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愛情の証明<3> −その後の東くんと高橋くん−

 

 



 ――甘えるだけ甘えたくせに、ぼくは東を拒絶した。
 東に抱き寄せられそうになって、ぼくは咄嗟に彼を突き飛ばした。どうごまかしようもない、はっきりした動作で。
「…あ…」
 なにかなにかなにか。言わなきゃいけないと思うのに、言葉が喉の奥で固まってしまったようだった。
 東は最初の数瞬だけ、不思議そうな、でも、傷ついた目でぼくを見つめたけど。
 すぐに。
「あ、わりぃ」
 すごく軽くそう言った。すごく軽く。まるで、間違えてぼくの足を踏んだだけみたいに。ぼくが東を拒否したのなんか、なんでもないことみたいに。そして、あっさり、
「送ってくよ」
 って、自分から先に玄関に出て行った。なんにもなかったような顔をして。
 ぼくはなにも言えないまま、彼の後を追う。
 東はなにもなかったような顔をしている。だから、ぼくもそうしようと思った。
 なじらない、責めない、問い詰めない。それは東の優しさなんだと思ったから。
 いつも通りの冗談口を叩きながら、駅までの道を行く東。なんにもなかったような顔をしているけど、でも、ぼくと東の間には不自然じゃない程度の距離がある。
 ……ぼくが、触れるのをいやがったから。
 ふだん通りの顔で、でも、ぼくに触れないようにしてくれてる東の隣で、ぼくはどんどん無口になった。これは東の優しさなんだ、これは東がぼくのことを思いやってくれてるからだ。
 そう思うのに。
 どんどんやるせなさが高まって行く。
 ぼくが返事を返さないせいで、駅についた時には会話が途切れてしまってた。それでも、東は家まで送ってくれると言う。
「いいよ…一人で大丈夫だから」
 断りの言葉を口にしたら、
「どーせヒマだし。一緒に行くよ」
 東はまたホントに軽い口調でそう言った。なんだかもう……ぼくはいたたまれなくなって……。
「いいって言ってるだろ!」
 周りの人が振り返るような大声を出してしまった。
「…大丈夫だから。ひとりで、平気だから」
 っていうか、もう、一人にしてくれ……。
 ぼくはそこで顔を背けてしまったから、東がどんな表情をしていたかはわからない。
 もう、さすがに……呆れたんじゃないだろうか、怒ったんじゃないだろうか。
 ぼくが聞いたのは、
「…じゃあ、気をつけて帰れよ」
 っていう、妙に平板な東の声だけで。
 顔を上げたら、人ごみの中にまぎれて行く東の背中が見えた。東にしては珍しく、少し肩を丸めたようなその姿は、ひどく物寂しそうに見えた。
 ごめん! 東は優しくしてくれてるだけなのに!  
 ぼくはくるりと踵を返すと改札に駆け込んだ。
 みじめだった、どうしようもなく、みじめな気分だった。
 きのうの夜から、今日一日、東はずっと献身的にぼくを看護してくれた。大輔からの電話にひょいひょい出掛けていなければ、こんな目に合わずにすんだんだ、なんて、そんなことは一言も口にしなかった。東は一言もぼくを責めなかった。なのに、ぼくは……そんな東にキスひとつ、応えることもできなくて。そして東はそんなぼくをやっぱり責めなくて……。
 家に送ってもらえばよかった。
 せっかく東がなんでもない顔をしてくれているんだから、それに合わせればよかった。
 優しい、優しい東。なのに、そんな東に応えることもできないぼく。
 電車に乗ってるから、まずいと思うのに。涙がにじんできた。
 東に申し訳ないのか、自分が情けないのか……それとも、自分に腹が立つのか。ぼくにはもう、わからなかった。





 次の日も、その次の日も。ぼくは大学に行かなかった。
 高校なら無断欠席だけど、大学ではさほど問題にならない。
 家で心配されるのはイヤで、ぼくは適当な時間に家を出ては本屋や漫喫で時間をつぶし、学校に行ってるフリを装った。
 東からは携帯に連絡があった。
「パンキョーもあまく見てっと、単位落とすって言うぜ?」      *パンキョー:一般教養科目
 いつもの軽い調子で切り出してから、
「出てこいよ? な?」
 低く落とした声音で、ぼくの返事をうながしてくる。
「出るよ……大丈夫だよ」
 ぼくは答える。だけど、
「じゃあ、学食で落ち合うか?」
 すぐさま東が誘ってくるのには、どうしても乗れなくて。
「……今日は……やめとく」
 二日、ほとんど同じ会話を繰り返した。
 その日の夕方だ。
「ただいまー」
 家のドアを開けたぼくは、玄関に並んでいるぼくのじゃないスニーカーにドキリときた。
 大輔が来てる!?
 一気に血の気が引いて、身体が強張った。
 中学、高校と同じだった大輔はうちにも何度か来たことがある。『また会えるよな』あの時、大輔は確かそんなことも言っていた。どうしよう……!
 自分の家に上がることもできずにいると、奥から、
「秀ー、お友達来てるわよー」
 母の声がした。リビングのドアから、母はひょいと顔を出した。
「東君。あんたの部屋に上がってもらってるから」
 どっと身体の力が抜ける。思わず息をついた。
「お夕飯も用意してるから、一緒に食べてってもらいなさいね」
 母はぼくがたびたび東の家に泊まるお返しに、東が来るとあれこれともてなしてくれる。母親がいないという東の境遇に、同情してるのかもしれなかった。
「わかった」
 返事をして、階段に向かう。一段一段上る足が、別に強張ってるとかそんなんじゃないけど、なんだかやけに重い感じがした。正直、今は東に会いたくなかった。
 胃まで重い感じがするのを覚えながらドアを開けた。
「よーおかえり」
 東はベッドに座って本を広げていた。
「…………」
 机の上にどさりとかばんを下ろすと、へーと東が声を上げた。
「さぼりのくせに重そうなカバン持ち歩いてんな。行商?」
 嫌味に思わず振り返ると、東の瞳がイヤな感じに光っている。……こういう時はアレだ、怒ってんだ。
「おふくろさんには話合わせてやったよ。おまえがガッコさぼったことはチクッてねーよ」
「……ありがと」
 ぱたりと、東は広げていた本を閉じる。
 ああ、そろそろ本格的に来るなとわかるのは、よくこういう状況を経験してる、学習効果? そんなもの効果上がっても、しかたないんですけど。
「……おまえさ、」
 声がオクターブ低くなってる。来る、とぼくは身構える。
「ガッコさぼってんのは、俺を避けたいから?」
 ここは平然と、ゆっくりしっかり否定しなきゃいけないところだとわかってたけれど。ぼくはいかにもな感じに視線をそらしてしまった。
 ――だって。会いたくなかった相手に、「会いたくなかったんだろう」って面と向かって言われて、「そうだ」なんて、堂々と答えられるもんか。
 チッ。
 響く舌打ちの音。
「わっけわかんね。なんで俺がおまえに避けられなきゃならねーの」
 ……なんでだろう。そこのところは実は自分でもよくわかっていなかった。とにかく、今は東と顔を合わせたくない、それだけで。
「秀。こっちちゃんと向けよ」
 怒気をはらんだ声にうながされて、余計に視線を東の顔に向けにくくなった。
 うつむいたぼくに、焦れたように東が立ち上がる。
「おい、ちゃんとこっち向けって……」
 たぶん、東はぼくの腕をつかむかなにかしようとしたんだと思うんだけど。東の腕が視界に入ってきた瞬間、身体が勝手に動いて後ずさってしまった。ガタン、ぶつかった机が音を立てる。
「……わりぃ」
 ぼそっと東は言って、腕を引っ込めた。この前と同じに。ぼくを責めようとはしないまま。
 胸の中が、なんだかものすごく気持ち悪く、ぐるぐるしだした。
「……悪いけど……帰ってもらえないかな」
「秀」
「明日から、ちゃんと講義に出るから……ごめん」
 視界の端で、東の手が上がりかけて、落ちた。そのままその手は拳に握られる。
「……なあ」
 ややあって、東が切り出す。
「話だけでも、ちゃんとしようぜ? なんなら、俺、ずっと後ろで手組んでるから。俺ら、今ちゃんと話さないとダメだろ」
 俺ら、今ちゃんと話さないとダメだろ。東の真剣な声。
 うん。ぼくもそう思う。ぼくが悪かったんだから、ちゃんと謝って、きちんと東にお礼も言わなきゃ。
 だけど……どうしても顔が上げられなかった。
 言葉にならない、だけど、すごく気持ちの悪いものが身体の中でのたうっている。
 勝手に出掛けて勝手にレイプされて、東の手さえ受け付けなくなったぼくに、「悪い」と謝る東。東がずっと手を後ろで組んでなきゃいけない理由なんか、どこにもない。
「……ほんとに、悪いんだけど……今日は、頼むから、帰ってよ……」
「なんでだよ! っかんねえな! 俺、おまえに触らないっつってんだろ、なんで話するだけもできねんだよ!」
 ほんとに、なんでだろう……。たぶん、ぼくが勝手過ぎるんだ。勝手にどんどん、自分が情けなくなっていくんだ。傷ついたぼくを、きちんと気遣える東の前で。ぼくは一人でどんどん、みじめになっていくんだ。
「……東は……エライから」
 呟くと、
「はあっ!? なんだ、それ!」
 東の声が険しくなった。
「なんでここにエライとかエラくねーとか出てくんの。わっけわかんねー!」
 そうだね…ぼくは声もなくうなずく。きっと東にはわからない。ぼくのみじめさ。
「なあ、そんなの、訳わからねーよ! すぐる…」
 東の手が再び伸びかけて、でも、すぐにきゅっと引き戻っていく。
「すぐる……」
 もうそうやって呼びかけられるのさえ、つらくて。
 ぼくは首を横に振った。
「…なあ、」
 東はかがんで、ぼくの顔をのぞきこんでくる……。
「話すだけじゃん。それもダメ?」
 ぼくの視線をとらえようと見上げてくる東の瞳から、ぼくはそれでも、頑固に目線を外した。
「…………」
「…………」
 どちらも何も言わない。ただ、追う視線と、逃げる視線とがあって。
 東がゆっくりと身体を起こした。
 そのまま部屋を出て行った東は、どんな表情をしていたんだろう。最後まで、顔を上げられなかったぼくには、見えないままだった。





 次の日から、ぼくは大学に戻った。
 同じ学科の東とは必須科目がかぶってて、イヤでも同じ教室や講義室になったけど。東もぼくも、互いの存在に気づきながらも、気づかぬふりをしとおした。
 入学以来、ずっと二人でつるんでいて、これがぼくたちの初めての単独行動だった。
 気づいたら、クラスにはもういくつかグループらしきものが出来つつあるみたいだった。
 同性だけのグループもあれば、男女混合のグループもある、派手でおしゃれなのが固まってるところもあれば、地味な感じのグループもあった。
 なんとなく話の合いそうなメンツのグループもあったけれど……ぼくは教室の隅で一人で座っていた。新しく友達を作るのって、けっこうエネルギーがいる。今までそれを負担に思ったことはないけれど、どうしても気持ちが乗って来なくて、ぼくはできれば誰とも口をきかずに過ごしたかった。
 東のほうは……すぐに、周りがにぎやかになった。フルメークでばっちりキメて、ブランドもののバッグをこれみよがしに持ち歩いてる女たちに取り巻かれて。
 東は別に、彼女たちにお愛想ふるわけじゃない。面倒くさそうな顔して、頬杖ついたりしてる。でも、彼女たちがなにか黄色い声で話しかけると……十回に一回ぐらいの割合で、ふっと笑う。それはちょっとシニカルな笑いだったり、ぷっと吹き出した感じだったりで、決して、優しくてあったかそうな笑みなわけではなかったけれど。東の表情が変わる瞬間に、彼女らはぱっと色めき立つ。東にはそういう「華」がある。
 人を惹きつけ、人を魅する、鮮やかさ。
 『目立つヤツだなあ』って、高校入った時から思ってた。ぼくみたいにマジメしか取り柄がない人間にしたら、まぶしいような闊達さと華やかさ。東にはいろいろ悪い噂もあったけれど、でも、同じクラスになって近くで話してみれば、けっこうさばさばした話しやすいヤツで。『ああ、こいつはモテるよな』、ぼくはあっさり納得していた。その彼とまさか自分が恋人関係になるなんて、その頃は思ってもいなかったけれど。
 ……あ。でも。
 恋人同士って言っても……キスもできない、抱き合えもしないぼくが、今も彼とそういう関係だと思っててもいいんだろうか。
 東にべったり寄り添って、胸の開いたニットをまとった女が笑う。
 講義室の上のほうの席から見ていて、むかついた。
 丸くてボリュームのある胸を、彼女はさりげなく東の腕に押付けているようにも見えて……。
 そんなふうに「女」をアピールしてもムダなんだぞ!
 立って行って怒鳴ってやりたくなった。
 東は女なんか好きじゃな……
 不意にひやりと来た。


 だめだ、東はバイだ。


 ぼくはどっぷり、落ち込んだ。






 彼女たちの一人と、東が並んでキャンバスを出て行くのを遠目に見ながら、ぼくの落ち込みはずんっと深くなった。
 話にも応じなかったのは自分のほうだったけど。
 キスもできない自分が東の恋人ヅラしちゃいけないのもわかってたけど。
 ――今から彼女とどこに行くんだろう……。
 そんなことがどうしても気になってしまう。
 東は……問い詰めたことはないけど、たぶん、ぼくに対しては誠実な恋人でいてくれたと思う。自分で言うと照れるけど、東はぼくに対していつも一途だったし、情熱的だったと…思う。
 でも。
 東とこうなる前に聞いてた噂では、その、かなり、夜遊びも女遊びも激しい、みたいな。昼時、みんなで集まったときにも、いろんな女の子の名前が出てたし、東もニヤニヤ笑って否定はしてなかった。
 あの晩、東の家に押し掛けちゃった時のことが脳裏をよぎる。
 派手なファッションに身を包み、紫色の瞳をしていた東。
 あれも確かに東の一面なんだろう。
 ぼくの知らない、ぼくの触れたことのない、東の世界。
 頭に、どうしようもない想像が浮かぶ。
 レーザーの煌く、紫煙漂うクラブで、女のコと腰をすり合わせるみたいにして踊る東。仄暗いシート席で、甘えるように女のコの胸元に頭をもたせかけてる東。
 とんでもない想像だと思ったけれど、どれもいやになるぐらい、東には似合ってて。
 ……もし本当に東がそんなことをしていたとしても……ぼくには責める権利もないと思った。
 勝手に出掛けて、友達だった男にレイプされて……挙句、好きな相手とキスもできなくなったぼくには。
 東が誰となにをしようと……どんな関係を持とうと……仕方ない……。






 ぼくの携帯が鳴ったのは、そんなふうに、ぼくがいじいじうじうじ、過ごしていた時。
 ディスプレイに表示されたのは、あの悪夢の日に、そんな災厄が待っているとは知らないままにOB仲間たちと携帯のナンバーを交換した、その中の一人からだった。
「高橋か?」
 携帯から、聞き覚えのある加藤の声が流れてきた。加藤はなにか慌てているらしく、早口だった。
「な、おまえ、聞いた? 山岡が事故ったって」
「え?」
「だから山岡が事故ったって! バイクに当てられてさ!」
 指先が冷えていく感覚。
「なに、それどういう……」
「ひき逃げだって。山岡、今、入院してるんだ。それでみんなで見舞いに行かないかって話しになってて…おい、高橋、聞いてるか?」





 大輔が、バイクに当てられて、入院中?





『免許なんて自動車学校もうけさせるためだけにあるんだぜ?』
 かつての東の冗談口がよみがえる。
 車も、バイクも、乗りこなせると言っていた東。
 東……?
 ぼくは呆然と、通話を切るのも忘れて立ち尽くした。




                                    もういやドロドロ。次は明るくさっくり行きたい。 



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