おまえは俺の犬だから <3>

   

 

 





 こうして岡田悠太郎は清竜会組長の一人息子・竜田政宗の『犬』として、ヤクザの組長の家で暮らすことになった。
 が、もちろん、『犬』としての暮らしがどういうものなのか、いったい『犬』というのはどういうことなのか、当初、悠太郎にはわかっていなかった。ただわかっていたのは、政宗の気まぐれのおかげで自分たち親子三人が救われたこと、自分は政宗の言うことを聞かねばならないことだけだった。
 反対に政宗のほうは、自分が『飼い主』であることになんの疑問もなく、自分がなにをせねばならないか、しっかりと把握しているようだった。
「島崎」
 政宗の父親である清竜会組長が部屋を出るとすぐ、政宗は黒服の男の一人に呼びかけた。
「首輪、買うてきてくれるか?」
 ぎょっとして悠太郎は政宗を見上げた。首輪? 本気か?
 悠太郎を見下ろす政宗の眼は冷たく凍っている。
「せやな……赤がええわ。こいつによう似合うやろ」
「……わかりました」
 島崎と呼ばれた男が静かに頭を下げる。
「おまえ、」
 まだきちんと正座したままの悠太郎の前に、政宗は膝をついた。
「名前は?」
「……岡田悠太郎」
「悠太郎。お手」
 お手?
 悠太郎は自分の眼の前に差し出された政宗の掌を見つめた。――まさか、本気で人間を犬扱いするのか?
「お手や。……お手もできひんのか」
 ぱしりと悠太郎の頬が鳴った。政宗にぶたれたのだと理解するより、痛みのほうが早かった。
「お手!」
 厳しい声に、今度は悠太郎は反射的に自分の手を政宗の手に乗せていた。叩かれたくなかった。
「おかわり!」
 考えるより早く、手を代える。
「伏せ!」
 今度は反応が遅れた。
「伏せや!」
 高くなる声に、悠太郎は慌てて両腕の肘から先を床につき、『伏せ』のポーズを取った。
「ようし。……ええ子や」
 伏せた頭を二、三回撫でられる。
「ええ子や」
 政宗はもう一度、繰り返した。人形めいた顔が床に近い悠太郎の顔に近づけられてくる。
「ぼくの言うこと、よう聞くんやで。聞かん時はお仕置きや。ええな?」
 髪だけではない、瞳の色も薄い政宗の眼は褐色に光って見えた。
 自分と年も変わらぬ子供を犬扱いしてなんの疑問も呵責もない政宗の眼を、悠太郎は声もなく見つめ返した。
 本気で俺を犬にする気か? おまえ、頭、おかしいんじゃないのか?
 言いたいことはあったが、口にしてはいけないとわきまえる分別はあった。
「ええな?」
 念押しに、悠太郎は黙ってうなずいた。
 すぐにまた、ぱしりと頬が鳴った。今度はさっきほど痛くない。
「返事は『はい』や」
「……はい」
 口をきいても許されることにほっとしながら、悠太郎は答えた。




 悠太郎の首には赤い合皮製の首輪が付けられることになった。金色に金具が光る首輪を政宗は悠太郎の前でぶらぶらと振って見せた。
「これがおまえの首輪や。自分で取ったらアカンのやで」
 黙ってうなずきかけて、慌てて「はい」と答える。
 政宗はにこりともせず、しかし、どこか嬉しそうにお座りさせた悠太郎の首に首輪を付けた。
 自分の中のなにかが踏みにじられているのを感じながら、しかし、悠太郎に拒否権はなかった。
 首輪を付けたまま、親子三人に与えられた納戸のような部屋に帰ると、母は一瞬顔を歪め、つらそうに視線を外した。が、父親は逆にほっとしたような顔を見せた。
「ぼっちゃんは本当におまえのことが気に入ってるんだな。一時はどうなることかと思ったが……いやあ、悠太郎のおかげだ。助かった助かった」
 もともとロクでもない父親だとはわかっていたが、息子が首輪を付けられたことさえ、自分の身の安全に置き換えて喜ぶ姿は悠太郎を嫌な気分にさせた。
 政宗は悠太郎の年を聞くと、こともなげに「同い年やな。おまえの転校手続きが済んだら、同じクラスになるかもしれんな」と返した。
 信じられなかった。
 もしかしたら同級生になるかもしれない相手に首輪を付け、犬扱いするなんて……。
 しかし、その政宗の非道さこそが、自分たち親子を救ってくれたのも事実だった。
 親子三人には屋敷の隅の納戸が与えられた。埃と物が溢れ、高いところに明り取りの小さな窓があるだけのひどい部屋だったが、雨風がしのげる壁と屋根があるだけでありがたく、なにより命を取られずに済んだだけでもとんでもない幸運にちがいなかった。
 母は下積みの若手が分担していた下働きの仕事を手伝わされ、父は運転手として使われることになった。
 それがすべて、自分が政宗の『犬』として飼われることになったからだと思えば、痛いような感覚とともに「仕方ない」という思いが湧いた。
 政宗の……『飼い主』の言うことを聞かなければならない。それがどんなにみっともない、みじめなことでも。
 今までの短い人生も決して恵まれたものではなかったが、悠太郎は胸の底がシンと冷えるような感覚とともに『あきらめ』を学んだのだった。




 『犬』としておぼえなければならないことはたくさんあった。
 まず、朝起きたら一番に政宗の部屋に挨拶に行かねばならない。
 食事はダイニングで、政宗、政宗の両親、そして住み込んでいる組員の中でも主だった幹事クラスの人間たちがテーブルを囲む。その同じダイニングで、悠太郎は政宗の後ろで床に正座して食事をとる。その時、「よし」と政宗に言われるまで決して箸を取ってはならない。
 朝食後は政宗の登校の支度を手伝う。転校手続きの済んだ悠太郎は政宗の通う市立小学校に一緒に通うことになったから、政宗を手伝うためには自身の支度を前もって、素早く済ませておく必要があった。
 ランドセルを背負うと、玄関で政宗が首輪を外す。
 この首輪の扱いは絶対で、外すのもはめるのも必ず政宗がせねばならない。悠太郎は外れた首輪に手で触れてはならず、入浴後にはめてもらう時には、口で咥えて政宗の部屋まで持って行かねばならなかった。
 首輪を外してもらえるのは登校中と入浴時だけ。夜、パジャマ姿の時にも、首輪は重たく悠太郎の首にまとわりついていた。
 どれほど「仕方がない」と思おうとしても、時にみじめさと情けなさに胸が食い破られそうに感じることがあった。
 椅子に座る人々の足を見ながら、冷たい床に座って食べている時。
 自分の汗と皮革の匂いが混ざり合った首輪を、前歯で噛んで政宗の部屋へと持って行く時。
 政宗の気まぐれで、所かまわず「お座り」「お手」を強要されたり、時には一時間ずっと伏せの姿勢でテレビを一緒に見せられたりした時。
 「もうイヤだ!」と叫びたくなったことは数え切れない。
 それでも……。
 「イヤだ」と叫んだ瞬間に、自分たち親子は終わりだと、悠太郎にはわかっていた。
 夜、パジャマに首輪の姿で与えられた部屋へと戻る。
 高いびきをかいている父親の横で、母はそっと悠太郎を抱き締めてくれる。
「よくがんばったね。今日もよくがんばったね」
 背中をさする手に、精一杯のいたわりがある。息子を救えない親の情けなさ、切なさがわかるだけに、悠太郎は笑顔を見せるしかなかった。
「大丈夫だよ」と。
 母に慰められるそのひとときに、悠太郎は明日も頑張ろうと思えるのだった。
 明日も、『犬』をがんばろうと……。




 そんなふうに、みじめさと卑屈さを学ぶばかりに見えた竜田の家での生活だったが……。
 一ヶ月、二ヶ月と日が過ぎていくうちに、『あれ?』と思うような出来事がなくもなかった。
 悠太郎の中で一番記憶に残っているのが、学校でのことだった。
 家では首輪を付けられ、自分から政宗に呼びかける時は必ず様付けで、『政宗様』と呼ばねばならなかったが、反対に学校では決して様を付けてはならず、『竜田君』と呼ぶこと、場合によっては呼び捨ててもかまわないこと、また敬語を使ってはならないことを厳命された。
「ええか、絶対やぞ? ほかのクラスの子にするんと同じようにせな、あかんのやぞ?」
 いつもあまり感情の見えない飼い主が、珍しく必死な様子で命じてくるのが悠太郎には最初、不思議だった。
 が……学校に通い出し、政宗の隣のクラスに在席することになって、悠太郎は政宗を取り巻く特別な空気があるのを知った。
「なあなあ。この学校に怖いのおんねんで。知っとるか?」
 転校生が物珍しいのか、寄ってくる同級生の中の一人がそう言って耳打ちしてきたのだ。
「怖いの?」
「せや。隣のクラスに竜田っておんねん。あいつのとうちゃんな……」
 そこでその同級生はさらに声をひそめて悠太郎の耳に口を寄せてきた。
「ヤクザの組長なんやで」
 なんと返していいのかわからず見返す悠太郎に、その同級生は重々しくうなずいて見せた。
「ごっつう怖いねん。竜田を怒らせたら、指、切られてまうねんで」
「…………」
 そうだろうか? 政宗の父親なら、わかる。朝と夕の食卓に、政宗の父・竜田勇道の姿があるかないかで、ダイニングの空気はまるでちがう。寝食を共にしている組の幹部や幹部候補ですら勇道の顔色に緊張し、言動に気をつけているのが、床に座っている悠太郎にまでびんびんと伝わってくる。しかし、政宗は……悠太郎に首輪を付けさせたり、床で食事をさせたり、ひどいと言えばひどかったが、怒りのあまりに他人を傷つけるようなマネをするようには見えない。それほどに怒る政宗というのを悠太郎は想像できなかった。怒りだけではない、大泣きする政宗も、大笑いする政宗も、悠太郎には想像できない。
 しかし、浮かんだ疑問を悠太郎は口にしなかった。
 悠太郎は悠太郎で、新しいクラスの中での自分の立場を確保しなければならなかったからだ。
「なあ、おまえ、どこに住んどんの?」
 転入生に当然、浴びせられる質問に悠太郎もさらされた。
 適当に答えてごまかそうにも、小学校の校区などさほど広くない。生まれ育った町に詳しい少年たちを相手に、ウソをつくにも限界があった。
「……おれは、竜田君の家に、住まわせてもらってる」
「え!」
「竜田の家!?」
「ほなら、おまえの親もヤクザなんか!」
 見えない透明な壁が自分の周りに立ちかけたのを、悠太郎は敏感に感じ取った。
「ち、ちがう! とうちゃんとかあちゃんが……竜田君の家で働くことになって……それで……」
 ほおっと周りの空気がゆるんだ。
「じゃあ、おまえのウチはヤクザとちゃうんやな?」
「そうだよ、働いてるだけだよ」
「おまえんとこも大変なんやなあ。なあなあ、竜田のとうちゃんって、やっぱコワい?」
 自分は政宗とはちがう、そう印象付けるのは、悠太郎にとって大事なことだった。
 廊下ですれちがう政宗は、家では見せたことのないような笑顔を貼り付けて、自分から級友たちに話しかけている。
 それでも、その政宗の周りには、見えない壁がぐるりと張り巡らされているのだ。
「あいつには気ぃつけなあかんで」
 耳元で親しくなったばかりの同級生が囁く。
 なんとはなし、申し訳なさのようなものを感じながら、悠太郎はその言葉に神妙にうなずいてみせた。
 ちらりと胸に沸いた感情は、『かわいそうに』という思いだったかもしれない。
 だが、ほんのかすかなその同情は、帰宅してすぐ玄関先ではめられた首輪に、たちまちきれいに消え失せたのだった。












                                               つづく




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