子どもの頃、具合が悪い時には母さんにそばにいてほしかった。
熱が出たり、おなかが痛くなったりした時に、そばに母さんがいないと、心細くなった。
でも。その時のぼくは、身体中の痛みと、どうしようもない気分の悪さをこらえながらも、母さんの顔が見たいとは思わなかった。……家に帰りたいとは、思わなかった。
なんとか一人で駅まで戻ったぼくは、切符売り場の前で立ち止まった。帰宅を急ぐ人たちが、ぼくの背後を次々と行き過ぎる。
五駅先なら、ぼくの家の最寄り駅。三駅先なら……駅から10分弱で、東の家。
東。
東になんて言えばいいのか、とか、どんな顔で会えばいいのか、とか、今日のことをなんと説明すればいいのか、とか。
考えようとしたけれど、考えられなかった。
とにかく身体中が痛かった。手足が異様に冷たい感じで、頭もふらついて、背中に全然力が入らなくて、気分が悪かった。
誰にも会いたくなかった。知った人間の誰にも会いたくなかった。
ただ、ぼくは東に会いたかった。
ただ、東にだけ、会いたかった。
東の顔が見たかった。
声が聞きたかった。
東、東、あずま……。
ぼくは震える指先で、三駅先の運賃ボタンを押していた。
東の家に足しげく遊びに行くようになってから、ぼくはエントランスのキーロックを解除する暗証番号を教えてもらっていた。スペアキーももらっていたけど……東の留守に東のお父さんも帰って来るかもしれない家に上がりこむなんてしたくなかったから、家に置きっぱなしにして、使ったことがなかった。
エレベーターの中で倒れそうになりながら、なんとか東の家の前までたどり着く。
頑丈そうな木製のドアの横にあるインターホンを、すがるような思いで押した。
反応がない。
何度か押した。続けさまに押した。
中からの応え(いらえ)はない。
もう、限界だった。
ぼくは木製のドアにもたれるように、ずるずるとその場に座り込んだ。
冷たくて硬いドアに身をもたせながら、ポケットから携帯を引っ張り出す。
時刻は夜の7時を少し回ったところ。
ピッと1のボタンを押して、通話ボタンを押せば、東の携帯につながるはず。
……呼び出そうか。
呼び出したいと思ったけれど。
踏ん切りがつかなかった。
どこに行っているんだろう? 買い物? それとも……?
ここまで来て、ぼくはためらった。ぼくのことなんか忘れて夜の街で遊んでいるかもしれない東に、みじめで情けないぼくの相手をしてくれと、呼び出しをかけるのが怖かった。
縛められ、身体の下になって体重を受け続けた両腕が、痛かった。両側に広く深く、広げられ続けた脚の付け根が痛かった。友人だった男に、穿たれ、むさぼられたそこが、痛かった。ずきんずきんと、拍動に合わせて、痛みが全身に響き続けていた。
東に会いたかった。
でも、携帯を鳴らす勇気が出なかった。
こんなところで座り込んでいたら、東の迷惑になるかもしれない……そう気がついたけれど、もう、腕を上げるのさえ、だるかった。
ぼくは東に連絡を取る踏ん切りもつかないまま、ドアの前にうずくまってしまった。
…………………
「すぐる、秀!」
ぼくを呼ぶ声。
軽く頬を叩かれて、
「すぐる!」
少し焦ったような声がぼくを呼ぶ。
薄く目を開いた、その視界に、ぼくを痛めつけた男の蒼白な顔が飛び込んでくる。
「悪かった」
その男が言う。
「おまえ、初めてだったんだよな? こんな血が出てるなんて、俺、気がつかなくて……」
男が焦ったように早口で言う。
「悪かった。でも、俺、おまえを好きなのはウソじゃないから。それは、誓って本気だから」
身勝手な男が勝手なことを言う。
「痛い目に合わせて悪かったよ、ほんとに。……でも、また、会えるよな?」
どこまでも、身勝手な……。
ぼくはよろめきながらも大急ぎで服をととのえると、その部屋を飛び出した……。
…………………
「すぐる、秀!」
ぼくを呼ぶ声。
軽く頬を叩かれて、
「すぐる!」
焦った声がぼくを呼ぶ。
薄く目を開いた、その視界に……。
「ひっ!」
記憶が混乱したぼくは、恐怖に身をすくめた。
「…すぐる?」
耳に馴染んだ、響きのよい声に再び呼びかけられて、ぼくは恐る恐る目を開く。
「あ、あず……」
間近に、東の真剣な顔があった。
「どうした? なにがあった?」
下からぼくの顔をのぞきこむようにしながら、東がぼくに尋ねる。
「東…」
東の瞳は、その時、紫色だった。いつもは自然に垂らされている長い前髪はワックスでオールバックにかきあげられ、耳朶には派手なピアスがいくつも光り、身動きするたび、シルバーアクセサリーがじゃらじゃら音を立てる。着ている服も、どこでそんな服見つけたんだと尋ねたくなるような人目を引くもので、それはそれでひどく東に似合っていたけれど、ぼくが見慣れているいつもの東とは、ずいぶん、雰囲気がちがっていた。
「東、派手」
思わず呟いたぼくに、でも、東は怒ったりしなかった。
東の鋭い視線がぼくの全身をスキャンしていく。
「……ずっと、待ってたのか?」
尋ねてくる声は東の顔に浮かんだ緊迫感とは裏腹に、とても優しい。
「あ」
ぼくは気がついて声を上げた。
「ごめん…ぼくたち、ケンカしてたんだよね」
そうだ、ぼくたちはケンカをしていて……東に黙ってぼくは大輔と会って……。こんなところで、東を待ってる権利なんか、ぼくにはないのに……。
「ごめ…! 迷惑かけるつもりじゃ……!」
ぼくは慌てて立ち上がろうとした。だけど、膝に力が入らない。ぐらりと身体がかしいだ。
「すぐる!」
東がさっと脇から支えてくれた。
「大丈夫だから! 全然、迷惑なんかじゃないから!」
な? 東はやっぱりすごく優しくぼくの顔をのぞきこんだ。
「秀、俺を待ってたんだろ? なら家に入ろう? な?」
なんだか喉が詰まるような気がした。ぼくは、そんな、優しくしてもらっちゃいけない。東に迷惑かけちゃいけないのに。
喉の固まりは、あっという間にふくらんで、
「うぅ…」
嗚咽になって、押さえようもなく口から漏れてしまった。
一生懸命、手で口を押さえたけれど、もうダメで。涙まで一気にあふれだしてきて。
ぼくは声を上げて泣き出した。
ダメだ、ダメだ、ぼくは東に優しくしてもらっちゃ、ダメだ……。
そんなことを切れ切れに口走りながら。
「いいよ、秀、いいから」
東はなだめるように言いながら、よろめくぼくを抱えて家の中へと連れて行く。
「いいから。秀、いいから」
あやすような口調と言葉に、ぼくの嗚咽はますます激しくなった。たまらなかった。自分の身に起きたことが。それなのに、こうして東を頼ってしまう自分自身が。どうしようもなく、忌まわしく、汚く思えて。
ぼくは大声で泣き続けた。
泣きじゃくりながら、「ごめん」謝り続けるぼくになにを感じたんだろう。
東はもう、「どうした?」とは言わなかった。
ソファに座ったぼくの背中をとんとん叩きながら、
「いいよ……いいから……」
繰り返してくれて。
ぼくの嗚咽はだんだんとおさまっていく。
だけど……泣き声がおさまっていくのとは裏腹に、密着して座っている東の身体が、なんだか落ち着かなく感じられてきた。
なんだろう……? わかんないけど、東の体温と躯の質感が伝わってくるのが、ひどく、落ち着かない感じで。
ぼくは身じろぎして、少し東から離れるようにする。
「秀…?」
いぶかしげな東の視線がつらくて、思わずうつむいてしまった。
「あ、あの…シャワー、貸してもらえる…?」
「いいけど……大丈夫か? おまえ、あんまり顔色よくないぞ?」
東の言うとおりかもしれなかった。
ぼくは猛烈な寒気に襲われだしていた。歯がガチガチ鳴ってしまいそうなほど、身体中がぞくぞくして、寒かった。
「このまま、休んじゃったほうがいいんじゃないか?」
ぼくは急いで首を横に振った。手足が氷のように冷たくなっているのがわかったけれど、大輔にいいようにされて、大輔を受け入れたままの躯で眠るなんて、できなかった。
「シャ、シャワーだけ……あ、汗かいて、だ、だから……」
とっさにウソをついたぼくの顔を、東は険しいほどの視線で探ったけれど、
「わかった。じゃあ、しっかりあったまれよ」
やっぱりいたわるように優しい口調でそう言ってくれて。
東が手早く用意してくれた着替えとタオルを手に、ぼくは浴室へと逃げるように入って行った。
脱いだ下着に血がついていた。
ぼくは躯を洗う前に、下着が破れるほどごしごしと、それをこすった。
大輔の唇が触れた頬も、首筋も、抱きしめられた背中も、やっぱりゴシゴシ、血が出るほどこすった。
アナルは……触れただけで飛び上がるほど痛かったけれど、そのままにしておくなんて絶対イヤで、シャワーのお湯を思い切り当てた。
鮮血が、足元を真っ赤にして排水溝に流れ込んでいく。
流しきろうとシャワーヘッドをその真っ赤な渦に向けているうちに……視界にちらちらと、銀色の破片みたいなものがちらついた。あれ? なんだろう…? いぶかしむ間もなかった。すうっと頭から血が引いていくすごくイヤな感覚があって……目の前がものすごい勢いで暗くなっていった。
いったいぼくは、今日は何度気を失えばいいんだろう?
最後にそんなことを思ったみたいだった。
次に目覚めたときには、爽やかとは言いがたかったけれど、なんだかずいぶんと躯がラクになっていた。覚えのある、朝の光の差し加減。目を開いて見えた部屋の様子も、見覚えのある、馴染みのあるもので。
……東のベッドだった。
横を見ると、やっぱり見慣れた、ハニーブラウンの髪。
でもベッドに寝てるのはぼく一人で。
東はぼくの眠るベッドにもたれるようにして、眠り込んでいた。
伏せられている、長い睫毛。すっと通った鼻筋。
ああ、綺麗だなあ……東の寝顔をぼんやり見ていたら、ぴくっ、まぶたが動いた。
「……おはよ」
目覚めた東に、ぼくは声をかけた。
東はぱちぱちと瞬きして、ぼくを見た。
「ん……どうだ? 気分は?」
そうぼくを心配してくれる東の両目は、真っ赤に充血していた。
「東、目が赤い……」
「ああ」
東は小さく笑った。
「おまえ、いきなり転がり込んできて、倒れるからさ、大変だったんだぜ?」
「ごめん」
東のなにげない口調に誘われて、ぼくはそれをするりと口にした。
「どうしても、東の顔、見たくなって」
ふわりと東は笑った。
「それは嬉しいな」
自然に視線が合った。
東の目は、もう紫色じゃなかった。髪型もふだん、ぼくが見慣れたもので……シャツも普通のプリントTシャツに変わっていた。
そのまま、本当になにげない口調のまま。
「すごい音がしたから風呂場のぞいたらさ、」
東は話し始めた。
「おまえ、倒れてるじゃん。血まで出てるし」
どこから、とは東は言わなかった。
「もう俺、パニックじゃん? おまえ抱えて風呂場から引きずり出して、バスタオルでくるんでベッドまで連れてきて」
すんげえ重かった、と東はグチる口調で続けて。
「ベッドに放り込んだら放り込んだで、おまえ、すごい熱出てくるし。あせった」
ごめんね、ぼくは謝りの言葉を口にした。ごめんね、東、迷惑かけて、心配かけて。
「だから、」
東は続けた。
「医者呼んだ」
「あ」
ぼくは声を上げた。
「保険証!」
東の口元に苦笑が浮かんだ。
「心配いらねーよ。保険証とか使える医者じゃねーから」
夜遊び好きなヤツらがよく世話になる、そーゆー医者。
東は軽く説明してくれて。
「そいつに、点滴打ってもらって、傷の手当もしてもらった」
ぼくはぎゅっと目をつぶった。
「……傷の、診断とか、聞いた?」
一呼吸、間があった。
「うん」
東が答えて。
「それから、」
ちょっと揺れた感じがする東の声が、それでも常の調子を保ちながら続いた。
「電話が、二件。……一件目は、おまえのかあさん。おまえ、帰ってこねえけど、寄ってないかって」
あ、と思った。かあさん。そういえば、これって無断外泊だ。
「ごめんなさい、今、つぶれて寝ていますって言ったら、まだ未成年なんだから気をつけなさいって怒られた」
東の声がちょっと途切れた。
「二件目は……無言電話。でも、たぶん……おまえあてだと思う」
うん。ぼくは声もなくうなずく。……かあさんは、きのう、ぼくが高校のテニス部の用事で出かけたことを知っている。ぼくを心配して東の家にまで電話してきてるなら、きっとかあさんは、その前に、大輔の家にも、同じ問い合わせの電話をしているにちがいなくて……。
「秀」
東の、こわばった声がした。
「きのう、誰に会った?」
東の顔を見る勇気がどうしても出なくて。
ぼくは手の甲で、目をおおった。
「きのう……高校の時のテニス部で、新入生歓迎会があって……毎年、OBも出席する慣例になってたから……ぼくも、行ったんだ」
息詰まるような沈黙が落ちた。その沈黙を破って、
「やっぱり、山岡か」
落ちた東の呟きは、ひどく苦々しげにも、腹立たしげにも、聞こえた。
大声で怒鳴ったりしない、ぎゅっと歯を食いしばって、怒りとかやるせなさとか、そういうものを全部、自分の中に押し込めているみたいな、低い声だった。
たまらなさがこみ上げてきた。ぼくは腕をどけて東へと顔を向けた。
「ごめん、東、本当にごめん! ぼく、ぼくが……!」
眉間に鋭いたて皺を刻んでうつむいていた東は、ぼくが息せき切ったように謝ると、顔を上げた。
「……なんで、おまえが謝るんだよ」
「だって……」
「ツライ思いしたの、おまえじゃん。ケガしてんのも、おまえで……」
東の手が、ぼくの手をぎゅっと握り締める。
「おまえが、俺に謝ることなんか、なんもない」
真剣な顔で。ぼくの目を見つめて。東は繰り返した。
「おまえが謝ることはない」
目尻に熱いものが流れ出して、ぼくは自分が泣いてることに気づいた。
「東……」
ぼくの手を握る東の手に、力がこもった。
東がうつむく。
「…山岡のことは……思いっ切り、ぶっとばしてやらなきゃ、気がすまねーけど」
そう言ってすぐ、東は小さく首を横に振った。
「ぶっとばしただけじゃ、すまねーけど」
東の手が、かすかに震えている。
またうつむいてしまった東の眉間には深い皺があって、口元は痛みをこらえる人のように引き結ばれていて。
――ゆうべから。東は一度も声を荒げなかった。ぼくの様子から、どれほど悪い事態を想像したにしても、大声でぼくを問い詰めるようなことはしなかった。風呂場で倒れたぼくを介抱して、大輔がぼくの躯に残した傷や痕を目にし、医者の話も聞いて、なにが起こったのか、正確に把握しただろう、その後にも。目を真っ赤に充血させて、おそらく、眠れない夜を過ごしたのだろう、その後にも。東は、自分の感情をぼくにぶつけて、声を荒げることはなかった。
でも。
東が平気なはずはなくて。腹が立ってないはずはなくて。傷ついていないはずはなくて。
震える手と、痛みをこらえているかのような表情だけが、東の中の嵐を物語る。
……いつもは、すごく、短気なくせに。
ぼくがテレビに出てきた女の子をちょっとほめるだけですねちゃったり、サークルの勧誘でマジギレしちゃったり、するくせに。
今なんか、ホントはすごく、腹が立ってるくせに。
東は、なにも言わない。
言えば、ぼくがつらいだけだから。
だから、東は自分だってすごくつらいくせに、何も言わない。
「あずまぁ…」
謝らなくていいって、言われたけど。
ぼくは痛いほど握り締められてる手を、握り返して、東に言わずにいられなかった。
「ごめんね、ごめんね、あずま、ごめん」
東が布団に突っ伏した。シーツに顔を埋めた東に、ぼくは繰り返す。
「あずまぁ、ごめん、ごめんね……」
「謝るなっつってんだろ!」
くぐもった……泣き声が、そう言った。
ぼくの熱は37度台まで下がっていたけど、まだ、身体のだるさは抜け切らなくて。
東はぼくの熱をはかったり、おかゆを用意してくれたり、お医者さんがくれた薬を飲ませてくれたり、かいがいしく、ぼくの看護をしてくれた。
昼から、またうつらうつら、ぼくは眠ってしまって。
目覚めたら、夕方だった。
身体はもう本当にラクになってて、歩いたり動いたりしても、平気になった。
「ありがとう」
ぼくは言った。
「二日も外泊できないから。一度、うちに帰るよ」と。
「無理すんじゃねえぞ」
東は言って。
「いつでも来いよ。絶対、一人でかかえこむなよ。なにかあったら、すぐに呼べよ」って。
うん。
ぼくはうなずいたんだ。
すぐに来るよ。我慢せずに、すぐにあまえにくるよって。
自分から、あまえにくるよ、なんて、ちょっと恥ずかしかったんだけど。そう言ったんだ。
そしたら、東は。
「約束な」
そう言って。
ちょっと腕を伸ばした。
ぼくの腕を軽くとらえた。
そして。
ほんのちょっと、ぼくを引き寄せて、たぶん、その日初めて、軽いキスを、挨拶代わりのキスを、ぼくにしようとした。
ぼくは、それが、わかってて。
東の気遣いも、気持ちも、そのキスの意味も、全部、全部、わかってて。
わかってて。なのに。
なのに。
東に軽く引き寄せられて、唇を寄せられた、刹那。
ぼくは、東を突き飛ばしていた。
凍りつくように、ぼくは東と見つめあった。
「すぐる…?」
「あずま……」
ぼくは、東を、受け入れられなくなっていた。
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