流花無残 四話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>










 もつれ合うようにして眠っていた。
 起きてみれば全裸で手足を絡ませて眠っていたわけで、輝良は顔から火を吹いた。
 熊沢のほうは平然と、でも嬉しそうに、
「輝良、おはよう」
 と唇を寄せて来たけれど、輝良は両手でその熊沢の顎を押し上げた。
「なーし! なしなしなし! 目覚めておはようのキスとかマジねーし!」
「ないのか?」
「ない!」
「そうか、残念だな」
 熊沢はさほど残念そうでもなくそう言うと、かわりに輝良の頭を胸に抱え込んだ。
「――めちゃくちゃ嬉しい。おまえと……」
 こうなれて。
 続く言葉は髪の間に吹き込まれる。思わずうっとりと眼を閉じそうになって輝良は飛び起きた。
「だから! な? ケジメよく行こうぜ? ハネムーンの新婚さんみたいなの、おれ、無理だから!」
 ベッドから飛び出して思い切り伸びをする。
「躯だってどろどろだし。タオル絞ってきて拭かないと。……あれ?」
 輝良は朝の光の中で自分の白く細い躯を見下ろした。
「キスマークとか……全然ついてない……」
「風呂とか部活とか、誰が見るかわかんないだろ。キスマークってきつく吸うとつくらしいんだけど、ゆうべは我慢したんだ」
 熊沢の言うことを聞けばもっともだったが、それでもどこかに『痕』が欲しかったなどと考えて、輝良は一人、赤面する。
「と、とりあえず……片付けて朝メシ行こう!」
 大声で言い、輝良は照れ隠しにばたばたと動き回った。
 互いに身支度を済ませ、寮の食堂に向かう。
 向かい合っての朝食はゆうべの夕食同様、やはり言葉少ななものだったが、それは昨夜の沈黙とはまるでちがうものだった。少し気恥ずかしくて、でも、満ち足りて、言葉はなくても通じ合っている安心感が心地よい、そんな沈黙。
「あ」
 ふと気づいてしまって、輝良は声を上げた。
「どうした?」
 熊沢も箸を止める。
「いや……なんでもね」
「言えよ。気になる」
「……あー……あんな、これって一応、クマがおれの初めての、か、彼氏……ってことになんのかなって」
 真っ赤になりながら小さく囁いた輝良に、熊沢は笑みを見せた。
「そうだな。望みがかなうなら……最初で最後のってことになってほしいな」
「う、うわー! なに、おま、ゲロ甘い!」
 友人だった少年は輝良の照れ隠しな突っ込みにも動じない。
「俺はたぶん、ロマンティストで一途だと思う」
 そんなことまで言い出されて、輝良は箸を持った手を振り回した。
「やめやめやめー! なに、信じらんない。真顔で朝っぱらから言うこっちゃねーし! うわ、おまえ、恥ずいわあ!」
「俺は恥ずかしくないぞ?」
「だからやめろって。話変えよう、話!」
 輝良が強引に言うと、熊沢は『そういえば』と、表情を改めた。
「きのう、おまえ、俺に話があるって言ってなかったか。俺はてっきり絶交宣言かと思って慌てたんだが……」
「……あ。あれね……」
 そうだった。思い出して輝良は気分がずんと沈むのを感じる。父親が詐欺のような事業計画に乗って資産を失う羽目になったこと、高校は公立に変わらねばならないかもしれないことを、輝良は一気に思い出した。
 人生の一大事を忘れていたなんて自分でも迂闊だと思うが、別の意味できのうは人生の一大転換の日だったのだから仕方ない。
「なんだ? 大事な話か?」
 熊沢が尋ねてくれるが、せっかくのいい気分を壊したくなかった。
「また……ゆっくり、落ち着いた時に話す。今は……ちょっと」
「……そうか。じゃあまた今度な」
 人の気持ちを大事にしてくれる熊沢があっさりと引いてくれるのにほっとして、輝良は朝食の残りをかきこんだ。



 部屋へと戻る途中、輝良は昼食の予約を入れていないことを思い出した。熊沢の分と二人分、予約しておくと告げて一人、食堂へと戻る。予約受付表に名前を記入して、さあ部屋に戻ろうかと踵を返しかけたところで、
「木下!」
 慌てたような舎監の声に呼び止められた。
「よかった! ここにいたか! ちょっとえらいことがあったらしい、すぐ先生と舎監室に来なさい!」
 えらいこと。舎監はそれしか言わない。嫌な胸騒ぎに輝良は舎監室へと足を速める。
 舎監室というのは、舎監の先生の私室とは異なり、寮への訪問者を迎える応接室のようなものだった。部外者に対しては応接室となるその部屋は、禁を犯した生徒には説教部屋となり、「舎監室への呼び出し」は決して喜ばしいものではなかった。
 オーク材の重厚な扉を開くと、中は十畳ほどの広さの洋間になっていて、舎監の先生の執務机のほかに手前に品のいい応接セットが置いてある。その応接セットのソファに掛けていた男がすぐに立ち上がった。
「輝良!」
「おじさん?」
 それはスーツ姿の孝義叔父だった。
「木下。こちらの方は、君の叔父さんで間違いないね?」
 横に並んでいた舎監の先生が輝良の顔を覗き込んでくる。
「はい。母方の孝義叔父です……」
 語尾が小さくなったのは、『この叔父のせいでぼくの父は財産を失くすことになったんです』と恨み言を続けたくなったせいだった。
「まちがいないな?……すみません、生徒の迎えは、原則としてご両親以外に認めないことになっていますので……確認のため」
「わかります。お気になさらないでください」
 舎監の先生と叔父のやり取りを輝良は怪訝な面持ちで聞く。生徒の迎え?
「輝良。落ち着いて聞いてほしい。きのうの夜、義兄さんと義姉さんが高速で事故に遭って、今まだ病院の救急で……」
「えっ! とうさんと……かあさんが!?」
 思わず大声が出た。
「ど、どういうこと! 高速で事故って……」
 孝義叔父は沈痛な面持ちで、輝良の視線から逃げるようにうつむいた。
「金策で走り回って……おまえも知ってると思うが、なんとかおまえの学費を工面しようとしたんだろうな。義兄さんと義姉さんは大阪まで出向いたんだ。その帰り道……」
「大阪……」
 呆然とする輝良ではなく、叔父は舎監の教師に視線を向けると説明口調で続けた。
「実は、身内の恥をお話するようで恥ずかしいのですが、この子の父親が事業に失敗しまして……なんとか息子には学業を続けさせたいと、昔の友人を頼って大阪に行ってみると言っていたんですが……お話したとおり、昨夜、高速でトラックに追突されて……」
「そ、それで……とうさんとかあさんは!」
「命は助かったらしい。詳しいことは俺もまだわからないんだが……」
「木下。急いで支度してきなさい。大江さん、では生徒外出引き受けの書類にご記入いただけますか」
 教師の言葉に押されるようにして、輝良は舎監室を出た。ふわふわと床を踏んでいる感覚もないままに部屋へと走る。
 クマに話さなきゃ。
 頭にはそれしかなかった。
 が、部屋は無人だった。見ると熊沢のベッドのシーツが剥がしてある。熊沢が洗濯室に持って行ったにちがいなかった。一瞬、昨夜の恥ずかしい場面が蘇りそうになり、慌てて顔をぱしんとはたく。
 きのう着てきたばかりの制服をクローゼットから引っ張り出す。寮への大きな荷物は宅配便で今日にも届く予定だった。数日分の着替えと身の回りの品だけが入ったボストンバッグはまだ荷解きもしていない。そのまま掴んで輝良は部屋を飛び出しかけて、なにかに引かれたように立ち止まった。
 ――クマに伝言。
 一刻を争う時だとわかっていたが、後で連絡すればいいとはなぜか思えなかった。
『父と母が事故って、オジが迎えに来た。大阪の病院に行く。』
 輝良、と続けて名前を書こうとして手を止める。本当を言えば、昨夜ああいう関係になったばかりでまたしばらく会えなくなるのは寂しい。なにか甘い言葉を残したいような気もする。だが、『好きだ』とか『寂しい』とか、直接的な言葉を記す勇気はなかった。誰の眼に触れるかも、わからない。
 考えて輝良は、『おれは後悔してないぞ。輝良』それだけを書いた。それだけでもずいぶんと恥ずかしい気がしたが、ギリギリこれなら書き残しておいてもいいように思えた。
「クマ。熊沢寛之。……バイバイ」
 空のベッドに手を振って、輝良は部屋を出たのだった。



 新幹線の車窓から見る景色が飛ぶように後ろへ後ろへと流れていく。
 輝良は一人で指定席に座り、窓から外を見ていた。
 ホームまで一緒に来た叔父はほかに仕事もあるので一緒に行けないが、新大阪には迎えの人が来ているから心配ないと言った。
『道子おばさん?』
 輝良が母の妹の名前を挙げると、叔父は首を横に振った。
『道子は……その、もう病院だから……迎えに来れない。でも代わりの人をちゃんと頼んだから、大丈夫だ。おまえの乗った車両も連絡してある。必ず前寄りのドアから降りるんだぞ』
 輝良はさらにどんな人が迎えに来るのかと聞きたかったが、『乗り遅れたら大変だから』と叔父に新幹線の中に押し込まれてしまった。
 名古屋あたりまではただただ両親が心配だった。自分の学費のために両親が相当な無理をしたんじゃないかと、申し訳なさも込み上げた。
 両親が事故。命は助かったそうだが、叔父の口調ではあまりよい状態だとは感じられなかった。大丈夫だろうか。意識はあるんだろうか。トラックに追突されたと聞いた。父はいつも車間距離をしっかりとる安全運転だが後ろから追突されたのでは避けようがなかったのだろう。
――それにしても、大阪なんて……。
――それにしても、迎えにあの孝義叔父が来るなんて……。
 昔の友人に金策を頼みに行った……? 大阪に父の友人なんていただろうか。地元の名家に生まれた父は大学で東京に出たぐらいで、あとはずっと埼玉だったはずだ。父の友人と紹介されたことがあるのは近在に住む人ばかりだった気がする。大阪で成功した人なんて、聞いたことがあったろうか……。
 叔父が迎えに来たのはわからないでもない。身内だからだ。でも……父方の親戚はどうしたんだろう? 母は今度のことで実の妹である道子叔母のこともずいぶんと怒っていた。だいたい金策のために大阪に行くなんて話を父母が叔父に伝えようとするだろうか? この窮状をもたらした張本人である叔父に?
 なんだかおかしいような気がする。なにもおかしくないけれど、でも、なにかが。
 考えを追ううちにトンネルに入った。窓に映る自分の姿を輝良は改めて見た。
 制服の白いカッターシャツに身を包んだ不安げな少年。子供の頃から街を歩けばスカウトの声が掛かった。学校でも何度も、男子校なのに『綺麗だ、可愛い』とラブレターをもらった。自分でそんなふうに思うのはおかしいかもしれないが、外見は確かに細くて綺麗だ。男くささのまるでない、女の子が男装しているといっても信じられてしまいそうな……。
 大阪までもう30分もない。輝良はたまらず立ち上がった。急な動きに隣の席にいたサラリーマンが迷惑そうにこちらを見てくる。
――もし、もし……また騙されていたら?
 不安が疑惑の形になって押し寄せる。
「すいません」
 座席を抜けて、輝良は電話室へと急いだ。家に電話をするためだった。父も母も携帯電話は解約してしまったと聞いていた。自宅しか、父母に連絡する手段がないことがこんなにも歯がゆいことはなかった。
 自宅の電話は虚しく呼び出し音を繰り返すばかり。債権者からの電話が続くこともあり、留守電機能は使わないようにしていると母が言っていたが、恨めしいばかりだった。
――どうしよう。
 どうしようもなかった。新幹線の中には逃げ場もない。乗務員に訴える? なにを? 叔父に騙されているかもしれないと? その根拠が「自分が綺麗で可愛いから」なんて、バカらしいにもほどがある。もしかしたら本当に両親は事故で入院しているかもしれないのに。
 輝良はイライラと足踏みした。
――とりあえず。迎えの人物というのを見てみよう。叔父はしつこく車両の前寄り扉から降りるように言っていた。その付近に怪しい人物がいたら、別のドアから降りて逃げればいい……。
 そう心を決めて、大阪駅のはるか手前から荷物を持って前の車両に移動した。いよいよ新幹線がホームへと滑り込むと、空いている席から懸命に窓の外をうかがった。
 定位置付近になると列車のスピードもかなり遅くなる。眼をこらすと、黒服の体格のいい男が言われた場所あたりに立っていた。
 ヤクザっぽく見えた。
 もう迷っていられない。輝良は車両を全速で駆け抜け、指定された扉からは一両車両を挟んだ扉からホームへと降りる。が、ホームをざっと見渡したその瞬間、輝良は己の失策を悟った。
 輝良が降りた位置からは、出口に向かう階段は左手にしかなく、その手前には怪しく見えた黒服の男がいるのだ。あいにく身を隠せるような待合室もキオスクもない。
 駆け抜けるしかなかった。
 が……男は目ざとかった。
 階段へとたどり着く前に、輝良は数人の男たちに取り囲まれていた。




 お約束のような黒い車で連れて行かれたのは、やけに立派なマンションだった。地下の駐車場から専用のエレベーターに乗せられ、着いた先は最上階の、ホテルのスイートルームのような豪奢な部屋だった。
 重厚なオークの両開きの扉が開くと、そこは大理石の敷かれた六畳ほども広さのある玄関で、正面には見事な筆捌きで『不惜身命』と書かれた額が掲げられている。両腕をスーツ姿の男たちに取られたまま、奥の部屋へとふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下を引きずられて行く。
「なあ! これ、ヤクザの家? そうなの?」
 男たちがなにを聞いても答えてくれないのは車の中と同じだった。
「離せよ! 自分で歩ける!」
 そう訴えても腕を離してもらえないのも。
 突き当たりのドアはひときわ立派な、ガラスを埋め込んだ重々しい扉だった。
「連れてきました」
 初めて輝良の右側にいる男が声を出し、扉を開く。
 100人も入れそうな、広い部屋だった。眩しいと思ったのは、正面が一面、床から天井までの窓になっているせいだった。大阪の街と、なんの山だか、遠くには山の陰さえ見える。次に目を惹かれたのは片側の壁際にずらりと並べられたライオンを始めとする猛獣類の剥製だった。どれも荒々しく牙を剥き、今にも獲物に飛び掛からんばかりに見え、輝良は一瞬、本物がいるのかとどきりと躯を震わせたほどだった。部屋の中央には巨大な水槽があり、アロワナがゆったりと泳いでいる。贅をこらした豪華なシャンデリア、毛皮の上に置かれたきらきらなミニテーブルと椅子、大画面のテレビとそれに向かい合う位置に置かれた、総革張りのソファ。水槽の反対側は食堂として使われているのか、ヨーロッパの古城にでもあるような、アンティーク調の長テーブルと椅子が渋い光沢を放っている。その奥にはステンレスが鈍く輝くキッチンらしきスペースも見てとれた。
 自分が連れて来られた場所を急いで見回した輝良は、最後にもう一度、アロワナの水槽に目を戻した。その陰に男が一人、立って水槽を覗き込んでいる。
 男はゆったりとした動きで部屋の中央へと出てきた。背の高い男だった。立派な体格を品のいいポロシャツとスラックスに包んでいても、その服の下に隠された筋肉の不穏なオーラが漂ってきそうな、笑顔でいるのに、怖い印象の男だった。
 輝良は警戒感から首の後ろがちりちりと立つような感覚を生まれて初めて覚えた。
「連れてきました」
「ああ、ご苦労」
 低く響きのいい声は輝良には聞き慣れない関西のイントネーションだった。男はまっすぐに輝良を見た。
「木下輝良か」
「……はい」
「大江からはどこまで聞いとる」
「……なにも。両親が大阪で事故に遭って入院してるから、大阪に行けと」
「えげつない嘘やなあ。心配やったやろ」
「…………」
「大江から連絡のあった扉とはちがう扉から降りられて、駅であやうく逃げられるところでした」
 輝良が答えないでいると、輝良の右横の男が報告した。
「ほお。なかなか油断のならん感じやなあ」
 男はにまりと笑うと、輝良の近くへと歩み寄ってきた。
 唇には笑みを貼り付けたまま、底冷えのする目で輝良を見下ろす。
 怖かった。だが、目を逸らすのは嫌で、輝良はその怖い目を震えをこらえて見つめ返した。
「――ぼうず」
 男が目と同じ、底冷えのするものを秘めた声で輝良を呼んだ。
「俺が怖ないんか」
「怖くないです」
 輝良は精一杯の虚勢を張った。声はみじめに震えていたが。
「そうか」
 男は輝良の腕を取る男二人に顎をしゃくった。
「脱がせ。気ぃが変わった。夜まで待つこともないやろ。――自分がどういう立場におるんか、まずは教えちゃるわ」
 両側の男から同時に手が輝良へと伸びた。
「や、やだっ! やめろっ!」
 身をひねって、逃れようもない腕から逃れようとしながら、輝良はこの部屋の主らしき男が部屋の奥へと歩みながら、ポロシャツを脱ぐのを見た。
 その背では、彩りも華やかに、竜が天に向かって吠えていた。














                                                  つづく






Next
Novels Top
Home