――なにを話しているのだろう。
気になって、悠太郎は窓から目を離すことができないでいた。明るい屋外から暗い室内の様子を見ようとしても、光が窓に反射されてしまってほとんど見えない。カーテンなど閉められなくても、中の様子を伺うのはむずかしい。
二葉輝良はカーテンは閉めないとカッコつけて言っていたが、最初から悠太郎の位置から中の様子を見るのはむずかしいと知っていたんだとしか思えない。――油断のならない奴。
今日、初対面の政宗に馴れ馴れしく顔を近づけて耳元で何事か囁いた時から、悠太郎にとって二葉は『なんだか気にいらない』相手だった。その上に、次期組長同士の話だなんだともっともらしい言い訳をつけて政宗と二人で室内にこもろうとするところも胡散臭い。
悠太郎は窓の外をうろうろした。なんとか二人の様子を見たかったからだ。
ようやく斜めの角度から、二人がローテーブルを挟んで座っているのが見えた。政宗はいつものように背筋をピンと伸ばし、なにを考えているのか感じているのか、まるで読めない無表情だったが、二葉は政宗のほうに向かって身を乗り出し、時折笑顔など浮かべて話しかけている。見ようによっては、それは二葉が政宗を口説いているようにさえ見えた。
なにが次期組長同士の話だ!
見ていて悠太郎はムカムカした。
政宗もさっさと話を切り上げればいいのに、政宗にしては口数多く、会話を続けている。
――本当に口説いているんじゃないのか?
悠太郎がそう思ったときだった。
二葉の手が、政宗の頬へと伸びたのは。
悠太郎は咄嗟に窓を叩いていた。
「しかたないなあ」
笑いながら二葉は窓を開けた。
「飼い主と離れていられるのは10分が限界?」
揶揄に、顔が引き攣る。
「まあ。これほど綺麗な飼い主なら、心配になるのも無理はないけど。大丈夫。君の大事な飼い主殿はもう返すから」
ソファから立ち上がって、政宗も窓際へと出てきた。
「今日はお話できてよかったです。ありがとうございました」
型通りの挨拶を述べて二葉に向けて頭を下げる。その政宗に、二葉は思惑ありげな視線を投げた。
「――君は高一だっけ?」
「そうです」
「俺がこの裏の世界でビッグになってやろうって決めたのも高一だったよ」
政宗がなにかに惹かれたかのように二葉を見上げた。そんなふうに政宗が興味を持って人を見つめたことなど、悠太郎が知る限り、今まで一度もなかったのに。
「……えらいはよから、道を外れてはったんですね」
「道を外れていたんじゃないよ。自分が生きていく世界のことを知っていただけ。それに決して早くはなかったと今では思ってるよ。スタートが早ければ早いだけ、ボケっとしている人間より有利だから」
悠太郎には二葉が一般論を語っているとしか思えなかった。だが、その言葉になにか深い意味でもあったかのように、政宗は二葉から視線を外さない。二葉もまた、政宗の視線を受け止めて揺らがない。
二人だけの間に声なき会話が交わされているように、悠太郎には見えた。
政宗が小さくうなずいたからなおさらだ。
「――ありがとうございます。覚えときます」
悠太郎にはわからないことを政宗は二葉から受け取り、頭を下げた。
にこりと二葉は笑みを浮かべた。
「やっぱり君はいいなあ。気に入ったから、君にはあとふたつ、いいものを上げよう」
ひとつ、と二葉は指を立てた。
「これは言わずもがなかもしれない。君は小さいときからこの世界の住人だったんだから。でも一応、教えておいてあげよう。――いいか。人を信じるということは人を頼るということだ。人を頼るということはその人間を信じるということ。人を使うときにはそのことを思い出せ」
悠太郎はそのセリフにカチンときた。二葉の言葉はいつも政宗のそば近くで仕えている悠太郎への嫌味だとしか思えなかったからだ。
「ふたつめ」
悠太郎の思いなどまるで無視したまま、二葉は二本目の指を立てた。
「獅子身中の虫って知ってる?」
その時。
政宗の口元がほころんだ。今日、数年ぶりに悠太郎が見た笑顔に、わずかに皮肉な色を混ぜただけの、それでもちゃんと「微笑」と呼べるものが政宗の顔に浮かんだのだ。
「それは……仁和組のなかの貴方のことですか」
「言うじゃないか」
二葉が軽くゲンコツを政宗の頭に見舞う。さらりとなめらかな政宗の茶を帯びた髪が、二葉のこぶしに軽く乱れた。
その瞬間、悠太郎の胸になにか黒く重いものがずしりと落ちてきた。――なんだ、これ。なんだ?
悠太郎が自身の感情に惑っている間に、二葉は真顔になっていた。
「……冗談じゃなくな、今の言葉は覚えておけ」
政宗はまたひとつ、小さくうなずいて答えていた。
絶対自分からは聞くまいと、悠太郎は心に決めた。
『なにを話していたんですか』と、聞いてしまえば負けのような気がしたのだ。本当は勝ったも負けたもない。テラスから外に出てきた政宗はいつもの通りの表情と立ち居振る舞いで、特別に二葉とのことを悠太郎に隠してやろうなどと考えている様子はなかった。
自分が勝手に気にしているだけ。わかっていて、それでも、自分から『二葉となにを?』と尋ねるのは嫌だった。
どうしようもなく気になって。だから、どうしても聞きたくなかった。
――今日、数年ぶりに政宗の笑顔を見た。
二葉のほうが格は上かもしれないと言った政宗に、ヤクザは舐められたらいけないんじゃないのかと切り返した。その答えが政宗にはおかしかったらしい。彼は笑い声こそ立てなかったが、おもしろそうに笑ったのだ。
もう何年も、政宗の笑ったところなど見たことがなかった。
冷たく、心の動きが止まっているかのような、そんな無表情ばかりを見てきた。
笑いにほころんだ政宗の顔は、横目に見ていてさえ、はっと胸を突かれるほど綺麗だった。元から顔立ちはいい。笑うとそこに可愛らしさとあでやかさ、柔らかさが加わる。
思わず正面から見入ってしまいそうで、悠太郎は無理にその笑顔から視線を逸らしたが、そのあとも、笑いの名残りか、政宗の唇は柔らかくほころんでいて――。
そんな笑顔を見たのは小学校の時以来だった。そのことに気づいた時、悠太郎はひどく損をしていたような、もったいないことをしていたような、そんな気分になって、そんな気分になったことに、腹が立ったのだった。
なのに。なのに、だ。
二葉は出会って数時間で、政宗の微笑を見たのだ。
政宗は出会って数時間の二葉に微笑を見せたのだ。
政宗は二葉に冗談めいた嫌味を言い、二葉はそれにゲンコツを返した。
「……っ」
その時の様子を思い返して、悠太郎は反射的に強く拳を握った。
あんな笑顔は数年ぶりで。でも、二葉はたった数時間で……。
「悠太郎? どうかしたんか」
怪訝そうな政宗の声に、悠太郎は自分が唇を噛み、拳を握り、悔しげに前方を睨みつけていたのに気づいた。
「あ、いえ、なにも……」
慌てて拳をほどく。
二葉となにを話したのか。
気になって仕方なく、だからこそ、悠太郎は出てきた政宗になにを聞くこともできなかった。
パーティがお開きの時間を迎えるまで、悠太郎は、蝶のように華やかに来客たちの間をもてなして回る二葉輝良の姿を苦々しく見ずにはいられなかった。
なにも聞かないつもりだった。
二次会という名目で今夜はそのままホテルに泊まることになった勇道たちと別れて、政宗と悠太郎は組の車で家に帰って来た。その車中でも、悠太郎はなにも問いかけなかったし、政宗は無感動な瞳を窓から外に投げているだけだった。
そのままのつもりだったが……。
部屋に入ると、いつも学校帰りにそうするように、政宗は悠太郎に黙って背中を向ける。
「失礼します」
一声かけて前に回り、いつもは制服のブレザーのボタンを、今日はスーツのボタンを外す。先にネクタイを緩めて抜き取り、再度、後ろに回る。されるがままの政宗の肩口から手を伸ばし、上着の襟元を持って右腕、左腕と抜いて脱がせる。
「シャツはどうしますか」
いちいち尋ねるのは、政宗は着替えを面倒がってそのまま制服のカッターシャツのままで夜まで過ごすことも多いからだ。
「今日は着替える。なんや肩こったし」
返事に、悠太郎はふたたび前に回って、今度はシャツのボタンを外す。
小学校の頃は着替えにいちいち悠太郎の手を借りることなどなかった政宗だったが、中学に入った頃から着替えの手伝いは悠太郎の仕事になってしまっている。
政宗は靴下さえ自分で脱ごうとはしない。まるで悠太郎の忠誠心を試すかのように、足を悠太郎の前に突き出すのだ。
「それぐらい自分でしてください」
と一度言ったことがあるが、「犬のくせに飼い主に逆らうんか」と返されて、それ以来、逆らったことはない。この家に来て以来の理不尽に、悠太郎は自分の反抗心を眠らせておく術を学んでいた。
今ではもう、人の足から汚れた靴下を脱がせ、新しい靴下をはかせるという屈辱的な行為にもずいぶんと慣れた。
しかし――。
最近、悠太郎は慣れているはずの着替えの手伝いに、不思議な胸苦しさを覚えるようになっていた。ジャケットを脱がせるのはいい。だが、肩から白いカッターシャツを滑らせる、その時に、心臓の鼓動がやけに早くなってしまうのだ。細かく言えば、ネクタイを外すときに軽く政宗が顎を上げるその時から小さなドキドキが始まり、シャツのボタンを外すにつれ徐々に心拍が早くなり、シャツを脱がせるところで最高潮に達する感じだった。
政宗は子供の頃からの習慣のまま、白いランニングという健康的な下着を着用しているが、首筋や肩、二の腕が剥き出しになると、そこから視線を外すのが難しくなる。
今日は特にそれがひどかった。
少しうつむいた姿勢の政宗のうなじが妖しいまでに白い。薄く茶色のかかった髪が襟足で切り揃えられていて、柔らかそうな毛先がなめらかな首筋にかかる、その部分からどうしても目が離せないのだ。
「悠太郎?」
不自然な間に、ついに政宗がいぶかしげに振り返る。
その頬に。二葉の長い指が触れていた映像が不意に悠太郎の脳裏によみがえった。――どんな感触なのか。白くなめらかな政宗の頬は……首筋は……。
「どないしたん?」
重ねて問われて、ようやくはっと悠太郎は目をしばたたいた。『なんでもありません』、そう言うつもりで口を開いた。
「あいつと何を話したんですか」
聞くつもりのなかった質問が、知らぬ間に口からこぼれていた。
「あいつて……輝良さんか」
輝良さん。名前を呼ぶことにまずカチンときた。
「今日は二度目やなあ。悠太郎に聞かれるの」
「……それも『犬』の役目のひとつじゃないですか」
苦し紛れの言い訳だったが、政宗は「それもそうやなあ」と納得しているふうだった。
上はランニング、下はスラックスのまま、ベッドの端にぽすんと腰を下ろす。
「あの男、なんか油断がならない感じです」
「そうやなあ……あの若さで城戸組を手にしたも同然やもんなあ。出し抜かれたんはうちの父親だけやないみたいやしな。やり手やろなあ」
淡々とそう言う政宗に、悠太郎はじりじりしながら一歩近づいた。
「だから…! なにを話したんですか、二人だけであの部屋で」
「……なんやろ……」
政宗は会話を思い返すのか、小首をかしげた。
「ぼくに清竜会跡取りとしての自覚を持たせたいみたいやったなあ」
「……清竜会跡取りの、自覚?」
「そうや」
答えて顔を上げた政宗と、つい、視線が合った。ここ何年も避け続けていた視線が。
着替えの手伝いの時の比ではない、鼓動がひとつ、大きくはねた。――まずい、と思う。だが、正面からぶつかってしまった視線は意志の力では動かせなかった。天井の白熱灯の光を受けて、甘いキャラメル色に澄んで見える政宗の瞳があまりに綺麗で、目は吸い寄せられたまま動かないのだ。
「ぼくがしっかりせえへんと清竜会がガタガタになるゆうて、ぼくの器がどんなもんか、えらい気にしてはったわ」
政宗の言葉が頭の中を素通りして行きそうになる。目に映る政宗の瞳や細い顎の線、そこからくっきりと影を作る鎖骨への首のライン、そんな視覚の情報にばかり気を取られて。
「……そんな……そんなこと気にしてどうするんでしょう……」
なんとかもっともらしい質問を作って返す。
また、何か考えるときのクセで政宗は小首をかしげ、首のラインが新たな線を作った。
「いずれ自分が仁和組を治めることを考えとるて、ゆうてたなあ。えらい野心家なんは間違いないわ」
「そうですか……」
ようやくなんとか首の筋肉を動かすことができた。悠太郎はうつむくことで視線を無理矢理に政宗の顔から引き剥がした。
「じゃあ、気をつけなきゃいけませんね」
自分がなにを話しているのか、上の空のまま適当な言葉を紡ぐ。
「どないでもええんやけど。ぼくはおまえがそばにおったら」
ようやくもぎ離した視線を、悠太郎は思わず政宗の顔に戻していた。『おまえがそばにおったら』、なんだか今日はやたらと心臓がよく跳ねると思いながら。
「……それ、それは……」
声が喉にからむ。悠太郎はひとつ、咳払いした。
「犬として、ですか」
「当たり前やろ」
いまさらなにを言うという顔で返される。今度は前より楽に、悠太郎は政宗の顔から目を逸らすことができたのだった。
その、数日後のことだった。
竜田の家で秋生まれの政宗の誕生日を祝う宴が開かれた。
「おまえももう16かあ。これからはこの竜田勇道の跡取りとして、もっとしっかりと勉強してもらわんとなあ。二葉の青二才にいつまでもでかいツラさせとくわけにはいかん。ええか」
酔った勇道の言葉に政宗はいつも通り、「はい、はい」と無表情なまま律儀な返事をしていたが、その席上で、
「今日は島崎からぼっちゃんにプレゼントがあります」
と、島崎が笑顔で言い出した。
悠太郎も小学校の頃からよく知る島崎は、今では竜田の家を出て自身の家を構えているが、清竜会若頭として事務所だけでなく、勇道の暮らすこの家にも頻繁に顔を出す。政宗や悠太郎に対していつも理解とあたたかな情を示してくれる島崎が家の中にいると、それだけで悠太郎はほっと救われたような気持ちになれる。政宗もそれは同じらしく、島崎がそばにいると、いつもの冷たい顔が、いくぶん、やわらいだものになるように悠太郎には思われた。
三十代前半だった島崎も今では四十に手が届く年になり、もともと渋い感じの男前だったが、最近はそこに大人の男の色気のようなものまで備わって、押しも押されもせぬ清竜会幹部の筆頭だった。
「16と言えば昔なら元服の年です。そろそろ本物があってもいい頃かと」
ぱんぱんと島崎が鳴らす手の音に、宴の場であった和室の奥の襖がからりと開いた。
そこから飛び出してきたのは……。
「あ」
政宗が思わず声を上げた。
グレーと白のもこもこした毛糸のかたまりのようなものが、勢いよく部屋に駆け込んでくる。後ろでリードを引く若い組員が方向を変えると、そのグレーの塊はまっすぐ政宗の膝へと飛びついた。
「…………」
それはまだ丸々とした子犬だった。ふわふわした毛玉のような。
「アラスカンマラミュートの子供です」
声もない政宗に島崎が伝える。
「え……」
驚く政宗の顔と言わず首と言わず、子犬は人なつっこく嘗め回す。
「ぼっちゃんの匂いに慣れさせてあります。ぼっちゃんの犬ですよ」
ゆっくり、とてもゆっくり、政宗の顔に笑みが浮かんだ。
「ぼくの……?」
「そうです」
「……おおきに。島崎。おおきに……」
子犬を見つめ、その身体をそっと抱き上げる政宗の瞳にはもう少しで涙が浮かびそうだ。
「悠太郎。ほら」
政宗はいつものように後ろで控えている悠太郎の鼻先に子犬をぶら下げた。
「……よかったですね」
部屋のみんなが政宗と自分を見ている。
――本物の犬なんて……。
なぜだかひどく苦々しい思いがこみ上げる。それを押し殺し、悠太郎は笑って見せた。
つづく
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