流花無残 六話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>









 父親への電話では、自分でも意外なほど明るい声で嘘がつけた。
 点滴が効いたのか、もとからの体力か、あれほど酷い目に遭いながら熱も出さずに済んだ輝良を次の日待っていたのは、父親を騙す電話を掛ける役だった。
 叔父から、輝良の父が輝良が学校から連れ出されたことを知り、大騒ぎをしていると連絡があったらしい。叔父は『警察に行くと言って聞かないんだ! なんとかしてくれ!』と沢に泣きついてきたという。
「ええ父親やなあ」
 ソファにふんぞり返り煙草をふかしながら、二葉は部屋から呼ばれて出てきた輝良を値踏みするように見た。
「息子の安否がわからんなら警察に駆け込むて。三百万、チャラにしたる言うたら、おとなしなるやろと大江は思っとったらしいが、アテが外れたな」
 ふうっと紫煙を吹き上げ、二葉はローテーブルの上の電話機を顎で示した。
「どうする? 父親に泣きつくか?」
 試されているような気がした。輝良はじっと二葉を見つめた。昨日、自分を犯した男。生活の保証と三百万と引き換えに、自分を飼おうとしている男。
「……本当に、三百万、チャラにしてもらえるんですか」
「沢」
 二葉が若頭を呼ぶと、沢が一枚の書面を輝良に差し出した。それは初回三百万の返済を必要なしとする、今後もこの三百万については、二葉はこれを受領済みのものとして扱うと明記されている念書だった。二葉の印鑑と署名もある。
「それをおまえにやる」
 二葉は簡単に言う。
「……きのう、沢さんに聞きました。好きな学校に行かせてもらえるって、それも本当ですか」
「俺は学校のことはようわからん。試験があるんやろ? その試験に受かるんやったら、どこでもええで? ああ、ただし、全寮制はいかん。こっから通えるとこやったら、ゆう条件つきや」
 輝良は唇を噛んだ。昨日の沢の言葉が脳裏をよぎる。みんなが楽チンになる道。しかし、それはこれからもこの目の前の男にいいようにされることを意味する。
 心はほぼ決まっていた。しかし、自分に対しての最後通告を自分から口にする、踏ん切りがつかなかった。
「――ああ、そうや」
 輝良の逡巡を見て取ったように、沢が横から口を出した。
「組長。きのうのビデオ、あれ、どうしましょう」
「……ああ、あれか」
 二葉がゆっくりと身体を起こして灰皿に煙草をこすりつける。
「どないするかな。俺一人のお楽しみにとっとくつもりやったんやけど」
「わかりました!」
 その会話だけで充分だった。わざわざ言われなくてもわかる。沢の言うビデオが昨日の一部始終を写したものであることも、輝良がここで「うん」と言わなければ、それが両親の元へ送られるのだということも。輝良はしっかりと顔を上げた。
「おれは……ここで厄介になります! よろしくお願いします! 父には、俺から大丈夫だと伝えます」
「やっぱりおまえはええ子やなあ」
 頬に大きな刃物傷の残る顔をほころばせ、満足そうに二葉はうなずいた。




 息子からの電話に、父は一抹の不安と心配を覚えながらもとりあえずは納得してくれたようだった。二葉は父親を安心させる材料として、輝良といつでも連絡が取れるようにとマンションの住所や電話番号を輝良に告げさせた。
 叔父から債権を買った事業家がその家の息子の将来を案じて引き取ると申し出た、そんな構図に親としてどこかうさんくささを覚えないはずはなかっただろう。だが、輝良が「心配しないで。高校も好きなところに進学させてくれるって」と弾んだ声ではしゃいで見せると、父親は最後には「そうか」とうなずいた。
 こうして、輝良の二葉組組長の私宅での生活が始まった。――組長の玩具としての日々が。
 ヤクザはヤクザでいろいろ忙しいらしく、二葉は二、三日帰宅しないこともあったし、夜はたいてい遅かった。その埋め合わせとでもいうのだろうか、家にいる間は輝良の都合などおかまいなく、輝良を傍らに置きたがった。そばにいれば当然のように、手が伸びてくる。家には二葉に付き従って、沢を始めとして組員が必ず数名ずつは控えているのに、二葉は部下の前でも平気で輝良の躯を弄った。輝良がいくら、そんなふうに他人の見ている前でいちゃいちゃと触られるのが嫌だと訴えても、聞き入れてはもらえなかった。
『変態エロおやじ!』
 口にこそ出さなかったが、食事をしながら輝良の太股を撫でたり、テレビを見ながら輝良の胸元に手を入れる中年男を輝良は心の底から軽蔑した。
 二葉に興が乗ってくれば、寝室だけではなく、バスルームでもリビングでも、躯を開かれる。その行為は輝良にとっては初めての日の悪夢にも等しい数時間を思い出させるだけのものでしかなく、気持ちの悪さと苦痛を耐える試練でしかなかった。
 そんなある日、二葉はそのマンションから通える範囲にある私立中学のパンフレットを束にして持って帰ってきた。編入試験を受ける中学を選べというのだ。輝良は投げやりな気持ちでその中で一番知名度の高い、おそらくは偏差値も高いだろう学校を選んだ。
「ここか! えらいおぼっちゃま学校を選ぶもんやなあ」
 なぜだか二葉は嬉しそうだった。
「ここの生徒はあれやろ、東大やら行くんやろ。おまえ、大丈夫か、受かるんか」
「……学校ではずっと……」
 言いかけて輝良は言葉を切った。学校ではずっと二番だった。一番は憎たらしいほどよく出来るヤツで……憎たらしいほど大好きなヤツで……。
 二葉に最初に散らされた時以来、輝良はその面影を思い出すことを自分に禁じていた。思い出すと、会いたくなる。会えないのに、会いたくなる。なぜ会えないのか、今の境遇を思うと、涙が出てくる、弱くなる。だから輝良は大好きだった親友で一晩だけ恋人だった少年のことは思い出さないようにしていたのだった。
「学校ではずっとほとんどトップだった。たぶん、大丈夫だと思う」
 ばん!と背中を叩かれた。
「頑張れや! 男はここ一番ゆう時は気張らなあかんねん! 試験までしっかり勉強せいや! 勉強に必要なもんは揃っとるか? なんぞ足りんもんがあったら沢になんぼでも頼め。ええな?」
 輝良は二葉の顔を見たくなくて、俯いたままうなずいた。
 バカじゃないのかと思う。
 自分の都合で夜中でもなんでも輝良を起こして、好きに躯を弄り回すくせに。こんな環境で本気で勉強できると思っているとしたらお笑いだ、と。
 本気で合格を期待しているような二葉が馬鹿らしかった。どんな学校に通うことになろうと、しょせん、ヤクザの玩具だ。輝良は試験の準備などする気にはなれなかった。期待している二葉をがっかりさせてやりたくもあった。
 10月いっぱいは前の学校に籍があると聞かされていた。11月からの登校のために10月末に編入試験を受けることになっていたが、二葉にはべっていなくていい時は、ただだらだらとテレビを見たり漫画を読んだりして過ごしていた。
「おまえ、全然勉強してへんな」
 10月も半ばになってチェックを入れてきたのは沢だった。テレビを見ていた輝良はむっとして沢を見上げた。
「あんたに関係ないじゃん」
「組長はおまえの合格を楽しみにしてはんねや。ちった頑張らんかい」
「なんでおれがクソヤクザのために頑張んなきゃなんないんだ」
 生意気な口をきいたとたん、沢に胸倉を掴み上げられた。
「俺のオヤジや。侮辱すな。ええか。おまえから見たらエロいだけの中年かもしれんけどな。俺はオヤジのためなら命かけれんねん」
 間近で見る沢の目が血走っているのを輝良は息を呑んで見つめた。
「あんまり生意気なことぬかしとると、いくらオヤジのお気に入りのおまえでも許さんど。その綺麗な顔、ずたずたにしちゃる」
 床に向かって突き放される。
 凄みをきかせて輝良をねめつけながら歩み去る沢を、輝良は尻餅をついたままの姿勢で見送った。
 輝良には沢に言ってやりたいことが山ほどあった。命かけるのはおまえの勝手だろ、おまえのオヤジだからってなんでそこまで怒るんだよ、お気に入りってなんだ、こんな好き勝手されるだけのお気に入り、なりたくてなってるわけじゃないぞ――反感は渦巻いたが、輝良は無言のままでいた。勝手なヤクザの論理だったが、沢の二葉に対する思いのようなものは伝わってきていて、それまで馬鹿にしてはいけないような気がしたのだ。
『組長はおまえの合格を楽しみにしてはんねや』
 そうと聞けば、ますます合格など目指したくなくなるが、部下に『俺はオヤジのためなら命かけれんねん』とまで言わせる男の期待なら、ほんの少し、頑張ってみてもいいような気もしてきた。
 輝良は立ち上がると沢を追った。玄関で追いつく。
「なら、金ちょうだい。参考書と問題集買ってくる」
 沢は少し驚いたように輝良を振り向いたが、黙って懐から財布を取り出した。
「……ほい」
 無造作に差し出されたのは軽く十枚は超えようかという一万円札の束だった。
「なんや。足りんのか」
「……編入試験は三教科だから、一枚で充分なんだ」
「……参考書なんて買わねーから……」
 沢が言い訳するようにもごもご言うのを聞きながら、輝良はその手からすっと二枚の万札を抜き取った。
「あ! なんやおまえ、一枚ゆうたやないか!」
「前祝いだよ。おれにうかってほしいんだろ?」
 わざと口を大きく左右に開いて笑ってみせると、沢は輝良のおなかにパンチを入れるマネをして出て行った。
 オヤジのためなら命をかけることができ、参考書代に十万以上をポンと出そうとする……。
「ヤクザってわかんねーな」
 輝良は一人、呟いた。




 在籍していた中高一貫の私立も、全国から優秀な生徒が集まる偏差値の高い進学校だった。その気になれば落ちるわけはないと思ったが、輝良はそれから試験までの十日ほどをまじめに勉強して過ごした。
 意外なことに、二葉に試験までの十日だけ、規則正しく生活したいこと、夜の相手を勘弁してほしいことを居住まい正して申し入れてみると、二葉は「十日か……しゃあないな」と苦い顔をしながらも納得してくれ、実際に試験まで輝良に手を出してはこなかった。
 だが――。
 拉致られるように二葉の家に連れて来られ、借金と学費の代償に男の玩具になって二ヶ月近く。男に触れられずにすむ日々と、男の輝良の勉学への理解の代償を、輝良は思わぬ形で払わされることになったのだった。
 手ごたえのよかった試験が終わったその日、輝良は十日ぶりに二葉の寝室に呼ばれた。
 当然、十日ぶりというので二葉はスケベ笑いがこらえられないようで、輝良はそんな男を内心で軽蔑しながら、また始まった日々に気分が沈むのを感じていた。
 なのに。
 二葉に抱き寄せられ、唇や舌を吸われながら、躯中をまさぐる手にパジャマを脱がされていきながら……輝良は己の躯に走る異様な感覚に身震いせねばならなかった。
 胸を弄られても股間を弄られても、気持ち悪いだけのはずのキスでさえ……二葉の指や唇の感覚がいちいち鮮烈で、気持ちがよかったのだ。
 二葉の体温や息遣い、肌をまさぐるざらついた肌まで……すべてが蠱惑的で、触れられるたび、快感としか呼びようのない痺れが躯の奥から湧いてきてしまう。
 残酷な暴力でしかなかった、初めての時を思い起こしても、なお――昂ぶってくる躯の熱が止まらなかった。輝良の戸惑いをおきざりに。
「……ッ」
 せめて声は出したくないと思う。輝良は必死に自分の手で口を抑えた。
 が、どれほど声を殺したところで……目の潤み、止めようもなく震える腰、熱くなる性器を二葉の目から隠し切ることはできない。
「……気持ち、ええんか?」
 自分はバスローブを着た姿のままベッドボードに背たもれて、全裸にした輝良を脚の間に挟んで後ろから好きに弄っていた二葉が、耳元を舐めるように囁いた。
「ッ」
 その刺激にさえ、耳から首筋、さらには腰へと鋭く甘い電流が走り、輝良はびくりと首をすくめた。体積を増していた股間のモノがさらに硬度を増して上を向く。
「そうかぁ、ええんか」
 いやらしい笑いを含んだ声。
 気持ち悪い、やめてくれと思うのに。
 ねっとりと湿度を増した愛撫をこらえようと思うと、身をくねらせずにはいられなかった。
「なあ。コレ、欲しないか?」
 臀部にタオル地のバスローブごしに男のものを擦り付けられる。
 輝良は必死で首を横に振った。ソレは苦痛でしかない、嫌悪すべきものでしかない。――そのはずだった。
「……そうかあ。いらんか。ほなら、しゃあないなあ」
 面白がるような声が言い、輝良の躯はうつ伏せになるように前に向かって押し倒された。
 強い力の手が、腰だけぐいっと高く掲げさせる。
「あ……」
 晒される格好になった小さな祠に、熱く硬いものを押し付けられる。
「いらんのやったら、これは押し売りやな。堪忍やで」
 輝良は息を詰めた。いつものように、痛みと苦しみと屈辱を耐えるだけの時間が早く過ぎるように祈るつもりで。
 が、目覚めた躯には侵食さえ甘くて――。
「――あ? あ、あ、やだ……や……ッあ! あ……!」
 そんなことはあってはならないことだった。
 男のモノを身内深くに呑まされると同時に、輝良は前から快の証を吹き上げていた。
 ありえない、ありえない、ありえない。
 自分はただ嗜虐の対象になっているだけ。いやなことをただ耐えているだけ。
 そのはずだったのに。
 前から放っても躯の中の狂おしい疼きはおさまらず、呑んだままの凶器に荒々しく内部を擦られることを願って、高く掲げた腰がこらえきれずに揺らめく。
 男が激しく腰を使いだすと、高い嬌声が上がりそうになり、輝良は必死でシーツを噛んだ――。
 三日後に合格通知が届くと、二葉は、
「さすがや。さすがや。俺が見込んだだけのことはある」
 と相好を崩した。沢も、
「やったやないか」
 と頭をぐりぐりと撫でて来た。
「今日は特別な褒美をやらないかんなあ」
 二葉が性的なものを匂わせながら言う。
 輝良が行為に快感を示すようになってから、二葉は特に機嫌がいい。
「そんなもの、いらねえ」
 輝良はうつむいたまま、低い声を出した。
「……そうやな。ほかの褒美も欲しいわなあ。なにがええ? DSとかゆうヤツか?」
「…………」
 自分が悪いのだとしても。輝良のなかで二葉への嫌悪感はいやましに増していた。男に抱かれて喘ぐ自分への嫌悪まで積み増して、服を着ている間の輝良は二葉の顔を見ることさえ拒否するようになっていた。
「若いのに聞いて、なにか適当なもん、探しときます」
 沢が横から不自然な空気を破るように言う。
「そやな。そうしといてや」
 傍らの男が立ち上がる気配にも、輝良は視線さえ向けなかった。
 それは輝良の最後の、ささやかな抵抗だった。
 躯が男に慣れてしまったのだとしても。
 本人の意志には関係なく、抱かれる快感に目覚めてしまったのだとしても。
 心は許さない。
 絶対に。
 輝良は二葉に対して、高く堅牢な壁を作っていたのだった。






                                                  つづく






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