流花無残 八話

   
「おまえは俺の犬だから」第三部<輝良>










 手をついて頭を下げる。
「あーこりゃあ」
 上から呆れたような声が降った。顔を上げると、浴衣姿の城戸泰造がおでこに手を当てて立っている。
「話がしたいゆうたら、誤解させてしもたなあ。……せやけど、まあええか。二葉には一晩、やきもきしててもらおか」
 さっさと部屋の中に入ってくると、城戸は布団の上に胡坐をかいた。
「輝良ゆうたか。こっちゃき。畳の上はつべたいやろ。足も崩したらええがな」
 ぽんぽんと城戸の斜め前あたりを叩かれる。
 どうも今から色っぽいことに及ぶ雰囲気ではなかった。
「あの……おれ、お相手しなくていいんですか」
 城戸は大げさに顔をしかめた。
「わしは来年70やど? もう枯れてもたわ。わしはおまえと話がしとうてなあ」
 なんの話だろう? いぶかりながら、輝良は城戸の前へと場所を移った。間近で城戸泰造と向き合う。
 城戸の浴衣の袖や裾から、色鮮やかな刺青がちらちらしている。顔には笑みが浮かんでいるが、輝良を見る眼はあくまで澄んで、その透徹した色がかえって怖いほどだった。今は穏やかでも、確かに「ヤクザの大親分」だったのだろうという風格が城戸にはあった。
 輝良は無意識に背筋を伸ばしていた。
「まあそう構えんでええ。……せやなあ、何から聞くかなあ。せや、おまえ、二葉のことは嫌いか。ずいぶん冷たい態度とっとるそうやないか」
「……好きになる理由がないですから」
 ぼそりと答える。
「困ったところを助けてくれてはる恩人でも、好きにはなれへんか」
「恩人?」
 つい、噛み付くように聞き返してしまったが、当然のように城戸はうなずいて返してきた。
「せや。恩人や。おまえは二葉のせいで自分の家が財産すべてのうなったように思とるがしらんが、せやない。おまえの家が貧乏になったんは、おまえのとうちゃんがアホやったからや。騙されたんは気の毒や。せやけど、騙されたほうが悪いゆうのんもほんまの話や」
「…………」
 輝良は唇を噛んで眼の前の老人を見つめた。殴ってやりたかったが、さすがにそれはまずい。
「殴りたそうな顔しとんな」
 老人がいたずらっ子のような笑みを浮かべて輝良の顔を下からのぞきこんできた。
「ええで? 殴りたかったら殴り。まぁだ素人のガキには負けへんで?」
「……殴りたくない。年寄りは大切にしなきゃいけないって習ったから。殴らない」
「ゆうなあ」
 城戸は声立てて笑うと、再び輝良にひたりと視線を合わせた。
「悪いのは騙されたおまえのとうちゃんや。けど、騙した二葉も確かに悪い。けどな、ここにもっと悪いのがおんねん」
「……大江のおじさん?」
「そうや。わかっとるやないか。一番悪いのはな、自分の財産でもないものを欲しがって、ヤクザの力を借りてまでそれを横取りしようとした、おまえのおじさんや。俺らヤクザはダニと同じですすれるだけ人の生き血をすすんねん。俺らも悪い。けど素人さんにも怖いのはおんねん。俺らみたいなダニを引き入れてまで、己の欲望を満たそうっちゅう、怖いのが」
 城戸の言うことはヤクザの自己弁護だと輝良は思う。けれど……。輝良は叔父がたびたび家に来ては、時に声を潜め、時に熱弁を振るって父に海外投資の話を持ちかけていた時の顔を思い出す。あれは父の財産を横取りするための熱心さと狡さだったのか。
「……でも、大江の叔父さんも一緒に投資してたって……」
「沢にでも聞いてみぃ。今、その叔父さんがどんだけ羽振りよう暮らしとるか」
 膝の上に置いた手を握り締める。父も母も自宅を取り上げられ、今は狭いアパート暮らしだ。自分もヤクザに囲われて、ようやく高校に通えているというのに……。
「さあ、そこで恩人登場や」
 冗談めかして城戸が言う。
「おまえの叔父さんはおまえのとうちゃんの金が欲しかった。横取りした。おまえのとうちゃんは騙された。ええか、これだけやったら、おまえは高校にも通えんと今頃バイトバイトの毎日や。おまえが今、高校に通えとんのは誰のおかげやねん」
 かっとして顔を上げる。こんな目に合わされて、感謝しろとでもいうのか。
「睨みないな。……確かに二葉が惚れこんだだけある。気ぃの強いガキや」
「……惚れこんだとか……気持ち悪い!」
 低く輝良が吐き捨てると、城戸は腕を組んだ。またちらりと極彩色の刺青がのぞく。
「そうゆうたりなや。……なあ。ヤクザなんて悲しいもんや。言ってみれば世の中の落ちこぼれが集まって自分たちなりのスジたてて、義理と人情で生きていこうゆうのがヤクザなんや。今は大学出てヤクザやっとるのもおるけどな……わしも二葉も中学も満足に出とらん。ここらにおるのは似たようなのばっかしや。……そんな二葉がな、なんでおまえをわざわざ高校に通わしてくれてる思うねん」
「…………」
「一目惚れやゆうとったわ」
「え」
「大江ゆう男から身内に金持っとるのがおる、うまくやったら金儲けができるゆうて、話があった時にな、二葉は沢連れて関東まで出て行ったんや。地元やないやろ、いろいろ勝手もわからんで実地に足運ぼゆうことになったんやな。そこで二葉はおまえを見てん」
 初耳だった。二葉たちが輝良の地元に来ていたことも。
「えらい興奮して話してくれたわ。ごつい綺麗な男の子やゆうてな。おまえ、えらい賢い学校行ってたんやて? ちょっと気の強そうなのがたまらん、俺らが逆立ちしても行けんような学校の生徒やて。気にしとったわ。父親が詐欺に遭うて全部取られてしもたら、あのガキ、どないなるんやろて」
 城戸は耳の後ろを掻くと、ふっと爪の間を吹いた。
「男ゆうのんはしょうもないもんや。ヤクザならなおのことな。気に入ったら、欲しなんねん。抱きたなんねん。……二葉はな、おまえのこと、心配しとおってん。頭のいい子ぉや、将来が楽しみや、ゆうてな」
 おっとりとおだやかな、少しハスキーな声。年齢の持つ深みと落ち着きがその声にはあり、城戸の言葉は耳に蓋をしたいような気持ちの輝良の中にさえ、するすると沁み入ってくる。しかし、この家に連れて来られるなり、力づくで陵辱された、今も男メカケにされている、その記憶と屈辱感は、消えない。
 頑なな輝良の表情を読んだのか、老人は溜息をついた。
「ほんでも嫌いか。しゃあないなあ……そんでも、輝良、おまえ、そしたらこの家出て、親んところに戻るか? 学校もやめんならん。そんでもええか。おまえがそれでええんやったら、わしが口きいちゃろ」
 輝良はぐっと俯いた。――口をきいてもらうまでもない。沢は参考書を理由にすれば金をくれる、毎日の登下校に見張りがついているわけでもない。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せるのだ、本当は。逃げるのは簡単だ。だが、その後は……。
「――賢い子ぉや。ここ出てもどもならんことはわかっとんのか」
「……仕返ししてやりたい。大江のおじさんに……。でも……」
「ほう。仕返ししてやりたいか。ほなら、なんで二葉を利用せえへんねん」
「……え」
 意味がわからず顔を上げると、穏やかだが読み切れない表情があった。
「手ぇ、出してみぃ。足もや」
 促されてわけもわからず手を差し出す。老人は輝良の手を取ると、両手で揉みこむようにして骨を探るような動きを見せた。足も同様に踝あたりを念入りに探られる。素肌に直接触れられていても、老人の乾いた肌からはなんのいやらしさも感じられなかった。
「……思たとおりや。おまえ、大きぃなるで」
 顔を上げた城戸は自分の見立てに満足気にうなずく。
「この家に来てからでも背ぇが伸びとるやろ。どや?」
「……5センチ」
「やろ? この夏はもっと伸びる。おまえが二葉よりデカなってみぃ。二葉かてそんなゴツイの、抱きとなったりせえへんわ」
 それは輝良が思ってもいなかった可能性だった。二葉よりデカくなる? そうしたら、抱かれなくなる?
「二葉の相手がつらいか。ほんのここ数年のことやで? ほんでも我慢できひんか」
「そんな……」
 何か言い返そうと思ったが言葉が出て来ない。
「二葉の相手は三年も続かんやろ。どや? 三年だけ、目ぇつぶって我慢できひんか。二葉はあれはちびっと色に弱いところがあれやけど、それ以外は文句のない男やで? 上のもんには義理を欠かさん、下のもんには情に厚い。この仁和組の中でも男の質でゆうたら一、二の男や。二葉はおまえを養子に迎えたいゆうとるそうやないか。どや? ちっと二葉に気に入られよ思わんか? したら、大学にも行けるかもしれん。強い後ろ盾が出来るんやで?」
「後ろ盾……」
「せや。おまえ、賢いんやろ。考えてみぃ。親が詐欺にあって財産取られて、どないして人生挽回してくねん。おまえの叔父さんにどないして復讐すんねん」
 そこで老人は輝良の呼吸をはかるように間を置いた。
「二葉はな、おまえに必要なもんをみんな持っとんのや」
 自分に必要なものを二葉は持っている――その言葉を輝良は噛み締めた。城戸の皺だらけの口元に、老獪な、意味ありげな笑みが浮かんだ。
「……もし、もしもやで? おまえがこの世界でビッグになろう思たら、簡単や。今でも二葉はおまえを自分の大事な上のスジの人間に紹介しとるやろ。この家に来て酒が飲めるんは仁和組の幹部ばかりや。おまえは泣く子もビビる仁和組の中枢近くにおんのやで? この意味がわかるか?」
 つりこまれるように輝良は老人の目をのぞきこんだ。
「――じいさん、おれにヤクザになれって?」
 老人の瞳には挑発的な色があった。面白がるような、すべてを知って、その上で輝良をからかってもいるような、瞳だった。
「輝良、力が欲しないか? こつこつ働いて貯めたもん、みんな騙し取られるような人生送りたいんか? 力づくで男に手篭めにされる、そんな目ぇにまた遭いたいんか?」
 輝良はじっと老人を見つめた。先のことなどあまり考えなかった。自分はこのまま一生、二葉の玩具として生きていくのかぐらいに思っていたのだ。
 躯が大きくなると言われた。二葉の相手は三年ほどだろうとも。
 二葉を利用しろと言われた。輝良が欲しいものをすべて持っていると。
 仁和組の中枢近くにいると言われた。ヤクザの世界で生きていこうと思ったら、恵まれた環境だと。
 城戸の言葉はどれもとても理解しやすい。本当のことだとも思う。輝良が気持ちを持ち替えさえすれば……こんな好条件はないほどなのだ。
 けれど……――。
 やめてくださいと何度も頼んだ。ほんの十数時間前に、想いを告げあった相手が触れた肌に触れられたくなくて、必死に抵抗した。そのすべてを無視し、無理矢理にすべてを奪われた。
 頭ではわかる。城戸の言うとおりだ。いまさらカタギの世界に戻れるとは思わない。だいたい、ここまで男にいいように拓かれ、男の味を覚えてしまった躯で、どのツラ下げて元いた場所に帰れるというのか。自分は変わってしまった。汚れてしまった。ならば……城戸の言うとおり、二葉の庇護を受けながら力を溜めるのが一番だ……。
 葛藤があった。
 理屈でわかっても、傷つけられた初恋の記憶がどうしても消えない。
 じっと輝良の視線を受け、その表情を見守っていた城戸の顔がふとなごんだ。目に優しい光が満ちる。
「……ほんでも、二葉は許せんか」
 輝良は無言でうなずく。
「ほうか。……ここ来る前に、好いた相手でもおったか」
 その問いかけに、輝良の中でなにかが壊れた。突然、目から涙が溢れ出した。喉の奥にかたまりが込み上げてきて、嗚咽さえ漏れそうになる。
「……ほうか。好いた相手がおったのか。それはかわいそうやったなあ」
 ぼろぼろと涙がこぼれる。口を開いたら大声で泣いてしまう。
 輝良は前のめりに布団に突っ伏した。泣き声をこらえるつらさに全身が細かく震える。
「ほうかほうか……かわいそうなことしたなあ……ええで? 声出して泣き。いっぱい泣いとき」
 泣いたのはここに連れて来られてきた日以来、初めてだった。泣いてもしょうがないことを嘆くほど、自分は弱くないと思っていた。
 老人の、少しかすれた、あたたかい声。肩をさする温かい手。半年以上、溜め込んだ涙が自制のタガを引きちぎって溢れ出した。
 うわあああ。
 輝良は声を上げて泣いた。目玉が蕩けて流れて行ってしまうのではないかと頭の隅でぼんやり思いながら、次々あふれる涙と嗚咽に身を震わせながら輝良は泣き続けた。
 その間ずっと、城戸老人は輝良の背中をぽんぽんと優しく叩き続けてくれていた。




 朝、はっと気づいて飛び起きた。
 輝良は一人で和室の布団にくるまれていた。慌てて周囲を見回すが城戸の気配はない。
 泣いて泣いて……背中をさすってもらってだんだん気持ちよくなって……そこから先の記憶がない。
 布団を占領して眠ってしまったのか! 
 失態に青ざめる思いで急いで部屋を出てリビングへと走りこむ。
「起きたんか」
 窓際に立っていた二葉がこちらを向いた。
「あの、じいさん……城戸さんは……?」
「ゆうべのうちに帰らはったわ。おまえは寝かせといちゃり、ゆうてな」
「……お、おれ、先に寝ちゃって……」
 二葉の顔に苦笑が浮かんだ。
「ええわ。じいさん、なんやご機嫌で……俺の勘違いをさんざん笑わはったわ。おまえのことは褒めとったで。しっかりしたええ子やゆうて」
 城戸の褒め言葉を伝えるとき、頬に鋭い刀傷の残る二葉の顔に誇らしげな色が浮かんだのを輝良は見た。まるで血のつながった我が子を褒められでもしたかのように。
『一目惚れやゆうとったわ』
 城戸の声が耳の奥によみがえる。
「ああ、輝良も起きたんか。おまえ、朝メシどないする? 今、オヤジさんのパン、焼いとるんや。おまえも……」
 キッチンから出て来た沢が声をかけてきたが、その声は輝良の耳を素通りした。
 寝乱れた白襦袢の裾を直し、襟元を整える。
――いまさら、親元に戻る気はない、戻れない。大好きな親友にも……もう会わせる顔はない。それなら……。
 泣いて泣いて、泣きつくして、輝良の中に残っているのはすがすがしさにも似た、堅い意志だけだった。
――俺は、強くなる。
 そして輝良の目の前にはそのための心強い手があった。
 輝良は床に膝をつき、手をついた。二葉の顔をまっすぐに見上げる。
「この前の、養子の話。俺、お受けします。俺は二葉輝良になります」
 輝良が自身の人生を極道の世界に向けて、大きく舵を切った瞬間だった。




 



                                                  つづく






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