おまえは俺の犬だから <第二部 4>

   








 子犬のゲージは政宗の部屋に置かれることになった。
 島崎は匂いもつくし子犬の間は粗相も多いから若い者に面倒を見させたらどうかと言ったが、政宗はどうしても手元に置きたかったのだ。ふわふわで柔らかくあたたかい子犬は怖じることなく政宗にじゃれつき、まだ小さなしっぽをちぎれんばかりに振りながらまっすぐに政宗を見上げてくる。黒く濡れたような瞳を見つめていると、自分からは無残に切り離されたなにかが戻ってくるような気がして、胸がほっこりとあたたかくなった。
 もう何年も何年も思い出すことのなかった、きれいな色にあふれた優しい世界。そんな世界があったことすら忘れていた政宗に、子犬はかつて政宗が住んでいたその世界の小さなカケラを運んできてくれるように感じられた。
「名前、『モモ』はどうやろ」
 自室に引き上げてから、政宗は悠太郎に問いかけた。
「モモ、ですか」
 島崎が用意してくれていたオモチャのビニールボールに噛み付いているグレーの子犬を悠太郎はむずかしい顔で見つめている。
「『サクラ』のほうがええやろか」
「……なんのボケですか、それは」
「え?」
 小声ではっきり聞き取れず、問い返すと、
「……ヤクザの家の犬にモモだとかサクラだとか……似合わないでしょう。ボケかと思われますよ」
 やはりこちらを見もせずに悠太郎が言う。もっとも悠太郎が政宗の顔を直視しようとしないのは今に始まったことではないが。先日の二葉輝良の養子縁組披露パーティの日には久しぶりに悠太郎といろいろ話せたし、正面きって向かい合うこともできた。なんとなく小学校の頃の雰囲気を思い出して嬉しかったのだが、やはりその日が特別だったらしい。前にもまして、悠太郎は政宗の顔を見ようとはしなくなったし、会話を避けているようにさえ見える。
「そうか……似合わへんか……」
 仕草も見た目も可愛い子犬には優しい名前がいいだろうと思ったが、ヤクザの家に似合わないと言われればそれももっともだと思えた。
 政宗はボールで遊んでいた子犬を抱き上げた。顔の前に持ってきて話しかける。
「おまえ、かわいそうやなあ。この家にふさわしいゆうたら……ゴンタがええか、ドンとかか? 似合わんなあ、おまえ、こんな可愛いのに……」
 顔を近づけると子犬は赤い舌でぺろぺろと政宗の鼻の頭を舐める。
「うわ、おまー、くすぐったいわあ」
「……それ、アラスカンマラミュートでしょう。さっき聞きましたけど、かなりデカくなるらしいですよ。今は可愛くても、ゴンタやドンでいいんじゃないですか」
 振り返ると意外な近さに悠太郎が立ち、険しい顔で子犬を見ている。
「でも、こいつ、メスやで?」
「……じゃあゴンコで」
 数日前に感じた、喉の奥のくすぐったさに似た笑いの衝動に再び襲われた。お笑い番組を見ていても、白黒の世界での笑いにはなんの興も覚えないが、政宗にとっては唯一フルカラーで認識できる悠太郎の言葉には特別なものがある。
「おまえ」
 笑い出しながら政宗は返した。
「ゴンコはひどいわ」
 悠太郎はむっつりと眉を寄せる。どうも自分の笑いは悠太郎には不愉快らしい。
「……しゃあないなあ」
 笑いを収めて政宗は目の前の子犬に視線を戻した。
「おまえもヤクザの家の子ぉになったんやもんなあ。勇ましい名前、つけたらなあかんなあ」
「……モモでいいじゃないですか」
 反対していたはずの悠太郎が言い出した。
「……別に……ヤクザの家でも。……政宗様が飼う犬ぐらい。政宗様のお好きな名前をつけたらいいじゃないですか」
「そうか?」
「いいと……思います」
 しぶい顔のまま、悠太郎はうなずいた。




「……俺のは革製なのに」
 モモの首輪を買いに出た時だった。ペットショップで、室内で飼われる子犬用の柔らかな布製の首輪を手にした政宗に、ぼそり、低い声が落とされた。
 はあ?と政宗は後ろに立つ悠太郎を振り返る。
 長身で、なかなかのハンサムに育った政宗の「犬」は形のよい眉をやはり不機嫌そうに寄せていた。
「なんでモモのはそんなかわいいヤツなんですか」
「なんでて……モモはまだ子犬やから……」
「俺のは小学校の頃から革製でした」
「…………」
「首にこすれて、痛かったです」
「……なんや、いまさら。恨み言か」
 悠太郎は答えず、黙ったまま、政宗が手にした首輪の色違いを手に取った。
「……こっちのほうが、モモには似合うんじゃないですか」
「同じやろ。……ああ、色違いか」
 時々、こんなことがある。目に器質的な異常があるわけではないので、意識すればきちんと色を見分けることもできたが、誰かに指摘されるまで、ふだん、色のちがいを意識することはまずない。
「……前から思ってましたけど……政宗様、色に対して鈍感ですよね」
 恨み言と言った仕返しか。悠太郎にそう言われる。
「……ええねん。そのほうが都合がええから」
 たとえば不始末をしでかした組員の指を落とす時。下に敷かれたブルーシートや、手を載せる白木の台、傍で銀色に光るドスの刃、そして、そこに転がる肌色した指や飛び散る赤い血、そんなものがすべて色鮮やかに見えたら……怖くて、胸が痛くて、しかたなくなるにちがいない。
「ほなら、そっちにしとこか。あ、ついでにおもちゃも買うてやろか。おみやげや」
 そう言うと、なぜかまた、悠太郎の眉間のしわが深くなった。




 島崎の提案で、政宗はモモと一緒にドッグトレーニングセンターに通うことになった。そこでは犬と人間が互いに気持ちよく暮らすための基本的なしつけを教えてくれるのだという。犬だけを預けて訓練を受けさせることもできると言われたが、モモを他人の手にゆだねるのが嫌で、政宗は「ファーストドッグオーナーコース」を選択し、犬だけではなく飼い主にも犬のしつけの仕方を教えてくれるクラスに通うことにしたのだった。
 トレーニングセンターは平日の夕方か土日かを選択することができた。
 政宗はいつも悠太郎と一緒に登下校する。それは、わざとあちらこちらに喧嘩を売ってきた政宗自身の安全のためでもあったが、剣道部に所属する悠太郎の部活が終わるまで政宗も帰ることができないというデメリットがあった。
 島崎はモモを乗せた車を寄越すから、学校帰りにセンターに寄ってはどうかと提案してきた。それはいつも放課後の時間を武道場の隅で教科書を読んで過ごす政宗にとって、有意義な時間の過ごし方のように思えた。
 政宗は毎週火曜金曜の放課後、迎えの車に乗ってトレーニングセンターに行き、また送られて帰ってくるようになった。
 そんなふうに生活のパターンが少しだけ変わって二ヶ月、季節も冬になったある日。
「君はいつも犬と一緒だね」
 トレーニングの空き時間にサロンで政宗は後ろから声をかけられた。振り返ると、室内だというのにまん丸なフレームのサングラスをかけた、ニットキャップ帽の男が立っている。迷彩色のロングジャケットを羽織り、だぼだぼのジーンズをはいた男は親しげに「やあ」と片手を挙げた。
「――お久しぶりです、輝良さん」
「あれ、一発でわかっちゃう?」
 サングラスのフレームを押し下げ、上から目だけを覗かせて二葉輝良は笑顔を見せた。




「渾身の変装だったんだけどなあ」
 やっぱり君はバカではないみたいだなどと付け加える輝良とともに、隅にあるソファに腰掛ける。モモは新しい人物に少しだけ警戒の色を見せて、輝良の足元を嗅ぎ回った。
「どうしはったんですか」
「いや。そろそろ君に会いたいなあと思ったんだけどね、ほら、互いの立場が立場だろう? 痛くもない腹を探られるのもイヤだしねえ」
 にこにこしながらそう言う輝良は少々個性的なファッションもあって、とてもヤクザには見えない。
「……わざわざぼくのスケジュールを調べて変装までしてこんなところに入ってきて……痛くない腹とか言われても」
 サングラスのせいで輝良の目は見えなかったが、その口元がにやりとゆるんだ。
「俺には痛いところなんてホントにないんだよ。君の勉強の進み具合がちょっと知りたいなあと思っただけで。でも、俺と君が会うと嫌がる人間がいるでしょう」
「――城戸組と清竜会が仲良くなったら困る人間がってことですか」
「えらいえらい。多少は勉強が進んだようだね」
「ありがとうございます。木下輝良さん」
 輝良はおもむろに腕を組むと、指でとんとんとリズムをとった。
「合格、と言ってあげたいが、それをどうやって調べたのかが問題だな」
「難儀しました。おかげでぼくが清竜会の中でどれだけ頼りになる手駒を持っていないか、ようわかりました」
 輝良の口元に、今度は薄い、けれど満足そうな笑みが浮かぶ。
「自分の実力を自覚してくれたとは嬉しいねえ。じゃあちょっと俺のバックグラウンドを聞かせてもらえるかな。君の調べた範囲で」
 小さく息をついて、政宗は清竜会の傍流である白蛇会の幹部に父の依頼を装って調べさせた輝良の生い立ちを頭の中に思い返す。
 今から28年前、輝良は木下家の長男として埼玉に生まれた。木下家は地元の名家として名高く、輝良の父は木下産業という会社の社長でもあった。輝良はその跡取りとして期待されて大きくなった。小学校の頃から成績優秀、スポーツ万能でその評判はすこぶるよく、周囲の期待のまま全寮制の私立中学に進んだ。その木下家に暗雲が立ち込めたのは輝良が中学三年生の時。事業を広げようとしていた父は部下でもあり、親戚でもあった男に騙され、会社は乗っ取られ、家族は家屋さえ取り上げられて路頭に放り出されることになった。当然、輝良も学業を続けることはできず地元に戻ってきたが、その時、輝良に救いの手を差し伸べたのが、債権者でもあった仁和組の幹部・二葉だった。二葉は輝良を養子に迎え、高校を卒業させたあと、遠くアメリカ留学した輝良を支援しつづけた――。
「……そう。そして俺は二葉への恩返しと己の栄達のために仁和組でのし上がり、再び城戸の爺様の養子となって城戸輝良になった。……よく調べたな」




「難儀とゆうたけど……あなたの過去についてはまだ簡単でした」
 二人の長話に飽きて足元にうずくまったモモを撫でてやりながら、政宗は続けた。
「清竜会とあなたとは仁和組の中で勢力争いしているようなものやから……ぼくがあなたのことを知りたがっていることがバレても、どうということもないから。けど……」
「もうひとつの宿題のこと?」
 政宗はうなずいた。
「獅子身中の虫。炙りだすには手駒が少なすぎる、か」
 輝良の言葉に政宗はもう一度うなずく。
「でも、そこまで調べたということは君はこの世界で生きていく覚悟があるってことかな」
「……ぼくは……堅気の世界を知りません。小さな頃からこの世界だけを見てきた。でも……正直ゆうて、父親のようになりたいんかて聞かれたら……それはちがう気がする」
「今の時点ではそれでも合格かな。俺は美人への採点は甘いんだ」
「わからないのは……」
 輝良の軽口は流して政宗は輝良のサングラスの奥を見つめた。
「あなたがどうしてぼくに肩入れしてくれはるのか、です。もちろん、あなたがくれたヒントは嘘かもしれへん。清竜会にはなんの虫もいーひんかもしれへん。でももし本当だったら……すごい助け舟をもろたことになります」
「いろいろと考えたんだねえ」
 おかしそうに輝良は言い、先が楽しみだとからかうように言う。
「まあでも、その答えを簡単に教えちゃあ、君のためにならないな」
「教えてもらわれへんとあなたのことを信用しきれません」
「それでいいんじゃないのかな」
 輝良は初めて、まん丸フレームというキッチュなデザインのサングラスを外し、その瞳をあらわにした。まっすぐに政宗を見る。
「君は俺を信用できるかどうか、自分の目で見極めたほうがいい。なんでも人の言葉を鵜呑みにする極道の寿命は短いよ」
「……わかりました」
 輝良の言うことはもっともだった。
「でも、俺たちはもっと互いを知るべきなのも本当だ。はい、これ」
 一枚のメモを輝良は政宗の制服のポケットに滑り込ませた。
「俺のケイ番とアドレス。プライベート用だよ。君から連絡してくれ」
「せえへんかったら?」
「家にあの憎たらしい城戸の息子が遊びに来たって、君のオヤジさんを怒らせたい?」
「……それも面白いかも」
「怒るのが君のオヤジさんだけならいいけどねえ」
 思わせぶりに言い、輝良は立ち上がりながら再びサングラスで瞳を隠した。
「君のもう一人の『犬』、俺が行ったらすごく吠えられそうだ」
 悠太郎が怒る? 意味がわからない。
「じゃあ」
 政宗に聞き返す間を与えず、輝良は言うだけ言うと、小さく手を振り去って行く。
「……なあ」
 しょうがなく、政宗は足元でおとなしくしていたモモに話しかけた。
「悠太郎がなにを怒るゆうねん。なあ」
 モモは黒い瞳で政宗に尾を振るばかりだった。













                                               つづく




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