ご指導願います<5>

 

 灰を携帯灰皿の中に落として、堂上は窓の前に突っ立っている春実を見た。
「煙が気になる? こっちのほうが風がよく当たるよ」
「は、はい……」
 酔いのせいか、ほかに人のいないバルコニーに二人きりというシチュエーションのせいか、なんだか足元がおぼつかないような感じになりながら、一歩一歩堂上に近づく。
「た、煙草……吸われるんですね」
「ああ、普段はなくても平気なんだけどね、酒が入ると吸いたくなる」
 そんな会話さえドキドキする。
 男にしては背の低い春実の身長では、バルコニーの柵からは首から上が出るだけだった。堂上に並び、ステンレスの太い柵に手をかけてそっと下を見る。
「高ぁい……」
「十二階だからな。もっともこのあたりじゃ、この高さではあまり夜景も見られないな」
 隣のブロックに建つ別のビルに眺望を遮られるのを残念がるような口調だった。
「課長は……」
 呑みすぎたビールのせいだろうか、疑問に思ったことがつるりと口から出ていた。
「綺麗な夜景を一緒に見る人が、いるんですか?」
「え?」
 意外な問いだったのか、堂上が驚いたように振り返る。とたんに恥ずかしくなって春実は顔の前でぱたぱたと手を振った。
「あ、ご、ごめんなさい! い、今のナシで! ナシでお願いします!」
「――以前はいたけどね」
 さらりと返されて、それでも、その言葉の意味するところに今度は胸がきゅっとなる。
「こ、恋人……?」
「まあ、そう呼べる関係だったかな」
 当たり前だ、当たり前。堂上は今年三十二だという。こんなにカッコよくて、仕事も出来て、部下にも慕われている、そんな堂上にこの年まで親しい女性がいないほうがおかしい。そう頭ではわかっているのに、胸はどんどんきゅうきゅうと痛くなる。
「お、お酒飲んで、た、煙草吸って……夜景を見たんですか?」
 これ以上聞いたら、もっともっと胸が痛くなる。わかっているのに、聞かずにいられなかった。
「まあね。大人だから」
 やはりさらりと返される。
「……いいな」
 ぼそりと言ったら止まらなくなった。
「いいな。課長とお酒飲んで夜景見て……いいな。大人っていいな」
 まずいことを言っているという自覚より、誰とも知らぬ、堂上と夜景を見た女の人が羨ましくてしかたなかった。堂上の選んだ相手だ、きっと綺麗な人だったろう、ドジなんか絶対にしないような、そうだ、大人の女性だったろう。
「佐原……」
 堂上が目を見張っている。
「ぼくはダメですよね、大人じゃないから。あ! そうだ! だいたいぼくは女の人じゃないし! そうか! じゃあ遠藤さんに大人にしてもらっても、ぼくじゃダメですよね」
 くっと堂上の眉が寄った。
「遠藤? どういうことだ、佐原」
 向き直られて春実はたじろいだ。
「え、あ、ご、ごめんなさい! ぼ、ぼく、ヘンなこと言って……」
「謝らなくていい。どういうことだ、遠藤に大人にしてもらうって」
「あ……」
「答えなさい」
 腕を掴まれる。
「つきあっているのか、あいつと? 答えなさい!」
「つ、つきあってません!」
 必死に首を横に振る。誤解されたくなくて、激しく何度も振った。
「しょ、食事に、誘われたけど、でも……あ……」
 酔っていたのに首を激しく振ったせいだろうか、目の前の堂上の顔がくるくると回転しはじめた。
「あえ……? ぐるぐる……あえ?」
「佐原?」
 堂上の声が近く遠く聞こえてくる。
 足元までゆらゆらしだして、
「危ない!」
 堅くて広くて温かい何かに抱きとめられた。背中に回った力強い支えも嬉しくて、『これなら大丈夫です、課長』、そう報告しようとしながら、春実は自分を支えてくれた温かいものに顔を押し付けて、酔いの招く深い眠りに落ちて行った。




 夢を見た。
 春実は崖の際を歩いていた。怖いはずなのになぜだか楽しく、下に広がる樹海を見ながら、切り立った崖の上をスキップしたいような気持ちで歩いていた。
「だからそっちは危ねーって」
 気づくとすぐ横を遠藤が歩いている。スーツ姿しか知らないはずなのに、遠藤は細身のジーンズにプリントの入ったカットソーという姿だった。
「こっち来いよ。俺が案内してやるから」
 遠藤の指差すほうには気持ちのよい草の原が広がり、遠く花畑さえ見える。
「でも……」
 春実は崖の下にこんもりと陰を抱いて広がる樹海を見下ろす。
「ほら。こんなところから落ちたら大怪我するじゃん」
 遠藤が言う。
 大怪我をする……かもしれない。夢の中で、知識として崖から落ちたら大怪我をすると知りながら、思い切って一歩を踏み出せばふわりと下の木々に受け止めてもらえそうな気がしてしょうがなかった。
 きっと何か方法があるはずなのだ。
 春実は周りを見回す。と、声が聞こえた。
「落ち着いて、焦らずに、一呼吸置いてみろ」
 堂上の声だった。――そうか、そうすればいいのか!
「だから、そっちは危ないって!」
 遠藤の制止を振り切って、春実は地を蹴った。
 びゅうびゅうと風の音が過ぎる。空気が塊のように顔に当たり、息ができない。それでも無性に楽しかった、気持ちがよかった。
 怖くなったのは木々の葉がはっきり見えるほどになった時だった。
 ぶつかる! 恐怖にぎゅっと目を閉じた次の瞬間、躯に重い衝撃が走った――。




「あ……」
 落ちたと思ったのに……痛みはほとんどなかった。こわごわ目を開くと、緑の木々ではなく、グレーの毛足の長い繊維が見えた。
「あれ?」
 手をついて躯を起こす。周りを見回すと、黒とグレーで統一されたモデルルームのようにスタイリッシュな部屋だった。傍らに、どうやらそこから落ちたらしい黒レザーで覆われたソファがあり、正面には大画面の液晶テレビと重厚感漂うステレオがある。間接照明を生かしたシックなライティングがその部屋の洗練度を高めていた。
 見たこともない部屋だった。
――誰の? どこの?
 家の、小学校の時から見慣れた部屋ではなかった。パニックになりそうだった。躯に巻きついていた毛布を掴んで立ち上がろうとして、やはり前のめりに転んでしまった。
「いったぁ……」
「起きたのか」
 後ろから掛けられた声に、ひっと声が上がる。振り返ると、部屋の入り口にバスローブ姿の堂上が頭をタオルで拭きながら立っていた。
「か、課長……」
「どこまで覚えている?」
 尋ねられて首をひねる。夢を見ていた、そしてその前は……。
「ええっと……課長とバルコニーで話していて……」
「そうだ。話の途中でおまえは俺に抱きついて眠ってしまったんだ」
「……ッ」
 申し訳なさに絶句する。まさか、よりによって堂上相手にそんな醜態をさらしたなんて……!
「おまえがどうやっても離れないから、俺の家に連れてきた。みんな、さんざん面白がっていたがな」
「ご、ご、ご、ごめんなさい!」
 そのまま床に座り直し、手をついた。
「と、とんだご迷惑を……!」
「大丈夫だ。そんな大した迷惑じゃない。……どうする? 水でも飲むか。俺は呑み直す」
 リビングに続いて、石造りのテーブルカウンターで仕切られたキッチンがあった。冷蔵庫を開閉する音がして、堂上が片手に缶ビール、片手にミネラルウォーターのペットボトルを持って出てきた。
「……すみません……」
 目の前に差し出された冷えたペットボトルを手にすると、途端に喉の渇きが強烈に意識された。堂上も小気味いい音を立てて缶を開ける。
「これ飲んだら……帰ります」
「佐原はM区だろう。もう終電はないぞ?」
 堂上がソファの座面にもたれるような姿勢で、床に腰を下ろした。剥き出しの脛が目に入り、春実は慌てて目をそらす。
「タ、タクシーで帰ります」
「そういえば携帯が何度か鳴っていた。親御さんが心配してるんじゃないのか?」
 ソファの脇のミニテーブルの上を指し示される。そこには春実が着ていたスーツの上着と携帯電話が置かれていた。
 失礼します、と断ってフリップを開くと、遠藤からのメールが三通ばかり入っていた。
「遠藤さんからだ……」
 ぼうっと呟く。
「遠藤から?」
 その時、堂上の声に含まれていたかすかな棘に春実は気づかなかった。
「ええ……呑み過ぎてないか、大丈夫か、もう寝たか……ですって」
「遠藤と、どういうつきあいなんだ」
 低い声に問われる。
「少なくとも、携帯でメールをやりとりするような仲、か」
 堂上の口調にさすがに険しいものを感じて振り向いた。乱れた前髪の間から堂上が鋭い視線でこちらを見ていた。乱れた前髪のせいだろうか、堂上は常より若く、また荒々しい印象に見えた。
「――話はどこまで覚えている?」
「え?」
「遠藤に大人にしてもらうと言ったな? あれはどういう意味だ」
「あ……」
 つまらないことを口走り、堂上に詰問された様子がぼんやりと思い出されてくる。春実の表情の変化を見守るようにこちらを見たまま、堂上がまた一口、ビールを煽る。
「あの……」
「遠藤とはずいぶんと親しいようだが」
「親しいっていうか……か、からかわれてるだけだと思います! ぼくがあんまりドジだから、たぶん、あの人、面白がって……」
「面白がって……あんな抱きつくようなマネをするのか。……させるのか」
 コピー機で後ろからべったりとホールドされていた時のことを言われているのだとピンときた。
「あ……遠藤さんは、なんていうか、スキンシップが好きなんだと思います。だから……」
「遠藤はいい。あいつのことはわかっている。佐原はどうなんだ。あいつに……遠藤に大人にしてもらう……してもらいたいのか」
「え、あの……」
 春実を見据えるような堂上の瞳が、剣呑な光を帯びている。
「おまえは……どっちなんだ? おまえは……遠藤に大人にしてもらいたいのか。それは……俺じゃだめなのか」
「え……」
 堂上がぐっと前に乗り出してくると、顔と顔がほんの数センチの位置まで近づいた。
「おまえは……」
 囁く息が唇に触れる。ありえない距離にまで近づいて、なにが起こっているのかわからない。春実は動くことさえできなかった。
「おまえは、俺のことが好きなんじゃないのか」
 唇に唇を重ねられても、やはり春実にはなにが起こっているのか、わからなかった。




 押し付けられた唇が静かに離れた。と、思ったら、またすぐに角度を変えて、今度は軽く吸われる感じで重ねられる。かすかにビールの酒精が香る。
――キスだ、これ。
 思いいたった瞬間に、かっと頭に血が上る。
「か、かちょ、ままま、待って、待ってくださいっ!」
 胸を押しやろうとしたら、逆に長い腕に抱きこまれるようにしながら毛足の長いラグの上に押し倒されてしまった。
「……佐原、いやか?」
 片肘をついて、堂上は春実の顔を上から見つめてくる。そっと唇を指でなぞられて、ひくっと喉が鳴った。
「さっき、言ってたな。酒を飲んで、俺と夜景を見たい、俺にはおまえがそう言っているように思えたが?」
 言葉尻はちがうが、意味はその通りだった。『いいな。課長とお酒飲んで夜景見て……いいな』、それは堂上と酒を飲み、一緒に夜景を見た女性が羨ましくてしかたなくて、自分も同じことをしたくて出た言葉だった。
「それは……俺のことが好きだという意味じゃないのか……?」
 ゆっくりと指が唇から離れていき、代わりに再び唇が寄せられてくる。
「ちがうのか……? ちがうなら……噛んでみろ」
 唇を塞がれる。
 今度は重ねるだけのキスではなかった。唇を割って肉厚な舌が春実の口中へと伸びてきた。
 キスも初めてなら、ディープなキスももちろん初めてだった。
 初めて受け入れる他人の舌にびくりと肩が震えたが、堂上には臆する風もなかった。うろたえるばかりの春実の口中を堂上の舌は存分に嘗め回していく。
「……ん、う……」
 なに、なんで突然、こんなことに……?
 理解できない。ついていけない。とまどう春実の気持ちにおかまいなく、口蓋をくすぐるように嘗める男の舌先に、生まれて初めて知る、甘くも妖しい感覚がぞくぞくと背を走る。
 苦しくない程度に掛けられている重み、頬を包む温かい手、唇を吸う唇、口腔を嘗め回す舌……どれも春実には初めてのもので、そしてそれが堂上のものだというだけで、わけのわからない昂ぶりが躯の奥底から湧いてきてしまう。
「ん、ん……」
 すでに力が入らなくなっている腕で、それでも懸命に堂上の胸を押し返す。
――待って、待って。わけがわからない……!
「佐原」
「課長……どうして……」
 自分が告白まがいの言葉を酔いにまかせて口走ってしまったのだとはわかる。でも、それだけでどうして……。
「佐原は大人になりたいんだろう?」
 堂上の声が低く、淫靡な響きを帯びて、春実の耳元にささやく。それだけでまた、甘い疼きが背を走り春実の躯からは力が抜けていく。乱れた前髪の間から春実を見下ろす堂上の黒い瞳はいつもより少しだけ細められ、蠱惑的な光が春実を酔わせる。
 酒の酔いも残っているのかもしれなかった。頭の芯がくらくらし、泣きたいような昂ぶりに、もうなにを考えるのも億劫になってしまう。
「課長……」
「俺では、いやか?」
 温かい手が、いつの間にボタンを外したのか、シャツの合わせの下へと滑り込んでいく。唇が、唇の端をそっとついばんでいく。
「……いやじゃ……ないです」
 つうっと目尻からこめかみを伝って落ちていくものがあった。それが涙だと自覚する余裕すらないままに、
「好きです、好きです、課長……」
 春実は自分のすべてを明け渡す言葉をささやいていた。




 

つづく







Next
Novels Top
Home