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愛情の証明<4> −その後の東くんと高橋くん−

 

 



 何日ぶりだったろう。ぼくは東の携帯に電話した。
『きのうの夜だって。大輔、予備校帰りで、家の近くで。歩道のない道路だったけど、けっこう道幅もあるんだって。なのに、後ろから? よけてんのに、ツッコんできて? 大輔コケて、相手も一度はコケたらしんだけど、相手、すぐ逃げちゃったんだって』
 加藤の話が、何度も頭の中でリフレインした。
 確かめなきゃ。それしかなかった。所在無くぶらぶらしていたキャンパス内で、ぼくは携帯を開いた。
 だけど。
 何度呼び出し音が鳴っても、東の声は流れてこなくて。やがて。
『ただいま、電話に出ることができません。メッセージの方は……』
 聞こえてきたのは、冷たいデジタルの声。
 ――着信拒否されてるのかもしれない。
 ぼくの頭に咄嗟に浮かんだのはそれだった。
 東は、わざとぼくの電話に出ないのかもしれない……。
 時計を見た。
 4時を少し回っている。
 女の子と連れ立ってキャンパスを出て行った東の後姿が脳裏をよぎる。あれから、一時間ぐらい……?
 もしかしたら、今頃そのコと……お茶? まさか、ホテル、とか……?
 本当にすっと視界が暗くなった。
 だから、だから、ぼくの電話に出ないのか……?
 身を切られるようなつらさって言うけど。本当だと思った。躯がばらばらになりそうだと思った。胸が、痛かった。
 たかが一回、電話に出てくれなかったぐらいで、なんて、そんなふうには思えなかった。電話に出てもらえないのは、東がぼくを拒否してるせいだ。そうとしか思えなかった。
 嫌われたんだ……きっと。こんな、情けなくて、ややこしいヤツだから……。
 ぼくはその時になって、自分の思考のとんでもない甘さと間違いに気づいた。
 どうしてぼくは、東が大輔を傷つけようとしたなんて思えたんだろう? 東にはもう、新しい恋人がいるかもしれない、ぼくのことなんかうっとうしくなってるかもしれない。それなのに、どうして東が大輔を傷つける必要があるなんて思えたんだ?
 バカみたいだ。
 バカみたいだ。
 バカみたい……
 重い足を引きずって、ぼくは歩き出した。
 そこへ。
 携帯が鳴った。
 ドキンと来た。
 東からだった。

 



「俺だけど」
 耳朶に飛び込んでくる懐かしい声。
「おまえ、電話くれた? わりぃ、鳴ったの気づいたら切れて」
 ――わざとじゃ、なかった……?
「もしもし? 秀? 聞こえてんだろ?」
 避けられてたわけじゃなかった。
 ぼくは思わず目を閉じた。
 もうそれだけでいいと思えた。もしも東に新しい恋人が出来ていたとしても。こうして東は電話を掛け返してくれる。それだけでいい。
「秀? おい、なんとか言えよ」
 もう、はっきりさせなきゃいけないと思った。
 きちんと東から引導を渡してもらって、ぼくもきちんと東にありがとうとごめんを言わなきゃ。こうして連絡を取ってくれる東に、ちゃんとぼくなりに応えなきゃ。
 ぼくはひとつ、深呼吸した。
「……東。今から会える? 話したいんだ」





 カフェに入って来た東は、はっきりわかるほどに剣呑なオーラを放っていた。
 ひそめた眉間が険をはらんでいる。
 一番奥まったテーブルからぼくが小さく手を振ると、大股でこっちに来た。
 よお、も、やあ、もない東になにを言ったものか、ぼくは迷ったけど。
「あ…ごめん、急に呼び出して」
 まずはきちんと謝った。
「…………」
 東は無言でぼくの向かい側にどっかり座る。
「……ごめん、ほんとに」
 ぼくはもう一度、詫びの言葉を口にする。それでも東があんまり険しい顔を続けてるもんだから。
「もしかして…デートの途中だった?」
 気になっていたことをつい口に出してしまった。なにやってんだろ、探るみたいなこと。きちんとケリを付けるつもりで東に来てもらったっていうのに。
 だけど。
「はあ!?」
 思い切り不機嫌な声が、鋭い視線とともに飛んできた。
「誰がデートだよ」
 東の瞳が煌いて、ぼくを射る。
「悪いけどな」
 東はつんけんと言葉を続けた。
「俺、おまえ以外にデートなんかする相手、いねーから。見つける気もねーから。俺、絶対におまえと別れねーから」
 って。



 え。



「だから!」
 苛立たしげに東が言う。
「俺、おまえと別れねえって言ってんの。おまえは知らないだろうけどな、俺はずっとおまえのこと見てたんだよ。高校入ってからずっと見てたんだ。前、あのエロ本のこと、わざとだったって言ったろ。おまえはどう思ってるか知らねーけど、あれだって、こっちはいろいろ考えてタイミングはかって仕掛けたの。
 ようやくちゃんとエッチもできる間柄になれたってのに、こんなことぐらいで潰されてたまるか。
 そりゃおまえにしたら、山岡にひでー目に合わされて、男なんかもうごめんって気分かもしれねーけど、それ、俺には関係ねーから。俺はおまえと別れねーから」
 一気に東はまくしたてて、わかったかって、こっちを睨んだ。
 ……マジ、やばい。
 東がぎょっとしたように目を見張った。
「ちょ……泣くことねーだろ、おい……」
 あたふたしてる東を見てたら、笑えて来た。いまさら人の目を気にしても遅いよ、東。そんな、今のぼくには殺し文句みたいなこと言っといて。うん。ウエートレスさんがこっちを見てるね、知るもんか。
 泣いてやる。





 なんだ。脱力した東が池のほとりで座り込む。
「おまえ、すんげえ思い詰めた声だったから、俺はてっきり、おまえのほうから別れたいって話だと……」
 そそくさと最初待ち合わせたカフェを出てきたぼくたちは、近くの公園に来ていた。周りにジョギングコースの設けられている池のそばで、ぼくはなんだかひどく久しぶりな感じで東と向かい合った。
「別れ話のつもりだったよ? 東からきっちりこれが最後だって言ってもらおうと思ってた」
「俺は言わねえ」
 西日に目を細めながら、でも、東はきっぱり言った。
「俺は、おまえと別れない」
「やめてよ」
 ぼくはなんとか笑おうとした。
「また泣けるじゃん」
 東が舌打ちした。
「おっしいよなあ、さっきはサテンの中だし。なあ、今から俺の家、来ねえ? おまえがイヤだっつーことは絶対しねーから、なあ?」
 うん。東は前もそう言った。俺は後ろで手を組んでるからって。
 そんなふうに言ってくれるのは、すごく嬉しい。東の優しさなんだと思う。……けど。
「……でもさ、」
 うつむいてぼくは切り出した。
「そしたら東はなにが楽しいの? キスもできなくて……そんなの、一緒にいても仕方なくない?」
 もやもやしていたものがようやく形になって、あふれだした。
 東の目が驚いたように丸くなったけれど、つかえていたものを全部吐き出したくて、ぼくは続けた。
「それに東、腹が立たない? 東は怒っていいんだよ。ぼくは勝手にのこのこ出掛けて行って、振った相手に無理矢理……されて。揚げ句に、優しくしてくれてる東にさわられるのも、ダメになった。
 東、怒ればいいんだ。怒ってよ。なに勝手なことして、俺のことまで拒否ってんだって、怒ってよ。情けないのはぼくなのに……悪いのはぼくなのに……おまえがイヤなことはしないからとか言われると……自分が情けなくて、東に申し訳なくて、どうしていいかわからなくなる。
 レ、レイプされたのだって、ぼくにスキがあったせいで……油断しすぎたせいで……なのに、東、すごく優しくて、全然、ぼくを責めようとしなくて。なんかね、なんか、そういうの、たまらないんだ。ぼくが悪いのに、東はどこまでも優しくて、立派で。だけどぼくは、そんな東にありがとうのキスも返せない。どんどん、どんどん、自分がみじめで情けなくなるんだ。
 ――こんなこと言うのも、すごい勝手だと思うけど」
 言った……。
 胸の中にずっとわだかまってぐるぐるしていたものを、ようやく言葉にして吐き出せた。
 ほうっと息をついたぼくの前で、東がまた芝生の上に座り込んだ。うつむいて頭を押さえてる仕草がつらそうで。
「……東?」
 東の顔をのぞきこもうとして、ぼくも隣に膝をついた。





「……きっついこと、言うよなあ」
 東の口元は笑みの形になっていたけど……歪んでいた。瞳は髪に隠れて見えなかった。
「俺さ、おまえにそんなふうに思われてるワケ? エッチなけりゃ、一緒にいてもつまらないみたいな? ……まあなあ……がっついてたもんなあ、仕方ないけど」
 胸を突かれたみたいなショックがあった。東……。
「怒ればよかったんだって言われてもさ……こえーじゃん。ちょっと触ろうとするだけで、おまえ、怯えてるし……もしかしたら、俺、本気でイヤがられてんのかなって……思うじゃん。これ以上、嫌われたくねえって思うじゃん。
 俺がもっとトシいってて、ホントの大人で……そしたら、おまえのこと、もっとちゃんと受け止めてうまくやってやれんのかなって思っても……怖くて、嫌われたくなくて、自分から声もかけられなくなった。
 怒ればよかったんだって、言われてもさ……」
 東の声が震えて途切れた。パタって……なにか光るものが、隠れている東の目から地面へと落ちた。
 ……東が、泣いてる? ぼくの、言葉のせいで?
 うつむいたままの東の、西陽に金色に光っている髪を見つめながら……ぼくは初めて、気づいた。
 ――東は、いろいろ経験豊富で。ぼくよりいろんなことをわかってて。余裕がありそうで。カッコよくて、遊んでて、モテてて。
 ……でも。
 ぼくたち、同級生だったんだ。
 ぼくが18歳でしかないように、東も18歳なんだ。
 ぼくが自分のことだけでぐちゃぐちゃになってしんどかった時、東もどうしていいかわからなくて、不安で、やっぱりぐるぐるしてたんだ……。
「東」
 ぼくは東の肩に手を回した。
 不思議だけど。全然、怖くなかった、ぼくの手は震えなかった。
 きゅっと力を込めた。
「……ごめん。ぼくが、勝手なこと言った」
 自分がしんどくて。自分がみじめで。東がどんな思いでいるかなんて、全然、考えもしなかった。
「ごめん」





 ――ごめん。……ぼくさ、やっぱり東のこと、大好きだよ。
 耳元でささやいた。
 何度もささやいた。





 そしたら。
「……もしかして、俺、口説かれてる?」
 東が顔を上げた。目はまだ少し潤んでたけど。
 ぼくはちょっと考えた。
「うん……それも悪くないかも。自分のほうから触るんなら、平気みたいだし」
 うわ、と東が口の中で叫んだ。
「ちょ、ちょっとそれは……考えさせてもらえる?」
 不謹慎かもしれないけど、腰の引けてる東がおかしくて、可愛くて。ぼくは吹き出した。
 何日ぶりだったろう、ぼくは笑った。
 東もやっぱり笑い出して。
 ぼくたちは二人で笑った。
 泣きたいほど、なんだか、すごく、うれしかった。





 ベンチに場所を移して、改めて大輔のことを話したら、
「天罰だな」
 東はあっさり片付けた。
「正直言って、それ、考えた。誰かにバイクかクルマ借りてさ、ぶつけてやろうかって。殴りに行くのとどっちがいいか、マジに考えたよ」
 それ聞いて、ちょっとうれしくなったぼくを、誰か叱ってくれ。
「でもな」
 東が改めて真剣な口調になった。
「俺、それじゃダメだと思う」
 ぼくも真剣に東を見つめた。
「これはさ、おまえの問題なんだよ。俺は俺で、山岡にきちんと話さなきゃいけないこともあるけど、でも、おまえがされたことの仕返しとか、おまえの代わりに俺が怒りに行くんじゃ、ダメなんだ。それはおまえの仕事なんだよ。
 俺が出しゃばっちゃ、いけない。おまえも男なんだから。山岡を殴りたいんなら、おまえが自分で殴らなきゃいけないんだ」
 ぼくはうなずいた。
 大輔を殴るかどうかはともかくとして。これはぼくの問題だというのはすんなりと納得できた。
「うん。これはぼくの問題だよね」
 ちょっと前なら、東が同じことを言ってくれても、ぼくは聞けなかったと思う。
 おまえの仕事だって言われて、突き放されたみたいに感じただろう。
 おまえも男だって言われて、男のくせに情けないってバカにされたみたいに感じただろう。
 でも、今は。
 大丈夫、ちゃんと東が言いたいことが、わかる。 
 それは……時間がぼくに落ち着きをくれたせいかもしれないけど、なにより、東も今日までしんどかったんだってわかったおかげだと思う。きっと、本当に、東は大輔を殴りに行きたかったんだ。怒鳴り込みに行きたかったんだ。けど、それじゃダメだって東は思ったんだ。それは、ぼくが男だから。大輔も、東も、ぼくも、男なんだ。ぼくはここで、東の陰に隠れちゃいけない。
「大輔に、会ってくる」
 堂々と。怖がらずに、怯えずに。
「しっかり文句と苦情を言ってくる」
 そうしなきゃ、ぼくはきっと前に進めない。いつまでも自分で自分が情けないままなのは、やっぱりイヤだ。
 東はうんってうなずいて、ぼくの背中を押して……
 くれなかった。
「やっぱり、会いに行くんだよな」
 なんて呟いて。
 は?
 ぼく、なにか文脈を読み違えてた?
「いや。おまえが自分できちんと片付けるのがいいんだ。それはそうなんだけど……」
 なんだかやけに東の歯切れが悪い。
「……あのさ、山岡、今、入院してんだよな? だったら、俺、病室の外で待ってるからさ、そこまでは一緒に……」
「保護者同伴?」
 不思議な感じがして聞き返した。
「なに、ぼく、そんなに頼りない?」
 まあ、そりゃ。例の一件以来、ついさっきまで、自分でもかなり情けない状態が続いていたのは認めるけど。
「いや、頼りないとか、そーゆーんじゃなく……」
 もごもご言った東が、思い切ったように顔を上げた。
「ほだされんなよ」
「え?」
「だから。山岡に会いに行っても、ほだされんなよ」
「……ほだされるって言うのは……」
「口説かれて堕とされるなって言ってるの。あいつに同情して、ほろりときたり、絶対すんなよ?」
「……あのさ、それってあんまり、ありえなくない? なんでぼくが大輔にほだされるんだよ」
 抗議の意味も込めてじっと東を見つめたら。
 東が気まずそうに視線をそらす。
「なに。どういうこと」
 問い詰めた。
「だからさ……山岡から、俺が横取りしたようなもんだから」
「なにを?」
 本当にわからなかったんだけど。
「……おまえの鈍さは、ほとんど罪だよな」
 なんて。
「俺さ……山岡のしたことは絶対許せねーけど……あいつのしたことは最低の鬼畜のやることだって思ってるけど……」
 東の歯切れがどんどん悪くなった。
「でも」
 思い切ったように東は顔を上げた。
「あいつの気持ちは、わかる気がするんだ。あいつさ……おまえのこと、俺よりずっと前から好きだったんだ。たぶん、かなり、真剣に」
 半年前、大輔にテニス部の部室で告白されたときのことが頭をよぎる。
『好きだ。秀。ずっと、好きだった』
 あの時、大輔はそう言った。そう言って……ぼくにキスしてきた。
 ぼくと大輔は中学から一緒だった。部活だけじゃない、クラスも同じだったこともあって、そんな時は一日の大半、ぼくは大輔と一緒に過ごしてた。
 ずっとって……じゃあ、その頃から、大輔はぼくを好きでいてくれたんだろうか。ずっと……?
「最初、俺、おまえたちは付き合ってんだと思った。だけど、しばらく見てたらさ……どうもおまえら、深い関係とか、そういうのはなさそうでさ。山岡がおまえのこと好きなのは見ててわかったよ。でも、おまえはそれに気づいてないように見えた。これなら俺がつけいるスキがある、チャンスだって思ったんだ。山岡にしたら、大事に大事にしてたものを、横から掠め取られたようなもんだったんだって……思う」
『俺はずっと待ってた、おまえがその気になってくれるのを、ずっと待ってたんだ』
 あの時のことは悪夢のようで。ぼくはなるべく思い出さないようにしてたけど。そうだ。あの時、ぼくを後ろ手に縛り、ぼくの足の間で……大輔はそう言った。
『なんでいきなり東なんかに取られなきゃいけないんだ』
 大輔の言葉と、東の言葉が、同じことを言ってるぐらいは、ぼくにもわかる。ぼくが気づけなかった、ぼくが知らなかった、でも、そこにあったパズル――
「あいつは、おまえのことが好きだったんだ」
 東がぼくに言い聞かせるようにゆっくり繰り返す。
「レイプなんて、許されることじゃない。おまえも今は腹が立ってると思う。けど……山岡も必死だったんだってわかって……おまえ、絶対、平気か? 顔を合わせて謝られて、それでも山岡が悪いって、突き放せるか?」
 ……そういう……こと。
 東の言ってることがようやく腑に落ちて、ぼくは呆然と視線をさまよわせる。
 そういう、こと。
 大輔が、ずっとぼくを好きだと言った意味。あの時、東の名前が出てきた意味。
 そうなんだ、そういうことなんだ……。
「秀……」
 すごく不安そうな声がした。はっとした。
 東が目の前にいた。
 くっきりした目鼻立ちの、とっても綺麗なその顔が、くもってる。
 ぼくはにっこり笑った。
 すごく自然に、笑えたから。
 ぼくは東に向かって、微笑んだ。
「大丈夫だよ」
 自信を持って、言える。
「大輔がなにを言っても、ぼくはほだされたりしない。ぼくが好きなのは、東だもん」

 



 そしてぼくはきちんと顔を上げて、もう一度、繰り返した。
「大輔に会ってくるよ」
 大輔の言い訳を聞きたいからじゃない。
 東。
 もう一度、きちんと君と、向かい合いたいから。





 そう言ったら。
「やっぱり今日は、俺、おまえに口説かれてる気がするわ」って。
 もう。勝手に思ってろって。
 顔が、熱かった。


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