「ホンマにええんか」
「くどいなあ」
輝良は剥き出しの腕を男の肩に投げかける。
「俺は二葉輝良になる。俺は……名実ともに、あんたのものだ」
自分の太股をまたいで座る輝良の裸の胸に、二葉はそっと手を這わせる。素直に震える吐息をこぼす輝良に男の目が嬉しげに細められた。
「――後悔はさせへん。おまえが望むなら……おまえを一流の極道に育てちゃる」
男の目を見つめ、輝良は笑みを浮かべて見せた。それまで決して笑顔を見せなかった輝良の顔をはっと見つめ直すような男の表情に、仄暗い喜びが湧く。それは輝良が今まで知らなかった、悪女の満足だった。
「よろしくお願いします。……おとうさん」
ふざけたように付け加えた一言に、にやりと二葉も唇を歪めた。
「息子にこないなことする、俺はあかんおとんやなあ」
その手が腰の後ろへと布地をくぐって滑るのを感じながら、輝良は半眼を閉じ、そっと顎を前へと出した。
最初の日、無理矢理穿たれた陵辱のあと、キスしてきた二葉の舌を思い切り噛んだ。以来、二葉からキスを求められたことは一度もない。
今、初めて男にキスをねだる仕草を見せる。――やはり、ツキリと胸が痛んだ。
好きでするキスじゃないと自分に言い訳をしたくなる。これは……これは契約のキス。二葉に抱かれるのも。与えられるものへの、輝良なりの代価に過ぎないと。
――ちがう。
言い訳したくなる自分を、輝良は自分で否定する。自分は男に抱かれるセックスに快感を感じている。そして、自分から望んでこの二葉に自分の人生をゆだねたのだ。泥にまみれる覚悟を決めたのに、きれいなところを残しておこうとする自分の心は往生際悪く、卑しい。
男の唇に唇を覆われる。ねぶられるように吸われ、肉厚な舌が差し入れられてきた。
「……ん……」
求められるまま、口腔を明け渡す。応えて、男の舌に自分の舌を添わせさえする。
これからは……もうなにも拒まない。男が求めるままにいくらでも躯を開く。男が喜ぶなら自分から淫らに腰を振っても見せてやる。望んで堕ちるのだ。綺麗なところなど、なにも残しておかなくていい。
――そのかわり……。
「ひとつ、お願いしていい?」
キスの余韻に吐息をこぼしながら呟いた。
「なんや、早速おねだりか」
輝良の保護者となった男は輝良の股間のものに手を這わせて笑う。
「なんや? 息子になった記念や。なんでも買うちゃるで?」
首を横に振る。物が欲しいわけではなかった。
「俺が、一人前の極道になったら……大江を俺の好きにさせてほしい」
二葉が視線を上げた。鋭く、探るような視線を輝良は正面から受け止める。この男に、嘘はいらない。
「復讐したい。あいつを不幸にしたい」
「……ええやろ。好きにし」
二葉の声は輝良の言葉に応えて、重いものだった。その返事に満足して、輝良は本格的に自分の躯をまさぐりだした男の手に、素直に躯を明け渡しながら眼を閉じた。
それからの二年間。二葉武則の愛人兼養子となった輝良にはいろいろなことがあった。
「おめでとうございます。これからはこの沢、二葉のオヤジさんに仕える気持ちでぼっちゃんに仕えさせていただきます」
一つ目はそんなふうに沢に改まって頭を下げられたことだった。
「は? ぼっちゃん? なにそれ、気持ち悪い」
輝良がずけずけ返すと、沢は眉間に皺を寄せた。
「『ぼっちゃん』がお気に召しませんか。なら、輝良さん、とかでいかがですか」
「うーわー! ジンマシン出る! やめてよ、沢さん。俺、今まで通り輝良でいいし、ヘンな敬語もいらねーし!」
「そういうわけにはいくかい。……いや、いきません」
沢に言わせれば、組長の息子の扱いは組を挙げて丁重に、尊敬をもってしなければならないという。
「でも年上の人に」
「なにゆう……なにをおっしゃいます。たとえばおんなじ仁和組系列の清竜会なんか、小学生の息子が三十超えた若頭を『島崎』って呼び捨てですよ」
「そりゃ生まれたときから組長のぼっちゃんやってりゃ、平気かもしんねーけど」
輝良は口を尖らせ、そしてハッと思いついて、手を打った。
「じゃあさ! 沢さんは俺の教育係りってことにしたら? まあほかの組員はしょうがないけど、沢さんだけは俺の教育係りだから今までどおりってことで」
沢は複雑そうに首をひねった。
「まあ……オヤジさんがそれでええゆうてくれたら、俺はええですけど」
そんなやりとりも、沢が輝良を組長の息子として全面的に受け入れるつもりでいてくれればこそだった。沢は輝良が組長・二葉の息子となるのを心から喜んでくれているようだった。
「まあ、おまえはいけすかんガキやけど」
シャープな印象の顔をにやにや笑いで崩しながら、ある時、沢は言った。
「なんでかしらん、オヤジさんがおまえを気にいってはる以上、おまえにもオヤジさんのこと気にいってもらわんと、バランス悪いねん。ようやっとおまえがオヤジさんに心開いてくれて、俺はめちゃめちゃ嬉しいねん」
と。
けれど、組の上層部に動きがあるということが、それほど単純なことではないと、それから間もなくして輝良は知ることになった。
期末試験で午前の間に輝良がマンションに戻ってきた時だった。
「俺は納得いきません!」
地下の駐車場へと降りるエントランス脇の植え込みの陰から、低い、けれど、激しい口調の声が聞こえた。聞いたことのある声だった。輝良は足を止め、そっと植え込みの陰に身をひそめた。
「なんで組長はあんなガキを養子にしはったんですか! 俺らは組長はもちろんやけど、沢の兄貴のおかげでここまでなれたんとちゃいますか。なんで組長はそんな、沢の兄貴をないがしろにするようなマネを……」
「だまれ、テツ!」
叱った声もどこかで聞いた声だった。
「しゃあないんや。オヤジさんが決めはったことや。俺らにはぐだぐだいう権利はない……」
「そんとおりや」
自分の真後ろから重々しい声が聞こえ、輝良はひっと首をすくめた。
沢だった。おまえはそこにいろと目配せして、沢は威圧的なオーラをまとって輝良の脇を通り過ぎる。
「おまえら、なにをお天道さんの下でデカイ声でくっちゃべっとんねん! こんドアホウどもが!」
頭でも叩いたのだろうか、べしっ、べしっと鈍い音が聞こえた。
「オヤジが決めたこと、下がぐだぐだ抜かすな! おまえら何年、組長に世話になっとんねん。このオヤジさんが決めたことやったら、なんの不服もない、死ね言われたら喜んで死にますぐらいの覚悟が、まだでけてへんのか!」
「あ、兄貴。お、お言葉ですけど、俺らかて、オヤジさんに死ね言われたらいつでも死にます。せやけど、あんなどこの馬の骨ともわからんガキがいきなりオヤジの息子やなんて……」
「ボケェ!!」
沢のドスのきいた怒号が響いた。続いて平手打ちだろうか、鋭く高い音が響いた。
「それが覚悟ができとるもんの言い草か! オヤジが望んで息子に迎えた、輝良さんが俺らのオヤジさんの大事な跡取りや! オヤジ同様、守っていかんでどうすんねん!」
息さえ潜めて、輝良は躯を小さくしていた。自分が養子の話を受けたことで、組の中にそんな波風が立つなんて、想像さえしていなかった。
「わかったか! わかったら、はよ車回して来い!」
「は、はい!」
あたふたと二人が地下に向かって駆け出す気配があった。沢がゆっくりと戻ってくる。
「気にすんなや」
ぽんと肩を叩かれた。
「おまえだけやない。若頭と組長の息子ゆうんは、いろいろ言われてまうもんやねん。俺もオヤジさんも気持ちはひとつや。おまえはなんも気にせんでええねん」
沢がそう言ってくれるのはありがたかったが、それだけに沢と自分の立場が微妙な関係になるのは嫌だった。
輝良はそのもやもやを正直に二葉に打ち明けた。
「俺が二葉輝良になったら、沢さんの立場が悪くなるの」
と、率直に質問するという輝良らしいやり方で。
「うーん……」
二葉は日焼けした顔を天井に向けて唸った。
「沢はこん組の若頭や。若頭ゆうたら、普通は次期組長や。俺も沢もそんつもりでおる」
「じゃ、なんで俺を養子に……」
「養子にするゆうんと、跡目相続さすゆうんは話が別や。ヤクザの契りは杯交わして初めてなるもんや。おまえは俺の籍に入った息子やけど、まだこの組の組員になったわけやない。金バッジでももちろんない。沢の立場がおまえのせいで悪ぅなるわけやない」
少しだけ、ほっと気が抜けた。
「なんだ、じゃあ俺、まだヤクザじゃないんだ……」
「親が極道やっとるからって子供まで自動的に極道にしてもたら、中学生や高校生の極道までできてまうやろ」
「……でも、俺は立派な極道になるつもりで……。育ててくれるって言ってくれたよね?」
最近覚えたばかりのワザで、軽く上目遣いに睨む。コツは軽く唇を尖らせることで、この表情を見せれば少々きつい言葉を吐いても、二葉は不機嫌にならなかった。
「もちろんや。せやけど、おまえが一人前になるにはまだ数年はかかる。沢かおまえか、どっちがこの組を継ぐんか……俺もまだまだ現役や。そう急いで決めることやない。そん時になったら、どっちかを分家ゆう形にする方法もあるし」
「分家……」
組をふたつに分けるということか。それはそれで組の弱体化につながったりはしないのだろうか。
「おまえが心配せんでええ」
輝良の惑いを読んだように二葉がうなずいた。
「おまえは性根の据わった、自分にタマぁ預けてくれる奴らをちゃあんと守れるような男になったらええねん。簡単なことっちゃうで? まず、おまえは自分で自分を守れるようにならんとあかん。ビビリはええ極道とは言えへん」
「それは……腕っぷしが強くないとだめってこと?」
真剣に輝良が問い返すと、二葉も真顔で首を横に振った。
「喧嘩だけやったら、強いのはいくらでもおる。鉄砲玉ゆうて、上の人間を守るために飛び出して前線で戦う若いのもいくらでもおる。だからゆうて、ナイフの使い方ひとつ知らん、殴り合いになったらびびってシッコもらすようなんが上には立たれへん。自分で自分を守るゆうんは、いざゆう時にびびらん覚悟のあることや。その覚悟をつけるために躯を鍛えて技を磨くねん。単純に喧嘩が強いことやない」
二葉の言葉を胸に刻むようにしながら、輝良はうなずいた。
「ほかにもなにかある?」
「……せやなあ……まあ、おまえにはまだ早い思てたけど……ついでに教えといちゃろか。金のことや。おまえが学校行ったり遊んだりする金は、若いもんがシノギとして組に納めた金や。もちろん、俺自身がいろいろ裏の商売やったりした分もあるで? その金はその金で、また仁和組に義理として納めとる。代わりに仁和組はこの二葉組になにかあったら守ってくれるわけや。ええか。おまえは好き勝手したら、その分、下の者を守ってやらなあかんねんで」
ヤクザの世界がそれほどシビアなものだとは思っていなかった。大親分になれば、自然に湯水のごとく金が湧いてくるようなイメージさえあった。
「わかりました」
大事なことを教えてもらったと思う。輝良は深くうなずいた。
二葉輝良として暮らしだした輝良は、二葉の家を訪れるヤクザ者をそれまで以上に意識するようになった。
城戸泰造に教えられた通り、仁和組の中枢に人脈を持つのは、いずれはこの世界でのし上がって行こうという野望を持ち始めた輝良には大切なことだったからだ。意識して見始めると、客を告げる二葉や沢の言葉から仁和組の中の派閥やグループ関係が透けて見えるようにもなった。
「今日はええ顔せんでええからな」
二葉が特別に苦い顔でそう言ったのは、清竜会組長・竜田勇道とその側近である島崎の来訪の時だった。
「竜田はどうも好かん。野心家なんはええ。あいつはどうもその性根がえぐい」
ヤクザの組長にえぐいと言われるえぐさとはどんなもんだろうと輝良が沢に説明を求めるように視線をやると、沢もまた唇を歪めていた。
「なんでも竜田の家には仕置き部屋ゆうのんがあるんやて。そこで不義理やらかした組員や借金焦げ付かせた挙句に夜逃げしよった素人なんかにヤキ入れるんや。竜田の組長さんはその仕置きに小学生の息子を立ち合わせるゆうて……」
「え」
思わず声が出た。今度は慌てて二葉の顔を見る。
「どうもホンマの話みたいやな。エンコ詰めたり、ヤキ入れゆうてリンチしたり、女輪姦したりするのんを、ヤクザの英才教育やゆうて、まだ小学生になったばっかの自分の息子に見せとるて」
「それって……」
輝良は思わず身を乗り出していた。
「その子、大丈夫なんですか。普通にトラウマになっちゃうんじゃ……」
「だからえぐいゆうとるやろ」
最近になって輝良は沢に連れられて組事務所を訪れるようになった。そこは若いチンピラたちが出入りし、強面の幹部連中が仕切る、殺伐とした空間だった。ケジメと称して、輝良とそう年も違わないように見える少年などが、人相の悪い男たちに殴る蹴ると暴行されている場面もあった。それは覚悟を決めて二葉の養子になった高校生の輝良さえ、身のすくむような思いのする場面だった。
「ひどいな……」
呟くと、沢がうっそりとうなずいた。
「その子供の母親の話がまたひどいんや。竜田はまだ18になるかならずの女の子に手ぇ出して、そのガキを孕ませたんや。そんで……」
その時、ごほりと二葉が大きく咳払いした。沢がはっと気づく。
「ま、まあ……お、男と女はちがいますから! そうや、支度が……」
わざとらしく言い訳して沢が席を外した。少しだけ、気詰まりな空気が残る。
「大丈夫です、おとうさん」
輝良はにっこりと二葉に向かって笑みを作った。
「俺は自分で選んでおとうさんの息子になったんです。もう、恨んでなんかいませんから」
「最初は恨んどったんかいな」
少しすねたような二葉の声に、輝良は声なく笑った。――笑える自分が、不思議でもあり、悲しくもあったが。
ヤクザの世界で生きていく。この世界でのし上がる。みじめな思いはもうしたくない。そしてあの男に復讐する。そのために、二葉の息子になったのだ。
だから後ろは振り返らない。
そうと決めた輝良の決心を試すようなことが起こったのは、それから半年後。輝良が高二になった春だった。
「仁和組総長の家で、行儀見習い?」
言われた言葉を輝良は鸚鵡返しに繰り返した。
改まった話をするときの常で、アンティークの大テーブルで、二葉と向かい合って座っている時だった。二葉の斜め後ろには二葉以上に沈痛な顔の沢が立っている。
「……って、どういうことですか」
「総長が……オヤジさんが、おまえの面倒を見たると……おっしゃってはるんや」
仁和組総長・平剛士(たいらつよし)はここ一ヶ月ほど、一週間に一度というかなりの頻度でこの家を訪れてきていた。来れば輝良に酌をさせて何時間も呑む。年は二葉よりさらに十ばかり上だろうか。髪に白いものが混ざりだしていても、まだまだ油ぎったものを感じさせる偉丈夫だった。
「それは……」
「おまえに総長の家で暮らせということや」
それは思いもかけない申し入れだった。
つづく
|