おまえは俺の犬だから <第二部 7(前)>

   








 悠太郎と政宗が通う私立高校では高一の終わりに大学受験のための進路選択を行う。生徒は国立理系、国立文系、私立理系、私立文系のいずれかを選択し、高二からはその選択に応じたクラス分けとなる。
 悠太郎はまさか自分が大学にまで進ませてもらえるとは思っていなかった。高校までと大学とではかかる費用がケタ違いだからだ。また、いくら政宗と同じ大学にと命じられても、今では悠太郎と政宗の得意科目にははっきりとちがいがあり、同じ学科に合格できる可能性は低かった。いくら息子大事の勇道でも、大学生の息子のボディガードにするために、「犬」に数百万もかかる裏口入学を準備したりはしないだろう。
 とりあえず、進路志望のクラスは政宗と同じにしておき、もし政宗が大学生になったら、自分は勇道から杯をもらって組員となり、金を貯めて母を救い出そう――悠太郎はそんなふうに考えていた。
「ぼく、弁護士になろ、思うねん」
 政宗がそう言い出したのは、志望選択の用紙を提出する前の晩の、夕食の席だった。
「弁護士ぃ?」
 勇道は少し驚いたようだった。政宗の後ろで悠太郎もまた、驚きを覚えながらその背中を見上げた。政宗が未来に向けての己の希望を口にするのを初めて聞いた。漠然と大学に進学するだろうとは思っていたが、弁護士とは。
 政宗は父に向かってうなずいた。
「おとうさんは怒らはるかもしれへんけど……城戸の輝良さん見ててもわかるように、これからの極道の金づくりは頭脳戦や思います。輝良さんの資金源は仕手株や。ヤクやチャカを扱わんでも、パソコンひとつでいくらでも金が作れる」
 息子の言葉に勇道はいまいましげに顔を歪めた。
「あんなんがヤクザもんの王道や思たら、大間違いやで」
「王道でなても、大金が作れるのはほんまやし」
 椅子の背ごしにいつも見ている政宗の細い肩が、初めて見るもののように悠太郎には思えた。
 誰もが恐れる勇道に向かい、ヤクザの金づくりについて持論を述べる政宗――なにに対しても無感動で、なにごとについても深く考えることなどないように見えた政宗が……。
 城戸輝良の影響か。
 不快な思いが湧き上がってくる。悠太郎はぎゅっと箸を握り締めた。
「補助金の不正受給やなんや、金づくりには法律の知識が必要です。法にはいくらでも抜け穴がある。ぼくはそれを勉強したい」
 勇道は眉根をぎゅっと寄せ、なにごとか考えるふうだった。
「……弁護士か……極道の息子が、弁護士か……」
 よっしゃ!と勇道は膝を叩いた。
「悪ぅない! 悪ないで! この勇道の息子が弁護士や! ええで! それはええで!」
 ほっと政宗の肩から力が抜ける。
「ありがとうございます」
「おう! ほなら頑張らなあかんで! 弁護士や! なあ、島崎、驚くやないか」
 その日は久々に竜田の屋敷を訪れていた島崎も、驚きさめやらぬ表情ながら、うなずいた。
「――ほんまに。ぼっちゃんがそこまで考えてはるとは……島崎も驚きました。悪ぅない、思います。これからのヤクザは知恵がないと稼げませんから」
「おおきに。島崎」
 政宗は島崎に礼を言うと、
「悠太郎はどないする」
 椅子越しに悠太郎を振り返った。
「え、お、俺ですか……?」
 まさか自分に話が振られるとは思わず、悠太郎は慌てた。茶碗と箸を盆に置く。
「お、俺は……」
「大学、行きたないか。おまえが行きたいんやったら、おまえの学費ぐらい、ぼくが稼ぐで?」
 なにを言い出すのか。
「お、俺に、弁護士なんて……ムリです」
「アホやな。おまえは理系やろ。そっちの大学、行ったらええねん。それにおまえ、こないだも剣道の大会でええとこまで行ったやろ。剣道で推薦とかあるかもしれへんで?」
「『犬』に大学行かすんか。推薦いうたかて金かかるやろ。学費作るて、どないするつもりや」
 勇道が割って入る。
 いつもは腹立たしいばかりの勇道の言葉だったが、今ばかりは悠太郎も勇道に同感だった。
「実地勉強ついでに、金融、かじってみよかと思てます。ゆうても小遣い銭程度ですけど、ちょっと動かしてみたいなて」
 また城戸輝良だ。悠太郎はムッときた。素人が金融に手を出していきなり儲かるわけがないのに。やはりあのパーティの時に、二人きりにするんじゃなかった。あの時、輝良はいったいなにを政宗に吹き込んだのか。
 弁護士だ、金融だと言い出す政宗は輝良に影響を受けているとしか思えない。
「金融か……。藤崎が少し、手駒動かしてやっとるみたいやな。城戸ほどにはならんけど、そこそこの金にはなっとるようや」
「はい。藤崎にも手ほどきをお願いしよか思てます」
 なにが藤崎だ。政宗のすました感じの後頭部を悠太郎は睨んだ。もしかしたら、政宗は『株を教えてほしい』とでも言って城戸輝良に連絡を取るつもりじゃないのか。
「で、悠太郎はどないや。大学、行きたいんか」
 話が再び自分に戻ってくる。島崎に尋ねられて、悠太郎は首を横に振った。
「中学、高校と私立の学校に行かせてもらって、『犬』の分際でもうそれだけで充分、お世話になったと思ってます。もう、これ以上は……」
「ほしたら、高校出たら、組はいってご恩返しか」
「……その、つもりです……」
 それ以外の道を希望したら、どんな制裁が待っているか。組に入らないと言ったら、それなら今までにかかった金を返せと言われ、堅気で働いてもその金を全部吸い上げられるだろうことは目に見えている。それなら……おとなしく組で働くと見せかけて、いつか、母親の居所を突き止めて、行方をくらましたほうが……。
「大学までご心配いただいて、ありがとうございました」
 おとなしく頭を下げながら、悠太郎は改めて心に決めていたのだった。




 食事の片付けはいつの間にか悠太郎の仕事のひとつになっていた。
 食器を台所に下げ、スポンジを泡だらけにしてシンクに突っ込む。がちゃがちゃと音立てながら皿を洗っているところへ、
「悠太郎」
 声がかけられた。振り向いて驚いた。台所に島崎が入ってくることなど、まずないのに。
「島崎さん」
「ちょっとええか」
 慌てて手を洗い、島崎へと向き直る。
「さっきの話やけど。おまえ、ほんまに大学行かんでええんか」
「島崎さんまで」
 悠太郎は笑ってみせた。
「俺は『犬』ですよ? お情けで政宗様に飼われてる身で大学なんて、おかしいです」
「――さっき、ぼっちゃんが言うてはったな。剣道の大会でええとこ行ったて」
「団体戦は高一は大将になれないんで、すぐに負けてしまったんですけど、個人戦で県大会の準決勝まで進めたんです」
「ほう、それはすごいな!」
 島崎の素直な賞賛の言葉に頬がゆるむ。
「おまえはなかなか頑張り屋やからなあ。空手のほうも、聞いたらえらい上達しとるんやて? この屋敷におるもんでおまえにかなうもんはないて、金岡が褒めとったわ」
 金岡とは悠太郎に空手の稽古をつけてくれている組員の一人だった。
「とんでもありません。まだまだ実戦では金岡さんにかないません」
 島崎が笑みをふくんだ目で見てくる。
「剣道に空手か……強ぉなったなあ、悠太郎」
「これもみんな、島崎さんのおかげです」
 きちんと背筋を伸ばし直して、悠太郎は島崎に向かって頭を下げた。
 組の若い衆と過ごしてみて、改めて島崎の人柄に悠太郎は魅力を感じるようになっていた。『もちろん、組長のために命はるねんで』、親しくなった組員はたいていそう言う。『けど、島崎さんや。あの人には情がある。恩がある。あの人がチャカ向けられるようなことがあったら、俺はいつでも盾になる』と。
「いやいや。これほどになるとは、俺も思てなかった。行き場のない、今度いつ捨てられるかわからん子犬みたいなおまえがかわいそうで、つい強なってみぃひんか、いうたけど……まさか、ここまで立派に成長するとはなあ」
 しみじみと言ってくれる島崎に、悠太郎は照れて頭をかいた。
「……けどなあ、悠太郎」
 島崎の声が沈んだ。
「おまえ、大学にも行かんと組に入るいうんは、かあちゃんのためやろ。けどなあ……」
「なんですか?」
 不吉な口調に胸がざわめく。
「もしかして……かあさんになにか……」
「いやいや、それは大丈夫や。おまえのかあちゃんは元気やで。……ただなあ……おまえはぼっちゃんの一番のお気に入りやろ。俺も今日は驚いたわ、ぼっちゃんがおまえを大学に行かしたろ思わはるほど、おまえに肩入れしてはるて」
「……それは……俺も驚きました」
 島崎の眉間にかすかに皺が寄る。
「ぼっちゃんなりにな……おまえに肩入れしてはんのはええんやけど……おまえがいずれは母親と暮らしたいいう気持ち、ぼっちゃんが理解してくれてはるかなあ、てな」
 自分が母親と暮らしたいと願っていることを政宗が察しているかどうか、さらに、その気持ちを理解してくれるかどうか……。
 『風呂に沈められることになった』、かつて、政宗はそんな冷たい一言で悠太郎の母親が苦界に身を置くことになったのを告げてきた。
 『殺されんだけ、マシやった思え』、そうも言われた。
 悠太郎の気持ちを踏みにじる言葉を平然と告げる政宗が、悠太郎は憎かった。まだ小学生だった。幼い感情のままに、それでも、悠太郎は政宗への恨みを覚えた。
 淡々とした政宗の声が思い出されると同時に、幼い頃の気持ちが胸によみがえってくる。
「政宗様は……」
 主語を口にしたが、あとが続かない。
 政宗はきっと、悠太郎が母親と暮らしたがるのを喜ばない。そしてまた、あの冷たい口調で言うだろう、「おまえはぼくの犬や」と。
 絶望的な気持ちがこみあげてきて、悠太郎は唇を噛んだ。
 やはり……金を貯めて、母親の居所を突き止め、姿をくらますしかない。
「……いや。いらんこと言うたな」
 顔を上げると島崎が苦笑を浮かべていた。
「ぼっちゃんの気持ちもわからんことはないけど……なんや、おまえが不憫でな。つい、いらん心配を口にした」
「いえ……」
 いらん心配とは、悠太郎には思えなかった。政宗が母との再会を喜ばないだろうとは、容易に想像がつくからだ。
「おまえも苦労人やな、悠太郎」
 ぽんと肩を叩かれる。
「けど、短気は損気や。気長にやれや」
「はい。ありがとうございます」
 台所を出て行く島崎を見送り、『短気は損気』と胸の中で繰り返す。しかし、そうだろうか? 小学四年生でこの家に来て、以来六年、犬、犬と蔑まれながら頭を踏まれ、床に這わされ、母親を風俗に売られ、耐えてきた。これ以上我慢を続けて、それで本当に花咲く時が来るのか?
 再び皿洗いに戻りながら、悠太郎の気持ちは乱れていた。




 そんな、悠太郎の気持ちの揺れが見えたかのように――。
 それから数日のことだった。
 部屋住みの若い組員が、
「悠太郎、ちょっと」
 と、廊下の隅へと悠太郎を手招いた。なんだろうと思いながら薄暗い階段脇に立つと、
「これな」
 手の中にふたつに折られた封筒を捻じ込まれた。
「さっき、兄貴の使いでコンビニ行ったらな、家の前でけばいオバサンに渡されてん」
 ひそひそと囁かれる。不審に思いながら封筒を開こうとすると、慌てて止められた。
「あかんあかん。さっさと隠せ! 誰にもバレんようにこっそり渡してくれて頼まれてん。おまえにも人に見つからんところで読むようにて」
 胸の鼓動が早くなる。もしかしたら、もしかしたら……?
「ええな、渡したで。もう、俺はこのこと、忘れたからな」
 組員はきょろきょろと周りをうかがうと廊下へと出て行った。
 悠太郎も渡された封筒をジーンズのポケットに忍ばせ、なにくわぬ顔でトイレへと向かう。私室のない悠太郎にはトイレの個室しかプライベートを守れる空間はない。
 二つ折りにされた封筒を開くと、表書きに、「悠太郎へ」とある。それは見覚えのある母の字だった。
 はやる心で封を切る。切り口がびりびりになったがかまわなかった。
 便箋には懐かしい母の字が並んでいた。
「悠太郎」
 書き出しの名前だけで胸が熱くなる。
「元気にしていますか。おかあさんは今、東京にいます」
 母が自分の居場所をはっきりと教えてくれたのは初めてだ。悠太郎は食い入るように手紙の字を追った。
「悠太郎に今まで隠していてごめんね。おかあさんはずっと大阪のお店にいました。会いに行こうと思ったら会いに行ける距離だったのに、今まで悠太郎に寂しい思いをさせてしまいましたね。組の人におまえと連絡を取るなと言われて、それに、ほんとうなら殺されてもしかたのないところを助けてもらって、わがままを言ってはいけないと思っていました」
 そうだ。だから今まで二度、組員立会いのもとで会わせてもらった時にも、母は決して自分の居場所を明かそうとはしてくれなかった。
「でも、ある人が、それではいけないとおかあさんに教えてくれました。その人は、おかあさんのことをほんとうに大事に思ってくれて、組への恩返しはこの四年で充分だ、これからはおかあさんと悠太郎の幸せを第一に考えるべきだと言ってくれました。
 悠太郎。悠太郎ももう大きいのでわかると思いますが、その人はおかあさんと暮らそうと言ってくれました。お店に話をつけて、お店を辞める段取りもつけてくれました」
 ここまで読んで、悠太郎は母が騙されているのではないかと不安になった。風俗で働く女性に甘い言葉で近づき、助けてやるような顔をしながら、結局、ヒルのようにその女性から金を吸い取る腐った男は山のようにいるからだ。しかし。
「それだけではありません。その人は悠太郎と暮らせるようにと、ぽんと百万も出してくれました」
 続く文面に、悠太郎は信じられぬ思いながら、ほっと息をついた。女から吸い上げようという男は言を左右にして自分の金は出さないからだ。男の素性はわからないが、悪い人間ではないかもしれない。
「そのお金で、おかあさんは東京に出てきました。百万のお金の中から二十万使って、アパートを借りました。あとの八十万は大事に取ってあります。これは減らさないように、これからまた、おかあさんはがんばって働きます。
 だから、悠太郎、東京に来ませんか。その人が言っていましたが、清竜会も仁和組も東京には地盤がないので、東京なら安全だそうです。
 おかあさんは今でも悠太郎が首輪をつけ、犬として暮らしているのかと思うと、涙が出てきます。
 悠太郎、東京にいらっしゃい。おかあさんと暮らしましょう」
 そして文末には連絡先として母の携帯電話の番号が書かれていた。
 悠太郎は二度、三度と手紙を読み直した。そんなうまい話が、と思うと同時、突然開けた展望に、胸が躍る。母と暮らせるかもしれないと思うと、一も二もなく東京へと駆け出したくなる。
 まずは……この番号に電話してみよう。母が騙されている可能性だって捨てきれないんだし。
 昂ぶる気持ちを押さえようと、悠太郎は深呼吸した。















                                               つづく




Next
Novels Top
Home