おまえは俺の犬だから <第二部 5>

   








 なにがこれほどおもしろくないのか……。
 悠太郎は憮然として子犬と遊ぶ政宗を見る。モモを相手にしている時、政宗は表情がいくぶん柔らかくなる。うれしいのだろう。そんなに「犬」が欲しかったなら最初から本物の犬を飼えばよかったのだ。そう思って悠太郎は、自分がまるで子犬にヤキモチを妬いているようだと気づいて、また不愉快になる。
 ――それにしても。
 政宗が犬に「モモ」だとか「サクラ」だとか名づけるつもりだと言い出した時には驚いた。ロマンチストだし、少女趣味だと思った。ヤクザの家の息子が、ヤクザの家で飼う犬につける名前ではないと思った。
 ケチをつけると、政宗は心なしかがっかりしてしまったように見えた。
「おまえ、かわいそうやなあ。こんな可愛いのに」
 可愛いのはあんたじゃないか。
 その瞬間、悠太郎はそう思ってしまった。ヤクザの家の息子なのに。躯のどこにもごついところがなく、顔だって綺麗だ。――かわいそうなのはあんたじゃ……。
 そんなわけはない!
 浮かんだ思いを悠太郎は一瞬で否定した。
『おまえはぼくの犬や』
 自分の頭を踏んだ足の感触を、今でも思い出せる。政宗はヤクザの家にふさわしい、汚くえげつない根性の持ち主だ。
 ……それでも、もし……政宗がこの家で育っていなかったら……生みの母親の元で育てられていたら……。
「しゃあないなあ。おまえもヤクザの家の子ぉになったんやもんなあ」
 子犬に話しかける政宗の言葉が自身に語りかけているもののようにさえ聞こえた。政宗という、「独眼竜」の別名を持つ、勇ましい武将の名前は、父・勇道がつけたのだと聞いたことがある。俺の息子にはぴったりの名前だと。――政宗は、その名前をどう思っているのだろう。
「……モモでいいじゃないですか」
 あんたこそ、この家に似合わない。その名前も似合わない。
「……別に……ヤクザの家でも。……政宗様が飼う犬ぐらい。政宗様のお好きな名前をつけたらいいじゃないですか」
 そう進言しながら、悠太郎は今までの恨みを一瞬でも忘れてそんなふうに感じてしまった自分が腹立たしくてならなかったのだった。




「おー、今度の土日、また手伝い頼めるか」
 身長が伸び、身体がしっかりしてくると、悠太郎は時々若い組員たちから手伝いを頼まれるようになった。
「土曜日の午前中は部活なんです」
「ほなら土曜の午後と日曜、また屋台あんねん。手伝うてや」
「わかりました」
 ヤクザはシノギが大事だ。目を掛けられて組長の家で寝起きすることを許された若手といえど、上納金の義務からは逃れられない。彼らは実にいろいろな手でゲンナマを稼ごうとする。その中で祭りやイベントでテキヤとして儲けるのは古典的で地道なやり方だ。
 祭りの規模や開催場所にもよるが、シマ中の神社などで催される祭りならば清竜会系はもっとも客足のよい、売れる場所に屋台をかまえることができる。その上、その季節の売れ線を優先的に扱うこともできた。冬ならたこ焼き、お好み焼き、たませんなど、粉物と呼ばれるもの、夏ならカキ氷だ。
 悠太郎は身体を使って、お客さんにものを売って、きちんとその売り上げからバイト料を得ることのできるテキヤの手伝いが好きだった。ヤクザはヤクザなりに「まともに働いた」実感があるからだ。
 夏など一日氷を削り続けてもらえるのは数千円だが、嬉しかった。
 だが、悠太郎の鍛えた身体をアテにされるほかの仕事もあった。
「おっちゃくいのがでかいツラしてんねや。素人にあんまりなめたマネさせとくわけにいかんやろ。な。手ぇ貸してくれや」
 そんなふうに言われる時は、後味の悪い仕事が多い。まだどの組にも属していないが悪いことが大好きという素人を締め上げて金を巻き上げる。
「清竜会のシマでなにでかいツラさらしとんねん」
 というのが決まり文句だ。
 同じように、ほかの組のチンピラがシマを荒らしに来たときも悠太郎は狩り出される。とにかく人手が欲しいらしく、行けば悠太郎も自分の身を守るためにも相手を殴ったり蹴ったりせねばならなくなる。
「これ、おまえの取り分や」
 なかばは自業自得ながら、ぼこぼこにされた被害者の金は悠太郎にも分配される。
 悠太郎はこの金が嫌いだった。
 人を殴ったり蹴ったりして金をもらう。それはなにかがまちがっているような気がしてならない。
 そういう時の金額はテキヤの比ではない。一日汗水垂らして数千円、なんてものじゃない、たった数分、その場に怖い顔をして立ち、逃げようとする者の退路を塞ぐだけで「ほい」と数万渡される。
 いらない、とその金を突っ返すことはできなかった。悠太郎には秘かに心に決めていることがあり、その実現のためにはお金はどうしても必要だったからだ。お金は欲しい。だから、意に染まぬ仕事でも声をかけられれば都合がつく限り、悠太郎は引き受けることにしていたのだった。




 その日の手伝いは焼きそば屋だった。
 カツヤと呼ばれる金髪ツンツンの若手……つまりチンピラと二人で屋台の中を切り盛りする。
 カツヤはテキヤ歴が長いと自慢し、確かに手際もよかった。もう二十歳だぜ、オジンだぜとこぼしていたが、見た目は悠太郎とそう変わらないように見える。
「そういや、おまえさあ」
 客足が途切れたところで、カツヤは悠太郎に話しかけてきた。
「組長の家に住んどんて? 組長の息子の犬やて聞いたで」
「……はあ」
 悠太郎が黙っていても、組長の家で寝起きする組員の口から悠太郎の立場は組の末端の組員まで筒抜けだ。
「ええなあ。ぼっちゃんのお気に入りやったらおまえ、出世間違いなしやないか」
「…………」
「すぐに金バッジやなあ」
 出世だ金バッジだといっても、それはしょせん極道の世界のなかでのこと。うらやましがれるようなことではないと悠太郎には思えたが、それは一種、傲慢なのかもしれないと、こうして若い組員たちと接する機会が増えるにつれて悠太郎は考えるようになっていた。
 極道だヤクザだというが、それはそういう世界でしか生きられない者たちがいるということなのだ。そこは法律や一般の常識とはちがう、仁義とかスジとか呼ばれる独自のルールで規律が保たれている。しょせんヤクザと片付けるわけにはいかない、その世界固有の価値観や、ヒエラルキーが存在するのだ。
 その中で、清竜会組長の屋敷に住み、そのぼっちゃんの覚えめでたい自分がうらやましがられる立場であることだけは認識していようと悠太郎は思うようになっていた。
「……金バッジはむずかしいと思います」
 悠太郎が答えると、それが気に入ったらしい、カツヤはにぃっと笑った。
「せやなあ。金バッジはなあ。けど、おまえもたいがい大変やな。かあちゃん、人質なんやろ?」
「…………」
 これもこうしてほかの組員と接するようになってからよく言われることだった。母親が人質。決して最初からこういう形だったわけではないが、組の息のかかった店で母親が働かされている悠太郎が好き勝手に屋敷を出て行くわけにはいかないのも事実だった。
「……聞いたことありませんか? 俺の母親がどこで働かされているか」
 ほかの組員と接した時に、必ずする質問を悠太郎は口にしてみた。
「俺みたいなペーペーが知るわけないやん」
 答えはいつも通りだった。
「大阪かどうかもわからんのやろ?」
 悠太郎は黙ってうなずいた。清竜会は兵庫の海浜部を中心に勢力を拡大し、大阪をもその勢力圏に入れている。が、系列の関東の組へと母親が連れて行かれている可能性もあった。
「おぼっちゃんのお気に入りやゆうても、おまえも存外、難儀やなあ」
 カツヤの言葉に悠太郎は苦笑して見せた。




 お金を貯めて、母親を救い出して、逃げる。
 それが明確に悠太郎の「目標」になったのはいつだったろう?
 最初は漠然と、「いつまでも『犬』はイヤだ」と思っていただけだった。悠太郎は子供でなんの力もなく、竜田の家から出るという選択肢など、考えることもできなかった。このままじゃいやだと痛烈に思ったのは、やはり母親が風俗の店で働かされることになってからだ。
 しかし――父親のように、組の金に手をつけての出奔は論外だった。今、父親がどうなっているのか……島崎に聞いても答えてはくれないが、政宗にも自分にも知らせぬまま、「処理」されていることは十分に想像がついた。島崎は「逃げ続けている」とは言わなかったからだ。
 父親はバカな男だった。ヤクザの力を甘く見すぎて、自分の欲望にも甘すぎた。
 それに、悠太郎は自分ひとりが自由になればいいのではなかった。母親をどうしても救いたかった。そのためには……まず母親の所在を突き止めねばならない。
 中学卒業の時にも三年ぶりに母親に会わせてもらうことができたが、組の命令には従うしかないと思っている母親は自分の居所をほのめかすことすらしなかった。
「おぼっちゃんのおかげでおまえもわたしもこうして生きていられる。その恩を忘れちゃあいかんよ」
 母はそう言う。――金もせいぜい月に数万もうかればいいほう、二人で逃げるのに十分な金額になるのは、いつか。その上に……母の居場所を探り当てるのは至難の業、さらに母親が悠太郎の説得に応じてくれるかどうか……。
 考えていると悠太郎は暗い気持ちになる。
「おーおまぁ、このあと用事ある?」
 考えに沈んでいるところをカツヤに声をかけられた。
「いえ、特には」
「なあ、じゃあちょっと一緒に遊びに行かへん? おまえ一緒やったらよさそうやし」
「……いいですよ」
「ええか!」
 カツヤの目が輝き、それまで屋台の奥で座っていた彼はいそいそと前に出てくる。
 テキヤの仕事とセットのようなものだった。一緒に屋台をやっている若い衆は、引け時になるとそわそわしだす。祭りに来ている女の子連れをナンパして楽しい一時を過ごそうというわけだ。
「ねーカノジョらぁ、もう帰るん?」
 早速カツヤが通りがかる女の子の二人連れに甘い声を出している。
 そんな時、悠太郎の少しワイルド系のはいったハンサム顔と、硬派っぽい雰囲気は女の子たちにとても有効に作用するらしい。
「えーどうしよー」
 女の子たちもまんざらではなさそうに近づいてくる。
 カツヤが何時にどこそこで落ち合おうと話を進めるのを悠太郎は他人事のような思いで見ていた。




 カラオケルームの一室だった。
 歌などそっちのけで、カツヤと女の子の一人がさっきから濃いキスを繰り返している。キスと同時にカツヤの手はこんもりと丸い女の子の胸を服の上から揉みしだいているが、女の子が嫌がる素振りはない。
「……ねえ」
 もう一人の女の子が、曲を選んでいた悠太郎にぴたりと躯を寄せてくる。
 ――こういうふうに若い男女は遊ぶのだと学んだのも、こうして若い衆の手伝いをするようになってからだ。最初は戸惑うばかりだった悠太郎を初めて手引きしてくれたのは、女子大生だという可愛い女の子だった。
『あんた、初めて? おねえさんが教えたるわ』
 ナマでそういうセリフを聞いたのも初めてだったが、行為自体は純粋に気持ちよかった。悠太郎の心をおきざりに、慣れたリードに躯は雄の快感に目覚めていった。
「…………」
 キスを待つ唇に唇を押し当てる。そうしながら手を膝の間に差し入れると、脚はあっさりと左右に開いた。
 セックスはスポーツだと割り切ったふうなことを言う若いのもいた。まだ中学生の頃はそれはちがうのではないかと漠然と感じていたが、こうしてゆきずりの関係を何回か結ぶと、スポーツは言い過ぎでも娯楽のひとつとは言えるのではないかと思うようになっていた。
 好きな相手とためらいながら交わすキス。おずおずと恥らいながらも腕をまわし合う抱擁。その先に裸になってすべてを晒しあうセックスがあるのだと、夢みていたこともあったけれど……今日カツヤがしたような軽い誘いに、同様に軽いノリでついてくる女の子たちは誘った男の側と同様にセックスになんのためらいも恥じらいさえも持っていないようだった。
『そんな簡単でいいの?』
 躯は躯を求めてしまう。悠太郎はそう問いかけてみたいと思いながら、自分の前に無防備に開け放たれる躯に沈み込む。
 好きもなければ、愛しさもない。あるのはただ、一時の快楽を求める熱だけ。
「アン」
 女の子の甘い声を耳元に聞きながら首筋に顔を埋める。
 情などなくとも、そこに自分を受け入れてくれるあたたかさがあるというだけで、硬くなる自身の分身に自嘲にも似た気持ちを覚えながら。




 ――そんな時。ふと思ってしまう。
 政宗はこの温度と湿度を知っているのかと。
 同じ部屋で寝起きしていても、政宗がそういうアダルトな方面に興味を持っている証拠を悠太郎は見たことがない。悠太郎が若い衆からもらったDVDをそのへんに放り出しておくと、気持ち悪そうに眉をしかめるほどだ。
 感情に温度を持たない政宗は、年頃の少年なら抱くだろう異性への憧れや衝動からも無縁のように見える。
 逆に、少々潔癖すぎるほどだ。
 いつか、政宗もこんなふうに女の子を抱くのだろうか、それとも……。
 着替えの手伝いの時に悠太郎の鼓動を早くする白い喉が、ふいに脳裏に浮かんだ。目の前にある女の子の丸い乳房より鮮烈に、政宗の白い肩や首筋が続く。
 あの躯に、いつか、自分以外の手が触れる――。
 そう思った刹那だった。痛みが胸を突き、それはそのまま下腹部に熱となって流れ込んだ。
 なんで、どうして……!
 混乱のまま、悠太郎は目の前の乳房にむしゃぶりついた。














                                               つづく




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