おまえは俺の犬だから <1>


 

 






 岡田悠太郎は小学四年の時に、東京から大阪に越してきた。
 引越し、と言えば聞こえはいいが、実際は夜逃げだった。
 競輪、競馬、競艇、パチンコと、小銭でもあればすべて賭け事につぎ込んでしまう父親が作った借金を踏み倒して、半地下だったアパートから夜闇にまぎれて逃げたのだ。
 大阪には父親の友人がいるという話だった。その友人が仕事も斡旋してくれると、父親は夜行バスの中で悠太郎と母親に向かって何度も繰り返した。
 大阪には確かに父の古い友人がいた。仕事も斡旋してもらえた。
 だが、順調に見えたのはほんの数ヶ月。
 生活が落ち着くより早く、父親は再び賭け事に手を出し、また雪だるま式の借金を背負うことになったからだ。
 安アパートの薄いベニアドアにべたべたと張り紙がされたり、強面の男たちに凄まれたりする激しい取立てが、再び始まった。時を同じくして、どこから調べ出したのか、東京からも再び借金取りが現れるようになっていた。両者のちがいと言えば、かたや大阪弁、かたやべらんめえ調というだけで、「内臓売れ」「奥さん売れ」「子どもが可愛くないのか」と恐ろしい内容を示唆して金を返せと迫ってくる内容は変わりなかった。
 また逃げるのだろうか。逃げられるのか。
 子供心にも悠太郎は不安を覚えた。
 東京から大阪に来た時、夜逃げ自体はうまくいったと思っていた。が、結局、借金と取立てが二倍になり、状況は悪くなっただけだった。
 次に逃げたら、今度は借金と取り立ては三倍になるんだろうか……それとも二倍になった取り立てからはもう逃げられないんだろうか……。
 漠然とした不安は、ある日、黒ずくめの男たちに、父と母とともに車に押し込められるという形になって悠太郎を捉えた。
 それまでにもさんざん、「子どもの臓器は高く売れる」「日本人の子どもは市場価値が高い」などと取り立ての罵声とともに聞かされていた。――殺されるかもしれない。現実になった恐怖に、悠太郎は父母に挟まれて震えているしかなかった。




 車中、助手席の男が話しかけてきた。
「おとうさんなあ、やりすぎやわ」
 今までの取り立ての罵詈雑言とは打って変わって、こちらをなだめるような、諭すような、それがかえって怖い、優しい声で黒服の男は言った。
「東京でも借金こさえててんて? えらいこっちゃがな。あちらさんはあちらさんでおとうさんに話がある、ウチはウチでおとうさんに話がある。なあ? おとうさんの勝手のせいで、揉めんでええウチらが揉めなアカンかったんやで?」
 父母の間で小さく縮こまりながらも、悠太郎は助手席の男のセリフを子供なりに、正確に理解していた。
 新たな震えが背筋を走る。――ヤクザ同士が揉めて、そして、どうなったんだろう?
「なあ? えらいことやったってわかるやろ? それでもおとうさんらは運がええわ。ウチの組長はそらあ懐の広い、出来たお人や。ちゃあんとあちらさんにスジを通して、こっちであんじょう計らう、そういう話にまとめてくれはったんや。
 その上やで? 今後のことはおとうさんと話して決めたい、そこまで言うてくれてんねやで?」
「…………」
「おとうさん、話わからんか? わからんかったら、わかるようにしちゃろか?」
 男の声に不気味な低音がわずかに響く。悠太郎の隣に座っていた父親が弾かれたように顔を上げた。
「す、すみません! あ、ありがたいと思ってます! ありがたいと……!」
「そやろ、ありがたいやろ」
 上機嫌な声で男はぐるりと首を回すと、後部座席に座る親子三人に向かい、薄ら笑いを見せた。
「そやからな。ちゃあんと組長に『ありがとう』言うてくれなあかんで。生きたままコンクリで沈めてもらうがええんか、ドラム缶で焼かれるんがええんか、聞かれたら、ちゃあんと最初に『ありがとう』言わなアカンねんで」
「…………」
 母親がひっと息を飲み、悠太郎にも父親の細かな震えが伝わってきた。
「わかったら『はい』やろお!! 返事もでけへんのか、このドアホウがあ!!」
 突然、怒鳴り声を浴びせられ、父親の腰が座席から浮いた。
「は、ははは、はいっ! はいっ!」
「わかったらええねん。ああ、ちょうど着きよったわ」
 そこは門を車で入るような豪邸だった。車寄せで停まった車から見上げると、見事な和風建築の建物が渋い銀色に光る瓦をいただいている。
 悠太郎は父母と一緒に車から引きずり出され、もう周囲を見る余裕もないままに庭から濡れ縁へと突き飛ばされ、さらに三人して蹴りこむように室内へと追い立てられた。
 そこは二十畳はあろうかという広い和室だった。違い棚のある床の間には大きな青磁の壷が置かれ、濡れ縁とは向かいに位置する襖も金箔を使った見事なもので、成金趣味と言われるかもしれないにしても、調度に贅沢にお金が使われているのは間違いなかった。
 悠太郎の眼は、床の間を背に置かれたソファに惹きつけられた。畳の上にそこだけ毛足の長そうな見事な絨毯が敷かれ、豪奢なソファが置かれている。本当にライオンの足をかたどってある椅子の脚を悠太郎は初めて見た。その横にセッティングされた小さなテーブルも天板部分は大理石だ。
 なにもかもが、悠太郎の世界にはない豪華なものだった。それがかえって、今、自分たち家族の身に降りかかろうとしていることの非常性を際立たせているようで、悠太郎はぶるりとひとつ、身震いをした。
「ぼうず、怖いんか」
 後ろから運転手を務めていた男がからかうように言う。
 そのせせら笑うような調子が、悠太郎の負けん気に引っかかった。
 悠太郎は唇を横にぎゅっと引き結んだ。背筋もぴんと伸ばしてみた。――怖くない、怖くない。自分に言い聞かせる。いくらこの屋敷がすごくても。黒服の男たちに取り囲まれていても。……これからなにが起こるかわからなくても。怖がる素振りを見せて、嘲笑われるなんて、そんな情けないマネだけはしたくない。
 親子三人はソファに向かい合う形に正座させられた。後ろから小突かれて父母が慌てて畳に額を擦り付ける。母親の手が悠太郎の頭を下へと引き降ろした。
 さらりと襖が開いた。
 ゆったりと大股に、スーツの脚がソファへと向かった。
「顔、あげえ、岡田」
 少ししゃがれた、重々しい声がした。




 大阪を中心に神戸、姫路にさらには岡山にまで勢力を伸ばしている広域指定暴力団・仁和組。その仁和組総長の次の代を引き継ぐのではと噂されている、青竜会組長・竜田勇道。その竜田が悠太郎たち親子を見下ろしていた。
 しどろもどろの父親がなんと詫びたのか、竜田がなんと言ったのか、母親が泣きながらなにを訴えたのか、黒服の男がその母親をなんと言って笑ったのか。
 悠太郎はほとんど覚えていない。
 ただ、『怖がらない、怖がらない』、そう念じ続けていたからだ。
 それでもさすがに、竜田と視線が合った時には背筋を冷たいものが走った。竜田の瞳にはなんの温度もなかった。どこまでも非情に、悠太郎たち親子が命乞いするのを見下ろしているだけの眼。見ている前で人がミンチにされるようなことがあっても、その眼に同情や痛みが走ることはないだろうと思わせる酷薄な……。
 悠太郎が咄嗟に視線を外すことができなかったのは、その冷たさに身動きが取れなくなってしまったせいだった。
 竜田の眼がすっと細くなった。その薄い唇がなにか言おうと開きかける。
 その時。
「失礼します」
 高く澄んだ声とともに、襖が開いた。悠太郎と同じくらいの年恰好の少年が入ってくる。
 悠太郎は瞬間、今の緊迫した状況も忘れてその少年を見つめてしまった。――人形が動いているのかと思ったのだ。
 栗色がかった髪、真っ白い肌、薄紅色の唇。怜悧に整い、体温を感じさせないその容貌は、いっそ人形めいて見えるほど、綺麗だった。
 少年は怯じた様子もなく、竜田の座るソファの傍らに立った。
 悠太郎と正面から眼が合う。
 栗色の瞳は、竜田によく似た酷薄さを漂わせながら、奥深くに竜田にはないなにかを秘めているように見えた。
 どれほど見つめ合っていたのか。実際には数秒だったのだろうが、それは悠太郎の人生を根底から変える、重く、大きな数秒だった。
「おとうさん」
 少年が竜田に呼びかけた。
「これ、ぼくにくれへん?」
 少年の細い顎が、悠太郎に向かってしゃくられる。
「ほお。これが欲しいんか」
 まるでショーウインドウに飾られている玩具について話すように、竜田が応じる。
「はい。気に入りました」
 少年がうなずくと、竜田の視線が悠太郎に向けられた。
「おまえ。今日から俺の息子のもんや。命拾いした思て、しっかり仕えるんやで」
「…………」
 呆然とした悠太郎の背を、
「おら、しっかり返事せいや!」
 後ろから黒服の一人が蹴る。
「……は、はい。はい!」
 組長の息子に仕える。息子のものになる。それがいったいどういうことなのか、わからないまま、必死に悠太郎はうなずいた。臓器にばらされて売られる危険が遠くなったことだけはわかったからだ。
「組長。残りはどうしましょう?」
「せやな……バラして沈めえ。太田にやらせたれ。あいつもそろそろ根性つけなアカン」
 はっと悠太郎は顔を上げた。両親に恐ろしい危機が降りかかっていることが理解できたとたん、悠太郎の膝は勝手に前に向かって動いていた。
「お、お願いします! とうちゃん、かあちゃん、助けてくださいっ! お願いしますっ!」
 畳に額を擦り付けたのも、ほとんど無意識だった。両親を奪われてしまうかもしれない恐怖に、ただただ必死だった。
「おとうさん」
 声だけが上から聞こえた。
「なんや。親も欲しいんか」
「親はいりませんけど、」
 涼やかな声がなんの躊躇も見せず、続く。
「犬には世話係が必要や。コレ、まだ子犬やし」
「世話係か、それはええわ」
 竜田の声は笑いを含んでいた。その瞬間、悠太郎たち親子は救われたのだった。




 顔を上げかけた悠太郎の後頭部に、白いソックスの足が乗せられた。ぐいっと踏みつけられる。
「ええか。おまえはぼくの犬や。ぼくの言うことはなんでも聞くんやで」
 その時、胸を焼いた感情がなんというのか、当時の悠太郎はまだ知らなかった。口惜しさより激しく、悲しさよりはるかに痛いそれは屈辱というのだと、長じて悠太郎は知ったのだが。
「……はい」
 くぐもる声で悠太郎は答えた。
 それが岡田悠太郎と、清竜会組長の一粒種・竜田政宗との出会いだった。





                                               つづく




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