流花無残 三十三話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>








「まずいなあ」
 声に出してぼやくと、さっとマサルとサトルが振り返った。
「兄貴、まずいっすか」
「すんません、すぐなんか別のもん、買うてきます」
 ふたりの勘違いをすぐに察して、沢一(さわはじめ)は「ちゃうちゃう」と割り箸を持ったままの手を振った。沢の前には湯気の立つカップヌードルがある。
「これの話やない」
 そんな単純な話ならどれだけよかったか。
――最近、組の空気が不穏だ。
 今の、沢とマサルとサトルのなんということはない会話にさえ、事務所の空気が微妙に揺れる。自分に向けられる冷たい視線と、ひっそりと目配せしあう者たちがいるのを沢は敏感に感じ取る。以前にはなかったことだ。
 最近、組の中で揉め事が多い。
 同じ二葉組の組員でも誰の盃を受けて組に入ったかはそれぞれちがう。幹部のほとんどはもちろん組長・二葉武則からの盃を受けているが、その幹部たちから盃をもらって極道になった組員も、また多い。
 最近頻発している喧嘩や小競り合いは、輝良が盃をやった、いわゆる「輝良派」の組員と、それ以外の組員とのあいだで起きている。
 輝良が武則に殴られたり、理不尽な言いがかりをつけられていることなど、下の組員たちは知らないはずだった。輝良だってそんなことをいちいち自分の手下に告げているとは思えない。だが不思議に、下の者たちは上の者に起こったことを敏感に察し、言葉にして伝えなくてもその心情を理解してしまう。
 ずるずるとインスタントラーメンをすすりながら、沢は嫌な緊張を覚える。自分に向けられる不穏な視線。それはこの事務所の中にさえ、二葉組の古参の幹部、さらにいえば武則に対して反感を抱いている組員がいるということだ。
 輝良が武則に殴られるようになって一年半。今では単に殴る蹴るの暴力ではなく、輝良の仕事のやり方に武則が難色を示して責任を取らせるという陰湿なことまで起きている。
 そんな理不尽に対して、輝良がどこまでも我慢しなければならないという理屈はない。だが不満を貯め込んだ末に輝良が爆発したら、二葉組はめちゃくちゃになる。
『そろそろなあ……輝良とちゃんと話さんとあかんねやけど』
 なにをどう言えばいいのか。とうとう武則は輝良に指を詰めて責任を取れというようなことまで言いだしている。確かに安西組のシマに中華系マフィアの黄龍を引き入れたのはまずいが、クスリと拳銃は扱い次第で組に大きな利益をもたらしてくれる。今回、二葉組は自らの手は汚さぬままに高雅会から安西組を取り戻すことができた。功罪が背中合わせならば、今までの組への貢献と忠誠に免じて、少なくとも「様子見」ぐらいの対応でいいはずだった。それを指を落とせとまで武則は言う。
 輝良と話して、なにを言えばいいのか。黙って指を詰めろと?
『俺の口からはよう言わんわ』
 けれど沢には、自分しか輝良に「こらえてくれ」と言える人間がいないこともわかっている。
「まっずいわあ」
 つい、また声に出してそう言うと、
「兄貴、シーフードのほうがよかったっすか」
 サトルがまじめな顔で聞いてきた。




 城戸翁からの呼び出しはそんな、沢が組内の不穏な空気をなんとかしなければと思い悩みだした時のことだった。
「折り入ってお話したいことがあると城戸が申しております。お忙しいところご足労願うことになり恐縮ですが、一度、お運びいただけないでしょうか」
 丁寧な口上を述べたのは広瀬という男だった。広瀬は自分より年下の武則に向かい、白髪交じりの頭を深く下げた。
 今でこそ第一線から退き、城戸の身の回りの世話役としてひっそりと暮らしているが、城戸の右腕とも懐刀とも呼ばれていた広瀬の現役時代の武勇伝は沢も耳にしたことがある。今も城戸組を裏で牛耳っているのは広瀬の兄貴だという者もあるほどの実力者がわざわざ使者に立っていることから、城戸の話が重大なことであるのは察しがついた。
 武則は沢だけを連れて、すぐに城戸の屋敷を訪れた。
 綺麗に掃き清められ、深閑とした空気の城戸邸に一歩踏み入ると、沢はきゅっと身が引き締まる思いがする。武則と沢は日本庭園をのぞむ奥の座敷に通された。
「わざわざ来てもろてすまんなあ」
 大島の紬をまとった城戸はにこやかに現れた。が、
「今日はなんで来てもろたか、わかるか、武則」
 上座に用意された座布団に座るなり、城戸の面は厳しくなった。
「……さあ。正直、なんぞ怒られるようなことがあったかと……」
「輝良のことや」
 ずばりと指摘して、城戸はまっすぐに武則を見た。
「おまえ、輝良のこと、えらいいちびっとんやて? 男のヤキモチもたいがいにし」
 斜め後ろに控えた沢でさえ、ぴしりと鞭打たれたような気がした厳しい口調だった。
「…………」
 つまらない言い訳や釈明はますます城戸を怒らせるだけだと判断したのか、武則が黙って頭を下げる。
「おまえの気持ちもわからんことはない。せやから一回、きちっとわしの目の前で輝良にもスジを通させ、おまえにも区切りのつくようにしたったやろ。せやのに、そのあともぐずぐずぐずぐず……みっともない思わんか。おまえんとこ連れて来られた時、まだ輝良は中学生やったやろ。手も脚もほっそいほっそい……子供やったわな。そん輝良をさんざん好きにして、おまえ、あれの一番いい時間、好き放題に弄り倒したんちゃうんかい」
 武則は頭を下げたまま、一言も返せず、じっと城戸の言葉を聞いている。
 沢もまた武則の後ろで正座のまま城戸の叱責を受け止める。しかし、まさか輝良への態度を叱るためだけに城戸が武則をわざわざ呼び出したとは思えない。城戸の意図はどこにあるのか、話はどう転がっていくのか。
「せやけどな」
 城戸の口調が少しばかり柔らかくなる。
「おまえの気持ちもわからんわけやない。輝良に初恋の相手が現れたっちゅうのんは百歩ゆずって許せても、その相手とつきあうために総長にまで抱かれたんゆうんが、おもろないんやろ」
「……叔父貴……」
 図星を刺されて武則が呻く。
「それはわかんねん。わかんねんけどな、武則、気ぃついとるやろ、輝良はおまえに刃向う準備を始めとる」
「え」
 驚いたように武則が顔を上げた。「なんや、知らんかったんか」、そうつぶやいた城戸の目線が沢へと向けられた。
「沢、おまえは知っとるな」
「……はっきりした証拠があるかと言われれば、なんもありません。けど……」
 輝良が武則に背こうとしているなどと、あまりはっきりは言いたくない沢だ。が、武則が首をめぐらしてくる。
「おまえ、なんか知っとんか」
「……まだ、なんも具体的な動きはありません。ありませんけど……組ん中の空気がおかしい。おかしいしとるんは、輝良の子飼いの組員たちです」
「どんな忠義な犬でもなあ、叩き続けたらいつかは飼い主に歯ぁ剥きよるわ」
 刺青の腕を撫で上げて、城戸は顔をしかめてみせた。
「武則。おまえ、二葉組を分裂させてもええんか。今、二葉組がごたついたら、喜ぶんは清竜会や。それでええんか」
「……ええわけありません……」
 苦々しげに武則がつぶやく。
「ええわけない……わかってます。けど……どうしようもあらしません。……あいつの、顔見とったら……腹ん中、ぐしゃぐしゃで、熱うなって……」
「悋気はなあ、焼く人間も、焼かれた人間も火傷せなならん」
 しみじみ言って、城戸はうなずいた。
「なあ、武則。おまえ、輝良を手放さんか」
 はっと沢は顔を上げた。――これか。この話か。
「輝良は今は二葉輝良やろ。おまえと養子縁組しとる。……男同士のなあ、結婚みたいなもんや、養子縁組は。いっくら、仁和組が認めたの、スジは通したのゆうても、輝良が二葉のまんまゆうんは、おまえと結婚しとんのに、よそに本命がおるみたいなもんや。なあ」
「それは……輝良との養子縁組を、解消しろと……」
 武則の問いに城戸はすぐには答えず、視線を庭へと投げた。
「……わしもなあ……ほんまにそろそろ年や……」
 つぶやく。
「組をどないしようと考えとってな。広瀬が継いでくれたらええねんけど、あれも欲のない男でなあ。まあ、わし一代でつぶすんもありかと思ててんけど、それはそれでいろいろややこしいしなあ」
 沢は緊張で心拍が速くなってくるのを感じながら、じっと座り続けていた。城戸組といえば、仁和組古参の一、二を争う。その名前は大きい。
「武則」
「はい」
「輝良をわしにくれんか。わしはあれに城戸組を継がせたい」
 城戸が言いきった瞬間、武則がはっと息を飲んだ。沢もまた、膝に置いた手をぎゅっとこぶしに握る。
『まさかと思たけど、ほんまに……』
「輝良に……城戸組を……」
「いろいろ問題があるのはわかっとる。今、輝良は二葉組の金庫番。打ち出の小槌を持っとるようなもんや。それをそっくりこっちに寄越せと……」
「いや! 叔父貴! そんなことは……!」
 城戸の言葉をさえぎって、武則が膝を乗り出した。
「ほお。輝良が生み出す金に未練はないか」
 城戸はおもしろそうに笑って、腕を組んだ。
「せやったら話が早い。……輝良を城戸にもろて、金も全部とはわしは思っとらん。たとえば会社は二葉に残して輝良が顧問ゆう形で続けるとかな、同じ仁和組の中の組。やりようはあるやろ」
 その言葉が聞こえていなかったのか、それとも衝撃が大き過ぎたのか。
「……叔父貴。ほんまに……本気で、輝良を……」
 武則が確かめずにいられないといった顔で城戸に問いかける。
「わしはそれが一番ええ思う。城戸組には頼りになる二代目ができる、二葉組は城戸組とつながりが深うなって、内輪揉めの心配がのうなる。……そんで、おまえも、輝良も、今度こそほんまに、綺麗に別れられる。……なあ、武則、ここらで未練断ち切らんか」
「…………」
 顎が胸につくほど深く頭を垂れて、武則が黙り込む。輝良への愛着のほどを知っているだけに、沢は武則が味わっているだろう苦渋を痛ましく思う。
「……わかりました」
 五分以上も黙り込んだあと、かすれた声で武則はようやくうなずいた。膝をいざらせて座布団から下り、両手を前につく。
「叔父貴。――輝良を、よろしく頼みます」
 まさか。まさか本当に。武則が輝良を手放す決断をしようとは。
 沢は息を飲んでその背中を見つめていた。




「よう決めてくれたな、武則」
 武則の決断に深くうなずいてみせた城戸翁は、「実はな」と声を潜めた。
「この話はもう総長にも通してあんねや」
 そう聞いた時、沢はそれは話が早いだろうと思った。仁和組総長・平が承認しているとなれば、なんの障害もないはずだ。しかし。
「けどな」
 城戸翁はさらに声をひそめた。武則も沢も思わず身を乗り出す。
「総長もわしも同じことを心配しとる。二葉組と城戸組がツーカーやゆうたら、おもろないのが出てくるんちゃうか、てな」
 武則がうなずいた。
「それはわかります。城戸組の二代目を二葉組から出すゆうたら、暴れそうなのが何人かおりますわ」
「そこや」
 城戸のしわ深い顔に往年の悪党ぶりをうかがわせるような笑みが浮かんだ。
「せやからな。あちこちに、わしの跡継ぎに誰かええのおらんかゆうて、ちゃんと声はかけとこ思うんや」
「出来レースゆうことですか。……いや」
 すでに誰を勝たせるかは決まっていて、とりあえず形だけ取り繕うために争わせる。まさに出来レースを仕掛ける気かと沢も思って、しかし、すぐにことはそう単純ではないと気がついた。
「城戸組の跡目ゆうたら、喉から手が出るほど欲しい組も人間も山のようにおります。誰を出すか、どの組が有利か……」
「揉めるやろなあ」
 他人事のように言って、城戸は黒いものをにじませた笑みを深くする。
「これはな、炙り出しや。どの組がなにを狙い、誰がなにを欲しがっとるか、見せてもらえるやろ。おもろなるでえ」
『おもろいどころか……』
 大変なことになる。今は落ち着いている仁和組の中にいらぬ波風を立てることにもなりかねない。
『けど、それを総長が了承済みいうことは……』
 沢ははっと肩を揺らした。
『異分子を炙り出すいうことか!』
 今は盤石なはずの仁和組だが、すべての組の組長が平に心からの忠誠を誓っているかといえばそうとも言い切れない。たとえば清竜会の竜田は口ではいつも平に心酔しているようなことを言うが、その裏では己の組の勢力拡大に余念がない。ほかにも竜田のように「あわよくば」と仁和組総長の座を狙っている者もいるだろう。
「――ええか、武則。沢。わしの本音のところは今話したとおりや。けどな、輝良が城戸輝良になるには、二葉組にもがんばってもらわなあかん。わかるか」
 武則がゆっくり深くうなずいた。
「……そういうことなら……二葉組は組を上げて輝良を支えます。……俺も、全力で……」
 うん、と城戸もうなずいた。
「頼むで、武則」




 えらいこっちゃえらいこっちゃ。
 沢の頭の中ではそのフレーズが延々と鳴り響き続けた。
 輝良が武則との養子縁組を解消する、そして城戸泰造の籍に入る――二葉組から城戸組の跡継ぎが出る。
 実現すれば、極道の世界で輝良は大きく伸し上がることになり、二葉組は仁和組の中で一大勢力となる。
『えらいこっちゃ』
 武則から城戸翁の言葉を伝えられた輝良も、同じ感想を持ったらしい。
「……俺が……城戸のじっさんの跡取りに?」
「ゆくゆくな」
 武則の自室だった。
 寝室でもあるその部屋に輝良が入るのは、数年ぶりのはずだった。最初はまたなにを文句をつけられるのか、理不尽な要求をされるのかとぴりぴりした警戒オーラを漂わせて部屋に入ってきた輝良も、話を聞くうちに警戒を忘れたようだった。
「で……今の話だと……とりあえず表面上は、ほかの主だった組にも跡継ぎ選出の声をかけることになっていると……?」
「せや」
 短くうなずく武則に、輝良が眉を寄せる。
「それって……すごい騒ぎになるんじゃないですか」
「総長も城戸の叔父貴も逆にそれを狙とるらしい。炙り出し、ゆうてたな」
「……そしてその騒ぎのあと、俺が城戸輝良になる……」
「おまえがよっぽどのポカをせん限りな」
「…………」
「二葉組にとっても、腹のくくりどころや」
「……えらい話ですね」
 大変な、とか、すごい、とか標準語ではなく、輝良は関西の言葉でつぶやいた。
「どうや。不満か。城戸の跡目継ぐんは」
 わざとだろう、武則が怒ったような口調で聞く。「いえ」と輝良はすぐに素直に首を横に振った。
「不満どころか……もったいないほどの話です。二葉組の外に出ること自体……考えたこともなかったのに、いきなり城戸の名を継ぐとか……びっくりですが、すごいチャンスだと思います」
「せや。おまえにとっても、二葉組にとっても、えらいチャンスや。このチャンス、逃す手はない」
「はい」
 輝良がうなずく。
 ふたりがこんなにストレートな言葉で会話するのを、沢は久しぶりに目にするような気がした。熊沢が現れて以来だから、それこそ二年ぶりだろうか。輝良が城戸の籍に入ることで武則もようやく本当に心の区切りをつける気になってくれたのか。
 だとしたらありがたいと沢は思う。武則のほうが輝良に余計な圧迫を加えなければ、輝良が反抗する必要もない。
 その夜、久しぶりに沢は輝良と呑んだ。
「ええタイミングやったなあ。城戸さんには、おまえ、一生頭上がらんな」
「いいタイミングってなにが」
「とぼけんなや」
 沢は軽く足を出して輝良を蹴った。
「おまえ、オヤジに刃向う気やったやろ。いろいろ準備しとったの、俺が気ぃついてないとでも思っとったんか」
「……なんだ」
 輝良は小さく口元を歪めて笑う。
「いっくら沢さんでも今度ばかりは見逃してくれるわけないだろうから、なにも言わないってことはなにも気がついてないってことかと思ってたよ」
「んなわけあるかい、アホォ」
「……まあねえ。指落とせとまで言われたら……自分で自分は守らなきゃ。でもそんなことしたら、二葉組はめちゃくちゃになる。……どうしようかなって悩んでたんだよ、これでも」
 悩んでいたという輝良の言葉は嘘ではないだろう。よくも悪くも二葉組は輝良の足場だ。武則との不和が原因で二葉組を荒れさせたら、指とプライドは守れてもこれからこの世界で大きくなっていくための母体がぐずぐずになる。
「それにしても……城戸組跡目争いか……。じっさんもえげつないこと思いつくよね」
「内々におまえに決まっとるゆうても、本気で取りにいくつもりやないとな」
「城戸輝良か。……悪くないよね」
「アホ。気が早いわ」
 はは、と短く笑って互いのコップを空にする。
 その笑いの底に、すでにピンと張った緊張があった。
『城戸の跡目をこいつにちゃんと継がせるまでは』
 気張らんとあかんなと、沢は面を引き締めた。





                                                  つづく



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