おまえは俺の犬だから <6>

   

 

 





 そっと当てた悠太郎の唇を押し返してきた弾力のある柔らかさ。
 悠太郎の「暴挙」など知らず、眠り続けている政宗の顔を悠太郎は戸惑いながら見つめた。
 同じ男子相手になにをしたんだというあせりより、もっともっと、その柔らかさに触れてみたい欲望が湧いてくることに、悠太郎は戸惑う。
 いつもは額に垂れているクセのない黒髪が、今は左右に流れて白い額があらわになっている。目尻が切れ上がっているために、その眼差しが冷たくきついものに見える瞳は閉じられたまま、長い睫毛が青い影を落とす。
 常より女めいて見える政宗の寝顔。その寝顔にもう一度、ふっと引き寄せられるように顔を寄せかけ、悠太郎は慌てて躯を起こした。
「ちがうちがう……」
 誰にともなく呟いて、悠太郎は部屋を飛び出した。
 まだ性の目覚めを知らぬ小学六年生の秋。悠太郎はそのことを、大人風に言えば「魔がさしただけ」、悠太郎の言葉では「ちょっとイタズラしたくなっただけ」と片付けて、記憶の片隅に押し込めた。




 政宗は三日三晩眠り続け、四日目にようやく目覚めた。
「政宗様! 起きたんですか!」
 ぽっかりと目を開き、天井を見つめている政宗に、悠太郎は思わず安堵の叫びを上げ、駆け寄った。
「政宗様、三日もずっと眠ってて、もうどうしようかと思いました!」
「…………」
 政宗は無言のまま、ただ悠太郎へと視線を向けた。感情のない、黒い洞窟のような瞳で。
「……政宗様? あの……聞こえますか?」
 瞬間に悠太郎の脳裏をよぎったのは、高熱のあと聴覚と視覚の機能を失ったというヘレン・ケラーの逸話だった。寒気がぞっと背筋を走る。
 だが、
「……聞こえとる」
 政宗はそう呟いた。ほっとしながら、悠太郎はベッドの上へとかがみこんだ。
「政宗様、三日も起きなかったんですよ。おなかすいてませんか?」
「すいとらん」
「でもなにか食べないと……そうだ。かあさんにおかゆ作ってもらってきます」
 頼む、とも、いらない、とも政宗は言わない。それを了解の印ととって悠太郎は立ち上がった。部屋を出るところでふと振り返ると、政宗は黒い瞳をなにもない天井の一隅へと向けていた。
『熱が下がったばかりのせいで、まだぼうっとしているんだろうか』、悠太郎がそう考えてしまったほど、その視線はとらえどころがない。
 なんとはない胸騒ぎを覚えながら、悠太郎は部屋を後にした。
 悠太郎の嫌な予感は当たっていた。
 その日以来――たださえ感情の読み取りにくかった政宗の顔はさらに表情をなくし、悠太郎がちょっと生意気な口をきいても、以前のように軽口を返してくることもなくなったのだ。無理に抑えているとも見えない。もともと子供っぽいところの少なかった政宗は、発熱以来、なにかに興味を持ったり、おもしろがったり、腹を立てたり、悲しがったり……そういった感情の動きをすべて忘れてしまったようにさえ見えた。
 悠太郎とゲームをしている時でもそうだ。
 格闘技系のゲームをしているのに、「やった!」「やられた!」と興奮する様子もない。コントローラーを手にしていながら、その目は画面の向こう側に向けられているようにさえ見える。
 ゲームをしながら、悠太郎はそっと政宗の横顔を盗み見る。
 まったく面白がっている様子のない、その横顔。
 ――当初、変わってしまった政宗の様子に、悠太郎はアレがばれているのかと不安になった。眠っている政宗にしてしまったキス。実は気づいていた政宗が自分に怒っているのではないかと、悠太郎はひやひやしたのだ。
 が……最初の数日こそ、いつ政宗があのことを持ち出して怒り出すかと思ってビクついていたが、日がたつにつれ、悠太郎にも政宗が本当に周囲への関心を失ってしまっているのがわかるようになった。
「……ゲーム、やりたくないの?」
 ある日、敬語でなくても許されるゲームの時間に、悠太郎はそっと政宗に聞いてみた。
 政宗はただ黒い瞳を悠太郎に向けてくる。言葉はないが、「なんで?」と問い返されているようで、
「だって、なんか、全然、楽しそうじゃないだろ」
 悠太郎は率直に答えた。
 政宗は持っていたコントローラーに目を落とした。初めて見たもののように、そのコントローラーを引っくり返したり、ボタンを撫でたりする。
「なあ。ホントはやりたくないんだろ」
「……ぼくのことはええ」
 聞き取れないほどの小さな声だった。政宗は顔を上げた。
「悠太郎はゲーム好きやろ。なら、ええやん」
 確かに政宗とのゲームの時間が悠太郎にとっては唯一、ゲーム機で遊べるチャンスではあった。
「でも、政宗、楽しんでない」
 悠太郎が言い切ると、返ってきた言葉は「しゃあない」だった。
「犬と遊ぶのは飼い主の義務やから」
 しばし、悠太郎は政宗の顔を見つめた。これは政宗らしいきつい皮肉なのか、それとも本心なのか。
 一緒にゲームで遊ぶようになって、悠太郎は政宗との関係がずいぶん変わったように感じていた。タメ口で軽口を叩き合えるようになって、飼い主と飼い犬じゃない、「友達」になれたような、そんな気さえしていたのだ。
 だが、その政宗の一言はそれは悠太郎の錯覚だと切って捨ててくる。
「そ、そんなんで一緒に遊んでもらっても……嬉しくない」
「ならやめとこか」
 あっさり返されて、悠太郎は泣きたくなった。
「か、飼い主の義務で遊んでやってる……そんなふうに言われて、喜べるわけないだろ! いやいや付き合ってもらって、嬉しいかよ!」
 思わず叫ぶと、政宗は無表情のまま、首だけかしげた。
「……わからん。悠太郎はゲームしたいんか、したくないんか、どっちや?」
 悠太郎がしたいと言えば、政宗はこれからも部屋で一緒にゲームをしてくれるだろう。だが、ここで嫌だと答えれば、「ああそうか」と引いてしまいそうだった。
 ――そんなんじゃないのに。
 本物の犬ならいざ知らず、誰が飼い主の義務として遊んでほしいなどと思うのか。せめて、二人一緒に楽しんでいる、そう思いたいだけなのに、なぜ政宗にはこんな簡単なことが通じないのか。
 悠太郎はコントローラーをそっと床に置いた。
「……もういい」
 どこか不思議そうに政宗はそのコントローラーを見下ろす。
「そんなんで遊んでもらわなくてもいい」
「……ゲームが嫌やったら、外でサッカーでもしよか」
「いらない」
 どこまでも通じない。本当に涙が出そうだった。ぐっとこぶしを握ると悠太郎は立ち上がった。
「部屋に戻ります。御用があったら呼んでください」
 深々と頭を下げて、悠太郎は政宗の顔を見ないまま、部屋を出た。
 なんなんだと思った。なんなんだ……。




 その冬だった。
 悠太郎の父親は組の金に手を付けて、出奔した。




 夜。母親と隣り合って眠る布団から、悠太郎は引きずり出された。
「おまえの亭主がなにさらしたか、わかっとんのか!!」
「親父がどこにおるか知っとるやろ! はよ吐かんかい!!」
 悠太郎は母親とともに、例のライオンの足をかたどったソファの置かれた広い和室へと連れて行かれ、組員たちから殴る蹴るの暴行を受けた。
 どうして夜になっても父親が帰って来なかったか、怒鳴る組員たちの言葉から悟る。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 母親も悠太郎も四つん這いになって伏せ、頭を腕の中に丸めてひたすらに謝り続けるしかなかった。
 とんでもないことになった。
 ヤクザの家に暮らして二年以上がたつ。悠太郎が直接に見聞きする機会はあまりなかったが、ヤクザの仕儀というものが悠太郎にも肌で理解できるようになっていた。組長の息子のお情けで飼われている下働きの者が組の金に手を付けて逃げる、それがどれほどのことか、今の悠太郎にはいやというほど理解できた。
「組長の恩を仇で返しやがって、この野郎!」
「ぐあ……っ」
 脇腹に容赦ない蹴りが食い込み、悠太郎は咳き込んで転がった。
「もうバラして売るしかないやろ。持ち逃げされた金は返してもらわんと」
「女房とガキ、二人ともバラすしかないなあ」
 罵声を浴びせる若い衆の声より、太く静かな幹部連中の声のほうが悠太郎には怖かった。
 声の一人は若頭代理の藤崎だ。若頭である島崎の下に付く彼は、冷酷無情なことで組員たちにも恐れられている。
――殺される!
 躯中の毛穴から、嫌な汗がどっと吹き出てくる。殺される、殺される……。悠太郎は躯が震えだすのをどうすることもできなかった。隣で母親が念仏のように途切れなく、「ごめんなさいごめんなさい」と呻く声も、恐怖を煽るばかりだ。
「おやじ」
 それは島崎の声だった。悠太郎ははっとして顔を上げた。島崎が勇道の耳に何事かささやいている。勇道が問い返し、島崎がさらに何か言う。
 勇道の目が悠太郎へと向けられた。
「いぬ」
「……は、はい」
「おまえは政宗の番犬やそうやな」
「……そうなりたいと思ってます」
 ふ、と勇道が笑った。
「なりたいか。正直やな。今はまだ番犬やないんか」
「……空手と柔道を……習ってます」
 勇道は傍らに控える島崎へと目を向けた。
「学校の中にはわしらの目ぇもよう届かん。確かにおまえの言うとおり、この犬は使えるかもしれんな」
「は」
「聞いたか!」
 勇道が声を張った。
「ガキには咎めなしじゃ! こいつは政宗の番犬やさかいな! 女だけ、連れて行け!」
――かあさん!
 咄嗟に母に向かって駆け寄ろうとした悠太郎の肩は、若い衆の一人にぐっと押さえつけられた。
――島崎さん!
 救いを求めて視線を向けた島崎も、難しい顔で首を横に振る。数年をこの家で暮らして、悠太郎も組長・竜田勇道の恐ろしさは知っている。自分一人でも助けてもらえたのが幸運なのだ。島崎の視線は『動くな』と強く伝えてくる。
 母親は両側を屈強な男に挟まれて、部屋を出て行った。
「ええか」
 残された悠太郎に、島崎の声が掛けられた。
「今日の組長の恩を忘れたらあかんで。しっかりぼっちゃんに仕えるんやで」
「は、はい!」
 慌てて居住まいをただし、勇道に向かって土下座する。そんな悠太郎に、
「命拾いしたな」
 藤崎の皮肉な声が届く。
 だが、自分ひとりの命が助かっても、悠太郎は喜べなかった。母が殺されてしまう。
 部屋を出るとすぐ、悠太郎は暗い廊下を政宗の部屋へと走った。もう頼れるのは政宗しかいなかった。
「政宗様! 政宗様!」
 ノックするのももどかしく、部屋に転がり込んだ悠太郎に、ベッドから身体を起こした政宗はさすがに慌てたようだった。すぐに枕元のライトがついた。
「なんや、悠太郎、こんな時間に……」
「お、お願いです!」
 悠太郎はその場にがばりと平伏した。
「かあさんが殺される! お願いです! 助けてください!」
 一番最初、この屋敷に連れて来られた時、自分たち親子は政宗の言葉に救われた。『おとうさん、これ、ぼくにくれへん?』『犬には世話係が必要や。コレ、まだ子犬やし』、政宗がそう言ってくれたおかげで、悠太郎たち一家三人は命拾いしたのだ。
 政宗なら……組長の息子である政宗なら……もう一度、母を救うことができる。
 悠太郎は必死で額を床にこすり付けた。……だが。
「仕方ないやろ」
 上から降ってきた声は冷たかった。
「おまえの父親は三百万も持って逃げたんや。これで女房生かしといたら、組員に示しがつかん」
 信じられない言葉に悠太郎は顔を上げた。人の母親が殺されるのを『仕方ない』の一言で済ませる政宗が信じられなかった。
「島崎も言うとった。おまえのことはなんとかなる、でも母親は無理やて」
「でっでもっ!」
 焦って悠太郎は膝をにじらせた。
「わ、悪いのはとうさんだ! かあさんはなんにも……!」
「おまえのかあちゃんがなんも知らんかったいう証拠があるか。それに、夫婦や。連帯責任いうヤツやろ」
 政宗の言う通りだった。世の中のことは知らない、法律も知らない。だが、ヤクザの世界の考え方、筋の通し方は、政宗の言葉通りだった。
 ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「かあさんは……かあさんは悪くない……かあさんが殺されるなんて……嫌だ、嫌だ……!」
 父親は借金ばかり作る、どうしようもない男だった。今度もそうだ。自分が組の金を持って逃げて、その後、残された悠太郎と母がどうなるか、あの男は考えなかったのか。人間に「くず」という種類があるなら、父親は間違いなく「くず」の部類の人間だった。
 けれど、母は……精一杯、悠太郎を育ててくれていた。父と離れたり、この屋敷を出たり、そういう強さは持っていなかったが、それでも、厳しい環境の中で少しでも悠太郎に人並みの幸せを与えようとがんばってくれていたと思う。
「さ、三百万!」
 悠太郎は涙でぐずぐずになった顔を上げた。
「必ず、必ず、ぼくが返します! ちゅ、中学入ったら、バイトします! ちゃんと働いて返しますから……だから、だから、かあさんを……!」
「――三百万、返す返さんの話やないんや」
 政宗の言葉はどこまでも冷たかった。
「この家で面倒見とったったのに、その恩を裏切って金持って逃げよった。それで落とし前つけさせへんかったら、組員に舐められてまう。それがあかんねん」
「でも、かあさんのせいじゃない!」
 叫んで悠太郎は、再び床に這いつくばった。
「お願いです、お願いです! かあさんを殺させないでください! 殺さないで!! なんでもします、なんでもしますから、かあさんを助けてください!!」
「……そないに……」
 その声は、いつもあまり感情の見えない淡々とした口調の政宗にしては、少しだけ優しさを帯びているように悠太郎には聞こえた。
「そないに悠太郎はおかあさんが好きか」
「好きです!」
 当たり前だと思った。本心から母親が嫌いな子供がいるだろうか。表面は「うざい」「おばん」と悪口を言っても、母親がこの世からいなくなることになって喜ぶ子供はいないだろう。
 政宗はじっと自分を見つめている。その視線がかえって不思議で、
「……政宗様も、本当のおかあさんのこと、好きでしょう?」
 悠太郎はおずおずと訊いていた。意外なことに、政宗は首をひねった。
「好き……か。好きやったけど……ようわからん」
「でも、」
 この屋敷にいる嘘の母親のことじゃない、政宗の産みの親のことだと言おうとして、悠太郎はためらった。政宗がいくつの時にこの屋敷に引き取られたのか、産みの親とどんな関係だったのか、何も知らないことに気が付いたからだ。
 悠太郎は居住まいを正すと、もう一度、きちんと額を床につけた。
「お願いです! かあさんを、助けてください!」
 政宗はなにも言わなかった。なにも言わず、ただ、ベッドから降りると部屋着を羽織り、部屋を出て行った。




 親子三人では窮屈でしょうがなかった納戸の部屋が、やけに広々としていた。母の寝ていた布団にはまだかすかにぬくみが残り、母の匂いがした。
 部屋には暖房器具がない。吐く息さえ白くなる部屋の中で、悠太郎は母が使っていた掛け布団にくるまって座り込んだ。
 どれほど時間がたったか。
 一分一秒さえ長く感じられる悠太郎には空が白み出すのではないかと思えるほどの時間のあと、引き戸が軋みながら開いた。
「政宗様!」
 部屋の入り口に立っていたのは政宗だった。
 もし悠太郎がその時、もうほんの少し、政宗を注意深く見ていたら……政宗の瞳がなにかに茫然としているように見えることや、たださえ白い顔がいっそう白くなっていることや、部屋着の前をかき合わせた手が、小さく震えていることや……そういったことに気がつけたかもしれない。が、実際には、悠太郎は母の安否に必死になるあまり、政宗の持ってきたものが朗報なのか凶報なのか、そちらに気を取られていただけだった。
「……風呂に、沈められることになった」
 戸口に突っ立ったまま、政宗は国語の教科書を読むようにそう言った。
「風呂って……やっぱりかあさん、殺され……」
「風呂はソープのことや。ソープで働いて、金を返してもらうことになった」
 若い組員たちの中には面白がって悠太郎に大人の世界のことを教える者もいた。悠太郎は小学生にしてはそちらの方面に知識があった。
「……風俗に売られるということですか」
 政宗はそうだともちがうとも言わなかったが、悠太郎にも答えはわかっていた。母親がこれからどんな仕事をせねばならないのか、考えると鳥肌が立った。
 悠太郎に「これが女の躯や」と、携帯の画面を次々見せてきた若い男の下卑た笑みが思い出された。「セックスって知っとるか」と動画を見せて来た者もいた。子供をからかうにしてもタチの悪い言動。そんな中で、悠太郎もヤクザの世界で「男が女に稼がせる」ことがなにを意味するのか、具体的な行為とともに、いつの間にか、覚えていた。
 ――そんな世界に母が……。母が男たちに……。
 言いようのない嫌悪感。そんなの、ひどい。ひどすぎる!
 悠太郎がぎゅっとこぶしを握ったときだった。
「――殺されんだけ、マシやった思え」
 冷ややかな声が言い捨てた。
「そんな言い方……!」
 かっと来て食ってかかろうとしたが、政宗はもう話は終わったと言うのか、くるりと踵を返した。
 夜闇に消えていく細い背中。
 人の母親が男に躯を売ることになるというのに……!
 悠太郎は裏切られたような寂しさと憤りに、遠ざかる背中を睨みつけたのだった。




 しょせん、そんなものなのだ。
 自分と遊ぶのも、政宗にとっては『飼い主の義務』。自分はどこまでいっても、政宗の犬なのだ。
 犬の母親のことなど、どれほどの飼い主が気にするだろう。
「殺されんだけ、マシ」
 あれが政宗の本心だろう。
 一緒にゲームをしていて楽しかった。軽口をたたいていて、面白かった。
 ほんの少し、政宗と親しくなったように感じていたのは自分だけなのだ。でなければ、母親の不運をあんなふうに切って捨てることはできないだろう。
 犬の母親のことだから、政宗はあんなに冷たかったのだ。
 どうせ自分は犬なんだ……。政宗はおれなんか、どうでもいいんだ……。
 結局、一睡もできなかった夜、夜が明けるまで、ずっと悠太郎はそのことだけを考えていた。
 飼い主の冷たさを胸に刻むために――。




 同じ家に住み、『犬』である以上、顔を合わせないわけにはいかないが、政宗とはできるだけ距離を置こう。
 恨みとともに、そう悠太郎が心に決めた、その日。
「悠太郎」
 夕食時、いつものように床に正座していた悠太郎に、政宗の向かいでテーブルについていた島崎が呼びかけてきた。
「はい」
「おまえはぼっちゃんの番犬やろ。今日からおまえ、ぼっちゃんの部屋で寝え」
「……え……」
 口を挟んできたのは勇道だった。
「番犬やいうて、そこまでせんでもええ……」
「島崎、それはええわ!」
 勇道の言葉をさらに遮ったのは『大姐さん』、組長の妻だった。
「政宗はこの組の跡取り。万が一のことがあっては大変やもの。かと言って二十四時間、組員を付けるのも変な話。番犬なら、一番ええでしょう。ねえ、あんた」
 妻に同意を求められて勇道がしぶしぶうなずく。
「ま、まあ、せやな」
「そしたら、悠太郎は今日からぼっちゃんの部屋で」
 悠太郎にはわけがわからなかった。
 なぜ、今となっては大嫌いな政宗と同じ部屋に……。だが、悠太郎に反論の権利などあるわけがなかった。
「ええな」
 島崎に念を押されて、
「……はい」
 と、悠太郎はうなずいていた。






























                                               つづく




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