流花無残 二十九話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>







 二葉組幹部であり、二葉武則の養子である二葉輝良が、自身の不始末を詫び、その心根を証立てする場として供されたのは、城戸泰造の屋敷だった。
 沢から、これこれこのようなことがあり、仁和組総長平剛士、二葉組組長二葉武則に輝良が詫びを入れるにあたって、その場に立ち会ってもらえないかと打診された城戸翁は、それならこの屋敷を使えと自ら言い出してくれたという。
 沢は二葉組も懇意にしている老舗料亭の離れを借りる心積もりだったが、万が一にも噂が立って輝良の将来に禍根となってはいけないという城戸翁の言葉を聞き入れることにしたのだと。
 純和風建築で、しっとり落ち着いたたたずまいの城戸邸の一室を借りて、輝良は呼ばれるまでの時間を過ごしていた。着替えはもう済ませてある。詫びを入れるのに輝良が選んだのは白絹の単(ひとえ)だ。身につけているのは、あとは白の下帯だけ。上半身を彩る刺青を極道の道で生きる証立てとして披露する時に、ブリーフもトランクスもないだろうと選んだのは古式ゆかしい褌だった。
 しんと静かな屋敷だった。平や二葉には酒肴が振る舞われるというが、その準備の物音も奥座敷に近いこの部屋までは聞こえてこない。
 自分の吐息だけが聞こえる。
『クマ……』
 年末年始を地上の天国と呼ばれる南洋の島で熊沢と過ごしたことを、輝良は後悔していない。楽しかったし、九年の歳月を埋めるのに、自分たちには必要な時間だったとも思っている。互いだけを見て過ごした八日間。数え切れないほど甘いキスを交わし、夜も昼もなく抱き合った。――愛しい相手と心ゆくまで愛し合った時間に、後悔はない。
『おまえもそう思ってくれるといいけど……』
 刺青を入れたことはまだ伝えていない。
 「彫っちゃった」とか、「似合う?」とか、「ちょっと派手だけど」とか、なにか軽いコメントを添えて写メを送ろうかとも思ったが、勝手なことをしてと怒られそうな気がしたし、タイミング的に南の島でのランデブーのせいだと熊沢に悟られるのも嫌だった。
 どうせ隠せるものではない。
 次に会った時に、きちんと顔を見て説明するつもりだった。
 ただ……熊沢があのふたりきりのハネムーンのような時間を後悔するようなことにはなってほしくなくて……。
「ごめん。クマ」
 口の中でつぶやいて、あやまった。その時。
「輝良さん。総長と二葉の組長がいらはりました」
 襖の向こうから声がかかった。




 平伏した輝良の前の襖がざっと開く。
 襖を開いた沢が、輝良の前でやはり正座して畳に額を擦りつける。
「ただいまお話しました弟分の不始末、兄貴分であるこの沢一の不始末でもあります。――申し訳、ありませんでしたっ!」
 沢が声を張った。
「……まあ、おまえの監督不行き届きゆう面もあるかもしれんけどなあ」
 ゆったりと低い声は仁和組総長・平剛士のものだ。低く静かだが、その声の底に揺るぎない強さのようなものがあって、平伏したまま輝良は奥歯を噛み締めた。
「そこらのチンピラや、まだシノギも立っとらんような若造のしでかしたこととちゃうからなあ。……輝良。久しぶりやな」
「ご無沙汰しております」
「顔上げえや。……変わらず、別嬪やな」
 奥座敷の一番上座に平。その左に城戸翁、右に二葉が座る。それぞれの前には酒や料理の載った膳がある。
「おまえ。警察の男とええ仲になったんやて?」
 四十半ばの男盛り。黒々とした髪をワックスで整え、薄ら笑いで肘置きにもたれかかる平には触れれば切れるような鋭いものがあった。迂闊なことは言えなくて、輝良は、「はい」とだけ答える。
「なんや、オヤジや兄貴にも内緒で海外旅行としゃれこんだそうやないか。相手、そんなええ男か」
「……中学時代の同級生です。半年ほど前、偶然再会して……」
「輝良」
 さえぎったのは沢だった。
「熊沢はずっとおまえを探しとったんやろ。嘘はあかん」
「せやな。嘘はあかん」
 平が引き取る。輝良は「嘘ではありません」とはっきりと返した。
「熊沢は俺を探していたと言いましたが、俺は二度と熊沢に会うつもりはありませんでした。俺にとって、あの再会は本当に偶然で……」
「ほならモルディブで会うたのも偶然か」
 ぐ、と輝良が詰まるような質問を投げてきたのは二葉だった。
「えらい偶然が続くもんや」
「……おとうさんに内緒で旅行に行ったのは悪かったと思っています。申し訳ありませんでした」
 頭を下げて畳に額をつける。
「旅行は別に悪うない。なんで最初から正直に言わんねん」
 平に尋ねられる。
「それは……熊沢との交際を、父に咎められていたからです」
「ほお……オヤジの意に染まんとわかっとって、おまえ、警察の男とつきおうとんか」
 じわり。平の声に凄みが混ざりだす。
「オヤジの意思より警察の男を取るんか、輝良」
「いえ……」
 もう腹は決まっている。それでも総長から放たれる威圧感に脇の下に嫌な汗がにじみだす。そこに、
「まあそう畳み掛けられては、若いもんが言いたいことも言えんようになります」
 やんわりと割って入ってくれたのは城戸翁だった。
「輝良。おまえ、警察に組を売るつもりか」
 あえて過激な言葉を使ってくれる。
「とんでもありません!」
 顔を上げて輝良はきっぱりと否定した。
「俺は、仁和組を支えて極道の世界で生きていく、その心になんの曇りもありません!」
「ぬけぬけと」
 憎々しげに口を挟んだのは二葉だ。
「親の目盗んで小細工して、男と乳繰りおうといて、なにが極道や。極道やったら、親があかんゆうたらあかんことぐらい、わかっとるやろ。それもできん色狂いがなにをゆうても信用できるかい」
「輝良」
 再び平が口を開く。
「おまえ、俺がまだ堅気やったおまえの面倒見ちゃろゆうた時、自分は二葉のオヤジのもんやゆうて啖呵切ったなあ? 胸に二葉の紋まで彫って、俺を袖にしといて、おまえ、今んなって別の男やて、どうゆうことや」
 平が同席すると決まった時から、それは絶対に責められるだろうと覚悟していたことだった。
 輝良はきちんと手を前についたまま、正面の平に真剣な目を向けた。
「……当時は……せっかく情をかけてくださろうというお気持ちを無碍(むげ)にして……若さゆえの未熟さと世間知らずゆえとはいえ、本当に申し訳ないことをいたしました。けれど、当時も今も、二葉の父を父として仰ぐ気持ちは……」
 言うべきセリフはもうできていた。だが、輝良はそこで言葉を切った。『二葉の父を父として』? それがそらぞらしい嘘であることはここにいる誰もが知っているのに。
「……俺は……二葉の愛人でした」
 用意していたセリフではなく、胸にあるままを輝良は口にした。
「中学三年の時にだまされて二葉の家に連れて行かれ……強姦されて女のように抱かれました。最初は……反発と嫌悪しかありませんでしたが……俺をだました叔父に復讐してやりたい一心で、極道の世界で生きていく決心をしてからは……二葉が、俺の唯一の男であり、父であると……そう心を決めて、二葉に仕えていました。総長に望まれても、応えられなかったのは……二葉の元で一人前の極道になると決めていたのと……二葉だけが、俺の男だと、決めていたからです」
 二葉があぐらをかいた脚をなにか言いたげに揺らす。輝良はその二葉に目を向けた。
「……おとうさん。俺は……生涯、あなた以外の男に抱かれるつもりはありませんでした。あなたには……無理矢理女にされましたが……もう、ほかの誰にも、俺は女扱いされたくなかった。……でも……俺は、熊沢と再会してしまいました。熊沢ともう一度出会わなければ……熊沢が今でも変わらず俺を好きだと言ってくれなければ……俺の男は、生涯あなたひとりだった。でも……」
 手と声がどうしようもなく震えだす。信じてもらえるかどうかはわからない。しかし、自分の誠を伝えるために輝良は声を振り絞った。
「……熊沢寛之を、愛しています。でも俺は、極道です。いまさら堅気に戻る気はありません!」
 言い切って、輝良は立ち上がった。帯をほどき、白い絹を肩からすべらせる。
 一呼吸、胸と肩と腕に入れた刺青を平と二葉、そして城戸が目にするのを待って、今度は背中を向ける。輝良の背で羽ばたく青と金の鳳凰に、誰かがひゅっと息を飲んだ。
「これが……俺のけじめで、決心です」




「刺青か……また思い切ったなあ」
 城戸が感心したような、呆れたような声を出す。
「どうです、総長。武則。こいだけ派手なもんしょったら、いまさら堅気には戻れへん。意気込みを買うてやったらあきまへんか」
 しばらく、座敷は無音だった。平も二葉も城戸の言葉に応えない。
 背中を向けたままの輝良は、鳳凰の舞う己の背中に、嫌な熱と粘りを含んだ視線が這うのを感じて息を詰めた。この視線には嫌というほど覚えがある。男の劣情と情欲。――平のものか、二葉のものか、それとも両方か。
「……輝良」
 呼びかけてきたのは平だった。
「はい」
 振り向くと、平は杯をくっとあけながら、肌を彩る刺青のほかは白い下帯だけの輝良を目を細めて見つめてくる。
「……おまえ、自分の心意気を俺らに見せるために、そのスミ入れて、今、お披露目してくれとるんやなあ」
「……はい」
 成り行きを見守って、膝の上にこぶしを握り硬い表情でいる沢が、輝良の目の端にはいる。
「ふうん。……心意気見せんのに、おまえ、まだ隠し事すんのか」
「…………」
「座敷入ってき。そんでそのふんどし、取って見せんかい」
 こういう流れになってしまうかもしれないとは重々承知の上だった。
 輝良は「失礼します」と座敷へと足を運ぶと、下帯に手をかけた。指の震えを悟られないように、力を入れて帯をほどく。股間を覆っていた布が、はらりと畳に落ちた。
 男たちの視線を浴びて、輝良は全裸で立つ。――だが。
「それが、おまえの全部か、輝良。おまえの心根、裏も表も奥も底も、全部見せてくれるんちゃうんか」
 平の言葉に、輝良は目を閉じ、深呼吸した。
「……お見苦しいものを……お見せしますが」
 断って後ろを向く。膝をつき、肘もつく。
 己で尻の狭間をさらす屈辱的な姿勢にこめかみが熱くなった。剥き出しの尻に男たちの視線が絡みついてくるのを感じて奥歯を噛む。
「もうええ」
 言ったのは城戸だ。
「輝良。おまえの覚悟はようわかった。沢。輝良に着物をかけちゃり」
 城戸のとりなしにほっとしたように沢が腰を浮かしかけたが、
「待ち」
 鋭い制止の声が飛んできた。平だ。
「城戸。おまえはほんまにわかったんか? ああ、こんだけのスミいれたんや。輝良が極道でやっていく覚悟は見せてもろたわ。せやけど、こいつがその熊沢ゆう男より、二葉や俺のほうを大事に考えとるかどうか、まだわからんやないか。ちゃうか」
 城戸翁が深く息をついた。総長である平にここまで言われては城戸もとりなしようがなくなってしまう。
「……総長の言わはることももっともや思います。……輝良」
 声をかけられて、輝良は姿勢を直した。三人に向き合って正座する。
「はい」
「その熊沢か? おまえが二葉のうちに連れて来られたあと、忘れられんと泣いた相手は」
 二葉の愛人としての生活を送りながらも二葉に心を開けなかった輝良は、城戸の前で泣き崩れたことがある。その時のことを城戸が忘れずにいてくれたのをありがたく思いながら、輝良は「そうです」とうなずいた。
「やっぱりか」
「……はい」
「相愛やったんやな」
「はい」
「……輝良。……極道には極道の仕儀がある。わかっとんな」
「はい」
「……それで、ええか」
 しわ深い顔に、優しさがある。優しさの奥に、しかし厳しさがある。笑えば優しげな光をたたえる瞳が、今は透明で厳しい光をたたえているのをしっかりと見つめ返して、輝良は「覚悟はできています」とうなずいた。
「……よっしゃ」
 うなずいた城戸が平を振り返った。
「本人も覚悟はできてるゆうてますわ。総長、どないして、輝良に愛しい間夫より親のほうを大事にする心があると証立てさせるおつもりです?」
 その問いに、平の薄い唇に笑みが浮かんだ。
「――決まっとるやろ。……輝良。おまえ、二葉にしか抱かせんつもりやったその躯、その男には抱かせたんやろ」
「……はい」
「せやったら……おまえがその男より俺らのほうを大事に思とるゆうんなら……今度は俺らが望めば、おまえはその躯、好きにさせてくれるんやろうな?」
 輝良は畳に手をつき、じっと目を閉じた。
 一糸まとわぬ姿で四人の男の前で平伏しているだけでも屈辱的なのに、相手はさらなる服従と犠牲を求めてくる。それができなければ、組織では生きていけない――。
『クマ。ごめん』
 心の中で最愛の男に詫びる。
 輝良は顔を上げた。
「……はい」
 しっかりとうなずいた。




 平は膳を傍らに動かすと、あぐらをかいた自分の前に輝良を呼んだ。
「ほならまず……あんじょうええ気分にさせてもらおか。口でやれるやろ? ああ、それとも先に二葉行くか?」
「いえ。総長、お先に」
「ほな……」
 輝良は全裸のまま平の近くにまでにじり寄った。男のベルトに「失礼します」と手をかける。その時だ。
「すんません、総長。そんでもこれでは片手落ちや思います」
 城戸翁がそう口を挟んだ。
「片手落ち?」
「そうです。輝良がわしらの意にきちんと添えるかどうか、その男より親を大事にする気があるかどうか、わしらは今から見せてもらうのに、肝心の輝良の男の心が、それではわかりません」
『は? なにを……』
 なにを言い出したのかと、輝良はあわてて城戸を振り返った。城戸は泰然としている。
「輝良がどこまでの心を持っておるのか、どこまで組織のほうが大事なんか、わしらはこれから輝良に見せてもらいますわ。ほしたら、おんなじように、輝良の男にも、こういう輝良の覚悟をちゃあんとわかった上で輝良とつきあうんか……言葉飾らずに言うなら、警察におりながら、心は輝良と同様、仁和組のもんやと証立てしてもらわんことには具合が悪い」
 城戸の言葉に、輝良は背筋が寒くなった。熊沢を巻き込みたくなどない。
「じ、じいさん、なに言ってんだ……クマは、熊沢は関係ねーだろ……」
「輝良」
 名を呼ばれただけなのに、ぴしりと背を打たれたような鋭さがあった。
「寝言は寝てから言い。関係ないわけあらへんやろ。……おまえがそんだけの覚悟を見せんのに、おまえの男が蚊帳の外ゆうわけにいくかい」
「じいさん!」
「待ち!」
 腰を浮かしかけた輝良を平が制する。
「なるほど。さすが城戸の叔父貴や。スジがとおったある」
「総長! あ、相手はカタギです! 俺は、俺ならなにをされてもいい! だけど……」
「阿呆!」
 大声で輝良をさえぎったのは二葉だった。
「ヤクザの金バッジつけた男を自分の女にしといてなにがカタギや! こっちがやる気もない杯に、自分からくちばし突っ込んどるようなもんやないかい!」
「…………」
 それは確かにそうだ。だが……。なにか言いたい、けれどなにも言えない輝良の横顔に、
「輝良。おまえの覚悟のほど、おまえの男にも見てもらい」
 城戸の静かな声がかかった。
「じいさん……」
 城戸の瞳には強く静かな光がある。二葉の家で初めて城戸に会った時からずっと、輝良は自分の背にこの視線を感じてきた。見守られていると感じてきた。勘ちがいでもおごりでもないだろう、城戸は孫を可愛がるように自分を可愛がってくれている。だから輝良はいつも平気で「じいさん、じいさん」と寄っていけるのだ。
 城戸が自分を害するようなことはないと、無条件に信じてきた。――きっと、今も。城戸は輝良のことを痛めつけたいとも傷つけたいとも思ってはいないはずだった。
「じいさん、頼む、熊沢は……」
「輝良、ええか。心中立てはひとりではできひんねや。おまえが覚悟決めるんやったら、おまえの男も覚悟決めんならんねん。そういうこっちゃ」
「…………」
 城戸の言うことは理解できる。そしてそれが必要なのだということも。――しかし。
「でも、じいさん、でも……」
 訴える輝良に、城戸はもう視線をくれなかった。
「沢」
「は」
 何事か命じられた沢が立ち上がり、部屋を出て行く。
 その沢が戻ってきたのはすぐだった。――熊沢を連れて。





                                                  つづく





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