ご指導願います<7>

 

 黒御影石のカウンターテーブル、目の前には堂上が淹れてくれた香りのよいコーヒーと軽く炙られたクロワッサン、チーズとフルーツも盛られた、完璧な朝食。
 ついさっきまで美味しそうに見えていたそれらが、今はプラスチックでできている、綺麗だけど冷たい無機質のものに見える。食べたくても食べられない、触れても冷たいだけのもの。
「佐原。聞いているか?」
「聞いて……ます」
「だから、勝手を言うが、ゆうべのことはなかったことにして……」
 残酷な言葉を繰り返す堂上の声が頭の上を流れていく。
――もういい、もうわかった。もう……聞きたくない。
 と、携帯電話が軽やかなメロディを響かせた。
「すみません、メールみたいです……」
 立ち上がって昨夜から放り出したままになっていた携帯を取りに行く。メールはやはり遠藤からだった。
『今どこにいんの? 大丈夫?』
 同じようなメールが夜中にもさらに二通きていた。
「遠藤からか? ……ああ、いや、いい。もう関係ないな」
 昨夜は……堂上はやたらと遠藤のことを気にしていた。それがもう関係ないというのは……もう春実のことも関係ないせいだろう。
「……すみません、ぼく、もう、帰ります。朝ごはん、食べられなくてごめんなさい」
 勧められてシャワーを使わせてもらった後、皺になっていたけれどワイシャツを着ていてよかった。すぐにタクシーを拾えばそれほど目立たないだろう……。
「佐原」
 堂上が慌てたように立ち上がる。
「返事は?」
「……わかりました。なかったことに、ですよね? ぼく、ちゃんと忘れます」
「いや、だから……」
 急いで上着を手に取り、頭を下げる。
「お世話になりました! 失礼します!」
「佐原!」
 呼び止める声も聞きたくなくて、春実は玄関を飛び出した。




 その土曜日の朝から、日曜の夜までの記憶がほとんどない。
 どうやって堂上の家から帰ってきたのか、どうやって朝帰りの言い訳を親にしたのか。
 自室のベッドの中でさんざんに泣いて、いつ泣き止んで、いつご飯を食べたのか。
 春実は覚えていない。
 しっかりしないと、と思ったのは、
「あんた、そんなんで明日は会社に行けるの?」
 と母親に聞かれてからだった。
「もう、二日酔いは聞いたことあるけど、三日酔いなんて初めてよ。とうさんもお酒は強くないけど、あんたはホントに弱いのね。もう宴会だからって羽目をはずしちゃだめよ」
「うん……」
 母親の小言には生返事を返して、春実は昨日の朝からなんだか百キロぐらい重くなったように感じる躯で二階の自室へと帰った。
――明日から、会社……。
 会社に行けば堂上に会わねばならない。
 イヤだった。堂上の顔を見るのもつらいし、顔を見られるのも嫌だった。
 なにより……何事もなかったかのように振る舞われるのが嫌だった。あのいつもの涼やかな顔で「おはよう」とほかの社員と同じように声をかけられて、泣かない自信がなかった。
 それとも、これぐらい大人なら普通なんだろうか?
 獣にかえったように淫らな時間に耽り、『好きです』と告げ、『可愛い』と愛撫されて、それでも一夜明けたら何事もなかったかのように振る舞うのが、大人なんだろうか?
 だったら、自分はきっと一生、大人になれない。なれなくていい。
 ぽろり。
 さんざん泣いて、枯れたと思った涙が、また一粒、流れて落ちた。




 ドジばかり、失敗ばかりの春実が唯一胸を張れるのが、急な休みを取ったことがないことだった。あらかじめ申請しての有給はともかく、春実は入社後一年と少し、まだ一度も病欠したことがなかった。
 堂上には会いたくなかったが、それぐらいで会社を休むわけにもいかなかった。だいたい一日ぐらい休んでも状況はまったく変わらない。
 重い足を引きずるようにして春実は出社した。
 幸い、堂上の課長席は春実の席からは少し離れている。必要最低限の挨拶だけ交わして、あとは絶対に視界に入れないようにしよう――そう思っていたのに、出勤してすぐ、待ち構えるようにエントランスホールに堂上が立っていた。
「佐原」
 目ざとく春実を見つけて大股に歩み寄ってくる。
「おおっと」
 あと一歩で堂上が春実の前に立つというタイミングだった。春実の躯は横合いから伸びてきた腕に抱き寄せられていた。
 遠藤だった。
「すみませんねえ、先輩。俺のほうが先約なんです」
 堂上から隠すように春実の肩を抱くと、遠藤は春実の顔を覗き込んできた。
「サハラちゃん、どうしたの。金曜から全然メールに返事くれないからさ。心配したぜ、なにかあったの」
 いたわるような声だった。春実を見る目も優しくて、甘えてしまえたらどんなにいいかと、一瞬だけ、心がぶれた。
「……ごめんなさい」
 そっと肩にまわった腕をはずした。今は誰の腕も信じられない。
「なにも……なかったです。金曜の夜……呑み過ぎて、土日は寝込んじゃってました」
 無理に笑って見せる。
「課長……おはようございます」
 横で険しい顔で立つ堂上にも、ひきつっていたかもしれないが笑顔で挨拶した。――少しだけ、大人っぽく振る舞えただろうか?
「佐原……」
 堂上がなにか言いかけると、すっと遠藤がまた間に入ってきた。
「そんな呑んだの? サハラちゃん、怖いなあ。そういえば、料理、うまかった?」
「ええ……」
 何気ない問いに何気ない答え。そのまま春実は遠藤に誘導されるようにエレベーターに乗り込んだのだった。




 春実には苦しい日々が始まった。
 あの一夜は堂上が言うようになかったものにするべきなのだ。堂上と自分の間にはなにもなかったのだ。忘れよう、忘れてみせる。堂上への想いも、すべて。
 が、春実の決心とは裏腹に、目は勝手に堂上を追うし、耳も堂上の声だけをピンポイントで拾ってしまう。
 当の堂上は予想通りといえば予想通りだったが、フロアでは本当にまるでなにもなかったかのように以前と変わらぬ態度で、それがまた春実の苦しさに拍車をかけた。
 ぴしりと決めたスーツ姿。きちんとプレスのかかったワイシャツに、ノットの歪みのないネクタイ、スーツももちろん、よれたところのない綺麗なラインのものだ。櫛で整えられているだろう黒髪も、ビジネス仕様にまとまっている。
――あの晩はちがった。
 しっかりしたタオル地のバスローブがはだけて厚い胸板がのぞいていた。裾も乱れて筋肉質の太股がのぞいていた。タオルドライされただけの髪は乱れて、額に落ちかかった前髪の間から、欲望に濡れた瞳が光っていた。普段は部下に指示を出し、冷静な言葉が紡がれる唇は、いやらしく春実の肌の上を這い、春実の唇を、胸の尖りを、食んでいった。淫らな言葉、欲望を満たすために春実に命じる言葉、どの声も会社とはちがう湿度と響きで、春実の耳朶を犯した。
 書類を繰る長い指は春実の中を穿ち、中から春実を乱れさせた。スーツの下の厚い胸板は春実を抱きとめて揺るぎなく、そしてその男のモノは春実の口の中で……。
 思い出したくないのに、忘れられないあの夜のひとつひとつが、クールに振る舞う会社での堂上の姿に呼び起こされる。
 あれだけのことをしておいて、なにもなかったかのように振る舞える男が信じられなかった。
――いや。
 男は言ったではないか。『忘れてくれ。なにもなかったことにしてくれ』と。
 堂上はその言葉の通りに振る舞っているだけだった。
 わかっていても、わかっているからこそ、春実は一人で苦しかった。春実に『好きだ』と告げさせて、濃い性愛の行為へと引きずり込んだ。その挙句に知らぬ顔をしている男を、いっそのこと憎めればいいのかもしれないと春実は思う。
「ひどいよ……」
 誰も聞こえないところで一人で呟く。
「ああ、佐原君」
「すみません、あとで……」
 堂上が呼ぶ声を、忙しいフリをして遮る。それが春実にできる精一杯の抵抗だった。




「え、誰からの電話だって?」
「うわ! 気をつけてよ!」
 減っていたミスが、復活していた。
 電話に出れば誰からの電話か確認せずに切ってしまい、メッセージを受ければ間違った相手に伝えた。極めつけは書類を置くつもりで机上のカップを倒し、八木が使っていたノートパソコンにコーヒーをかけてしまったことだった。幸い機能に異常は出なかったが、誰もが一瞬青ざめた。
「どうしたんだよ、佐原」
 さらに水曜日の朝、ダストボックスにつまずいて見事に手と膝をついて転んでしまった春実に、八木が呆れ半分、いたわり半分の声をかけてきた。
「ここんとこ、また調子悪いみたいじゃないか」
「す、すみません……」
「どうする? また課長と話してみるか?」
 善意からだろうその言葉に、春実はびくりと躯を震わせた。
「い、嫌です! そ、それは絶対に! き、気をつけます! もうミスしませんから、だから……!」
「いや、そんな嫌なら別にいいんだけど」
 八木が鼻白んだように提案を引っ込める。
「じゃあまあ……また落ち着くまで、資料整理でも頼もうかな。資料室あるだろ。あそこに昨年度の全国の難関私立の入試問題が置いてあるんだ。まだ分析整理が済んでなくてさ。佐原、頼めるか? ちょっと量があって大変だけど?」
 入試問題を問題の分野別、難易度別に分け、各校の傾向を分析して整理しておく。それは大事な資料作りだったが、問題を一問一問読み解いて難易度を決定するのは面倒な仕事ではあった。
「いいです、やります!」
 資料室にこもっていれば堂上の顔を見なくて済む。誰とも会わず、試験問題と向き合う時間は、今の波立った心にはありがたかった。
「そうか。じゃあよろしく。わからないところがあったら、過去問と照合して。それでもわからなかったら聞きに来て」
「はい!」
 資料室での仕事は別名「おこもり」と呼ばれる。あまり喜ばれていないのがわかるネーミングだったが、今の春実にはちょうどよかった。
 八木に整理と分析の方法とまとめフォーマットの使い方を教えてもらって、丁寧にメモを取り、資料室へと向かう。
 資料室は同じ階の一番隅にあった。広い部屋はびっちりと林立する天井までの棚で埋められ、各棚には受験業者なら喉から手が出るほどの貴重資料が収められている。
 その部屋のドアから入って反対側の奥が作業場だった。持ち込まれた資料をそこで分類整理するためのスペースには数人が作業できるように机と椅子が備えられていて、脇にあるファイル棚には各課の未整理の資料が茶封筒に入れられて並ぶ。
 その中から春実は難関私立高校の入試問題と記された封筒五束を選び出した。
 シンとした部屋で一人、入試問題を広げる。
「数学……計算は、二次関数……連立……」
 今はなんでもいいから、堂上のことを考えずにいられる、集中できる対象が欲しかった。




「お邪魔しまーす」
 軽い挨拶とともに遠藤が資料室に来たのは、春実が「おこもり」を初めて半日後のことだった。
「遠藤さん……」
 正直、誰とも会いたくない、なかでも堂上と遠藤には会いたくない春実だったが、入り口が一箇所しかない資料室では逃げようがなかった。
「どしたの、サハラちゃん、こんなとこでおこもりして」
「あの……」
「ミス連発で八木さんに言われたのは知ってる。俺が知りたいのは、そのミス連発の理由のほう」
 遠藤は春実が作業していた机に尻を乗せると、「ん?」と春実の顔を覗き込んだ。
「金曜日の祝賀会は盛り上がって終わったそうだけど……サハラちゃん、堂上サンにお持ち帰りされたって?」
 軽い口調で、しかし、遠藤はいきなり話の核心をついてくる。
「お、お持ち帰りとか……そんなんじゃないです。ぼ、ぼくが寝ちゃったから……」
「金曜からメールに返信はないし、月曜はなんか妙な雰囲気だったし、やっばいなあと思ってたんだ。で、なにがあったの?」
「な、なにも……」
「ウソはいけないなあ」
 遠藤の手が伸びて来て、指先でくいっとシャツの襟元を押し下げられた。
「これ、キスマークでしょ」
 急いで手で押さえても遅かった。あの夜、首筋に顔を埋めた堂上がつけた痕は、まだくっきりした赤紫色で春実の白い肌の上に散っている。
「ネクタイ外して襟元開いてよ。もう何箇所かあるんじゃない?」
 図星だった。うつむくしかない春実だ。すっと耳元に顔が寄せられる。
「堂上サンに、抱かれた?」
 いっそ優しいといえるほどの声音で尋ねられる。春実は答えられなかった。が、急激に赤くなった顔だけで、遠藤には十分な答えだっただろう。
「……そっか。サハラちゃんが好きな相手って、やっぱ堂上サンだったんだ」
 今度は耳や首筋まで赤くなったのが、遠藤への答えになった。
「んでもさ、じゃあどうしてサハラちゃん、そんなしんどそうな顔してんの? 全然、想い叶って幸せって顔じゃないじゃん」
「…………」
 答えられない。『なかったことにしてほしい』、そんな言葉を告げられたのだと、自分の口から言うのはつらすぎた。
「あんさあ……俺がこんなこと言うの、ルール違反だけど……あの男はやめとき? サハラちゃんだったら、もっといい男、絶対いるから。――たとえば俺とか?」
 最後だけ、いつもの軽口ふうだったが、遠藤の声にはしみじみといたわるような色があった。春実はおずおずと顔を上げた。心配そうに春実を見つめる褐色の瞳と視線が合い、なにか言わねばならないと思う。
「でも……課長のアドバイスのおかげでミスが減って……」
 出てきた言葉は自分を手ひどく傷つけた男を庇うものだった。
「ああ……あれね。うん、確かに堂上サンのアドバイスはよかったと思うんだけど……あれはね、サハラちゃんのことを思ってのことじゃないよ」
「え……」
「ごめん。こんなこと言うの、サハラちゃん傷つけるみたいでなかなか言えなかったんだけど……あの男、サハラちゃんが思ってるような男じゃない。堂上サンは東大卒の部下を使いこなせなかったっていう汚点を残したくなかったんだ。あの男にとって仕事上での失点は絶対に許せないものだから」
 そんなことはない、そう言い返せればどれほどよかったか。
 だが、春実も聞いたのだ、『上はやっかんでるんだ。東大卒の人間を使いこなせなかったっていうマイナスポイント付けたいらしいぜ』、そう言った八木の言葉を。
 ショックを受けている春実の頭に優しく遠藤の手が置かれる。
「やめとき、あの男は。……最低だよ? あいつ」
「どうして、そんなこと……」
 言い切れるのかと反論したい自分がみじめだった。一夜限りと弄ばれて、堂上が最低なのはもうわかっているはずなのに。
「まあ、昔の話なんだけど」
 遠藤はそう前置きして、語り出した。











 

つづく







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