流花無残 二十八話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>









 サトルとマサルは沢の子分だ。それはわかっていたが、スキンヘッドで大男なのに、根が純朴で素直なふたりを輝良は輝良で可愛がっていた。
 沢の子分は自分の子分、とまでは思っていない。だが、どこかでふたりに対して信頼感があったのは事実だ。
 だから、顔を出した二葉組の事務所で、
「……輝良さん、どうぞ」
 と、マサルが出してくれたコーヒーに、輝良は「ありがと」と無造作に口をつけたのだ。これがもし、二葉に監視役としてつけられた村田あたりが出したカップだったら、「今はいらない」ぐらいのことは言って無視していただろう。
 会社と二葉の私宅のあるマンションへと村田の運転で戻る途中、急激で強い眠気が襲ってきた。
『まずいな』
 と思った。薬を盛られたのだということはすぐにわかった。
 わかってもどうしようもない。
 輝良は薬の力による逃れようのない眠りの沼に引きずり込まれた。




 ぴしっ、ぴしっ、ぴしっ――痛い。
「……う……あ……」
 ぴしっ、ぴしっ……やめろ。痛い。痛い。やめろ……。
「やめ……」
 声に出しかけた時、完全に意識が戻った。
「……な、に……」
 うつぶせに寝かされているのに、まず気づく。痛みは背中からだ。短い間隔で、針を刺されるような鋭い痛みが走る。次に、手を縛られているのに気づく。脚も……縛られているようだった。
「気ぃついたか」
 すぐ近くに誰かの膝がある。重い頭をなんとか首の力だけで持ち上げると、沢の顔が目に入った。
 ああ、と合点がいく。
「……薬盛らせたの……沢さんか」
「せや」
「で……なにされてんの、俺」
「わからんか?」
 首の動く範囲で周囲を見回す。狭い和室だ。寝かされているのは薄い布団。目の端に、墨の入った瓶や、針を束ねたような独特の道具が木箱からのぞいているのが入る。
 よく似た場所に、昔、一度世話になったことがあった。
 輝良はため息をついて頭を落とした。
「……俺に、刺青(スミ)しょわしてくれようっての……」
「輝良。おまえ、この正月、どこにおった」
「…………」
 ああ、ともうひとつ合点がいく。ばれたのか。
「……どっからばれた」
「組の若いもんの女がモルディブでおまえらを見かけとった。ばれたんはそのブログや」
「……あんさあ……」
 もう一度首を持ち上げる。
「あのツイッターとかブログっての、いいかげん、法規制かかんないかな。まずいっしょ、個人情報保護法ってのはどーなんの」
「空港で抱き合うとるアホは、法律も面倒見切れんわ」
 ち、と舌打ちを返す。
『しょうがないな』
 熊沢とふたり、モルディブで正月休みを過ごした。偽造パスポートを使い、香港とイタリアの友人に頼み込んでアリバイも作った。ばれないはずの工作をして、それでもばれてしまったのなら仕方がない。
「……輝良」
 沢が顔を寄せてきた。その目が真剣だ。
「俺はそのこと、おやじに報告せなならん」
「わかってるよ、そんなこと」
「おやじは怒るやろ。それもめちゃめちゃにな」
「破門とか言われたりして」
 笑いながら返すと、「笑い事やない」と叱られる。
「ええか、輝良。ちゃあんとあやまれ。俺も口添えしたる」
「……あやまって……背中一面の刺青見せて、ぼくはおとうさんを裏切りません、極道として生きていくその覚悟に変わりはありませんって言えっての?」
 せや、と沢は重々しくうなずく。
「それしかないやろ」
「…………」
 再び額を布団に落とした。――沢の判断は正しい。警察の人間と深い関係になった男が、極道としての覚悟を示すには、刺青を入れるか、指を落とすか……あるいはその両方か。
 極道として生きていく決意は揺らぎない。それが極道として必要ならば、いずれ刺青を入れる覚悟もあった。指の一本二本を惜しむつもりもない。――ただ……。
『綺麗な肌だって褒めてくれてたからなあ……』
 背中一面のの刺青を、熊沢がどう思うか。それだけが気になるといえば気になる。
 せめて事前に一言、自分の口から自分の覚悟を伝える機会があればよかったが……。
『やめろって言われたかな』
 そこまでする必要はないと熊沢なら言いそうだった。輝良が胸に入れた小さな二葉の紋だけでも、熊沢はいい顔をしなかった。熊沢にとっては二葉組への忠誠も、二葉武則本人への忠誠も同じに見えてしまうのだということは輝良にも理解できる。
 輝良が二葉の怒りをかわすために背中に刺青をいれると言ったら、なぜそこまでする、なぜそこまで二葉を気にすると、熊沢は言い出すだろう。
『……だからか』
 沢はそんな熊沢に輝良が引きずられるのではないかと案じたのか。
「……あんさあ、沢さん」
「なんや」
「俺さ、極道でやってくって言ってるじゃん。足洗うつもりなんてないよ。今の俺の立場じゃスミ入れるしかないって言われたら、俺、ちゃんと自分でここまで来たのに」
「……すまん」
「薬使われるとか、そこまで信じられてなかったんだ、俺」
 意識がないあいだに問答無用で刺青を彫られている、その恨みを口にすると、
「おまえのことは信じとる。せやけど、恋に落ちた人間はアホになるやろ。もしもあの男が『やめとけ』ゆうたら、おまえ、迷うやろ」
 沢らしいセリフが返ってきた。
 迷わなかったとは言い切れないなと輝良は思う。熊沢には躯中にキスされた。背中にも。その背中に、極彩色の極道の証を刻み込むのに絶対にためらわなかったとは言い切れない。
 しかし……。
「迷ったかもしれないけど、でも、彫ってたよ」
『それで嫌われるなら、それまでだ』
 きっと自分でもそう決心していただろう。
「それは……悪かった」
 沢が申し訳なさそうに頭を下げる。
 その姿に溜飲を下げて、輝良は腹をくくった。
「――沢さん」
 呼びかける。
「縄をほどいて。二葉組の金バッジが針にびびって逃げ出そうとしたなんて言われたら困る」
「輝良……」
「それから、どんな模様を彫ってくれる気なの。俺、ダサい図柄、イヤなんだけど」
 沢が目配せして、彫師が紙に書いた図案を「これです」と輝良の顔の前に置いた。
 背中一面に青と紫に光る双翼を広げ、飛翔する鳳凰の姿があり、その周囲は柔らかな花びらも麗しい蓮の花で埋められている。図柄は背中だけではなく、肩から胸、上腕まで用意されていて、右胸に腕から伸びるような図で龍の姿もあった。これは二葉が背中に龍を彫っているからか。
――思っていたより、広範囲だった。上半身のほとんどが刺青で覆われることになる。
『クマ……ごめん』
 背中一面でも水着にはなれないが、胸にも腕にも彫られることになれば、普通のTシャツもタンクトップも無理だ。
『ごめん』
 もう一度、胸の中であやまって、輝良は沢を見上げた。
「……これ、沢さんのアイディア?」
「……せや。どうせ彫るなら、しっかり誰に見られても恥ずかしないようにバアンとやらんとな。……図柄は、おまえのイメージとかいろいろな……先生にも相談して……」
 沢は少し不安げに膝を揺らした。
「せやけど柄はまだ変えられるで? な、先生? まだ筋彫りの途中やさかい……」
「いいよ」
 薬を使って意識を失わせ、そのあいだにかんたんには消えない極道の証を輝良の躯に刻もうと計画しておきながら、輝良がその図案を気に入るかどうか不安がる沢がおかしい。
 輝良は沢に笑ってみせた。
「この図のままでいいよ。気に入った。……先生、よろしくお願いします」
 肩越しに彫師に頭を下げる。彫師は五十をいくつか過ぎた、四角い顔のがっしりした男だった。
「肌がいいんで、綺麗に仕上がる思います」
 彫師が墨を含ませた針を手にする。
 輝良は自由になった腕を枕に、顔を伏せた。
 ピシ! 背中に針を刺される鋭い痛みが新たに走った。




 筋彫りから数日は墨が落ち着くのを待つ。そのあとは三日で色を入れた。彫師も休む間もなく大変だっただろうが、痛みと腫れが引く間もなく、次々と針を刺される輝良も大変だった。
 特に尾てい骨の上あたりと脇腹、そして骨に直接響くような部位の痛みはすさまじかった。針に麻酔薬を含ませて痛みを軽減する方法もあるというが、そんなハンパをしたらそれこそメンツに関わる。輝良は手ぬぐいを噛んで呻き声ひとつ立てずに耐え抜いた。
 が、それから数日続いたかゆみ地獄は痛みの比ではなかった。一気に彫ったのだから当然だが、一気にかゆみが来た。綺麗な仕上がりにするためには掻くなど厳禁だ。上半身のほとんどを襲う気がおかしくなるようなかゆみのせいで、一睡もできない夜もあった。
 そんな苦痛をこらえ抜いた末に――大量の薄いかさぶたが落ち……輝良の肌は極道の証で彩られることになったのだった。




「あんな」
 その日、沢は人払いすると、神妙な顔をして輝良の前に座った。
「おまえ、これからも熊沢と、その、つきあう気ぃか」
 輝良も面を引き締めて沢と向かい合う。
「……普通の恋人同士のような交際ができるとは思ってない。でも……俺は熊沢が好きだし、あいつもそう言ってくれる。だから……これからも機会があれば会うし、会えばキスもセックスもする。そういう意味なら……」
 よし、と沢はうなずいた。
「相手は警察や」
「組の不利になるようなことはしないし、情報も絶対にもらさない。……二葉組だけじゃない、仁和組にも、オヤジにも」
「……極道と警察のつきあいやゆうたら、公になって困るんは警察のほうや。うまいことやれれば警察の情報をもらえる、俺らのほうが得や」
 それは輝良も知っている。うなずいて返す。
「せやけどな。ポリ公のキャリアとなんなんしよる男が、絶対に組を裏切らんゆう保証がないことにはな、俺らは安心でけへんねん。……俺ひとりの話やない。二葉のオヤジに対しても……仁和組に対してもや」
「……スミしょっただけじゃ、不十分だってわけ」
「おまえと熊沢のことが上にばれた時に、オヤジの立場が悪うなるようなことは、避けなあかん」
 輝良は黙って目を閉じた。細く長く、息を吐く。
「仁和組総長の平さんにも……話を通せっていうこと」
 断定の口調で、確認する。沢がうなずくのを見て、もう一度息を吐いた。
「……いつ。……どういう形で」
「……正月休み、オヤジに嘘ついて、ポリ公と遊んでました、申し訳ありませんと……頭下げる気ぃはあるか」
「……あるから、刺青いれたんじゃん」
 せやな、と沢はうなずく。
「おまえの詫び入れと、スミのお披露目の席を設ける。そこに、オヤジと総長に来てもらうことになる。あとのことは……おふたりの判断にまかせるしかない」
「…………」
 確かに。詫びと申し開きの分量を決めるのは、この世界では詫びを受け入れる側だ。どこまですれば、二葉と平が輝良に極道の世界を裏切る気はないと認めてくれるのか。
「指……落とせとか言われちゃうかな」
 それならそれで仕方ないと思う。が、沢はかすかに首を横に振った。
「おまえが指落としたところで……それはそんだけ、熊沢が好きやっちゅうことにしかならんやろ。……ま、わからんけどな。オヤジや総長が……どう言わはるかは……」
「……なるほどね」
 沢の言葉の意味を理解して、輝良はうつむいた。
 ふたりに嘘をついていたことを詫び、指を落としても、それが熊沢よりふたりを大事にしていくという証立てにはならない――。
 六年前に二葉の愛人としてのお役目から解放された。だが……そういう意味での執着が二葉にまるでなくなったのだと思っていたのは考え違いだったらしい。熊沢と深い関係になった翌朝に、二葉に無理矢理唇を奪われた。その濃くいやらしいキスには、怒りだけではない、情欲の色がはっきりと残っていた。
 平には……高校二年の時に望まれて、それを胸に二葉の紋を入れることで断った経緯がある。その後、体格も顔つきも変わった自分にやはり平も性的な執着はないだろうと思っていたが……それも希望的観測というやつかもしれない。
「……沢さん」
「ん?」
「俺、美人?」
 沢は大きく、大きく、ため息をついた。
「……おまえは、ごつうなった」
「うん」
「背ぇも高いし、肩もしっかり張っとる」
「うん」
「……そんでも、おまえは美人や。大阪に来た時から、変わらずな」
「九年前から変わらないとか、どんだけ褒め言葉」
 ふざけて返す。ふざけなければやっていられない。
「――あんな」
 沢が少し、身を乗り出してきた。耳元でささやく。
「その席には城戸の組長も呼んである」
 は、と笑いが漏れた。目頭が熱くなる。
「……沢さん、美人に甘いね」
「おう。俺はおまえに甘いねん」
 せやけどな、と沢は付け加えた。
「城戸さんがおっても……状況はそう変わらん思うで」
「うん」
 輝良はうなずいた。
「俺もそう思うよ」






                                                  つづく






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