おまえは俺の犬だから <第二部 7(後)>

   








  悠太郎は携帯電話を持っていない。いまどき携帯を持たない高校生なんているのかと友人に笑われるが、持てないものはしょうがない。契約してくれる親もいないし、料金を払うお金もないと答えると、みな一様に、悪いことを言ったというように気まずい顔になる。
 いつも悠太郎の連絡先は竜田の家の電話か、政宗の携帯だった。
 母親に連絡するにはどちらもまずい。
 公衆電話から悠太郎は手紙に書かれていた番号にかけてみた。
 母親が出た。
 母の声は明るく、元気そうで、声を聞いただけで悠太郎もうれしくなった。
 心配で金のことをいろいろ聞いたが、男は東京での生活のためにと本当に母に百万を現金で渡し、その際に借用書や契約書の類は一切、求めなかったという。男は半年ばかり前から店にくるようになった客で、それからすぐ、母と恋仲になり、結婚を前提に店から抜けてほしいと頼まれたのだと母はうれしそうに教えてくれた。
 その男もヤクザではないのかと悠太郎はさらに心配になったが、男は不動産取引を生業にしていて、そのスジの人間とも渡り合うことが多くヤクザに知り合いもあるが、本人は堅気だそうだった。最近は関西での仕事が多くなっているがもともとは関東の人間で、関西での仕事が片付いたら、東京で母と暮らすことになっているのだという。
「……そんなで……俺が行ったら、邪魔じゃ……」
 悠太郎が口ごもると、
「なに言ってるの!」
 母は本気で怒ったようだった。
「あんたのことは最初からちゃあんと話してあるんだから! 関口さんもあんたのことを心配して早く呼んでやれって言ってくれてるんだから!」
 出来すぎなほど、悠太郎母子にとってはいい話ばかりだった。
「ただね……」
 母の声が沈んだ。
「あんた、今、私立の高校に通ってるでしょう。関口さんもあんたをこっちでも高校に通わせてやりたいって言ってくれてるんだけど……かあさん、そこまで甘えてもいいものかって、ねえ……」
「いいよ、そんなの」
 反射的に悠太郎は答えていた。
「高校なんて。そっちで俺も働いて、それで落ち着いたら定時制とか……いくらでも方法はあるよ」
「悪いねえ」
「ホントにいいって。俺だってかあさんと暮らせるのが一番なんだから」
 そう言うと、母は涙声になった。
 そうだ。母と暮らせるのが一番だ。




 ――そう、それが一番……。
 東京への片道の電車賃ぐらいなら、今までのバイト代でなんとかなる。
 今まで学校の行き帰りもいつも一緒だった政宗は今では週に一度はモモをドッグスクールに連れて行くために、先に車で帰る。そのチャンスにバスに飛び乗れば……今までの生活にサヨウナラだ。土曜日なら部活があると言えば政宗はついてこない、日曜日なら誰かに買い物を頼まれたとでも言えばいい、そのままバスに飛び乗れば……。
 我慢に我慢を重ねてきた生活だった。
 政宗は傲慢で冷たい「飼い主」だったし、チンピラの人権など無視されて当然のヤクザの家で最下層の扱いを受けてきた。
 そんなもろもろとサヨウナラするチャンス。
 ……なのに。
 悠太郎は東京行きを一日延ばしに延ばしていた。
 悠太郎の上京を待ちわびる母には、『なかなか一人で行動する機会がない』と嘘までついて、悠太郎はぐずぐずしていた。
 母親が待っていてくれる。竜田の家を飛び出したからといって、今までのように路頭に迷う心配もなく、当座の生活費もある。母はすでに近くの飲食店で洗い場の仕事を見つけたというし、二人で働けば食うに困ることもないだろう。
 もし追っ手がかかったとしても……拳銃を持ち出されれば仕方ないが、素手かナイフ相手なら、負ける気がしなかった。
 が、追っ手が怖くて、出発をためらっているわけではなかった。
 すぐそこの自由が見えているのに、ためらう理由は……。
 政宗。
 今日こそはと、バス停へと足を向けようとすると、必ず白い顔が浮かぶ。
 いつもの、なにかに倦んだような、つまらなさそうな、無感動な表情。ほんの数回見ただけの笑顔。無防備にさらされる白いうなじや肩先。そして……優しいラインの唇、ほっそりした鼻、意外と長い睫毛、そんなものまで眼先にちらつきだすと、足は自然に止まってしまう。
 憎い相手だ。
 確かに、政宗の気まぐれのおかげで、自分たち親子は命を救われたようなものだけれど……その後の犬扱いは子供だった自分の心をズタズタにした。
 憎しみが過ぎて、執着になってしまっているのかもしれない。だから、足が止まってしまうのだ。
 悠太郎はふんぎりがつかない理由を、そう考えるしかなかった。




 そんなふうに悠太郎の中ではじりじりと日が過ぎるうち、暦は春休みへとうつる。
 もう四月に入った、その日――モモのシャンプーとカットがあるからと、政宗は朝から出かけていた。悠太郎の休日は政宗がらみの仕事がない限り、組員たちのパシリにされて終わる。その日も悠太郎は組員の一人からスポーツ用品専門店に注文してあるゴルフの手袋を取りに行くよう、言いつけられていた。
 悠太郎の「足」は自分の足か、組共有の中古の自転車のどちらかだ。スポーツ用品専門店には幹線道路をかなり走らなければならないので、悠太郎は自転車を借りることにした。
 手袋を受け取った帰り道、幹線道路を走っている時、政宗とモモが通うドッグスクールの看板が眼に入った。看板から二キロ先を右折とある。ふと、のぞいてみようかという気になった。
 政宗はモモの世話だけは悠太郎まかせにせず、自分でやっている。ほかの犬やスタッフもいるなかで、政宗がどんな飼い主顔をしているのか、見てみるのもいいかもしれないと思った。
 金持ち相手の商売らしいドッグスクールは洒落たログハウス風の建物だった。建物を囲むように広くスペースをとってある駐車場にはずらりと外車が並んでいる。
 建物の陰に、邪魔にならないように自転車を停めた。
 正面の入り口はすぐにわかったが、そこから堂々と入るのもためらわれて、悠太郎は建物に沿って歩いてみた。裏手へと回ると、建物に囲まれるような形で中庭が設けられていた。中庭にはぐるりと柵が設けられ、芝生が敷き詰められたその中をうれしげに犬たちが走り回っている。
 その中でひときわ大きく、黒々とした毛並みで人目を惹いているのがモモだった。
 モモがいるなら政宗も近くにいるはずだ。
 見回すと、ドッグランのスペースの傍らにオーナーたちのためにパラソルと椅子が用意されている。そのひとつに、政宗がいた。――誰かと並んで座っている。
 丸いサングラス、キッチュなニット帽。ラッパーのようなファッション。
 最初、誰だかわからなかった。
 が……整った鼻筋、どこか人を小馬鹿にしたような口元の笑い、細い顎に見覚えがあった。
 男はゆったりと足を組んでいる。――長い脚、ホストのような美貌……。
「城戸輝良」
 声を出さずに悠太郎は呟いた。
 二人はなにごとか、言葉を交わしている。
 なにを話しているのかは聞こえない。聞こえなかったが、そんなことはどうでもよかった。
 二人は会っている。それだけわかれば充分だった。




 ――夜。深夜。
 悠太郎は用意しておいたスポーツバッグを持ち、そっと雑魚寝の大部屋を抜け出した。
 屋敷を出るつもりだった。
 だが、その前に……。




 台所で、昼の間に「武器庫」と呼ばれるクローゼットからくすねておいたものをスポーツバッグから取り出し、ジャージのポケットに入れた。台所にかかっていたタオルも手に取る。準備をすませ、わずかばかりの私物を詰め込んだバッグを勝手口近くに隠し、足音を忍ばせて屋敷の奥へと戻った。夜の遅いヤクザ者たちがそれでも深い眠りにつくだろう丑三つ時を狙ったために、屋敷の中はさすがに深閑としている。
 ひそやかに足を運び、政宗の部屋のドアノブに手をかける。
 さすがに犬の耳はごまかしきれないらしく、それだけでモモが低く警告めいた唸り声を上げだした。
「モモ」
 小声で呼び、それからノブを回すと、もうモモは吠えなかった。ぎりぎりに開いたドアの隙間から部屋の中へと身体を滑り込ませると、モモはドアの脇に置いてあるゲージの中で千切れんばかりに尻尾を振った。悠太郎が政宗に入室禁止を言い渡されてからもう半年近くになるが、モモの中では悠太郎は変わらずこの部屋の「家族」であるらしかった。
「シー」
 モモに向かって口の前に人差し指を立てる。
「静かにしててくれ」
 ささやくと、賢い犬は鼻を鳴らすこともなく、伏せの姿勢になった。
 ベッドとは反対側の部屋の隅にあるダウンライトが一箇所だけ点灯している。ぼんやりとした明かりだったが、部屋の勝手を知っている悠太郎には充分だった。
 ベッドに歩み寄る。カーペットの床は悠太郎の足音を消してくれた。
 のぞきこむと暗い灯りのなかに、輪郭だけがぼんやり浮かび上がる。仰向いて静かに眠る政宗は、わずかに上下する胸の動きがなければ死んでいるように見えた。
 封印していた記憶を甦らせる。……一度、その唇に唇を押し当てたことがある。高熱で眠っていた政宗の唇は熱かったが、柔らかだった。
 顔を近づける。薄闇の中の唇を見つめた。
 ――触れたい。
 胸の奥深くに記憶を潜めていたのは、思い出せば繰り返したくなるからだと、わかっていた気がする。
 悠太郎は枕の両側に手をつくと、政宗の唇にそっと自分のそれを重ねた。




「……ん……」
 政宗の目が開きかける。
 悠太郎は素早く身体を起こすと、ジャージの脇ポケットに忍ばせていたものを布団から出ていた政宗の右手首にかけた。がしゃりという金属音と手首の衝撃に政宗がはっと目を覚ます。
 左手にも同じように金属の輪をかける。
「なん……!」
 両手に手錠を掛けられた政宗がなにか言おうとしたその口に、用意しておいたタオルを突っ込んだ。




 手錠についた鎖をベッドボードの突起部分に巻きつけた。
「政宗様……」
 ゆっくりと上掛けをはぐり、細い躯の上に馬乗りになる。
 万歳の格好で手の自由を奪われ、口にタオルを突っ込まれた政宗が目を見開いて見つめてくるのに、倒錯的な喜びが沸いてくる。
「どうですか。犬、犬とバカにした相手に馬乗りになられてる気分は?」
 手錠を掛けられた手を振り回すとか、タオルを食まされていても威嚇的な唸り声を上げるとか、足をバタつかせるとか、抵抗の仕方はあると思うが、政宗はただ目を見開いて悠太郎を見上げるばかりだ。
 それほど「犬」が反抗したのが意外かと、笑いが込み上げてくる。
「政宗様、俺が歯向かうなんて考えたこともなかったでしょう? あんたはいつもえらそうだった。一番初め、あんた、俺の頭を踏みましたよね? お手やおかわりがうまくできないって、俺のこと叩きましたよね? 首輪つけたり、俺だけ食事が床の上だったり……暗くなるまでボール拾いさせられたこともありましたっけ。あんたは飼い主様で俺は犬。けど、ホントは俺たちは同い年の人間だ。本気で人を犬扱いする気かよ、こいつ、おかしいんじゃないかって、俺、思ってましたよ」
 政宗の胸が大きく上下した。深呼吸したらしい。その瞳が落ち着いた色を取り戻すのを見て、かっと怒りが込み上げた。
「そんなふうに!」
 政宗の頭すれすれに、枕に拳をめり込ませた。
「わかったような顔すんな!! 犬が逆ギレしてる、そんな程度に思ってんだろ! おまえに俺の気持ちがわかるか!」
 反対側の枕にも拳を打ち込む。
 腕の間に政宗の頭を挟みこみ、真上から顔を近づける。
「ずっとずっと、俺はみじめだったよ! 人間なのに、なんで犬なんだよ! なんで俺がおまえに逆らわないのが当たり前みたいに扱われんだよ!」
 わかるか、と悠太郎は白い顔に吐き捨てた。
「俺がどんだけくやしかったか! どんだけ情けなかったか!」
 ずっとずっと、胸に秘めていた口惜しさを口にするうち、感情が昂ぶってくる。悠太郎は抵抗しないままの政宗の顔を両手で挟み込んだ。
 このまま両側から押し潰してやりたい――。
「おまえなんか、おまえなんか……!」
 ぎりぎりと両側から政宗のこめかみに圧力をかける。政宗の眉間が苦しげに寄り、タオルの間から呻くような声が聞こえた。ざまあみろ。もっと苦しめばいい、泣けばいい。
 胸がすくような思い。
 同時に。
 ――ちがう、そうじゃない!
 激しくこみあげてくるものがあった。こんな顔が見たいんじゃない、泣いてほしいんじゃない!
「……おまえに……わかるか!」
 どこまでも、それこそ政宗の頭を潰してしまうまで力を加え続けたい自分がいる。けれど、そうじゃない自分もいる。悠太郎は政宗の頭を挟みつける己の手を拳に握りこんだ。 政宗の顔のすぐ脇で、相反する思いに、握った手が細かく震える。
「……わかるか! 腹が立って、くやしくて……だけど、俺はおまえと遊びたかった! ゲームしてて、楽しかった! もっともっと、遊びたかった! なんで、おまえ、あんなつまんなそうな顔、したんだよ! なんで、俺と遊ぶのが飼い主の義務みたいに言ったんだよ!」
 政宗の瞳が再び見開かれる。意外な言葉を聞いた人のように。
「なんで、おまえ、笑わないんだよ! 俺といても、楽しそうじゃないんだよ! 俺は、俺は……!」
 感情が激してきて、言葉が続かない。こんなことを言いたかったんじゃない。
 出発前に、積年の恨みを晴らしてやろうと思った。自分にはこれまでさんざんに屈辱を味わわせておきながら、城戸輝良とよろしくやっている政宗に思い知らせてやる、そのつもりだっただけだった。なのに……なんだ、これは。胸の奥がどろどろして、いろんなものが混ざりすぎて、なにがなんだか、わからない。
 悠太郎は政宗の顔の脇に顔を伏せた。全身が細かく震えてしまう。
 その、悠太郎の頬に。なにか優しいものがそっと触れた。




 それは政宗の頬だった。
 政宗がそっと頬を寄せてきたのだった。
 柔らかで、優しいタッチ。
 それを心地よいと感じた瞬間、しかし、悠太郎の胸にはそれまでのどろどろを凌駕するほどの勢いで真っ黒いものが噴き出した。




「……んだよ!」
 細い肩を力いっぱい握りこんだ。
「なんのマネだよ、これは!」
 政宗の瞳がなにかを訴えたそうに揺れる。それさえ、さらなる怒りを呼んだ。
「城戸輝良? あいつに教えられたの? 男はこうすると喜ぶって」
 こんな声が自分に出せるとは知らなかった。低く、獰猛で、粘ついて……嫉妬にまみれて、醜い声。
「今日も会ってたよな。なに、あいつとつきあってんの?」
 政宗の頭が小刻みに左右に振られる。それまで痛みを訴えるだけだった喉が、なにごとかを伝えようと言葉のリズムで音を出す。
 その政宗の鼻先に、悠太郎は自分の鼻先を近づけた。
「……もう、あいつとキスした?」
「んー、ん、ん、ん!」
 政宗の顔が、薄暗闇でもわかるほどに紅潮した。激しく首を振る。
「でも、残念だね。政宗様、ファーストキスは俺が相手だよ」
 政宗の動きが止まった。
「小学六年生の時。俺、あんたにキスした」
「んん?」
 タオルで封じられていてもわかる。今のは「ホンマ?」だ。笑えてくる。
「ホントだよ。あんたが熱出して寝込んでた時。二度目も俺だよ。たった今。どう? 気持ち悪い? くやしい? 犬なんかにキスされて」
 ショックを受けているのか、凍りついたように動かない政宗に向かって、嘲笑を浴びせる。
「かわいそうにね。犬、犬ってずっとバカにしてきた相手にファーストキス奪われたってわかって、どんな気分? ああ、今はしゃべれないんだよね」
 政宗の両頬を手で挟む。とまどっているような瞳をのぞきこんだ。
「ねえ、本当に誰ともエッチしたこと、ない?」
 静かに、深く政宗がうなずく。
「……そう」
 それでもどこか信じきれないまま、悠太郎は手を政宗の首元へと滑らせた。パジャマのボタンを上から外す。
「じゃあ、政宗様。あんたの初めてのエッチの相手も……俺になるんだ!」
 残りのボタンが弾ける勢いでパジャマを両側に思い切り開いた。





                                               つづく






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