「早く行ってこいよ」
ぶっきらぼうな口調だった。なにかすねてもいるように見える八木は立ち尽くす春実に視線は向けないままで、再びあごをしゃくった。
「は、はい」
ぎくしゃくと脚を動かす。机やファイル棚の角にごつごつ足をぶつけながら小会議室へ向かった。
「どしたん? 悲壮な顔してんぜ?」
小会議室の手前に中受課がある。フロアを横切る通路を歩いていたら、そう横から声をかけられた。
「遠藤さん……」
一度声を掛けられて以来、遠藤とは何度か言葉を交わしたことがあった。いつも決まって遠藤のほうが気がついて春実に声をかけてくれる。
「俺もさ、この四月に入社してきたばっかなんだよね、中途採用で」
二度目にエレベーターホールで一緒になった時、遠藤は少しトーンを落としてそう言った。
「え、ホントですか?」
思わず聞き返したのは、フロアで見る遠藤の様子がとても入社して数週間とは見えない馴染みぶりだったからだ。
「三月まで都市銀にいてさ、だから俺もこの会社では新入社員なわけ。な、サハラちゃん、二人でがんばっていこうな」
そうと聞けば、わざわざ声をかけてくれた動機も納得できた。最初は少々セクハラめいた発言に警戒感を抱いた春実だったが、『そういう冗談が好きな人』と思って接してみれば遠藤は悪い人間ではなく、ともにこのフロアでは新人という連帯意識からか、春実がへこんでいる時に絶妙のタイミングで声をかけてくれるのはありがたかった。言われて携帯電話の番号やアドレスも交換していたが、時々送ってくれるメールも短いけれど面白く、特に春実が失敗してへこんでいる時には励ますようなメールをくれるのが嬉しい。
今も、いよいよ堂上からも『おまえは使えない』宣言をされるのかと悲壮な気分の春実の顔を見て話しかけてくれたにちがいなかった。
「さっき堂上課長と八木さんが入ってったけど?」
遠藤は小会議室のほうをくいっと指で指し示す。春実は肩を落とした。
「次……ぼくが呼ばれてるんです。今日また……おっきな失敗しちゃって……」
「あーらら」
一瞬目を丸くして見せた遠藤は、すぐに「けどさ」と続けた。
「心配ないと思うぜ? 堂上サンはおまえを切る方向にはたぶん動かねーから」
「え、どうして……」
「それは今度ゆっくり教えてやんよ。ミスして呼ばれてんだろ? 早いとこ行ってしっかり頭下げて来い」
「あ、はい!」
言われて足を速めた。遠藤の言葉はなんの根拠もないのかもしれないが、気持ちがほんの少しだけ、楽になっていた。
「失礼します」
声をかけてドアを開ける。
堂上は机のひとつに腰を下ろし、脚を組んでいた。膝の上に肘を置き、何か難しい問題でも考えているかのように腕で顎を支え、眉間に皺を寄せている。――その難しい表情は自分の処遇について悩んでいるせいかと思うと、春実はこのまま消えてなくなりたいような気持ちになったが、『しっかり頭を下げて来い』、遠藤のアドバイスを思い出し、
「きょ、今日は……すみませんでした!」
深く腰を折って頭を下げた。
「ぼ、ぼくのミスで……八木さんのデータを消してしまって……本当に、ごめんなさい!」
小さく息をつくような気配があった。
「――八木さんも、君は素直に謝ることができると言っていた」
呟くように言われる。え、と顔を上げると、
「こっちへ」
手招かれる。なにを言われるのだろう、怖くて俯いたまま堂上の前へと進む。肩をすくませていると、おもむろに堂上が口をひらいた。
「旧帝大系は」
思わぬ言葉だった。
「普通にしていても学歴をハナにかけてエラッそうにと言われる。この会社は一部上場しているだけあって高学歴の人間が多いが、それでも京大出は目立つ。東大ならなおのことだ」
なにを言われるのか、わからなくて顔を上げると、真剣な瞳が春実を凝視していた。
「君は東大出をハナにかけているのか」
「いえ! いいえ!」
春実は大きく首を横に振った。手まで振る。
「そんな、そんなこと……!」
「君は学歴をハナにかけてない、仕事をバカにしているんじゃない、そう思っていいな?」
「はい!」
今度は縦に大きくうなずいた春実に、ふっと堂上の口元に笑みが浮く。
「この三週間、君の様子を見ていた。最初に遅刻してきた時には、こいつやる気があるのかと腹が立ったが……君はやる気がないわけじゃないな? 一生懸命やっていて、それでもミスが多いんだな?」
それは痛いところでもあった。春実は小さくなって「はい」とうなずく。
「八木さんもそれはわかっている」
え、と思わず顔が上がる。八木さんが……?
「仕事の理解も物覚えも悪くない、人の説明もちゃんとメモを取りながら聞く、わからないことは質問してくる、仕事への取り組みは十分評価できるそうだ」
ぽかんと口が開きそうになった。給湯室での陰口を聞くまでもなく、八木がドジ続きの自分に苛立っているのはわかっていた。マイナスの評価しかないだろうと思っていたのに……。
堂上は笑みを含んだ瞳でうなずいた。
「八木さんが言っていた。だから前の部署でも一年近く使っていたんだろうと。俺も同感だ」
なにか熱いものが胸に込み上げてくる。嫌われていると思っていた、腹を立てているばかりだろうと思っていた。自分でもどうしようもないヤツと思う、そんなドジ続きの人間に、それでもプラスの部分を見つけて評価してくれているのがたまらなくありがたくて嬉しい。
「あ、あり……」
春実はぐいっと頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「だが、問題はある」
冷静に言われて、「はい」と顔を引き締める。
「ぼくはドジばかりで……」
「原因を考えてみたことがあるか」
「はい。不注意と無器用なのが……」
「君の履歴書を見た。サークル活動も学外活動もしてきてないな? おまけに実家暮らしだ」
こくりとうなずいた。
「なにかやっても失敗ばかりで……結局迷惑かけるしかできないので……。親もぼくを心配して一人暮らしなんてとんでもないって……」
「その苦手意識と社会経験の少なさが君のドジぶりに拍車をかけていると俺は思う」
そんなふうに分析されたことは今までなかった。
堂上は指で顎を支え、時折春実の表情を見、時折空を見つめて、ゆっくり言葉を選ぶようにして話を続ける。
「君の失敗の特徴を見ていると、あるいは注意欠陥多動症、あるいは発達障害などの診断が下されるかもしれないとも思う。だが俺はそういうラベリングは好きじゃない。君には十分な記憶力と理解力がある。高い学力は疑いない。どのラベルが正しいのか、ああだこうだ言うより、持っているプラスの部分でマイナスをカバーすることを考えるほうが建設的だろう」
戦力外通告を覚悟して部屋に入ってきたのに……なんとか春実を救おうとしてくれている堂上の姿勢がありがたく、そして言われることが初めてのことばかりで、春実はただこくこくとうなずきながら堂上の言葉を聞いていた。
「君は自分で自分のフォローができるようになりたいと思わないか」
穏やかに問いかけられて春実は勢いこんだ。
「お、思います! じ、自分でなんとか……!」
よし、というようにうなずくと、堂上は横にあるレポート用紙とペンを示した。
「なら今から言うことを自分の言葉に直してメモをとれ」
「は、はい!」
急いで椅子を引いてレポート用紙を開く――それだけの動作で椅子を隣の椅子に引っ掛けて倒し、レポート用紙の表紙に裂け目が入る。
「す、すみません……!」
せっかく今から改善点を教えてもらおうというのに、早速のドジ。堂上が呆れていないかと思うとペンを持つ手さえ震えてくる。
「――まず、それだ」
「え?」
見上げると苦笑気味の堂上の顔があった。
「佐原は話し始めによくつっかえるだろう。今みたいに、す、すみません、お、思います」
「あ……は、はい」
「気持ちが先走るせいで慌てるからだ。早く返事をしよう、ちゃんと返事をしよう、そう思い過ぎるからつっかえる」
「あ……」
言われてみればその通りだった。
「今の椅子を倒したのも、表紙が破れかけたのもそうだ。佐原はマジメなんだろうな、早く早く、きちんときちんと。その気持ちがありすぎるから、焦って失敗する」
「……はい」
「そうだ。慌てなくていい。一呼吸置くぐらいでちょうどいいんだ」
「……はい!」
ペンを改めて握りなおす。ゆっくりでいい。一呼吸。そう意識すると不思議と手の震えが止まった。『焦らない。慌てない。一呼吸置く』とメモする。
「これは俺の反省点でもある」
少し沈んだ口調だった。春実は顔を上げた。
「異動初日。君を怒鳴りつけたろう。高校受験課は激務で知られている。俺の中にも仕事の処理は一秒でも早く、無駄はひとつでも少なくという気持ちがあった。だが、人間にはそれぞれ自分のペースがある。それを見極める前に自分のペースを押し付けようとした。あれで余計に君を萎縮させてしまったのかもしれないと考えていた。すまない」
頭を下げられて春実は慌てた。異動初日、エレベーターで昇降を繰り返した挙句、気分が悪くなってトイレに立てこもってしまった春実はたった四階分の移動に一時間もかかってしまった。うまい言い訳もできなくて堂上に怒られてしまったが、そもそもの非が自分にあることはわかっている。
「そ、そんな、課長……や、やめてください……! か、課長のせいってことはないです! ぼ、ぼくのドジは生まれつきで……あ、そ、そうだ! ぼく、生まれる時も足から産道に突っ込んじゃって、母は緊急帝王切開になっちゃって……あ! そう! ズボンにもよく両脚突っ込みそうになるんです! パジャマとかゆるいやつだと、うわってなって……」
頭を下げたままの堂上の肩がひくりと震えた。
「……え」
覗き込むと、堂上が口を抑えて笑いをこらえている。
「……すまない。謝っている時に。……つい、パジャマに両脚突っ込んで慌てている君を想像してしまった」
こらえきれない笑いに堂上は笑顔になっていた。
――……わ……。
いつも厳しいほどの表情で仕事に取り組んでいる堂上だった。仕事の合間に談笑する時も口元に笑みが浮かぶことはあっても、こんな笑顔は初めてだ。厳しさ凛々しさが劇的にやわらぎ、明るく優しげになった堂上の顔から春実は目を離せなくなった。
「すまない。笑って。……しかし、そうか、君のドジは筋金入りなんだな」
そう言って春実を見つめる堂上の瞳は、まだ笑いの気配を残しながら優しい。うっとりとその瞳を見つめ返してしまって、「ん?」と堂上に首をかしげられてしまう。
「あ! ご、ごめんなさい! あ、で、でも、ドジは直して行きます! え、あ、あ、ひ、一呼吸ですね! 一呼吸! 焦らない!」
「そう言いながら焦ってるぞ、佐原」
「あ……すみません」
ぺこりと頭を下げると、上から短い笑い声が聞こえた。
――こんなふうに笑うんだ……。
胸の奥が不思議に熱くなる。まぶたに焼きつきでもしたように、さっきの笑顔が浮かんでくる。
――ダメだ、なに考えてんだ!
今は大事なアドバイスをもらっている最中なのに。春実は雑念を払おうとペンを握り直した。
「あの、次は」
「そうだな……」
顔を上げると、堂上は笑いの気配を消し、言葉を選ぶように顎に手をやっていた。
「コピーやパソコンの失敗だが、佐原は細かい作業について事前にメモを用意してるか?」
「……作業について……あの、してません」
「事前に少し時間がかかってもいい。小さなメモ帳を用意して行動に移る前になにをするべきなのかフローチャートを書くようにしてみろ」
もうすっかり冷静で事務的な表情に戻って、堂上が言う。
「こんなことはいちいちメモするようなことじゃない、そう思わずに実際の細かな作業を事前にまとめてみろ。確認しながら行動しろ」
「……はい!」
『細かい作業もフローチャートにまとめる。確認しながら行動する』とメモをとる。次は?と期待を込めて堂上を見上げた。
「とりあえずその二点を徹底してみろ。とにかく焦るな。時間がかかることより、失敗を避けることに注意を払え。……いいか?」
堂上がかがみこんできて、額の中央に指の先を当てられる。
「おまえのこの頭の中身は日本最高学府に合格し、かつ卒業できるだけの優秀さを持ち合わせている。萎縮するな、自信を持て。いいか」
頭はいいのに、とずっと言われ続けていた。頭はよくても自分はダメなのだとずっと思っていた。自信を持っていいなんて、誰も言ってくれなかった。
じわりと目頭が熱くなる。喉の奥から鼻にかけてツンとしたものが上がってきて、視界が潤む。
「ありがとうございます! 課長、ありがとうございます……!」
堂上が深くうなずいてくれる。
「佐原は素直だな。……大丈夫だ。おまえなら、がんばれる」
「はい、はい……!」
ふっと堂上がいたずらっぽい笑みを浮かべた。ぽんと頭に手を置かれる。
「パジャマを着る時もな。ここが頭、これが右足、左足、焦らずに着るんだぞ」
大きな手から頭髪ごしにじわりと体温が伝わってくる。
「はい」と答えたつもりが掠れた音にしかならず、それどころか顔が焼け付くように熱くなってきて、春実は急いで赤くなっているだろう顔を俯けた。
――どうしよう……。
「じゃあフロアに戻るか」
無言でうなずく。何か言えばまた裏返った声になってしまいそうだった。
――どうしよう。
その小会議室を堂上に続いて出ながら、春実はうろたえ続けていた。
――どうしよう……この人が好き、かもしれない。
恋心を自覚したことなど今まで一度もない。胸に湧き上がる熱と訳のわからない昂ぶりを「好き」という言葉で片付けていいかどうかもわからぬままに、春実は堂上の広い背中を見つめていたい視線を無理に床に向けていた。
小会議室を出たところで胸ポケットに入れてある携帯が震えた。
『どしたん? なんか困った顔してる』
遠藤からだった。周りを見回すと、フロアの隅でPCに向かっている遠藤の姿が見えた。堂上の後ろから俯いて部屋から出てきた自分を心配してくれたにちがいなかった。
急いで、『大丈夫です』とだけ送り返す。
顔をぱしんと両手で叩く。遠藤のメールで現実に引き戻してもらえたと思う。
たった今、堂上から素晴らしいアドバイスをもらったところだというのに……つまらない気持ちに振り回されている時じゃなかった。だいたい、男の上司を好きになったかもしれないなんて……考えるだけでおかしい。十近くも年上の同性だぞ? 万一、堂上にこの気持ちを悟られたら……どれほど気持ち悪がられるか。
春実は大事に折りたたんでポケットに入れておいた、堂上のアドバイスを記した紙を広げた。自分が今、考えるべきなのは……こんな自分でもなんとか仕事ができるようにと考えてくれた上司や先輩たちの期待に応えることだ。
まず、八木に今までのことをもう一度謝ろう。そして……堂上に言われたことを忘れないようにして、改めて仕事に取り組もう。――課長がカッコいいとか、カッコいいだけじゃなく笑顔も素敵だとか、ちゃんと自分のことを見ていてくれて適切なアドバイスをくれてすごく嬉しいとか……そういうことは忘れているべきだ。そうだ。
そうして春実は芽生えたばかりの恋心を封印することに決めたのだった。
つづく
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