まって過ごす。外聞が悪すぎるので、輝良は村田を会社にしている部屋の玄関と廊下に入れてやった。
 村田の存在はうっとうしかったが、黙ってそばにいさせておけばトラブルにはならない。輝良はしばらくは二葉の意向に添う形で村田を置いてやることにした。あまりに村田を避けようとすれば、二葉はいらぬ勘繰りをするばかりだとわかっていたからだ。
 熊沢とはメールや電話で連絡を取り合った。
『九年、会えなかったんだ。まだ少々待たされてもしょうがないとは思うが……』
 電話の向こうで熊沢は残念そうに吐息をついた。
『おまえの夢ばかり見るよ、輝良』
「やらしい夢じゃねーだろーな」
『やらしいに決まってるだろう』
「俺をオカズに抜きやがったらブチ殺す」
『ブチ殺されてもおまえに会えるんだったら、それもいいかな』
「バカ言ってんじゃねーよ」
 会いたい。触れたい。想いを軽口のあいだにまぎらわせる。
 だが――そんな不自然な状態が長く続くわけがなかった。
 十日もたたぬうち、二葉からは沢を通して「たまには家に帰って来い」とお呼びがかかるようになったし、熊沢は熊沢で、「おまえを任意同行という形で署に連れて来るという手もある」などと物騒なことを言い出すようになった。
「とにかく一度、夕飯にでも顔出し」
 沢は輝良のオフィスまでやって来た。応接室で向かい合う。
「やだ」
「ヤダておまえ、いくつやねん」
「行ったらレイプされるかもしれない」
 それは輝良としてはなかばは冗談、なかばは様子見のつもりのセリフだったが……。
「おまえが抵抗せんかったらレイプにはならんやろ」
 堂々と返されて、さすがに絶句した。沢は『このアホぉ』と言わんばかりの表情だ。
「……んな、いまさら……」
「なにがいまさらやねん。言うたやろ、おまえがもう床の相手はせんでええてオヤジに言われた晩。『愛すればこそやねん』て俺は言うたやろ。オヤジはおまえを大事に想えばこそ、おまえを自由にさせてくれちゃっただけやのに、おまえはまあ、同級生だった男としっぽりずっぽり……」
「そのしっぽりずっぽりってやめてくれる。下品なんだけど」
「下品上等や! 極道がなにをスカしてんねん!」
「じゃあぶっちゃけ聞くけど。オヤジが『その気』になったら、沢さん、また俺のこと押さえつけちゃったりするわけ」
 沢は長々と溜息をついた。
「……んなわけに行くかい。……おまえがな、素直にオヤジの言うこときいてくれたら、一番ええねん。おとうさんごめんなさい、熊沢のことは一時の気の迷い、いつもどおりの遊びです、ゆうてもう二度と熊沢とは会わんてゆうてくれたら、ええねん」
「…………」
 輝良は無言で沢を見返した。口には出さなかったが、「悪いけど、本気だし。いつもの遊びとは全然ちがうし。今すぐにだって熊沢には会いたいし」と腹の中でつぶやく。
 輝良の反抗的な目の色から輝良の言葉は正確に読み取ったらしい沢が、また長い溜息をつく。
「……おまえとオヤジが揉めてみぃ。組はガタガタんなる」
「それはわかってる。だから熊沢にも会ってないじゃん」
「オヤジにも会うてないやろ」
「…………」
「……あんな、輝良」
 珍しく弱気な声で輝良に呼びかけ、沢は疲れたようにテーブルに肘をついて頭を抱えた。
「おまえが思うより、マズイねん。……オヤジな、おまえの部屋、家捜しさせてん。あの例のDVDな、あれ探させてん」
「な、んで、そんな……」
「熊沢に送りつけよるつもりやったらしいな。若いのんが大探ししとる最中に俺が帰って、聞かれたんや。おまえが預かっとるんかて。……正直に言うしかないやろ。それはもう、輝良自身が熊沢に渡しましたて」
「…………」
「…………」
「……あ……いや、まあ……俺も、その、熊沢には、その、あきらめてもらおうと……」
「言うた」
 沢の表情は本気で憂鬱そうだ。
「おまえがあれを渡して、熊沢が組に乗り込んできて、ほんでおまえを連れてったんやてな。……オヤジ、大荒れやった」
 二葉が例のDVDを熊沢に見せようと考えた理由はすぐに察しがつく。輝良と同じだ。あれを見れば、熊沢の気持ちが離れるだろうと思ったのだ。ところが――。恋敵に見せ付けてやるつもりで、逆に相手の想いの深さを見せ付けられた二葉が荒れるのはもっともだろう。
「……沢さん」
 輝良は上目遣いに沢を見た。
「……これって、三角関係の修羅場ってやつ?」
「……修羅場はこれからやろ」
 沢の言葉に輝良はもう黙り込むしかなかった。





                                                  つづく






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