ご指導願います<4>

 

 手元のメモをのぞきこむ。
「えと……製作部提出用の資料。……すべて原寸。……一部ずつ。コピー後左端ホチキス。……コピー印押して製作部の田辺さんに渡す。……まず、原寸コピー。部数は一、と」
 コピー機のそばでぶつぶつ言っていると、ぽんと肩を叩かれた。
『がんばってるな』
 深みのある低い声が耳の奥をかすめる。堂上は最近よくそんなふうに春実に声をかけてくれるから、春実は自覚のないままに期待を込めて振り返った。
「よぉう」
「……遠藤さん」
 明るい茶髪と今日もスタイリッシュに決めたスーツ姿に軽く失望を覚えた。
 がっかりしている自分に気づいて、『ちがうちがう』と否定する。――最近、いつもそうだ。堂上の姿をつい目で追ってしまいそうになる、『ちがうちがう』と視線を外す。堂上の声を聞くと胸が躍る、『ちがうちがう』と気のせいにする。どうしようもない自分の心を、『今は仕事に集中するべき!』と戒める。そうする間にミスが減り、堂上から褒められて、また嬉しくなってしまう自分を『そうじゃないだろ』と叱る。
 堂上から与えられた二つの注意点に気をつけるようになって、確かにミスは大幅に減ってきていたが、封印したはずの恋心に春実は振り回されていた。
 ふと気づくと、じっと遠藤に顔を覗き込まれていた。
「最近さあ、どうもサハラちゃん、ヘンじゃない?」
「……そうですか?」
「ま、それが堂上課長のアドバイスのおかげってのが俺的にはつまんないんだけど、確かにサハラちゃん、八木さんに怒られるの、少なくなってるよな。んで元気で調子よさそうかと思うと、なーんか溜息ついたりしてんの。どうしたのかなー」
 一呼吸置くつもりはなかったが、返答に困る。遠藤はいつもそうだ。声を掛けてくれるのはありがたいが、すぐに、よくわからない、返しに困るようなことを言ってくる。
「どうって……」
「正直に答えなさい」
 遠藤はそう言うと、右手を春実の右側につき、左手を春実の左側についた。コピー機と自分の躯で春実を挟むと、後ろから春実の顔を覗き込んでくる。
「あの、遠藤さん、これ、くっつきすぎですよ?」
 軽く身じろいだが、遠藤のスキンシップがやや過剰なのもいつものことだった。一度、『遠藤さん、触りすぎです』と抗議したら、逆に『男同士で意識過剰っしょ?』と返されてしまった。あまり騒いでもおかしいかと思う。
「正直に答えたらすぐに放してやるよ。サハラちゃん、恋してない?」
「……は?」
 意外すぎる言葉に間近にある顔をつい見返してしまった。少し褐色のかかった瞳と思いがけない近距離で目が合う。
「恋。好きな人がいるか……誰かとデートしてるとか?」
「な、ななな、ないです! そんな……」
「ホント? こう、顔を思い浮かべると胸がキュンとかする相手とか、いない?」
「……え」
 顔を思い浮かべると胸がキュン……?
 その瞬間にぶわっと脳裏に浮かんだのは堂上の姿だった。とたんに、胸がキュン、どころかきゅうっと揉み絞られるような感覚に襲われて春実は驚いた。
「あらあ? なになに、顔、赤くなってるよ?」
「そんな……!」
「もしかして、俺ってことある? その相手」
「あ、あ、あ、ありません!」
「なんだあ」
 がっかりしたような声を出されても困る。『もう放してください』と言おうとしたところで、
「――なにをしている」
 突然横合いから声をかけられた。思わず躯が震えた。それはまさに、今思い浮かべたその人の……。
 恐る恐る振り返ると、遠藤の肩越しに、コピー機の置かれたスペースの入り口に立つ堂上の背の高い姿があった。
「なにって、堂上先輩」
 遠藤が両腕の中に春実をキープしたまま、薄く笑う。
「コピーの順番待ってんですけど?」
「その姿勢では佐原がコピーを取れないだろう」
「あれ? そう? サハラちゃん、コピー取れない?」
「と、取れません! どいてください!」
 強く言うと、「あーらら」とふざけた様子で遠藤は両手を上げる。
「遠藤」
 堂上の、叱責するような口調だった。
「あまり社内でふざけすぎると……」
「と?」
 にやりと笑って遠藤は堂上をかえりみた。
 なにかはわからないが挑発的なものが遠藤の態度にあったが、堂上はたじろがなかった。
「自分で自分の評判を落とすことになるぞ」
「ご忠告ありがとうございます。さすが堂上さん、誰にもびしっと正論ですね」
 春実にはそれがなんなのかまるでわからなかったが、狭いコピー機のスペースにぴしぴしと火花が散るような空気が立ち込める。
 自分にできることは……さっさとコピーを取り終わることだけ。
 慌てて原紙を取り出すと、またこれが焦っているせいでバラけて床に散らばった。
「ほらほら、なにやってんの」
 素早く拾ってくれたのは、やはり遠藤だった。
「原寸だっけ?」
「あ、はい」
「一部ずつ?」
「はい」
 つい、いつものようにてきぱきと設定してくれる遠藤に答えていると、
「すまないが」
 苛立った声が割って入ってきた。
「わたしの部下は一人でコピーを取ることができるんだが」
「でも俺が手伝ったほうが早いですよ? な、サハラちゃん」
 ぶつかる二人の主張。春実はなんと答えればいいのか、わからなかった。




「コピー届けたか?」
 堂上との面談以来、八木はこまめに春実に確認の声をかけてくれるようになった。
「はい。製作部の」
 手元の小さなメモ帳をチラ見する。
「田辺さんに渡してきました」
 コピーは結局、ほとんど遠藤が取ってくれた。堂上には『佐原は人に頼らず自分で出来るようになりなさい』と注意されてしまった。
 なぜだかずしりと疲れ、なんだか悲しい気分まであったが、用件をメモしているおかげできちんと相手先に資料を届けるところまでできた。
「よし」
 八木が満足そうにうなずく。
「最初はどうなるかと思ったけど、さすが東大卒だな。やればできるじゃないか」
 ひとつ呼吸。
「みなさんのご指導のおかげです」
 心からそう思う。こんな自分でもプラスの部分を見つけて評価してくれた八木、いたずらに叱り飛ばすのではなく具体的な改善策を示してくれた堂上のおかげだと。
 八木ともずいぶんと関係がよくなった。
「あの……八木さん」
 声をひそめて気になっていたことを聞いてみる。
「堂上課長と中受課の遠藤さんって、先輩後輩なんですか? 遠藤さんが堂上先輩って呼んでたんですけど」
「ああ」
 八木もなぜか声をひそめた。
「堂上課長、京大出だろ? 遠藤さんも同じ京大なんだよ。課長が四年の時に遠藤さんが一年で確かサークルも同じだったとか……」
「へえ……」
 その割りに二人には親しげな様子はなかった。不思議な気持ちでいると、八木がさらに身を乗り出してきた。
「おまえ、知ってるよな? 遠藤さんは……」
「すいませーん、八木さあん!」
 そこへちょうど声がかかり、八木は席を立って行った。
 遠藤さんは……なんなんだろう?とは思ったが、春実の中ですぐにその小さな疑問は流れていってしまった。




 季節は春から初夏へと移り、そろそろ梅雨を迎えようかという頃。
 トータル・エデュ社の全国の中学三年生に占める通信教育利用率が三十パーセントの大台に乗るという快挙があった。
「これを瞬間最大風速にしてはならない。継続的な成績として維持していくために、これからますます緻密な市場分析が求められる」
 課長の堂上からの話には浮かれたところはなかったが、めでたいことにはちがいなかった。課で祝賀会を開こうじゃないかという声が上がったのは、堂上の元、一丸となって頑張ってきたという気持ちがあればこそだった。
「そういえばサハラの歓迎会、やってなかったよね」
「ああ、四月はバタバタしてたから。遅くなったけど、歓迎会も兼ねるか」
 そんな声も上がったのは春実にとってはとても嬉しいことだった。自分が当初、決して歓迎されてはいなかったのもわかるし、それが今はこうして課のみんなに受け入れられているのはありがたいばかりだった。
「今日、おたくら飲み会だって?」
 春実が遠藤に社食で声をかけられたのは、その祝賀会当日のことだった。このところ、春実もようやく軌道に乗り出した八木の補助業務に忙しく、遠藤の中受課もやはり新学期開始から夏休みまでが新規顧客獲得の肝だとばかりにあわただしそうで、ゆっくり話すのは久しぶりだった。
「あ、はい」
 誘われて同じテーブルに向かい合ってつく。
「ひっどいなあ、俺の誘いはいっつも断るくせに」
 遠藤が恨めしそうに言う。実際に遠藤からは何度かメールや口頭で食事に行かないか、呑みに行かないかと誘われていたが、そのたび、『まだ仕事に慣れないので余裕がありません、ごめんなさい』と春実は断っていた。
「あー……今回はぼくの歓迎会も兼ねてくれているから」
「んじゃ俺も歓迎してあげるよ? 二人だけの歓迎会。よくね?」
「なにを歓迎してくれるんですか? 意味がわかりません」
「そんな冷たいこと言わずに。一度ゆっくり口説かせてよ」
「またすぐ遠藤さんはそういうこと言う」
 春実は遠藤の『イケメン』というカテゴリーがぴったりの細面の顔を軽く睨む。
「彼女さんとかいらっしゃるでしょ。ぼくみたいな男相手につまんない冗談ばっかり言ってると、失礼ですよ」
「ぼくみたいなって、どういうの?」
 にやっと笑いながら返される。返答に詰まると、
「そんじょそこらの女より美人で? ほっそりしてて可愛くて? ドジだけど一生懸命なところが男の保護欲刺激して? また時々こぼれる笑顔が食べちゃいたいくらい可愛い、そんな男、いくら男でも口説きたくなるでしょ?」
「も、や、やめてください! ぼ、ぼくは全然美人じゃないし……だ、だいたい、可愛いとか……ないです、ない!」
 箸を握ったままの手を思わずぶんぶんと振り回して否定する。
「サハラちゃん、もしかして今までおつきあいとかしたことない?」
「ありません!」
 はああっと遠藤は嘆息してみせる。
「なにそれ、もったいない。東大の男ってバカばっか? こんな美人ほっとくなんて。でも、俺にはラッキーかも」
 遠藤の瞳がふっと真剣になった。
「今度、デートしよ。ちゃんと教えてあげる。恋愛の手順」
「なん……」
「好きな人いても関係ない。サハラちゃん、オクテでしょ? 見てるだけじゃないの? そんなのホントの恋じゃないから。俺が教えてあげる」
「や、や、や、やめてくださいっ!」
 躯を引いた拍子に椅子がぐらりと揺れた。慌ててテーブルの端をがっしと掴む。
「おっと!」
 遠藤も手を伸ばしてくれて、両手首を握られる。
「あ、ありが……」
 危機一髪。なんとか転倒をまぬがれて、いつもの遠藤なら『ホント、サハラちゃん、ドジだから』とかなんとか軽口が入るところだろうに、視線を上げた先にはやはりやけに真剣そうな顔があった。
「――本気だよ。おまえ、あぶなっかしい。俺がちゃんと……段階踏んで大人にしてあげる。だから俺と……」
 真昼間の社員食堂には似合わないトーンと言葉だった。両の手首も握られたまま……。
「や、や、や! そ、そういうのは……!」
 まずい、とにかく、まずい! 春実は慌てて、めいっぱいの力で手を引き抜こうとした。テーブル越しに腕を伸ばしていた遠藤の指はそれでも春実の細い手首を握り締めていたが、春実が体重を後ろにかけて思い切り手を引くと、するりと抜けた。
 が。ほっとするより、天井が真正面に見えるほうが早かった。
――あれ、天井……?
 と思う間もなく、春実は椅子ごと後ろに盛大な音とともに倒れこんでいた。




「えーでは、全国シェア三十パーセント制覇を祝って、それから佐原春実君の高校受験課異動を歓迎して、乾杯!」
 乾杯の声が和する。
 祝賀会という名の飲み会の会場に選ばれたのは、駅前の大きなセンタービルの中にある、落ち着いた内装がお洒落な中華料理の店だった。堂上課長以下派遣も含めて総勢二十人余、ベランダに面した独立した小部屋での宴会だった。部屋には大きな丸テーブルが三台あり、それぞれに六、七人ずつの配置だった。
 堂上の周りはやはり年配の中堅どころの社員が占め、若手の社員ばかりの春実のテーブルとは離れていた。
「まあまあまあ、今日はサハラも呑めよ」
 歓迎会という名目もあり、かざされる瓶ビールを断るばかりなのも申し訳なく、グラスを差し出す。
「最初さあ」
 酒席の気安さで三年ばかり先輩の同僚が言い出した。
「東大卒が来るって言うから、どんなすごいのが来るのかと思ってさあ」
「……すみません、こんなので……」
「いやあ、別の意味ですごかったよな」
 横の一人が口を出す。
「八木さん、よくこらえてるなあと思ったもん。コピーは取れないわ、書類は記入間違いはあるわ、届け先は間違えるわ」
「電話もしょっちゅう間違えてたよな」
「俺さあ、すっげ大事な電話、サハラに切られちゃったことある」
「あ、俺も!」
「……すみません……」
 小さくなったところに、また「まあ呑め」と言われれば、やはりグラスを差し出さないわけにはいかない。
「けどさ、東大卒っていうからどんなえらっそうかと思ったら、サハラ、それはなかったよな」
「ああ、腰は低かったよな」
「……どうも」
「実は俺」
 と言い出したのは最初に話を切り出した三年先輩だった。
「最初、女子社員が男物のスーツ着て来てんのかと思った」
「あ、実は俺も」
「サハラ、可愛いよな」
「……そうでしょうか」
 これには首をかしげるしかない春実だ。
「んでもさ。やっぱすごいのは課長だよ」
 やはり三年先輩が言う。
「あんだけ失敗続きのサハラが目に見えてミスが減ったもんな」
「そうそう!」
「ありがたいと思ってます」
 これは心からそう言った。
「八木さんも……こんなぼくに根気よく仕事を教えてくださって……」
「えっらいよなあ。……よし! サハラと八木さんと課長に乾杯だ!」
「乾杯だあ!」
 自分に乾杯してくれるというのにグラスを空けないわけにはいかない。春実はビールを喉に流し込んだ。




 もう何杯飲んだだろう?
 アルコールの火照りで、もうずっと頬が熱く、躯中がほかほかしている。頭もぼうっとしているようで、受け答えに自信がなかった。
「なんか、ぼく、酔っちゃったみたい……」
 呟くと、
「あーホントだ。顔まっか」
 横から笑われた。
「外の風当たってきたら? 少しはすっきりするかも」
 アドバイスに、春実は素直にバルコニーに出てみることにした。小部屋の中はどのテーブルも大いに盛り上がって賑やかだったが、一歩外に出て掃き出し窓を閉めると外は意外に静かだった。初夏とは言いながら涼しい夜風が頬に心地いい。
「あー」
 つい腕を上げて伸びをした。
「どうした」
 笑いを含んだ声がいきなり奥から聞こえてきてびっくりする。
「佐原も一服か?」
 堂上が柵に腕を乗せて立っていた。その指には会社では見たことのない煙草が挟まれている。
「……課長……」
 とくんとひとつ、胸が鳴る。
 酒席だからだろうか、上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて喉もとのボタンも外した堂上の姿は常にないラフな印象で、それもまたカッコいいと思ってしまった瞬間に、胸はとくとくと速い鼓動を刻みだした。
 室内からの淡い光に浮かぶ、男らしい体躯と横顔。自分に意識することを禁じていた堂上への想いが春実の中で急速に膨らんだ瞬間だった。







 

つづく







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