――アカン。
沢一(さわはじめ)にはそれ以外に言葉が浮かばない。
――アカンわあ、アカン。
それはもちろん、輝良のことである。
輝良は中学の同級生、熊沢寛之と九年ぶりの再会を果たし、どうやら初恋で相思相愛だったらしいふたりは、すったもんだの騒ぎの末に結ばれてしまった。
このふたりだけを見ていれば、それはそれは美しい純愛の成就、と言えなくもない。
だが、しかし。
それではすまない男がいる。二葉武則。沢の敬愛する、命捧げたオヤジである。
沢から見て、二葉は輝良に「本気」であった。輝良にしてみれば不快な記憶でしかないだろうが、二葉が輝良に肉体関係を強要していた二年半のあいだ、輝良が知らないだけで、いや、気づかなかっただけで、二葉はそれはそれは輝良に対して「一途」であった。いやいっそ、「けなげ」であった。
輝良にしてみれば、組員たちがいる前でのエッチやカメラでの撮影などエロおやじの悪趣味でしかなかっただろうが、実際はちがう。二葉は輝良のことを自慢したかったのだ、見せびらかしたかったのだ。輝良が二葉との養子縁組を受け入れたあとはなおさらだ。こいつは俺のもんなんやで、好き勝手できるんやで、と周りにアピールせねばいられなかったのだ。
輝良自身の容姿や性格、そして、輝良が育ってきた中で身に付けた「上流の感覚」が二葉にはまぶしいものだったなどと、輝良は知らないだろう。知らないから、二葉が喜んで買ってきたデカデカとブランドのロゴの入った服やカバンを、「ダサ」「趣味ワル」と一言で切って捨てるようなことができたのだ。
「なにがダサいんや。これは百万もすんねんぞ」
たまりかねて沢が言うと、
「百万でもダサいもんはダサい」
とにべもない。そして輝良が選ぶのは、ブランドのマークなどは小さくついているだけで色もデザインも抑え気味な、沢が見ても「シブい」ものだ。そうかと思えば、その地味なバッグに、ブランドロゴのチャームをちゃらりとあしらったりする。
「これはダサないんかい」
と聞けば、
「なんで。合うじゃん、これ」
と、やはり『なに言ってんだこいつ』という顔をする。
――そんな輝良の言動に、二葉がどれほど振り回されていたか。買ったばかりの高級ブランドのカバンや服を一度も使いもせず、組員にくれてやったのは誰の言葉のせいだと思っているのか。二葉が似合いもしないクラシックのCDを聞いていたのは誰のためだと……。
「二葉の姓になる」「極道になる」といって二葉を喜ばせ、仁和組総長に望まれた時は自らの躯に二葉の紋を彫って二葉を有頂天にさせ……そのくせ、輝良自身は二葉へ特別な情など持っていなかった。二葉の本心にも無頓着だった。輝良にとっては二葉は自分を陥れた大江に復讐するための手段に過ぎないというのは、沢にはよくわかっていた。
それでも、二葉が輝良へ「愛人関係の終了」を告げた夜、バスルームで泣いている輝良の嗚咽を聞いた時には、沢も、ああそうか、多少は輝良にも二葉への想いのようなものはあったのかとうれしくなったのだった。だから柄にもなく、「愛すればこそやねん」と二葉の想いを代弁したりもしたのだ。
だがそれも……どうやら輝良が泣いたのはまったく別の原因のせいだとすぐにわかったのだが。
輝良は二葉の心をまったく見ていない。
少しでも見る気があれば、わかるはずなのだ。見る気がないからわからない、わからないから、初恋の男としっぽりずっぽりやったあとに、一皮剥けたようなすっきり「いい顔」になって帰ってこられる。
輝良はわかっていない。二葉こそが、輝良にその顔をさせたかったのだと。
エッチの相手を喜んで務めればそれでいいと輝良は思っていたのだろうし、実際、二葉が要求できるのはそこまでだった。「抱かれろ」と命令することはできても、「好きになれ」と命ずることはできない。
二葉武則はそれこそ自分の息子ほど年の離れた輝良に本気の片想いをしていた。
輝良が二葉の養子になることを承諾した時、快感を素直に表して抱かれるようになった時、二葉は喜んだ。「こいつは俺のもんや」と心から思えたにちがいない。そして、輝良が二葉の紋の刺青をいれて二葉への忠誠を守った時に、それは確信に変わったのだろう。
だからこそ、成長した輝良の純粋な後ろ盾になってやろうと性行為を求めるのをやめたのだし、輝良がアメリカに留学するのも、喜んで見送ったのだ。輝良が自分のものだという自信があればこそ。
なのに。そこに熊沢寛之が現れた。
二葉の想いに気づかぬまま来た輝良は、その心を、そっくりそのまま熊沢に差し出した。身も心も許しきって、その上に熊沢からも同じものをもらって、輝良は帰ってきた。
――二葉が嫉妬して、すぐに輝良に監視役をつけたのは当然だと沢は思う。
けれど……それで懲りるような輝良ではないのも、沢は知っている。輝良はいまさら、「おとうさん、そんなにぼくのことを想ってくれていたんですね……」などと涙するようなタマではない。付けられた監視をうざいと思い、腹立たしく思い、どうやったら出し抜けるかだけを、輝良は考えるにちがいなかった。
『アカンわあ……』
沢に浮かぶのはその言葉だけだった。
三ヶ月は、それでも輝良はおとなしくしていてくれた。二葉は輝良の身の回りに盗聴器を仕掛けさせるほどだったが、特に怪しい動きはなかった。
このまま熊沢と疎遠になってくれへんか、と沢は心から願ったが、それがかなわぬ願いだろうということはわかっていた。
三ヶ月がたち、季節が変わり、冬になった。年末、輝良は毎年渡米する。クリスマス商戦の雰囲気を肌で感じ、その後発表されるその年の経済情勢の総括を現地で聞くためだ。友人知人が集まるクリスマスパーティで思わぬビジネス情報が得られるともいう。
今年輝良は、アメリカからイタリアの友人の元へ飛んで年越しするという予定を立てた。
「ニューイヤーパーティーに招待されました」
と、二葉にも沢にもミミズがのたくっているようにしか見えない、つまり文字には見えない、くねくねと続け文字で書かれたカードを輝良は差し出してきた。
「なんやこれ、なんて書いてあんねん」
沢が聞くと、輝良はふっと鼻で笑ったように見えた。
「イタリア語ですよ、読みましょうか?」
英語でもわからないものがイタリア語などわかるわけもない。
怪しいと思いながらも、二葉にも沢にもそれを暴く手立てはなかった。盗聴されていることをとっくに気づいているらしい輝良は、無難なことしか電話では話さなくなっている。イタリアや香港への電話は英語で、しかも肝心なことはどうやらファックスを利用しているようで、メールとちがってパソコンを漁っても輝良が本当はなにを計画しているのか、つかめなかった。
輝良が尻尾をつかませてくれないのなら仕方がない。二葉は熊沢に尾行をつけた。ふたりで年末にアメリカに飛ぶ気にちがいないと踏んだからだ。
が――輝良と熊沢は出発日もちがえば目的地もちがっていた。輝良は予定通りアメリカへ、そして正月休暇の熊沢は香港へ。
香港ならば日本からはすぐだ。現地に二葉の知り合いもいる。香港経由でアメリカに飛ぶかもしれないと、二葉は熊沢の香港での動向をチェックさせたが、報告は肩すかしなものだった。年末年始を挟んだ十日間、熊沢は香港のホテルに留まり、現地で落ち合ったらしい女性と香港観光を楽しんだという。こちらも手を尽くして調べた出国者リストに、熊沢の名はないままだった。
そして輝良のほうも。アメリカからイタリアに飛び、やはり出国者リストに名前はないままだった。
しかし、それがそのままふたりの潔白の証明になるとは沢には思えない。
『香港ゆうたら黄龍の本拠地ちゃうかい。確か輝良はイタリアのマフィアにもツテができたゆうてたな。香港とイタリアのヤクザもんが輝良に手ぇ貸しとるとしたら……香港で俺らが熊沢や思とる男が替え玉っちゅうことも……』
偽造パスポート。
香港とイタリアのマフィアが輝良に手を貸したとすれば、香港でニセモノを仕立て、出国者リストには名前を残さないまま、また第三国へ飛ぶのもかんたんだっただろう――。
「……輝良は香港とイタリアの裏社会にツテがある、ゆうてたな……」
二葉も沢と同じことを疑っていた。つぶやく二葉の双眸が昏いのを、沢はため息をつきたいような気分で見る。
『頼むわ輝良……ほんまにアカンことだけはすなや』
その願いさえ「アカン」のだろうとは、沢にはわかっていたのだった。
イタリアから輝良は、どこの映画スターかとすれちがった人間が二度見してしまうようなオーラをまとって帰ってきた。華やかで輝いていて自信があって、そして滴るような色気がある。
「……ずいぶんとええ目に合うてきたんやなあ。えらい男ぶりがあがっとるやないか。新地でも行ってみぃ。今のおまえやったらどんなホステスかて食い放題や」
部屋の入り口で迎えた沢が足の先から頭のてっぺんまでじろじろと見回してからそう言うと、
「やっぱりイタリアの水はちがうよね。垢抜けるっていうかさ」
輝良はしゃあしゃあと言い放った。
「イタリアの水なあ。そんなええ水があるなら、俺も浴びさせてもらおか。……なんや、好いた相手にたあっぷり可愛がられな、そんなええツラにはなられへんのとちゃうか」
「やだなあ、沢さん。俺は最初からいい顔だろ?」
軽口を返して笑いながら沢を見た、その流し目の色っぽさ。まるで弟か子供のように思って、ついぞ輝良に欲情したことのない沢だったが、不覚にも背筋がぞくりとしてしまった。
二葉に抱かれて大股広げて身をくねらせて甘い嬌声を上げる輝良の姿にさえ、一度も勃起などしたことがないのに、股間のものが疼く気配さえあった。
「……アカンで、おま、それ」
数ヶ月、ずっと胸の内にあった言葉を、沢はため息とともに輝良の耳元に落とした。
「……なにが」
輝良も声をひそめる。
「なにがイタリアの水や。オヤジはそんなんでごまかされへんで」
「…………」
数秒黙り込むから、しおらしい言葉が返ってくるかと思いきや。
輝良は口辺に薄い笑みを浮かべると、また色っぽい流し目を沢に見せた。
「……俺がなにをごまかすって言うの。変なこと言わないでよ」
そこまで言うからには絶対に尻尾をつかまれないという自信があるのだろうと沢は思うしかない。
おかしな話だった。二葉と同じぐらい、沢は輝良を疑っているのに、沢の立場では輝良に嘘を突き通してほしいと願うしかないのだ。
「オヤジが待っとる。……頼むで」
リビングへのドアを開きながら、沢は小声で付け足した。輝良の表情が一瞬、硬くなる。
「――ああ」
沢にだけ聞こえる声で通り過ぎざまに落とし、輝良は沢の前を通ってリビングへと足を踏み入れた。
「おとうさん、ただいま帰りました」
明るく張りのある声を聞きながら、沢も表情を作り、部屋へと入った。
輝良はイタリア土産だと、何本ものワインやブランド物のスーツを二葉へと差し出した。さらに「これは特別ですが」と出したのは、黒光りのする拳銃だった。
スイス・アーミー、リボルバー。
「向こうで調達した、『前』のないヤツです。おとうさんに」
日本では空港や港での水際の警戒が厳しいために拳銃の密輸入は容易ではない。日本の極道の多くが手にするのが、品質や安全性で劣る中国製や旧ソ連製の銃なのは比較的、入手しやすいからだ。しかも日本での銃撃事件は捜査が厳しく、一度でも発砲が発覚した銃は警察に記録が残ると思ってまちがいない。
スイス軍使用の、しかも足取りをつかまれにくい銃は貴重な土産にちがいなかった。
「ほう……!」
二葉が久方ぶりに輝良の前で明るい顔になった。
「どえらいもんを土産に選んでくれたもんやなあ! 沢、見ぃ! ずっしりきよる」
拳銃を手に笑う二葉に、沢も目を丸くして見せた。
「ほんま、どえらいもんを……」
『どえら過ぎるやろ』
心の中だけで輝良につっこむ。
拳銃といえば人殺しの道具だ。輝良は今、言ってみれば、二葉と熊沢と三角関係になっているわけで、新恋人との旅行の土産に元愛人に「使ってください」と銃を渡すなど、挑発的という域を超えた大胆さだ。
熊沢とのことが気に入らなければ殺せとでも言いたいのだろうか。
「……しかしなあ、輝良」
拳銃に目を落としたまま、二葉が含みのある声で輝良に呼びかけた。
「モノの土産もうれしいけど、それよりたんと土産話を聞かせてほしいわ。イタリアにおったんやろ? どないやった」
その言葉で始まった、土産話をねだるという形での二葉の尋問を輝良はにこやかに切り抜けた。イタリアでの滞在場所、天気、どこに行ったか、なにをしたか。新年を迎える行事はどんなふうなのか、料理は、酒は、人は。
どの問いにも輝良はすらすらと答えた。まるで本当にイタリアで年末年始を過ごしたかのように。
「まだプリントアウトしてませんが」
と、輝良は携帯電話で撮ったという写真を次々に画面に出してさえ見せた。
もしかしたら第三国に出国して熊沢と落ち合ったのではなく、熊沢がイタリアに行ったのではないかとさえ、沢は思った。
同じ疑いを二葉も持ったのだろう。輝良がにこやかに答えれば答えるだけ、二葉の目は疑いの色を帯びた。
輝良が嘘をついているとしても、その嘘を暴く手段は沢にも二葉にもない。
「ホンマにひとりで行ったんか」
ついに二葉が聞いた時、輝良は「いやだな」と笑った。
「確かに行き帰りはひとりでしたけど、向こうでは友人のジェリーノがいてくれたので。そう寂しい旅ではありませんでしたよ」
嘘や。沢は思った。けれど、嘘なら嘘でいい。突き通してくれればそれが真実になる。
二葉と輝良の関係が悪化することだけは避けたい沢だった。
バレないはずの嘘だっただろう。
そして、実際にバレなかった。
――それからさらに、二ヶ月あとまでは。
「すんません、兄貴。……あの、ちょっと、ええですか」
沢は青い顔をしたマサルに、事務所の隅にあるPC前へと手招きされた。
「あの、これ、ちょっと見てほしんですけど……」
ぱちぱちとマサルはキーボードに打ち込んで、なにやら画面を出した。
やたら可愛いピンクが目に飛び込んできた。
「あの……先月、ナンパでつきあいだした女のブログなんですけど」
「はあ? なんで俺がおまえの女のブログなんざ……」
「や! それが……なんや正月休みにそいつ、モルディブとかいうリゾート地に行ったゆうて、その旅行記をアップしたから見てくれゆうから、なんやいなー思て見てみたんですわ。そしたら……あの、これ、輝良さん……やない、です、よね……?」
沢はあわててPCのモニターに顔を近づけた。
何枚もの写真が連なる中に、「イケメン同士のハグ! つい撮っちゃいましたキャハ」
の文字とともに空港らしい背景の中で抱き合う背の高い男ふたりの画像があった。
横合いから撮られているその写真では片方の男の顔はまるで見えないが、華奢なほうの男の横顔の一部が、その男をしっかりと抱き締めるスーツの男の肩からのぞいていた。
額と片目のしか見えないが、その一部と背格好で、知っている人間ならわかってしまうだろう。
それは輝良と熊沢にちがいなかった。
「消させえ……いや、おまえはこの画像とっとけ。けど、女にはこれ消させえ。ネットに上がっとんか。今すぐ消させえ」
「や、やっぱりこれ……」
「おまえの女か。ネットだけやない、元データも消させえ。おまえ、しっかり確認しぃ。ええか!」
「は、はい!」
あたふたするマサルを見ながら、沢は「アカン」とつぶやいた。
モルディブ。そう言われても、沢にはすぐにはそれがどこだかわからない。ハワイやグアムというメジャーな観光地ではない。それだけにいかにも輝良が選びそうだという気はした。
「どないする……」
ひとりつぶやいたが、沢がしなければならないことは決まっている。
輝良を問い詰め、熊沢と一緒だったことを認めさせ、そしてさらに、二葉に知らせねばならない。
ここで沢が隠しても、次にどんな形で二葉に知れるかわからない。その時になって、「実は自分も知っていました」は通じない。少なくとも、マサルは沢が知っていることを知っている。バックレるわけにはいかない。それは二葉武則に忠誠を誓って命を捧げている沢一にはありえない。
それがどれほど輝良を窮地に追い込むことであっても。
自分が誠を尽くすのは二葉だ。
だが――。
輝良の決定的な裏切りを知った二葉はどうするだろう。笑って許すとは思えない。
そして、輝良は?
二葉がどれほど怒っても、今の輝良には金がある。輝良子飼いの組員も育ってきている。おとなしく二葉にかしずき赦しを乞うとは思えない。二葉が加減をわきまえて怒りを納めればよし、そうでなければ……輝良は全面対決も辞さないだろう……。
二葉には知らせねばならない。だがその前に、自分にできることはないだろうか。
二葉の怒りを少しでも静め、二葉組に起こる波風を少しでも小さく収める術はないだろうか――。
「……ある」
沢はひとつ深呼吸した。
今、ここで腹をくくらねばならないと、自分に言い聞かせる。
「輝良。堪忍やで」
暗い決意に瞳を光らせ、沢は口の中でつぶやいた。
つづく
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