ご指導願います<2>

 

「使えないよー、あれは」
 はばかる気もないらしい大声が、給湯室から廊下に響いていた。資料室から言われた資料を抱えて戻ってきたところだった春実は続く言葉にぎくりと足を止めた。
「東大出って言ったって、結局テストの点数取るのが得意なだけのバカっているじゃん。秀才だけど社会人失格レベルなやつって。典型的なそれよ、それ」
 声は八木のものだった。面と向かっては言わないが、その表情には日々、春実への苛立ちが混ざってきている。
 配属から一週間。新しい部署では絶対に失敗しないぞという春実自身の決意を嘲笑うかのように、派手なミスが続いていた。
「なにもさあ、ウチに回してこなくてもよさそうなもんだよな」
 別の、聞いたことのある男性社員の声が続く。
「ちょっと人事で聞いたんだけどさ」
 八木の声が低くひそめられた。
「人事考課。四月の末に新入社員の成績がまとめられるだろ? それが出てからだと、学歴はやたら立派なのに実務能力ゼロどころかマイナスな人間なんか、どの部署も欲しがらないのは見えてるじゃん。その部の部長が人事に泣きついたらしいぜ、今のうちに厄介払いしたいって」
「だからってなんでウチだよ? ほかにもいっぱいあるだろ、使えないヤツでも飼っとけるようなヒマなところ」
「それがさ」
 八木の声がますます低くなった。
「ウチの課長。社内で初めてだろ、二十代で課長まで昇進したって。やっかまれてるらしいんだよ、上に」
「あー、なる」
「東大卒の人間を使いこなせなかったっていうマイナスポイント付けたいらしいぜ。課長、今年で三十二じゃん。次は次長とか言われてさ、それを邪魔したいんだよな」
「はあ? なにそれ。あんなデク、使えるとこあるわけないじゃん。ほんっといい迷惑」
 叱られたこと、苛立たしげに怒鳴られたこと、嫌味を言われたこと、そんなことは入社後一年のこの間に何度もあった。そんな春実でも、これだけの酷評を続けざまに耳にしたことはない。
 ショックだった。
 なにより、あの堂上課長に汚点を付けるために自分がこの高校受験課に異動されたのだということが……。
 躯が小さく震えだす。『実務能力ゼロどころかマイナス』『厄介払い』『使えるとこあるわけない』……ここぞとばかりに並べられた自分への評価に血の気が引く。
「いい迷惑は俺だって。あいつ来てから逆に忙しいんだぜ?」
 笑いながら言う八木の声が急に近くなる。給湯室から二人が出てこようとしていた。
――まずい!
 慌てた春実は硬直した躯で急いで給湯室に背を向けようとして、その拍子に腕の中に抱えていたファイル数冊が互いに別方向へと滑り出した。
「あ!」
 慌てて抱え直そうとして、さらにバランスを崩す。
 派手に床にばらけるファイル、飛び出す中身、壁にしたたかに肩を打ちつける自分――デジャブに襲われる。一瞬後の自分が見えた。今まで何度となく繰り返した、似たようなドジ。春実は当然起こる結果が怖くて、ぎゅっと目を閉じる。
 が、一秒たってもファイルが床に落ちる音は聞こえてこなかった。ぐらりとよろめいた躯もなぜだか直立のまま、安定している。しっかりと、力強いものに支えられて……。
――え……。
「また転ぶ気か」
 真上から声がして、春実は恐る恐る目を開く。
 堂上だった。春実は堂上にファイルごと、横からしっかりと抱き留められていた。
「か、課長……」
 こんな間近で堂上の顔を見たことがなかった。近くで見ても、いや、近くで見ればなおのこと、端正で男らしい美貌だった。秀でた額、高い鼻梁、涼やかな目元、意志の強そうなくっきりと黒い瞳……口元の引き締まった、形のよい唇。
 頭ひとつ分高い堂上の顔に見入ってしまった春実に、堂上の眉がツっと寄る。
「このファイルは……各県の入試問題の実物だろう。予備のない貴重なものを扱うときには気をつけろ」
「は、はい……」
「あー課長、すみません」
 八木が近づいてきて、固まってしまっている春実の腕からファイルを抜き取る。同時に堂上の腕も離れて行き、春実の背中もすっと冷えた。
「俺が頼んだんですよ。資料室からファイルを取ってくるぐらい、佐原君でもミスなく出来るかなと思って」
 痛烈な嫌味。
「す、すみません……」
 入社以来、いや、物心ついて以来、自分の失敗に頭を下げるのは毎度のことだったが、堂上の前で、堂上の元で、ドジを重ねてしまう自分がその時の春実にはどうしようもなくつらかった。




 高校受験課は聞いていた以上の激務だった。以前いた総務部企画課では月ごとに社内備品にかかった各部の経費をまとめ、さらに半期に一度、総決算と次期予算の計画を立てる。その月締めの決算と半期の決算の時には、ペーペーの新米社員の春実ですら残業になるほど課内はあわただしくなったが、高校受験課のテンションと社員の気迫は毎日がその決算日をしのぐほどのものだった。
「製作部に回す資料、できてないよ!」
「九州! 九州のデータ、誰か持ってってない?」
「次の教科書検定の情報、最後に確認したのいつ?」
 総勢二十人ほどの課の誰もが己の職分に誇りを持ち、責任感と熱意をもって仕事にあたっている、その熱気がフロアに満ちていた。そしてその束ね役でもあり、牽引役でもあるのが課長・堂上だ。
 この高受課に来る前、堂上は社長室付きの戦略企画室に在籍していたという。京都大学を卒業してトータル・エデュ社に就職した彼は入社前から期待されていたが、戦略企画室に配属されるとすぐに頭角を現すようになった。その存在が社内に印象付けられたのは、十年前はまだ大手予備校の独占市場だった全国模擬試験に、初めて通信教育畑からの参入を試みるプロジェクトが見事成功したことからだった。プロジェクトチームの働きは素晴らしく、現在では全国の進学校で大手予備校の模擬試験とともにトータル・エデュ社の模擬試験も行われるようになり、大学受験における市場拡大に大きく寄与した。そのチームの一員でもっとも若かった堂上はその貢献が認められ、課長代理としてこの高受課に配属されたのだと、春実は八木から聞かされた。
 若くして管理職の末席となった堂上の下には八木をはじめ、彼より年上の部下も多い。当初、鳴り物入りで異動してきた堂上を見る課員の眼は冷ややかだった。が、昇進しての異動のあと、堂上は誰に対しても腰低く教えを請う姿勢で、短期間で高受課の仕事を覚えていった。業務に精通した上で指導力を発揮するようになった堂上は、課員一同の尊敬を勝ち得ることに成功し、今では「ウチの課長はさ……」と課員が他部署に自慢するほどの存在になっている。
――カッコいいだけじゃないんだ……。
 あちらこちらで聞かされた堂上の『戦歴』は華々しい。カッコいいスーツ姿が外見だけのものではなく、その実績や自信に裏打ちされたものだからこそだったと、春実は溜息をつきたいような気持ちで納得する。
 ドジばかりの自分とは全然ちがう……。
 前の部署は全体にゆとりがあったせいか、失敗続きの春実にもまだ居場所があった。が、この新しい職場では誰もが手一杯の仕事を抱え、よく言えば活気があり、悪く言えば殺伐としていて、春実は聞こえよがしの舌打ちをされたり、苛立った視線や尖った言葉を投げられてばかりだ。
「いっそ二丁目とか行ったら。これじゃどこの会社でもダメでしょ」
 ついにはそんな言葉さえ漏れ聞こえてきた。
 堂上課長とは見事な対極にいる自分に嫌気がさす。なにもかもがちがう、実務能力も、外見も。
 スーツの似合う堂上は体格も男らしく堂々としている。高い身長、広い肩幅、厚い胸板。春実を抱き留めてくれた腕は力強く、温かく、成熟した男の安定感を漂わせていた。対する春実は身長は一六〇そこそこ、体重は五十を切っていて、成熟した男性の骨格とは遠く、今でも学生服を着て違和感のない自信がある。色白で華奢。女の子なら嬉しい条件だったかもしれないが、手だけ見たら女の子とまちがえられるなんて、男としては恥でしかない。顔も清楚系で売っているアイドルの誰それに似ているとかで、とても東大卒のエリートには見えないと皮肉まじりに言われてしまう。
 せめて、せめて――もう少しだけドジを減らせたら。もう少しだけ、男らしい、堂々としたところがあったら。
 自分にないものをすべて持っている堂上が春実には羨ましかった。
 そんな彼の目に、自分はどう映っているのか。
『また転ぶ気か』
 抱き留めてくれた堂上はそう言った。しょっちゅうつまずいたり転んだりしているのを課長席から見ていたのか。それならきっと、八木に叱られたり溜息をつかれたりしているのも見ているにちがいない。
――呆れているかもしれない……。
 ずっと憧れの目で見ていた。近くで働くようになって、ますますその魅力を知らされた。その相手に自分は自分のドジぶりをさらしてばかりいる、その上、もしかしたら社内的な立場まで悪くしているのかもしれないと思うと、きゅうっと胸が痛くなった。




「それさあ、縮小かかってんけど、いいの?」
 緊張しながらコピー機のスタートボタンを押そうとしているところだった。後ろから突然声を掛けられて春実はびくりと躯をすくませた。
「ほら、これ。倍率変わってんよ? ……なに、なんかびびってる?」
「あ、いえ!」
 後ろから手を伸ばしてきたのは時折フロアで顔を見かける二十代後半と見える男性社員だった。明るい茶色にした髪をいつもスタイリッシュに立たせている、少し目立つ社員だ。堂上の正統派のスーツ姿とはタイプがちがうが、細身のスーツをお洒落に着こなしている。
「あ、ありがとうございます! A4で取りたかったので……」
「じゃ、これ変えないと。……両面?」
「はい」
「帳合い?」
「あ、はい」
「何部ずつ?」
「二十……」
「了解」
 春実がいつも手間取るコピー機の設定を男が素早く済ませると、原稿が次々とコピー機へと吸い込まれ始める。
「あ、ありがとうございます」
「俺、遠藤。隣の中学受験課。……おまえ、いっつも怒られてるよな」
 中学受験課は高校受験課とは同じフロアにあり、間はファイル棚で仕切られているぐらいで行き来は自由だ。
 髪型のイメージ通り、顔立ちもいまどきのイケメン風な遠藤はにやりと笑いながら春実の顔を覗き込んできた。コピー機はフロアの隅の引っ込んだところにあり周囲からは死角になっているとはいえ、近い顔の距離に春実はつい周りを見回した。
「あの、それは……ぼくがドジばかりだから」
「みたいだな」
 コピー機にもたれて、遠藤はくいっと春実の顎を持ち上げた。
「八木さん、マジメだから。おまえ、俺の下だったらよかったのに。手取り足取り、失敗しないように教えてやるよ、美人には優しいから、俺」
 顎を指で持ち上げられ、息のかかりそうな距離で口説き文句のようなことを言われる。春実がパニクるには充分な状況だった。
「やめ、やめてください……ッ、そういうのッ……!」
 遠藤の手を払いのけて躯をのけぞらせる。足元に予備のコピー用紙が積まれていたのに気づかず、春実は後ろにぐらりとよろめいた。
「おっと」
 すらりと長身に見えて、遠藤は力があった。一歩踏み込んだだけで遠藤は春実の細い躯を抱き起こしていた。
「いいねえ、そういう初々しい反応」
 笑われる。
「ま、なんか困ったことがあったら声かけてよ。仕事はできるんだぜ、俺?」
 言うだけ言うと、遠藤は「じゃ」と去って行った。春実のコピーを手伝うだけで、自分のコピーは取らないままで。
――なに? 今の、なに?
 学生時代のコンパなどでやたらと春実を触りたがったり、女装させたがったりするのがいたが、それはみな酒の上の冗談だと思っていた。今の遠藤の振る舞いはいったいなんだ? 冗談? 会社でああいう冗談が許されるのか? 春実は首をひねる。『美人?』『初々しい?』わけがわからない。
 細面の美形顔に浮かんだ笑みを思い浮かべる。……悪いけれど、少し軽薄そうで、遊び慣れているふう……に見えた。
 からかわれたのか。そう結論づけて、春実は『会社っていろんな人がいるな』と、ほおっと溜息をついた。




 異動後三週間がたっていた。明日からは飛び石ながらゴールデンウィークが始まる。いつもは殺気立っているフロアにも心なしかなごやかな風が吹いているような気がした。――八木と春実の周囲を除いては。
「……信じられないな」
 八木がもう怒りを通り越して、嫌悪さえ感じているかのような突き放した声で言う。
「ちゃんと説明したよな? データは上書き保存せずに今年度の名前を入れて別ファイルで保存してくれって。なに、なんで前の消しちゃうわけ? 残しておいてほしいデータだから別名保存してほしいって伝えたんだけど」
「ごめんなさい……すみません……」
「もうさあ、聞き飽きたよ、ごめんも、すみませんも。俺はね、理由が知りたいの。なんで東大まで出てる佐原君がこんな簡単なことを理解しようとしてくれないのか。上書き保存と別名保存。なに、そんな複雑なことを要求してるかな、俺? スターリンと毛沢東、その思想の違いを四百文字以内で述べよなんて難しい問題じゃないよね?」
 その問題のほうがはるかに簡単です、ついそう答えたくなるのを喉の奥で飲み下す。どんなに難解な問題でも紙に論述を記すという行為にはケアレスミスの要素が少ないからだ。
「すみ、すみません……ちゃ、ちゃんと最初に別名でファイルにしておいたつもりで……でもそれ、やってなくて……ごめんなさい!」
 深々と頭を下げる。はああっと長く重いため息がその頭に浴びせられた。
「謝ってもらってもね。これの元データ、課長がメモリーボードで持ってるはずだから借りてきて」
「え、あ……」
「わかる? 上司に元データもらいに行く部下がどこにいるよ? こっちは昨年度分のデータを足して提出する側なのにさ、すみません、二年前のものが消えちゃいましたぁって、どのツラ下げてって話だろ。ちゃんとさ、佐原君のミスだって言って、借りてきてね」
 八木の口調はどこまでも辛辣だ。それも春実のミスゆえだとわかっているから、春実には謝り続けるしかできない。
「本当にごめんなさい! すぐ、借りてきます……」
 たださえ人前では緊張する春実は相手が堂上だとなおのこと鼓動が早くなる。こんなミスのあとはなおさらだった。
「あの……課長……」
 出来ることなら今すぐ逃げ出したい、その思いを押さえつけて、全国の中三生の塾通いや通信教育などの学校外の学習状況をまとめたデータを借りたいと申し出る。
「すみません、ぼくの、ミスで、八木さんのデータを消してしまって……」
 堂上は課内の誰よりも多忙だ。貴重な時間を割かせてしまうことが申し訳なく、せめて要領よく用件を伝えたいのに、手を揉みしぼる時間ばかり長くて、言葉は途切れ途切れにしか出て来ない。
 これではまずいと思うのに、漆黒の瞳にまっすぐに見上げられているとなおのこと舌が絡まるようだった。
「――わかった。八木にデータを渡せばいいんだな?」
「は、はい。お願いします!」
 深く腰を折る。その時、ふっと溜息の音が聞こえたような気がした。――課長に溜息をつかれた? 青ざめる思いで顔を上げたが、もう堂上は立ち上がって春実の背後に視線を向けていた。
「八木さん、少しいいですか」
 年上の社員には丁寧語を使う。折り目正しく声をかけながら、堂上は「あちらへ」と言うようにフロアに隣接している小会議室を指し示した。
「はい」
 すぐに八木が後に続き、二人の姿は小会議室の中へと消える。
 どう考えても春実の言動が原因になっているにちがいないタイミングだった。一人席に戻った春実にちらちらと向けられる周囲の視線もやはり冷たい。
 なにを話しているのか。
 考えたくないのに考えてしまう。
「やっぱりね……」
 ひそひそ声が聞こえてくる。
――やっぱり……。
 こんなドジ続きの社員は邪魔者でしかないということだろうか。もしかしたらまた、どこかほかの部署に飛ばされるのだろうか。
『東大卒の優秀な社員を手放すのは惜しいんだが』
 堂上も白々しくそんなセリフを吐くのだろうか。そしてまた新しい部署で『東大出てんだろ?』と陰口を叩かれて、周囲から苛立った視線を向けられて……。
 考えているとじわっと視界が滲みだして、春実は慌てて目元をぬぐった。
――泣いてる場合じゃない、泣いてる場合じゃ……。
「佐原」
 十分もたっていただろうか、隣の席の八木が戻ってきて、くいっと顎をしゃくった。
「今度は君。堂上課長が小会議室で呼んでる」
 ああ、やっぱり……不安が現実になっていくようで、春実はすぐに動けなかった。







 

つづく







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