ご指導願います<9>

 

――今日は驚くことばかりだ……。
 遠藤から聞かされた、大学時代の堂上とその彼女、そして遠藤の三角関係の話、遠藤のカミングアウト、そして、遠藤が社長の息子だったという事実。
 堂上が資料室を訪れてきたのも、驚きだった。いったいどういうつもりなのか。もしかしたらもう一度、春実に金曜のことはなかったことにしろと念を押したかったのか。
 帰り道で遠藤に交際を申し込まれたのにも驚いた。――そういえば、あの夜、堂上は一度も『好きだ』とは言ってくれなかった。やっぱり、あれは堂上自身が言ったように、遠藤の名前が出てカッときた上での暴挙だったのだろうか。遠藤のハナをあかしてやりたかったのだろうか。だとしたら……ひどすぎる。
 考えていると、またじわりと涙が滲んできそうで、春実は電車の中で慌てて目瞬きを繰り返した。
 自宅最寄りの駅につく。家でもここのところ元気がなく、食欲も落ちていて親を心配させている。今日は少し、元気に振る舞わないと……そんなことを考えながら改札を出た。
 もうすっかり気持ちは家に飛んでいたから、そこで、
「佐原」
 と、正面から声をかけられた時には、文字通り飛び上がるほど驚いた。
 駅の出口にスーツ姿の堂上が立っていた。




 声が出ない。どうして、どうして、ここに?
 駅から吐き出されていく人の波の中で、立ちすくむ。
 ゆっくりと堂上が近づいてくる。
「驚かせて、すまない」
 低い、張りのある声が言う。
「会社だとどうしても邪魔が入るから、ここで待たせてもらった」
「ど……して……な、んで……」
「話がしたい。頼む」
 頭を下げられる。行き過ぎる人が何人か、不思議そうに振り返って見ていく。
「や、やめてください、課長」
「話を聞いてくれないか」
 かすかに眉間に皺がある。会社での冷静そうな、切れる男の顔とはちがう、そしてまた、ベッドの中で見せられた顔ともちがう。――どうしてこんな切なげな顔をするのだろう?
「ぼくは……もう全部、忘れました。だから……もういいんです」
 嘘を告げる。なにも、なにも忘れていない。忘れられるわけがない。胸の痛みとともに。
 けれどもうそれを堂上に伝えたいとは思わない。春実は一礼して歩き出した。堂上の脇をすり抜けて、そのまま歩み去るつもりだった。
 が、力強い手に腕を掴まれ、行きたかったのとは逆の方向にぐいぐいと引っ張られた。
「い、いたッ……痛いです、課長!」
 訴えると多少手の力はゆるんだが、歩く速度は変わらない。そのまま、駅前にある駐車場のほうへと連れて行かれる。
「課長、どこへ……」
「車で来た。どこかに行くのが嫌なら……せめて車の中で、落ち着いて話をさせてほしい」
 真摯に頼まれる。一度は好きだと思った相手の言葉をむげにできるほど、春実は割り切れた人間ではなかった。
「じゃあ……あの、少しだけ」
 小さくうなずくと、「ありがとう」と堂上は口元を緩めた。




 ディープブルーのアウディの中で運転席と助手席に座る。
 駅前のビル群のネオンのおかげで周囲はそれほど暗くはないが、車内に入るとなんとか互いの表情が見える程度の明るさしかなかった。
 こんな暗いところで、しかも密室で二人きり。意識するとそれだけで性懲りもなく顔が赤くなりそうで、春実は何度ももそもそと座り加減を直した。
「金曜の夜のことだが……」
「…………」
 重い口調で堂上が切り出す。
「本当にすまないことをしたと思っている。あの晩、俺は少し酔っていた。それは……言い訳にはならないが、つい……夢中になって、君にはひどいことをしてしまったと思っている。すまなかった」
「もう……いいです」
 謝られれば謝られるだけ、みじめになる。それが堂上にはわからないのだろうか。
「あの朝も……謝ってもらったし……もう、ホントにいいです。あの晩のことは……言われたとおり、なかったことにして、忘れます」
 ふっと堂上が息をついた。
「確かに俺はあの朝、なかったことにしてくれと言ったが……佐原、その後に俺が言ったことは覚えているか?」
「……え?」
 思わず堂上を振り返る。
「……やっぱり。ちょうど携帯が鳴ったから、まずいなと思ったんだが……佐原は佐原だしな」
 こんな時に自分がドジなのは関係ないだろうにと、少しだけむっとくる。
「俺はあの時、昨晩のことはなかったことにして、一から俺とつきあってくれないかと言ったんだ」
「……え。……えっ?」
 二度見した。
「えッ!」
「やっぱり聞いてなかったか」
 堂上が苦く笑う。
「話しているあいだにどんどんおまえの顔が暗くなるから……これはマズイと思ったんだが」
「……え、だって……」
「遠藤から聞いたそうだな。大学時代の、俺と清香と……司のこと」
「はい……」
「正直に言う。俺には司への対抗心がある。清香のこともそうだが……俺はトータル・エデュ社の内定をもらうまで、司が俺が勤めることになる会社の社長の息子だとは知らなかった」
 はっとした。単なる三角関係ではなかったのか、と。
「俺は就職活動を甘く見ていた。次々と同級生たちが内定を得ていく中、俺が本気を出せばこんなものじゃない、俺はすごいんだと……なんの実績もない学生のくせに、気持ちだけは大きかった。ようやくこれはまずいと焦りだしたのは四年の夏休みを迎えてからだった。遅すぎるだろう?」
 苦笑気味に同意を求められる。
「それからはもう、がむしゃらに会社訪問を繰り返して、なんとか内定をもらおうと必死になった。仲間の中には今までお高くとまっていたからだと陰口を叩く奴もいた」
 ハンドルに腕を乗せ、遠くを見る眼差しで語る堂上の横顔から、春実は目を離せなかった。春実が知っているのは、スーツの似合う、仕事のできる、完璧な堂上だけだ。彼自身が語る未熟な青年であった頃の堂上は、今の春実よりさらに若かったのだという事実がなんだか不思議だった。
「二学期が始まる直前にトータル・エデュ社から内定をもらえた時は本当に嬉しかったよ。もともと教育関係のプロデュースには興味があったからね。……ちょうどその頃だった。清香との間がおかしくなったのは」
 堂上の頬のあたりに苦いものが浮かぶ。
「漠然と卒業したら結婚するものだと思っていた。それは清香もわかってくれている、それなら俺が大変な時には当然、受け止めてくれる、俺も若かったから、そんなふうに勝手に決め付けていたんだ。清香には……たまらなかっただろうな、なんの保証も言葉も与えられずに、ただ、振り回されるだけの関係が。……司は、遠藤は、その頃からカッコいい奴だったよ。新入生のなかでも目立ってて、スマートでお洒落で……優しくて」
 春実にも十八の頃の遠藤の様子はかんたんに想像がついた。きっと女の子にモテたろう。
「清香は司に惹かれていくようだった。今なら清香が司になにを求めていたのか俺にもわかるが、当時は……俺は清香を責めることしかできなかった。そうこうするうち、サークルの中で噂が立った。俺が……彼女と引き換えに、社長の息子の口利きで内定を得たと」
「そんな……!」
 思わず声が出た。堂上が苦笑気味にこちらを見る。
「そういうことを言われてもおかしくないタイミングだったんだ」
「で、でも、そんなひどい……」
「そんな噂があることを二人は知らなかったんだろうと思う。二人で旅行へ行って……帰ってきてから清香に謝られた、悪かったと。……俺には、彼女を受け入れることが、できなかった」
 無理もないと思ってしまう。そんなタイミングで、そんな噂がある時なら、なおのこと。
「司は……あれは悪い男じゃない」
 堂上は複雑な笑顔を見せた。
「彼女とは何もないと……自分は男しか愛せないんだと、俺に伝えに来た。彼は彼で清香のことを思ってくれていたんだ。けれど……そんな噂のある中で、彼女を再び受け入れることが、俺にはどうしてもできなかった」
「それは……しょうがないと思います。誰だってそんな噂があったら……」
「今から思えばつまらないプライドだったと思う。俺も若かった。司が悪い人間じゃないと知れば知るほど、自分がみじめに思えて……清香にひどい言葉を投げつけた。清香はそんな俺の態度に手首を切った」
「でも、彼女は助かったんでしょう?」
「幸いね。今は元気で働いているよ。今度結婚するそうだ」
 他人事ながら、ほっとする。
「よかったですね」
 黙って深くうなずく堂上から、彼もまた清香の幸せを喜んでいるのが伝わってきた。




「司は最後まで怒っていたよ。どうして彼女を許してやらなかったとね。彼女には旅行前から自分がゲイだと伝えてあった、彼女には最初から俺を裏切る気なんてなかったのに、とね。問題はそこじゃなかったんだが……」
 ふっと堂上は息をついた。その顔に翳りが落ちる。
「人の口に戸は立てられない。たとえそれが悪意から生まれた、根も葉もない噂でも。俺はそのことを痛感した。だから……入社してからは必死になった。時間はあまりないと思ったからね。司が入社してくるまでの三年間に、なんとか実績を残さなきゃいけない、後輩のコネで入社したなんて、絶対に言われないようにしなきゃいけないと……俺は必死になった」
 出来る人だと、優秀な人だと、堂上の能力について悪く言う人間は社内に一人もいないだろう。その実績を作るために、堂上がどれだけがんばってきたのか、初めてその口から聞いて、春実は言葉もなかった。
「結局彼は修行代わりに都市銀行に勤めて、それから途中入社という形で入ってきたからね。俺もなんとか史上最年少で課長昇進という実績を作って彼を迎えることができたんだが……」
 堂上は言葉を切ると春実を振り返った。
「情けないだろう? 俺は彼にコンプレックスがあるんだ」
 春実は小さく首を横に振った。うまく言えない、うまく言えなかったが、堂上のいうコンプレックスはあって当然のもののような気がしたのだ。恋愛と仕事という、人生のプライオリティにおいて重大な位置を占めるふたつの要素で、堂上と遠藤は複雑な軌跡を描いてしまっている。
「そんな、俺と彼の間に、おまえが現れた」
「あ……」
 順々に解き明かされる中で、改めて己の立ち位置を示される。
「もう思い切り率直に言うが、最後まで落ち着いてよく聞けよ。――俺にとっておまえは、手間のかかる、面倒な部下だった。おまえが俺の下に配属されたことについて、いろいろ言う連中もいるようだが、そんなことは関係ない。俺にとって一番大切なのは、俺の管理下に置かれた人間を使ってどれだけ業績を上げられるか、それだけだ。それがきっちりとうまく行けば、誰も俺の実力に疑問は持たない。そうでなければ、あいつはコネだなんだと言われてしまう」
「……わかります」
「おまえはドジばかりで……しかし、あの小会議室で伝えたことは嘘じゃない。育てようによってはできる社員になると思った。八木さんも同じ評価だった。それを伝えたら……おまえはとても素直にそれを受け入れた」
 堂上の目が優しげに細められる。
「おまえを可愛いと思ったのはあの時が最初だ。そのあとも一生懸命、俺からのアドバイスを大事にして変わろうとしているおまえを見て……正直、悪い気はしなかった。でも、その時はまだ、いくら顔が綺麗で、性格が素直で可愛くても、同じ男相手にどうするんだという理性があった。けど……」
 そっと堂上の手が伸ばされてきて、髪を撫でる。
「酔っ払いながら『いいないいな』と連呼されて……こいつは俺のことが好きなのかと思ったら……なんだかたまらなくなった。ずっとこの腕の中に閉じ込めておきたいと思ったよ。ところがおまえは遠藤がどうとか言い出しただろう。――またあいつかと……頭に来た」
 髪を撫でていた手が頬へと滑り降りた。
「あの夜の俺は……本当に最低だった。おまえが可愛くて、それほど経験がないのはわかっていたのに、めちゃくちゃにしてやりたくて……遠藤のことなんか、二度と思い出せないようにしてやりたくて……暴走した」
 本当にすまなかったと堂上は続ける。
「自分でもひどいことをしているのはわかっていた。だけど……おまえはそんな俺に必死にしがみついてくれたろう? いっぱいいっぱいだっただろうに……おまえは俺の胸の中で眠ってくれた。あの朝、俺の胸に顔をうずめて眠っているおまえを見て……愛しいと思った。大事にしたいと思った。思ったとたん……自分がしたことが、司の影を振り切れずにしたことが……申し訳なくてたまらなくなった」
 両手で頬を挟まれる。その手はどこまでも優しい。
「だから、おまえにきちんと謝って……もう一度、初めからやり直したくて、忘れてくれと頼んだんだ」
「……え」
「あのタイミングで司からのメールが入るなんて、どこまで邪魔されるんだと呪いたくなったよ。あの時、俺は、ゆうべのことはなかったことにして、もう一度、一から俺とつきあってほしいと、そう言ったんだ」
 堂上の手の中で春実は俯いた。どんな顔をすればいいのかわからない。信じられないほど、嬉しくて。
「佐原。おまえが好きだ」
 しっかりした声で告げられる。
「俺と、つきあってもらえないか」






 

つづく







Next
Novels Top
Home