ご指導願います<8>

 

「俺と堂上サンが同じガッコだったのは知ってる? サークルも同じでさ、俺が入学した年に堂上サンは四年生で、最初はけっこう面倒見てもらったのよ。当時から堂上サンはスーツこそ着てないものの、そりゃあまあ、正統派の二枚目ってカンジでカッコよくてさ。経済学部のプリンスなんて呼ばれてたよ」
 まだ大学生の堂上を想像する。今の落ち着き払った堂上とはちがうのかもしれないが、それでもやっぱり堂上は落ち着いて見えたんじゃないかと思う。
「堂上サンには彼女がいてね、これがまたミス京大にも選ばれるくらいの顔良しスタイル良しの才色兼備の美人でさ、四年連続でキャンパスベストカップル賞なんてのもらってたくらい」
――あ。
 その彼女だろうか、夜景を見たのは。でもまだ大学生だったなら、大人のデートはまたちがう女性が相手なのかもしれない……。
 春実の思いを置いて、遠藤の言葉は続く。
「その彼女、吉沢清香(よしざわきよか)っていうんだけど、その彼女がさ……」
 遠藤の声が不思議に揺らいで途切れた。何事か逡巡するような色がその顔に浮かぶ。
「……ま、ぶっちゃけさ! 四年もつきあって倦怠期っていうか、刺激が欲しかったのかもしれないし、ほら、堂上サンってマジメじゃん? 息が詰まっちゃったのかもしんない。たぶんさ、たぶん、ちょっとこう、軽めなので息抜きがしたいっていうか、そういうカンジだったんじゃないかと思うんだけどさ。彼女、年下の男に走っちゃったわけよ!」
「……え」
 春実は思わず顔を上げた。無理に難しい顔をしている遠藤を見つめる。
「軽めの、年下の男って……」
 遠藤の目が泳ぐ。
「……ま、ぶっちゃけ? 俺? みたいな?」
 はあっと息を吐いて春実は脱力した。堂上と遠藤になにか確執があるような気はしていたが、まさかそんな隠し玉があるとは思わなかった。
「俺だってさ、最初からこんなひねくれてるわけじゃないじゃん? 年上の美女に泣きつかれてさ、なんかかわいそうな気はしちゃったのね。で、誘われるままに旅行なんか行っちゃったりしたのがまずかったんだけど、結局俺と彼女の間にはなにもなかったわけよ。俺は最初から彼女と一線越えるつもりはなかったし、彼女もちゃんとそれは承知だったのに、なのにあの男、戻った清香さんをそりゃあ手ひどく拒絶しちゃって」
「え、でも……」
 男と女で旅行。春実でさえ、それでなにもなかったと言われても急には信じがたい。
「ホントだって。だって」
 遠藤はそこで一呼吸置いた。
「俺、ゲイだもん」




 は? は? は?
「いや、そんな驚くことないっしょ。堂上に惚れて抱かれちゃったサハラちゃんに、そんな目で見られたくないわあ、俺」
 いやいやいや、それとこれとは。
「いや、だから、俺はほんっとゲイだから。女、ダメなのよ、まるきり」
 え、え、え。じゃああのスキンシップは? 男同士で意識すんなとか言わなかったっけ?
「そりゃああれじゃん? 策略じゃん? 下心持ってさわってますなんて言ったら、サハラちゃん、さわらせてくんないでしょ?」
 はああああ?
「まあまあ。それは置いといて」
「まあ……置いときますけど……」
「つまりね、俺と清香さんとの間にはほんっとになにもなかったわけ。で、彼女が堂上の元に戻るっていうから、俺もわざわざ奴に会いに行って、自分もゲイだってことを打ち明けて、頭下げたわけよ。なのにあの男は……」
『君がゲイで、二人の間になにもなかったというのは結果論だろう』
 冷たくそう言ったのだという。
『清香。君は俺に不満で、優しくしてもらえればいいとこの男を旅行に誘った、しかし実際に旅行に行って、心は満たされてもやっぱり躯の寂しさはどうしようもないことに気がついた。だからまた、俺のところに戻りたい。そういうことだろう? 悪いが、俺にはもう君を受け入れることはできない』
「四年もつきあってだぜ? 結婚の話まで出てたっていうのに、それはないじゃん?」
「……でも……恋人がいたのに、ほかの男の人と旅行に行ったなんて、その女の人、ひどいと思う」
 春実が言うと、遠藤は唇を尖らせた。
「けどさ、彼女、そのあと自殺未遂までしちゃったんだぜ? 発見が早かったからよかったようなものの……」
「え!」
 自殺未遂と聞くと話の印象が変わった。彼女がそこまで後悔していたのなら……。
「な? だからさ、あんな男、やめとき? 俺が代わりにサハラちゃんのこと、守ってやるから」
 そっと頬を撫でられる。――あの夜、堂上にも何度か頬を手の平で包まれた。大きくて、力強い手だった。その手とは感触のちがう遠藤の手。この手にすべてをゆだねたら……この苦しいのも、堂上への、もう好きなのか憎いのかわからないような、このぐしゃぐしゃも、消えてなくなるのだろうか……?
「優しくする。……サハラちゃんにはキツかったろ? 俺だったら……ちゃあんとサハラちゃんのペースで大人になれるようにしてあげるから」
 大人の男のペースに巻き込まれたあの夜が、再び脳裏をよぎる。堂上は……強引だった、一方的だった。春実の気持ちはどこかに置き去りで……。
 それでも目覚めたときには幸せだと思った。そう思った自分が、今ではみじめなばかりだった。
 涙が静かにあふれてくる。
「ね、俺にしとき」
 そっと寄せられた唇に溜まった涙が吸い取られる。優しくて、温かいその感触に、すべてをゆだねてしまえたら……。
 気持ちが揺れるというのはこういうことなのだろうか。このまま堕ちてしまいたいような、それではいけないと踏みとどまりたいような、自分でも決められない二つの選択の間で惑う。
 しかし――。
「……ごめん、なさい」
 そっと遠藤の手を押しやる。
「ぼくは……」
 やっぱり、そう続けようとした時だった。
 がちゃりとドアが開いた。




 作業場は入り口のドアからは高いファイル棚に阻まれて死角になっている。資料室は高受課だけでなく、営業統括部共同のものだったから、誰が入ってきてもおかしくはない。だが、床を歩くコツコツという大股で力強い足音を聞いただけでそれが誰のものかわかってしまい、春実はぶるりと身震いした。
 遠藤も誰だか察したらしい。その顔がすっと引き締まる。
 コツ……最後の足音が棚の陰から響いた。思ったとおり、現れたのは堂上だった。
「……こんなところで、なにをしている?」
 低い声が二人に向かって投げかけられる。
「えー資料を探しに来たら、たまたまそこにサハラちゃんがいて……って、白々しいことはやめときましょうか」
 遠藤は組んでいた脚をほどいて、立ち上がった。
 厳しいほどの表情の堂上の前に、薄ら笑いの遠藤が立つ。
「先輩こそなにしにきたんですか」
「君には関係ない」
「関係ない? ホントに?」
 皮肉っぽく遠藤は言い、わざとらしく堂上の顔を覗き込む。
「まさか先輩が本当に部下に手を出すとは思いませんでしたよ。意外と手が早いんですね。油断してました」
 堂上が厳しい視線を遠藤に当てる。
「なぜ君がそれを……」
「襟で隠し切れない位置にキスマークなんかつけておいて、バレないと思うほうがおかしいでしょ。最初はまさかと信じられなかったですよ。まさか先輩がそこまで……」
「――君に関係ないと言っているだろう」
「……嘘だ」
 否定する遠藤の声は低い。その顔からは薄笑いがきれいに消えている。
「あんたが部下に手を出したのはなぜですか。しかも相手は男だ。それはサハラが俺がアプローチしている相手だからじゃないんですか」
 堂上の眉がひくりと動く。そして春実もまた、遠藤の言葉に息が止まりそうになっていた。『遠藤に大人にしてもらいたいのか』、堂上は確かにやたらと遠藤にこだわっていた。
「ちがいますか」
 もうやめてと叫びたかった。もういい、もうなにも知りたくない。
「あんたは俺に負けたくなかった、俺に当てつけたかった、だからサハラを……」
「そんなんじゃない!」
 堂上の大声に、空気が震えた。
「いいか、もうこれ以上つまらないことを言うな! 俺は確かに佐原を抱いた。だが、それは……」
「もういいです!」
 たまりかねて春実は叫んでいた。堂上の口から嘘を聞くことだけは我慢できなかった。
『遠藤の名前を聞いて、ついカッときて……本当にすまなかった』
 あの朝の堂上の言葉は忘れようとしても忘れられず、今も耳の奥で響き続けている。
「遠藤さんも課長も、もうやめてください! もう……なんにも聞きたくない!」
「佐原」
「出て行ってください、二人とも! 出て行って!」
 耳を押さえて春実は叫んだ。頑なに耳を塞ぐ春実の態度になにを感じたのか、堂上が黙って踵を返した。遠藤が後に続く。
 ドアが閉まるのを聞いてから、春実はその場にしゃがみこんだ。




 一日の終わりに分類の済んだものを八木のところに持っていく。チェックしてもらうためだ。
 今日は堂上や遠藤のいるあのフロアに戻りたくなかったが、そんなわがままが通るわけもない。なるべくさっと戻って、さっと見てもらって、帰ろう。そう決めて重い足でフロアに戻る。
 幸い堂上の姿は見当たらず、少しだけほっとする。
「すみません、八木さん、今日出来た分ですけど……」
「あーうん、あとで見るから置いといて」
 すぐに見てはもらえないのか、そう聞くのもはばかられて、春実は資料を抱えたまま立ちんぼになる。
「どうした? ……あ」
 顔を上げた八木が入り口のほうを見て声を上げた。
「ありゃあ……大名行列じゃん」
 ほかの社員も入り口のほうを見てささやく。つられて春実も観音開きのドアのほうを見やると、入社式以来、印刷物でしか見たことのない顔が、やはりあまり見たことのない面々を引き連れて入ってくるところだった。
「えと……社長さん、でしたっけ」
 鷹揚に周りにうなずいて見せながら入ってくる初老の男性を見ながら春実が呟くと、
「おまえ、仲良くしてもらってる人の父親ぐらい、覚えとけよ」
 と後ろから突つかれる。
「え」
 言われた意味がわからなくて目を丸くすると、八木が苦笑していた。
「やっぱり佐原は佐原だな。気がついてなかったのか」
「トータル・エデュ社を一代でここまで大きくした遠藤庄司社長、中受課の遠藤司(つかさ)は息子だよ」
「……え」
 重役を従えてフロアを進んでくる社長に向かって営業統括部の部長と中受課の課長が飛び出していく。中受課の課長がなにごとかを盛んにしゃべりながら指差す方向には遠藤の姿があり、それを認めて満足そうにうなずく社長の姿。声は聞こえなくても、
「いやあ、遠藤君は本当に優秀ですよ! まだ入社して三ヶ月と少々ですが、もうすっかり中受課の業務に精通していて……」
 などと話しているのだろうことは容易に推察がついた。遠藤はと言えば、フロア中の視線を集めているにも関わらず、いたって自然体だ。見られ、噂されるのに慣れた人間の持つオーラがある。
「わざわざ大学卒業後、都市銀に勤めて他人の釜の飯食ってからの入社だもんな。ちゃあんと平社員からやらせてるし、文句は言えないんだけどなあ」
 八木が少しだけ羨ましそうに言う。
「ああ……そうなんですか……」
 そうなんですか……なんだかぼうっとして、頭が回らない春実だった。




 偶然……なのか、遠藤が待ち伏せていたのか、駅までの道で遠藤と一緒になった。
「な、今日はこのまま呑みに行かない?」
 いつものペースで誘われる。
 春実は不思議な思いでその顔を見上げる。一見、チャラ男風で、いい加減そうで……でも、堂上と春実の間に起こったことを知って、それでもなお、変わらぬ態度で誘いをかけてくれる――これはすごいことじゃないのかと、経験値の浅い春実でさえ思う。
 今日、社長がフロアを訪れた時も、フロア中が会社で一番有名な親子のツーショットを見ようと視線を送る中、遠藤はいつもと変わらぬ表情で飄々と過ごしていた。それもやっぱりすごいと思う。
「……遠藤さん、社長さんのご子息なんですね」
「あ、うん。聞いちゃったんだ?」
「ついさっき。びっくりしました」
「あんな目立つことされちゃあ、バレないわけないよなあ」
 やや苦笑気味の遠藤の顔。
 堂上とはまったく逆のタイプだったが、遠藤もまた「いい男」なのはまちがいなかった。
「ま、そんなことは関係なしでさ。いい加減、俺の誘い、受けてくれてもいいんじゃね?」
 あくまで軽く、遠藤は言ってくる。
「――最初から、遠藤さんのこと、好きになってればよかったのかな……」
 思わず呟く。
「サハラ……」
 遠藤が瞠目する。
「でも」
 春実は笑顔を作った。やっぱり頬のあたりが引き攣るが、それはしかたない。まだまだ大人道を歩き始めたばかりだから。
「ごめんなさい。ぼく、今、遠藤さんに甘えちゃ、いけないと思います。ぼく、まだ……」
 『課長のことが好きです』、そこまで告げることは出来なくて、俯いた。堂上の顔を思い浮かべると、今までの甘やかさとはまったくちがう、鋭い痛みが胸を走る。それでも好きなのか、まだ好きなのか、自分で自分の心がわからない。
「……しゃあねーなあ」
 ぽんと背中を叩かれる。
「気長に待っててやるよ。サハラちゃん、可愛いから。――ちゃんと言ってあったっけ?」
 優しい瞳で見下ろされる。
「好きだよ。俺とつきあって」
 じわりと涙が出そうになって、春実は慌てて横を向く。
「また……遠藤さん、すぐそういう……」
「マジに言ったんだから、マジに答えて」
 深みのある声でそう言われる。
「あの……じゃあ……保留、で」
「上等」
 笑う遠藤の顔がまぶしくて、やはり春実は俯いた。











 

つづく







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