ご指導願います<1>

 

 入社して一年、スーツにもずいぶん慣れた。就職活動のリクルートスーツを初めて着た時にはひたすらワイシャツの襟ぐりが窮屈で、ネクタイが苦しくて、スーツが重くて、こんな肩の凝るものを毎日着て仕事に行くなんて自分にできるだろうかと不安だったが、毎日パジャマより長い時間着ているせいか、ずいぶんと馴染んできているような気がする。
 勤務先は高校・大学受験向けの通信教育事業から出発して、いまや『揺りかごから墓場まで』、生涯教育の重要性をうたい、幼児の知育本出版から老人の介護事業まで幅広く事業展開して一部上場の大企業に成長したトータル・エデュ社。都心に堂々たる自社ビルを構えるトータル・エデュ社に、佐原春実(さはらはるみ)はいつもフレックスタイム制の一番早い就業時間である朝七時半に到着する。
 これは一番込み合う通勤ラッシュの時間を避けるとともに、少しでも人の少ない時間に丁寧に仕事の準備をしたい春実の事情によるものだった。
 その朝一番の出勤に、ここ半年はもうひとつ理由ができた。
 春実がわざとゆっくりと玄関ロビーをエレベーターホールへと歩いていると、後ろから大股で、少し急ぎ足で近づいてくる足音が聞こえてくる。横に並んだタイミングでちらりと見上げれば、端整で男らしい横顔がまっすぐ前を向いて過ぎる。そこから少し春実も歩調を速めて、同じエレベーターにうまく乗ることができればそれで満足だ。
 入社してしばらくしてから、春実はやたらとスーツの似合うカッコいい男性が社内にいるのに気づいた。社員食堂や玄関ロビーで時折見かけるその姿は、スーツ姿ばかりの男性社員の中でもひときわ堂々と様になっていて、春実ばかりでなくすれちがう女性社員もみな、彼のほうをちらちらと見ずにはいられないようだった。背が高く、高さに見合った肩幅と胸板の厚さを持っている彼は、ディスプレイのマネキンよりもスーツの魅力を引き出していた。いくらスーツに慣れたといってもどこか借り物めいた感が漂う春実とちがって、彼のスーツはしっくりと彼の動きに馴染み、かつ、スーツも彼自身も極上のクオリティに見せていた。
『カッコいい人がいるなあ』
 最初はその程度の認識でしかなかったその男性を、春実がもっとはっきりと『いいなあ』と憧れの気持ちを抱いて見るようになったのは、やはり出勤時のエレベーターの中でのことだった。
 半年前のその日、一番最後に箱に乗り込んだ春実はエレベーターの扉目掛けて走りこんでくる小太りの中年社員を見て、慌てて「開」ボタンを押そうとした。それまでにもしばしば押し間違えていた、矢印で「開」「閉」が示されたボタン。慌てていればなおさらだった。
 閉まりかけた扉は駆け込んできた中年男性の肩を挟んだ。
「あ! ご、ごめんなさい!」
 急いで「開」ボタンを押し直したが、顔を真っ赤にさせたその社員は満員のエレベーターの中で、
「気をつけろっ!」
 と、怒鳴り声を上げた。相手が見るからに新入社員だったことから怒鳴りつけてきたのだろうと推測できる余裕は春実にはなかった。
「ごめんなさい……」
 再度頭を下げて謝罪したが、男は「ふん!」と言いたげに横を向くばかりだった。
 ドジはよくある。怒鳴られたことも。それでも満員のエレベーターの中でいきなり叱られたことがショックで、停まるたびに人が減っていく箱の中で春実は顔を上げることもできずにいた。その時、ぽんと肩を叩かれた。
「気にするな」
 低く、張りのある声だった。はっとして顔を上げると、ダークスーツがやけに似合うその男性が降りて行くところだった。春実を励ますように小さくうなずいて見せてくれた男の顔は一瞬後には扉に遮られてしまったが、春実の中には鮮烈な映像が残った。
 初めて正面から見つめたその顔は、正統派二枚目という形容がぴったりの、男らしく端整な美貌だった。自然に分けられた黒髪がわずかに乱れて額にかかっているのさえ、男の色気を感じさせて……。
 その朝から、ただスーツが誰より似合っている男性として見ていた相手を、春実はより意識するようになった。
 名前は堂上英一、所属は営業統括部高校受験課、肩書きは課長。だが、春実が知っているのはIDカードに記されていることだけだ。たださえ人見知りするタチの春実は「先日はありがとうございました」という一言さえ口にすることができず、彼はもうそんな些細な出来事は忘れてしまっているのか、春実に視線も向けてくれないからだ。
 「見るだけで幸せ」、いまや中高生の乙女でも言わないような純真さで、春実は朝の「見るだけ」の出会いを毎日の楽しみにしていたのだった。

   *     *     *     *     *

 テストを返却する時の教師の微妙な顔はいつものことだった。
「今日も百点だぞ。がんばったな」
「ありがとうございます」
 花丸のついた答案用紙を手に席に戻ろうとすると、なぜだか足が整然と並んだ机の脚や机の横に掛けてあるサブバッグに引っ掛かり、盛大な音とともに転んでしまう。
「大丈夫か」
 心配そうに覗き込んでくる担任と、ああまたかという顔の同級生。
「ほんとになあ、サハラ、頭はいいのに、ドジだよなあ」
「……はい……」
 くしゃくしゃになった百点満点の答案を手に、小学生の春実は席へと戻る。派手に転んでしまった恥ずかしさに赤くなった顔をうつむけて。
 クラスメイトの、ちょっと苛立ったような、あきらめたような顔もいつものことだった。
「はあ? ありえなくね? なんでこのタイミングで忘れてくるかな」
 責められる内容はさまざまだ。頼まれていたものを忘れてきたり、完成間近だった文化祭の展示物を壊してしまったり……。怒った級友は最後には苛立たしげに溜息をついて言う。
「サハラ、頭いいから頼んだのに」
「……ごめんなさい」
 穴があったら入りたいような申し訳なさと恥ずかしさを、どれほど経験しただろう。佐原春実にとって、『頭がいいのに』は呪いの言葉だった。
 物心ついた頃から「ドジ」「マヌケ」と人から言われ続けた。
 生まれる時も、うっかり頭からではなく足から産道に突っ込んだ春実だ。
「あんたのせいで緊急帝王切開なんてことになったのよ」
 冗談めかして母はよく春実にそう言った。
 生まれる前からのドジなら治しようがないんじゃないかと春実は思う。
 開き直っているわけではない。自分でもミスが多過ぎるのがイヤで、なんとかしようとはいつも努力しているのだ。けれどどれほど気をつけようと、なんでもないところで転んでしまうし、忘れ物はなくならなかったし、さわったものを壊してしまう確率も高いままだった。
 反面、勉強だけは小さい時からやたらとよく出来た。テストの時には気をつけなければいけないことが限られていて、それも春実には好都合だった。
 名前をしっかりと書くこと。消しゴムを使う時は紙が破れないように手で押さえること。問題と同じ番号のところに答えを書くこと。
 この三つさえ気をつけて、あとは覚えたことをそのまま使って答えを書けばいい。
 小学校では百点を取ることはむずかしくなく、中学受験して進んだ私立中学でも九十点以上取ることは簡単だった。大学受験で春実は東京大学文Vを受験して見事合格した。
 理系だったらそのまま大学院に残ったかもしれない。が、文系だった春実の周囲は就職と院への進学は半々で、春実も就職を選択した。
 長く日本を覆う不況で就職活動の厳しさが伝えられていたが、東大文Vという学歴と教授の推薦状、そして、ドジさえバレなければ礼儀正しくきちんと挨拶ができる春実は、一流企業であるトータル・エデュ社の内定を得ることができた。
 そして、就職して一年――。
 学歴より、テスト向きの頭の良さより、実社会では気配りと要領、そしてなによりミスの少なさが求められるのだと、春実はいやというほど思い知らされていたのだった。

   *     *     *     *     *

 この一年、春実は春実なりにとてもがんばってきた。
 会社勤めは信じられないほど多岐にわたるスキルを要求される。学生時代、ドジの自覚があることからバイトといえば中学生相手の家庭教師をしたことがあるだけ、サークルにも入らず、家と学校の往復でただただ勉強だけして過ごした春実には「実務経験」があまりに乏しかった。
 電話の取次ぎひとつとっても、そこはケアレスミスの宝庫だった。相手の名前を正確に聞き取る、電話の相手がいるかどうかを確かめる、不在なら不在を伝え、用件のメモを取り、伝言を残す。その動作のいちいちで春実は引っ掛かった。電話の相手を勘違いして、いるのにいないと告げて電話を切ってしまったことが数回、用件のメモにいたっては話の要点がつかめず何度も何度も聞き返し、相手を怒らせてしまったことが数回、まちがった相手のデスクにメモを残したことがやはり数回、もちろん、電話を掛けてきた相手先の名前の誤記入は朝飯前だ。
 コピーをとれば用紙設定をまちがえる、コピー枚数をまちがえる、縮小倍率をまちがえる、届ける相手をまちがえると、やはりミスの枚挙に事欠かない。
 重要書類と廃棄書類をまちがえてシュレッダーにかける、上司の欄に自分の判を押すなども日常茶飯事だ。
 もちろん、入社してすぐの新人研修で会社で必要とされる一通りのことは学ぶ。が、短期間の研修でなんとかなるほど春実の実務経験の浅さと持って生まれたドジ加減は甘くはなかった。
 それでも春実は入社して一年間、一生懸命がんばった。
 ミスをしないように、いつも気を張っていた。ミスした時には誠心誠意、真心をつくして謝った。上司も同僚も呆れた顔をしながらも、
「佐原君、可愛いから仕方ないか」
「東大出ってそれだけでえらっそうなヤツが多いけど、佐原の腰の低さは感心だな」
 などと言ってくれていたから、なんとか受け入れてもらえていると思っていた。
 ――なのに。それなのに。
 配属されて一年弱、四月のある日、出勤した春実は部長の席へと呼ばれた。ぺーぺーの平社員が部長席に呼ばれるなどめったにあることではない。緊張して部長の机の前に立った。
「あー佐原君ね」
 部長は忙しげに机の上の書類を弄りながらちらりと目を上げただけで続けた。
「今日から新しい部署に行ってもらうから」
「えっ!」
 寝耳に水とはこのことだった。
「あ、新しい部署って……きょ、今日から……?」
「そう、今日から」
 部長はようやくうろんと春実を見上げてきた。
「なに、なにかまずいことでもある? 引き継ぐようなこともないでしょ、君には」
「……あ……で、でも……」
「新しいところでがんばって。ね。はい、異動通知。次は営業統括部高校受験課だって。優秀な人材が欲しいという希望が人事部にあったらしくてね、いやあ、我が部としても東大卒の君を手放すのは実に惜しいんだが仕方ない。がんばってくれたまえ」
 突きつけられた異動通知書を春実は呆然と手に取る。異動? そんな話、聞いてない!
 救いを求めるように直属の課長を振り返る。すがるような視線を向けたのに、課長は気づかぬふりで顔を背けた。次に、今まで仕事を教えてくれていた同じ島の先輩たちをひとりひとり、目で追ったが、やはり皆、パソコンにかがみこんだり、「あ、そうだ」などとわざとらしく呟いて席を立って行ってしまう。
 それでわかりたくないのにわかってしまった。自分はこの部署で厄介者なのだと。
 春実は涙をこぼさないように気をつけながら、身の回りのものを片付けるためだけに机に戻った。




 私物だけを手に、フロアのちがう営業統括部を目指す。
 営業統括部。それまで春実のいた総務部企画課は社内の庶務管理を行う、社内向けの業務が中心の比較的おだやかな仕事ぶりの課だったが、営業統括部は文字通り、消費者に向けてどれだけトータル・エデュ社の商品を売り込めるかを統括する、最前線司令部のような場所だった。なかでも高校受験課は、もともと高校受験のための通信教育から出発したトータル・エデュ社にとってはそもそもの母体とも基礎とも呼べる業務を行うところで、いまや押しも押されもせぬ一大企業に社が発展したのはこの本家本元があればこそとのプライド高い部署だという。
 そんな課で、ドジがトレードマークのような自分がやっていけるんだろうか。
 不安は増す。
 知識だけはやたら豊富な春実は、世の中に「婉曲な肩叩き」というものが存在すると知っていた。「もうやめろ」と自発的な退職を促すのが「肩叩き」、その婉曲なものはわざと本人にとってつらい部署への異動や遠方への転勤を通じて自主退職に追い込むというものだ。
 入社一年目の春実にすら、激務との噂が聞こえてくる高校受験課。そんな部署でドジな自分がやっていけるわけがない。十二階から八階へとエレベーターを使って降りながら、どんどん気持ちが沈んでいく。
「……営業統括部高校受験課」
 呟いてみてはっとする。これは……あのスーツの素敵なあの人が課長を務める課じゃないか!
 そこで、やった、同じ部署だと喜べるほど、春実は恥知らずではなかった。
――あの人に、自分のドジぶりを知られてしまう……。
 新たな環境への不安の上に、漠然とした憧れを抱いていた相手から軽蔑の眼で見られてしまうかもしれないという恐怖まで湧いてきて、春実は壁に背を預けてぎゅっと目を閉じた。




「なにをしていた」
 低く張りのある、響きのよいバリトン。初めて聞いたときにはあたたかみのあったその声が、今は厳しく春実を追い詰める。
「十二階から八階のこのフロアまでどうやったら一時間もかかる。なにをしていた」
 春実は私物を入れたプラスチック製のボックスをぎゅっと胸に抱える。怖くて、すぐには来れなくて……まず十二階から一階まで降りてしまった。よし、と思って八階まで上がったが、その前に一度、外の空気を吸ったほうが落ち着けるかもと思い、また一階まで降りた。外に出て深呼吸したはいいが、戻ってまた八階まで上がったら、たて続く昇降で車酔いと同じ気分の悪さに襲われた。まずいと思ってトイレに駆け込んだが、慌てていたせいで鍵に変な角度をつけてしまったのだろう、いざ出ようと思ったら、閂式の鍵はびくともしなかった。扉に体当たりを繰り返している間に、清掃員が気づいてくれてなんとか脱出することができたが、元の部署を出てからすでに一時間が経過してしまっていた。
「優雅にお茶でもしていたか」
 憧れの君だった人の声が冷たく尖る。春実は顔を上げることもできないままに小刻みに首を横に振った。
 毎朝、スーツ姿が素敵だと、あんなふうにスーツを着こなせるようになりたいと憧れの目で見ていたその人が、今、目の前にいる。上着は椅子の背にかけてワイシャツ姿だったが、濃いグレーと薄いグレーのピンストライプのワイシャツはスーツに負けず劣らずその人に似合っていたが、怒る上司の服装に感心できる余裕は春実にはなかった。
「じゃあなにをしていた。……時間の無駄だ! さっさと答えろ!」
 ばあんと机を叩かれて大声で怒鳴られた。春実はびくりとしたが、周囲の人間はそんな怒声には慣れっこなのか、誰も顔を上げない。
「す、すみませんでした! エ、エレベーターで上がったり下がったりしているあいだに、き、気分が悪くなって……」
「どうしてエレベーターで上がったり下がったりする必要がある!」
 答えようと口を開きかけて春実は思いとどまる。『不安だったから』、そんな理由を口にできるか?
「わかった。もういい。八木! おまえの仕事を手伝わせろ」
 八木と呼ばれた社員が立ち上がってくる。こっちへ、と促されて、春実は急いで、
「遅れてすみませんでした!」
 もう一度きちんと堂上に詫びて、八木のあとについた。
 八木は三十代前半と見える、中肉中背の眼鏡をかけた男性社員だった。
「君の机はこっち。……急な配置転換で驚いたと思うけど、」
 穏やかな声で八木が切り出した。
「こっちもびっくりだよ。東大出の優秀な社員が来てくれるなんて」
 『東大出』『東大卒』、周りは東大生ばかりだった大学を卒業して一般社会に出てみれば、一種独特のニュアンスでもってその言葉は春実についてまわった。その言葉に秘められているのが、羨望、やっかみ、そして冷やかし、さらに嫉妬だということに気づけないほど、春実は鈍くはなかった。
「ご、ごめんなさい……でも、ぼくは優秀なんかじゃないです……ドジばっかりで」
「またまたあ」
 穏やかな声のままだったが、八木の口元には皮肉の色の濃い冷ややかな笑みがあった。
「ドジな人間が、この高受課でやっていけるわけないでしょ。一人一人前の仕事量で回る部署とはここは大違いでね、一人で二人前も三人前もこなしてもらわないといけないんだよ」
 春実は肩をすぼめて小さくなった。だからこの異動はなにかのまちがいじゃないかと思っていると、口に出して言う勇気はなかった。
「ま。東大出だからね、心配はしてないけど、早く仕事覚えてね」
 八木の言葉は太い釘となって春実の胸に突き刺さった。





 

つづく







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