おまえは俺の犬だから <2>

   

 

 






 竜田政宗の世界にはもう何年も色がない。政宗の目に映る世界は白黒で、美しさも温かさも、ない。世界を灰色にしか映さない目の奥には氷の塊があって、一切の温度を遮断している。
 母と過ごした四歳までのことはぼんやりとしか覚えていないが、その頃、世界はもっと優しくあたたかな彩りにあふれていた。小さな頃のことを思い出すとき、政宗の頭に浮かぶのは、パステルで描かれた絵のようなふんわりとして色鮮やかなイメージだ。
 ――今の灰色の世界とはまるでちがう。
 そのちがいがつらくて、政宗はなるべく昔のことは思い出さないようにしている。
 母との生活はおそらく貧しかったのだろうと思う。
 ぼんやりした記憶の中にある部屋は、台所とテレビと小さなテーブルが同じ部屋の中にあったような気がするからだ。やはりぼんやりした記憶の中には、友達が持っているロボットのおもちゃや、色や光の出るおもちゃがうらやましくて仕方なくて、じっとそばで見ているだけだった自分の姿もある。
 おもちゃもなかなか買ってもらえない、安アパート住まい。
 それでも、優しい母と二人の生活は、今でも思い出すと胸が苦しくなるほどに幸せなものだった。パステル画の中のように……優しく綺麗な色の世界。
 その幸せは、ある日、部屋のドアをバリバリと蹴破った男たちによって打ち壊された。




 母と引き離されて、政宗は信じられないくらい大きな屋敷に連れて来られた。玄関だけでも政宗がそれまで住んでいた部屋より広いほどの屋敷は、天井が高く、音がすべて吸い上げられて消えていくように政宗には感じられた。
 母の姿がないことが不安でたまらなくて、何度も周りを囲む黒服の男たちに尋ねたが、男たちから返ってきたのは沈黙だけだった。
 長い廊下といくつもの部屋を抜け最後に通された部屋は、和室なのに部屋半分に赤い絨毯が敷かれ、ライオンのような脚のソファが置かれている部屋だった。
 ソファには着飾った男女が座っている。
「おやじ。連れて来ました」
 黒服の中の一人が丁寧に一礼すると、ソファに座った男は鷹揚にうなずいた。
「よう来たな、政宗」
 初めて会う男に名前を呼ばれ、政宗は小さな身体を強張らせた。男の視線が検分するようにじっとりと自分に向けられているのも気味が悪い。なのに、
「大きぃなったなあ。政宗、おとうちゃんやで。覚えてるか」
 男は薄気味悪い猫撫で声で言う。
「……おとうちゃん……?」
 今まで自分にはいないと言われていた存在。政宗は目を丸くした。
「そうや。おとうちゃんや。政宗、政宗言う名前もとうちゃんが付けたんやで」
「…………」
「今日からおまえは竜田政宗に戻るんや。竜田政宗。どうや、ええ響きやろ」
 政宗は小刻みに首を横に振った。
「……ちゃう……ちゃう。ぼ、ぼくは成瀬政宗や……」
 しゃあないなあと、父親と名乗った男は首を振ると、
「あとでよう説明してもらえ。島崎、ええな」
 後ろの男に向かって顎をしゃくった。
「政宗。とにかく今日からおまえはここのウチの子や。ええな?」
「で、でも、かあちゃんが……」
「おかあさんは私です」
 それまで男の横で黙っていた女が初めて口を開いた。
 派手な服に身を包み、濃い化粧をした女は、政宗には綺麗というより毒々しく見えた。
「今日からおまえの母親は私です」
 どういうこと。
 疑問が渦巻きすぎて、わからないことだらけで、政宗はなにも言葉がでなかった。




 島崎という男は、丁寧な口調で幼い政宗にゆっくりと噛んで含めるように話をしてくれた。
 今日会った男・竜田勇道は間違いなく政宗の父親であること、そして、ヤクザの大きな組の組長であること。
「ヤクザというのはわかりますか? カンタンに言えば、悪者です」
「……ぼくのおとうさんは……悪者なの?」
「悪者のボスです。ですが、ぼっちゃん、悪者にも悪者の正義があるんですよ。むずかしいですか? それにね、いいモンでもワルモンでも、ボスになるのは大変なことなんですよ。ぼっちゃんのおとうさんは、すごい人なんです」
 ヤクザというものに、まだ明確なイメージのなかった政宗には、その部分の説明はよくわからなかったが、それ以外の島崎の説明は理解できた。
 政宗の母・成瀬真奈美は竜田がヤクザであることを嫌って、赤ん坊だった政宗を連れて逃げ出したこと、竜田はずっと政宗を探していたこと。それは、竜田と『本当の奥さん』の間には子供が出来ず、政宗は竜田にとって大事な大事な一人息子であるためだということ。
「じゃあ、かあちゃんは……」
「大丈夫ですよ。おかあさんにはちゃあんとしてもろてます。ぼっちゃんがここでええ子にしてはったら、いつか会わしてもらえるかもしれません」
 ――いい子にしていたら。
 政宗はその言葉をしっかりと胸に刻んだ。




 ……だが。
 ヤクザの家でいい子でいるとはどういうことなのか。その時の政宗にはわかっていなかった。
 豪華だがよそよそしい家の中で、政宗が暮らし出して数ヶ月たった頃、政宗は島崎と竜田が言い合う声を耳にした。
「待って下さい! まだ、まだぼっちゃんには早過ぎます!」
「なにが早い! ええか、政宗は俺の跡取りやぞ! 青竜会をしょって立たなあかんのや! 自分がどういう世界で生きていくんか、覚えるのに早いも遅いもあるかあ!」
「ですが……!」
「ええわ、おまえは早う下に行って準備せんかい!」
 ドスのきいた怒声は、それまでの暮らしで耳にしたことがない怖い響きだった。なにが起こるのか……政宗は与えられた子供部屋で、クッションを抱えて震えをこらえた。
 その時だ。
「政宗。おるか」
 声とともにドアが開けられた。父・竜田勇道が立っている。
「は、はい」
 立ち上がった政宗の肩を、父がすごい力で鷲掴む。
「ええか、政宗。おまえは俺の子ぉや。しっかり肝っ玉すわっとるとこ、おとうちゃんに見せてくれ。ええか?」
 『ぼっちゃんには早過ぎます!』ドア越しに聞こえた島崎の声が甦る。なにか……なにかわからないが、怖いことが起こりそうな、嫌な予感がした。
「ええか」
 政宗の怯えを感じ取ったのか、父親の手にさらに力が加わった。
「おまえは大きぃなったら、この組を継がなあかんのやで。たくさんの組員たちをまとめていこ思たら、トップはビビリでは務まらん。ええか。舐められたらアカンのやで」
 政宗をのぞきこむ父の形相は鬼のようだ。――怖い。だが、この鬼を怒らせるのはもっと怖かった。
「は、はい……」
 政宗はなんとか声に出してうなずいた。鬼の顔に笑みが浮かぶ。
「そうか。わかるか。おまえはええ子や」
 そうして、父に手を引かれて連れて行かれたのは、政宗が初めて『父』と『母』と対面した部屋だった。
 部屋には畳だった部分に青いビニールシートが敷かれ、その中央にビニールシートの色を映しただけではない、青白い顔をした男が正座させられている。四囲を黒服の男たちが堅め、部屋の空気は重苦しい。
「オヤジ。準備ができました」
 政宗が竜田とともに部屋に入って行くと、さっと島崎が一礼した。その瞳が一瞬だけ、憐れむように政宗に向けられる。
「よっしゃ」
 竜田はうなずくと、赤い絨毯の上のソファにどっかりと腰を下ろした。政宗はその横に立つよう指示される。
「どうや、林。肝は据わったか」
 竜田が声を掛けると、ブルーシートに正座させられていた男が震えながら顔を上げた。近くで見ると、その額にみっしりと油のような汗が浮いている。
「は、はい。オ、オヤジにはご、ご迷惑をお掛けして……申し訳ありませんでした!」
 男ががばっと頭を下げる。
「せやな。えらい迷惑やったわ。したら、きちーんと詫び入れてもらおかな。……島崎」
「は」
 竜田の言葉に、島崎が脚のついた小さなまな板のようなものと、白木の棒のようなものを男の前に置く。
 それらがなんの用途でどうやって使われるのか……知らないながらに、禍々しいものを感じて、しかし眼を離すこともできなくて、政宗はそこに立ち尽くしていた。
「林」
 竜田に促され、林は小さなまな板の上に置かれた白木の棒を手に取った。ぐっと力を込めると、白木の棒と見えたものは鞘と柄に分かれ、中から鈍色に光る刃物が現れる。林は右手にその刃物を握り、左手をまな板のような台の上に置く。
 政宗は心臓が痛くなるような感覚に、慌てて胸を押さえた。なにが起ころうとしているのか、わからないのに、怖くてたまらない。
「ええか。よう見とけ。これがヤクザの詫びの入れ方や」
 父親に後ろから囁かれる。
 林の、台の上の左手も、ドスを握った右手もぶるぶると震え出した。
 そのままどれほど経ったか。
「……林ぃ。はよせいや。日が暮れてまうやろ」
 呆れたような竜田の声に、林の右手が弾かれたように動いた。刃物が鈍く光を弾きながら、台の上の左手を襲う。
「ひいいっ! ひいっ! ひいっ!」
 自らの手で自らを傷つけ、林は小指の付け根からだらだらと血を流しながら、刃物を放り出した。真っ赤な血が手の甲を伝う。
 政宗の眼に、その血の赤さは焼け付くような鮮やかさで飛び込んできた。
 そこからの数秒のシーンは、長じてからも政宗の脳裏から消えることはなかった。スローモーションのように細部まで鮮やかに、政宗の脳に刻まれた記憶。
 真っ赤な血を滴らせた男の手。
 チ、と舌打ちの音がどこからか響く。
「島崎」
「は」
 短く竜田が命じ、島崎が動く。
 島崎は腰で後ろへにじる男の左手を掴み、再び台の上に押さえつけると、男が放り出した刃物を掴んだ。
 島崎がドスを振り上げる。男の引き攣った顔の前を、刃が横切る。
 ズシ……っ。
 衝撃音があって、ドスが下の台に突き立ち、そして……。
 落とされた男の指が、政宗に向かって跳ねた。
 男の節くれだった指が爪を頭に、音もなく自分に向かって飛んでくる。――刺さるかと思った。
 指は政宗の頬に当たって、一滴、赤いものを散らして、落ちた。
 ゆっくりと自分の足元に眼をやった政宗は、さっきまで人の肌色に見えていたその指が、奇妙に白いのを不思議に思いながら、それを摘み上げた。近くにひとしずく、丸く黒いものがあった。なぜ、黒いのだろうとぼんやり思う。血は、赤いはずなのに。
 顔を上げると、世界は奇妙にくすんでいた。色がない世界。
「……落ちた」
 もうなにも怖くなかった。
 世界は世界ではなくなっていた。白と黒と灰色の世界で、政宗にはなんの痛みも感覚もなかった。
 政宗は摘んだ指を島崎に向かって差し出した。




 ええ子や、ええ子やと、父は大喜びしていた。
 黒スーツ姿の男たちも、口々に「さすが組長の息子」などと褒めてくる。――そうか。これが『いい子』か……。
 人が目の前でその指を切り落とされても。その指が顔に当たっても。泣いたり騒いだりせず、平然としていることが。この家での『いい子』。
 それが、まだ四つだった政宗が、父の家に引き取られて初めて学んだことだった。




 灰色の世界は都合がよかった。
 ヤクザの組長である父はその後も何度か幼い政宗を恐ろしいシーンに立ち合わせたし、義理の母である父の正妻は政宗に冷たかったが、灰色の世界の中では、政宗になんの恐ろしいことも嫌なこともなかったからだ。
 怖がらないこと。
 人が虐げられても、平然としていること。
 人の痛みも苦しみも、当然として受け流すこと。
 灰色の世界でなければとても我慢できないような、そんな『いい子』の条件が、世界が冷たい白黒の世界でなら、平気でクリアすることができた。
 成瀬政宗だった政宗は、竜田政宗として幼稚園に通うようになり、小学校に上がった。
 世界はグレーのまま。
 政宗の中は冷たく凍りつかされたまま。
 それでも、時折、その世界にゆらりと温度や色味が混ざることがあった。島崎がこっそり持って来てくれる母からの手紙や、小学校の入学式での桜……。その中でも、記憶に鮮やかなのは、ある日、庭から聞こえてきたワンワンという犬の鳴き声だった。
 父は猟犬を飼っていた。普段は柵の中に入れられて姿を垣間見ることしかできない犬たちが、その時は父の気まぐれで庭に放たれていた。
 濡れ縁から眺めている政宗の眼の前で、犬たちは父の命に従って、走ったかと思えば伏せの姿勢でうずくまった。
「……すごいわ……」
 思わず呟いた政宗の声に、
「犬はとても賢い動物ですから」
 横から島崎が笑みを浮かべながら言った。
「主人に忠実で、決して裏切ったりしない。犬は忠誠心の鑑(かがみ)ですね」
 決して裏切らない……。その言葉は政宗の胸にずしりと響いた。
「……ぼくが……」
 政宗は問い返していた。
「ぼくが、どんなにイヤな奴でも?」
 島崎は瞬間、驚いたような顔をし、すぐに穏やかな表情を取り戻した。
「ぼっちゃんはイヤな奴なんかじゃありませんよ。……でも、そうです、ぼっちゃんがどんな人間でも、ぼっちゃんの犬はぼっちゃんを裏切りませんよ」
 そうか。
 そうか。――ほっこりと胸の奥が暖まるようなその感じは、政宗が久しぶりに覚えるあたたかさだった。




 その日も、政宗は父の命で、哀れな犠牲者が待つ広間へと入って行った。
 そこには政宗と同じぐらいの年恰好の少年が、両親とともに座らされていた。
 真っ黒な瞳が反抗的に、入って行った政宗に向けられる。
『なんや、こいつ』
 政宗は少年を見返した。
 その瞬間。
 少年は色をまとった。
 肌はよく日に焼けて褐色で、唇は少し赤い。細い手足の関節は白茶け、黒い瞳は黒いだけでなく、細かにさまざまな色合いを含んでいる。
 ――欲しい。
 理屈はなかった。ただ、そう思った。
「おとうさん」
 政宗は『いい子』の作法に乗っ取って口を開いた。
「これ、ぼくにくれへん?」
 ずっと望んでいた。自分だけの犬が欲しいと。決して自分を裏切らない犬が。




「ええか。おまえはぼくの犬や。ぼくの言うことはなんでも聞くんやで」




 名も知らぬまま、政宗は少年にそう告げていた。







                                               つづく




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