おまえは俺の犬だから <7>

   

 

 

<警告>

この七話は今までの展開に比べても、「痛い」描写が多いかと思います。
これ以上、可哀想な政宗は見ていられないとおっしゃる方は、この話はお読みにならないでください。
ストーリーとしては、悠太郎目線だった六話の、政宗目線のお話です。






 同じクラスの生徒たちが休み時間になると好き好きに遊びだすのを、政宗はぼんやりと見ている。
 少し前までは、運動場でボールを追う男子たちをうらやましいと思ったり、キャッキャッと声を上げて笑っている女子たちを楽しそうだと思ったりもし、その輪の中に入れないのを寂しく感じていたのに。
 今は。
 なんだかもう、どうでもよかった。楽しく遊ぶ輪の中に、入りたいとも思わないし、入れるとも思わなくなった。
「まわせ、まわせー!」
 ひときわ大きな声を上げ、グランドを駆ける少年がいる。
 悠太郎だ。
 自分の足元に送られてきたボールを、彼は器用にドリブルしながらゴール近くまで運び、見事にシュートを決めた。
「おっしゃー!」
 ガッツポーズを見せる彼の、輝くばかりの笑顔。
 悠太郎の楽しそうな様子を見ている時だけ、政宗の胸の奥はほんのりあたたかくなる。
 ――先日、悠太郎は一緒にゲームをするのを、断ってきた。
 何故なのかはわからない。政宗なりに、彼には楽しんでもらおうと思っていたのに。彼は突然、「もういい」と言い出したのだ。なにか怒っているようにも感じられたが、不機嫌の原因はわからない。
 政宗は漠然と、やっぱりぼくと遊ぶのがイヤなのだろうと理解していた。みんな、自分と遊ぶのを嫌がる。級友も。母親まで自分のことを嫌がって自殺してしまった。
 悠太郎もきっとそうなのだ。
 それでも悠太郎は母親や級友のようにきっぱりと自分を拒絶することはできない。なぜなら悠太郎は「犬」だから。――ぼくを、裏切ることはできない。
 休み時間を一人で過ごしながら、政宗は遠目に見える悠太郎の姿を目で追っていた。




 悠太郎の父親が組の金を持って逃げたと、島崎が報告してくれた。
「いくらや」
「三百万です」
 政宗は溜息をついた。つねづね、あの父親はロクなもんじゃないと思っていたが、よりにもよってヤクザの大親分の家から金を盗んで逃げ出すなんて。根性だけでなく、頭も悪い。逃げ切れると思っているのか。
「捕まってバラバラやな」
 生きている人間の臓器はバカ高い値で売れる。死体でも腎臓、肝臓、角膜が売れるが、生きて捕まえれば心臓や肺まで売ることができる。
「大儲けやな」
 無感動に来るべき結果を口にすると、しかし、島崎の顔は暗く翳った。
「それですめばええんですが」
 目線で問い返す。
「女房と悠太郎も同じ運命かと」
「それはあかん!」
 思わず政宗は身を乗り出していた。
「悠太郎……それはあかん!」
 子供の臓器はさらに高く売れる。けれど、納得するわけにはいかなかった。
「組員に示しがつきません」
「それはわかる。それはわかる、けど……」
 常日頃、凪いだまま、動くことも温まることもない胸が、異様に波立っていた。悠太郎がいなくなる、それを考えただけで、これ以上冷えることもないような胸がきりきりと痛み、背中に寒気が走る。
「なあ、島崎!」
 自分では気づかぬうちに、政宗は島崎の黒スーツの襟を握り締めていた。
「悠太郎は……悠太郎は、ぼくの犬や! ぼくは許さへんで! ぼくの犬をどうにかしようやなんて、ぼくは許さへんで!」
「ぼっちゃん」
 島崎は痛ましそうに呟き、己のスーツの襟をつかむ政宗の手に手を重ねた。
「なあ……島崎、お願いや、悠太郎を助けてくれ!!」
「……ぼっちゃんが島崎に……いえ、ほかの誰にでも、なにかをねだられたりするところを、俺は見たことがありません」
 ぐっと力を込めて政宗の手を外させると、島崎は身をかがめて政宗の目線に合わせた。
「わかりました。島崎がなんとかしましょう」
「ほんまか!」
「けど……悠太郎はぼっちゃんの番犬ゆうこともありますからなんとか出来るとしても……」
 島崎が切った言葉の続きを政宗は息詰めて待った。
「母親は、かばいきれません」
 政宗はヤクザの仕儀を見て、育った。この竜田の家から金を盗んで逃げた者にハッピーエンドはありえない。そんなことを許す竜田は清竜会組長ではない。ヤクザにとって死より大事なものがメンツだ。義理と筋を曲げて通る世界ではない。清竜会組長の金を盗むという、清竜会に泥を塗った人間を許しておけるわけはない。
 そしてまた、ヤクザの世界は連帯責任制が徹底してもいる。一人の組員の失敗は兄弟、あるいは兄貴分の責任になる。それもまた、ヤクザの血肉に染み込んだ「文化」なのだ。
 金を盗んで逃げた岡田。妻とその息子である悠太郎に咎が及ばぬわけはない。
 島崎が悠太郎一人ならと言うのが、それが島崎の精一杯だと政宗には理解できた。そしてそれが、組長竜田勇道を説得できるギリギリの線なのだと。母と悠太郎、二人を助けることは、できない。
「……しゃあない」
 きりっと胸が痛んだ。どれほど悠太郎が嘆くか。それを思うだけで、喜怒哀楽の感情に揺れることがほとんどなくなっていた胸が、それでも痛む。
「けど、けど、島崎! 悠太郎は……」
「悠太郎は、必ず、助けます」
 島崎はもう一度しっかりと政宗に向かってうなずいてくれた。




 ある日の夜中。母親を助けてくれと、悠太郎が駆け込んできた。




 母さんを助けてくれと、悠太郎はぽろぽろと涙をこぼした。泣き声まじりの声で、三百万は自分が働いて返すと訴え、床に頭を擦り付けた。
 よく日に焼けた褐色の肌が、涙と鼻水でぐずぐずに濡れ、光っていた。いつもつやつやと血色のいい丸い感じの頬も、意外と長い睫毛がばさばさの、黒目の大きな瞳も、涙に濡れていた。
「そないに悠太郎はおかあさんが好きか」
 どうにも不思議で、政宗は悠太郎に尋ねた。
「好きです!」
 きっぱりとした即答には迷いは微塵もない。
――ええなあ。
 そう思った。
 母親が好き。ついこの間までなら政宗もそう言い切ることができた。
 母親が好き。そして、母親にも愛されているという自信。
 その両方があった頃は、まだ……今よりは世界は楽しくてあたたかい場所のように感じられていた。
 今はもう、無邪気に母親を好きだと言い切れる悠太郎が不思議でさえある。いくら好きでも……母親はちがうかもしれない。
『政宗。あなたが人様を傷つけるような子に育っているとは思いませんでした。わたしが産んだ子が、人様に平然と刃を向けるなんて。政宗。わたしは人様を傷つけるような子を、産んだ覚えはありません。わたしはあなたがわたしの息子であることが、恥ずかしく、また腹立たしいのです』
 ええ子にしていたら母親にも会わせてやると言われていた。だから、頑張ったのに。ヤクザの組長の息子として求められることを、こなしていたのに。母は政宗に会う前に、自分で命を絶ってしまった。あなたのことが恥ずかしく腹立たしいという言葉を遺して。
 だが、悠太郎は政宗とはちがう。母親を好きだと言い切る。母親にもしかしたら嫌われているかもしれない可能性を、一パーセントもかえりみず。
「お願いです! かあさんを、助けてください!」
 額を床に擦り付けて悠太郎が叫ぶ。
 短くカットされた、堅そうな髪の毛に覆われた悠太郎の後頭部を、政宗はしばらく見つめていた。
 母親のための命乞い。その心情は、政宗の母への心情とは裏腹なものだ。けれど、母親が殺されたら悠太郎がどれほど嘆き悲しむか、それだけは政宗にも想像がつく。
――無理や。
 どう考えても、組の金を持ち逃げした男の女房が生かしたままにされるはずがない。しかし……悠太郎がこれほどに必死なら……。
 政宗はパジャマの上にフリースの上着を羽織り、黙って部屋を出た。




 勇道は一人、豪奢な寝室でブランデーのグラスを傾けていた。
「なんや、政宗。寝られんのか」
 部屋に入って行った政宗に、父は上機嫌な声を上げた。
 父の寝室は例の和室に近い位置にある。かすかに女の悲鳴が聞こえてきた。――悠太郎のかあちゃん。
 不始末をしでかした女は、たいていの場合、組員に輪姦される。殺されるなら殺される前に。風俗に売られるなら、その前に。
「いわゆる熟女やな」
 その声に勇道も気づいたのか、だらしのない声で言った。
「聞いててみ。だんだんにええ時の声になる」
 政宗はひとつ深呼吸した。心の耳を塞ぐ。
 一、二年前から、女が裁かれる時にも政宗は同席させれるようになった。なにが起こっているのか、いやというほどわかっていたが、それを悠太郎の母親と関連させて想像したくなかった。
「悠太郎の母親ですけど」
 政宗は切り出した。
「どないしても殺されなあかんの?」
 グラス越しに、ねっとりした視線が寄越された。
「なんや、命乞いか」
「悠太郎はぼくの犬です。無理は承知ですが、その母親の命、なんとか助けてもらえませんか」
「無理は承知、言うたな」
 確かめられて政宗はうなずいた。
「極道がメンツ潰されてそのままにしといたら、笑われます。極道の組長の家から金を盗んだ男もその女房も同罪。バラさな、清竜会が笑われる」
「その通りや」
 勇道は鷹揚にうなずいた。
「おまえもようわかっとるやないか」
「わかってますけど、お願いです。なんとか……」
 その時、ひときわ大きな声が聞こえてきた。なにをされたのか、声は痛みを訴えるには長く、そして低い。呼吸の乱れを感じさせる音の不安定さは淫らさを感じさせた。
「ええ声でよがりよる」
 勇道の言い方はいやらしい。嫌悪感に、政宗は無意識に眉を寄せていた。
「政宗。パンツ脱いでみ」
 突然、思わぬことを言われた。
「命助けてくれて、おまえが頼んどる相手のよがり声や。勃っとるんとちがうか」
 なにを言い出すのかと驚いたが、
「勃ってません」
 政宗はきっぱりと否定した。ありえない。
「嘘ついたらあかん」
「嘘じゃありません」
「嘘じゃないなら脱いでみ」
 抵抗はあったが、ここで勇道に逆らえば命乞いなどできなくなる。どうせ男同士だ、平気だと、政宗はパジャマと白いブリーフを一緒に押し下げた。
「まだ生えとらんのか。頭も出とらんな」
 容赦なく子供の状態を口にされて、顔がかっと熱くなる。
 勇道の視線が政宗の顔と股間を上下する。
「……ふうむ……」
 視線にさらされているのが嫌で、下着を上げようとすると厳しい声で制止された。
「誰が履いてええ言うた!」
「……すみません」
「中途半端に下げとらんときちんと脱ぎ。そんでこっちに来ぃ」
「……その前に。お願いです、おとうさん。悠太郎の母親を……」
「助けてくれ、言うんか」
 勇道はべろりと自分の唇を舐めた。
「……まあ。しゃあないな。可愛いおまえの頼みや。命だけは勘弁したろやないか。金は風呂で働いて返してもらおか」
 拍子抜けするほどあっさりと、勇道はそう言った。
「ありがとうございます」
 政宗はすぐに頭を下げた。これほどすぐに譲歩してもらえるということはなにかある、今まで目にしてきた修羅場からそのことはわかっていたが、ここで礼を言わねば悠太郎の母親は殺されてしまう。
「ええ、ええ。可愛いお前の頼みやからな」
 可愛いと繰り返される言葉が不愉快だったが仕方ない。
「さあ。今度はおまえがとうちゃんの言うこと聞く番や。パンツ脱いで、こっちに来ぃ」




 上はパジャマとフリースを着たまま、下だけすっぽんぽんという格好は我ながら不細工だった。フリースの前を合わせて股間を少しでも隠そうとしながら、政宗は一人掛けのソファに座る勇道に歩み寄った。
 近づくと、突然勇道の腕が伸びて来、股間のものを握られた。
「!」
 思わず首をすくめて歩みを止めると勇道は喉の奥で含み笑いした。
「――母親と同じ顔をしよる」
 その言葉にはっとした時には、政宗の細い躯は勇道の胸に後ろざまに抱き留められていた。強引に勇道の膝の上に座らされ、脚の間に勇道の膝がある。
「おまえはいくつんなった」
「じゅ、十二です」
 声が勝手に震える。自分がなにを嫌がり、なにを怖がっているのか、政宗にはわからなかった。ただ、この状況に躯がすくみ、嫌悪感に鳥肌が立っていた。
「おまえの母親の初めては十六ん時やった。……こんなふうに躯を堅うしてなあ」
 首筋を生暖かく濡れたものがべろりと這った。舐められたのだと理解するのに少し、かかった。放たれた言葉の意味を理解するのに手間取っていたからだ。その両方を理解できた瞬間、言いようのない気持ち悪さに背筋がぞくぞくした。
「同じ顔をしよるなあ」
 嬉しげな声が、いやらしく耳元で囁く。その息が酒くさい。
「や、やめてくださ……ひっ!」
 股間を玉袋ごと大きな手の平に握りこまれて高い声が出てしまった。
「なあ政宗。自分でやりよったこと、あるか?」
「な、ない! そんなん、ない……!」
 必死に首を振ると、勇道は満足げにうなずいた。
「なら、初めては俺が教えちゃる」
 嫌だと叫びたかった。やめてくれと暴れたかった。
 けれど、勇道に逆らうことは出来なかった。今までそうしつけられてきた。
「……ほうら。なにも怖いことないで。……どや? 気持ちええやろ?」
 猫なで声で勇道が話しかけてくる。それすらも気持ち悪い。
 股間からぞわぞわと気味の悪い感触が這い上がってきて、政宗は思わず自分の股間を見下ろした。
 まだ子供の形状をしたものが、指の甲にまで毛の生えた勇道の二本の指に挟まれてゆっくりとしごかれている。根元から先端へとあやすように指が動くたび、今まで知らなかった感覚が広がってくる。
「や……やだ……」
 気持ちが悪いと思った。むず痒いような、じんわりと痺れるような、未知の感覚。気持ちが悪くて不愉快なのに、腰がじわじわと熱を帯びる。そして勇道の指に弄ばれているモノがゆっくりと力を蓄え、上を向きだした。
「おー、可愛い可愛い。勃ってきたやないか」
 嬉しげに勇道は言うと、今度は幼いペニスを手の平に握り込むと、さっきよりも力を込めて擦りだした。
「あ、んッ……!」
 高い声が上がり、政宗は慌てて自分の手で口を覆った。それでもソコを擦られるたび、「ん、んっ」と吐息まじりの声が漏れる。
 頂点は唐突だった。
 おしっこを我慢している時によく似た感覚が襲い、まずいと思った時には、なにか白っぽいモノが先端から飛び出ていた。
「……あ……」
 いつの間にか涙が出ていたらしい、にじむ視界に政宗が出したものを受け止めた勇道の手があった。
「どや。気持ちよかったやろ」
 勇道が言った時だ。ドアがノックされた。
「組長。よろしいですか。島崎です」
 政宗は必死に躯を起こした。
「島崎っ! 島崎っ! 助けてっ!」




「手コキのやり方を教えてやっただけやないか」
 部屋に飛び込んできた島崎に勇道は悪びれもせず、そううそぶいた。
 震える手でパンツをはく政宗に向かっては、
「情けないのう。これしきのことでビビんなや」
 と叱る口調だった。
「オヤジ」
 島崎はたしなめる口調だった。
「酔いの上での悪ふざけはわかりますが、あまり過ぎたオイタは……」
「わあっとる、わあっとる。誰がおまえ、毛ぇもはえとらんような実の息子にいらんちょっかい出すねん。ちょっと……」
「なにがいらんちょっかいですのん?」
 島崎の背後から冷たい声がした。勇道の妻・由紀子だった。
 部屋に入ってきた『大姐さん』はぎろりと勇道、政宗、島崎を見回した。なんとかパジャマのズボンもはき終えていた政宗にはことさら念入りに、頭のてっぺんからつま先まで探るような視線が当てられた。
「なんや」
 勇道が少し上ずった声を出した。
「島崎がいらん取り越し苦労をしよるだけや。こいつは心配性やろ、俺がまた若い女にいらんちょっかい出さんようにて、釘を刺しおんねん」
「ふうん」
 由紀子はまだなにか言いたそうに見えたが、
「オヤジ。悠太郎の母親ですけど」
 島崎が横合いから口を出した。
「あの躯なら今からいくらでも稼げます。危ない橋渡るより、手堅く稼いでもらったほうがええんとちゃいますか」
 政宗ははっと顔を上げた。
「悠太郎の母親は風呂で働かすて、さっきおとうさん、言わはりました!」
「ほんまですか」
 政宗と島崎に交互に詰め寄られる形になり、
「ああ、ああ、言うた言うた」
 勇道は投げやりに肯定した。
「さっきもええ声でよがっとったわ。由紀子、おまえもええやろ。あの女は風呂に沈める」
「どうぞお好きに。金になるならなんでもええですわ」
 冷たい声の意地悪な言い方だったが、政宗には朗報だった。
 とにかく早く悠太郎に伝えてやらないと。頭にはそれしかなく、政宗は父に向かって頭を下げて部屋を出ようとした。すると、
「待ち!」
 鋭い声がした。義理の母親だった。
「おまえはどんどんあの女に似てきよる。浅ましい、男好きの淫乱女」
 政宗は思わず振り返り、自分を睨む憎悪が滾るような瞳と目が合った。
「……かあさんは、淫乱やない」
 低い声で言い返すと、女は鼻でせせら笑った。
「人の亭主にちょっかい出して、子供までこさえて。淫乱じゃなかったらなんやの。公衆便所か」
 『初めては十六ん時やった』、さっき聞いた勇道の言葉が脳裏によみがえる。母親がどれほど非道な目に合わされ、そして、理不尽に憎まれていたのか。突きつけられて、政宗は自分の血がすーっと凍えていくような感覚に襲われた。
「ぼっちゃん!」
 強い力で肩を支えられた。意識していなかったが、ふらついたらしかった。
「もう遅い時間です。お部屋に戻って休みましょう。オヤジ、姐さん、ぼっちゃんを部屋までお送りしてまいります」
 島崎の大きな体の影にかばわれるように、政宗はその部屋を出た。
「大丈夫ですか、ぼっちゃん。……姐さんの言われたこと、気にしはったらあきませんよ」
「……あんなん……嘘や。……嘘や」
「そうです、嘘です」
 今夜はいろんなことがありすぎた。自分の股間を弄った男の手。憎しみに燃えた女の、実の母への誹謗中傷。
「……島崎」
「はい」
「……吐きたい」
 トイレへと入ると、島崎は黙って背中をさすってくれた。




 口をゆすぎ終わると、政宗は島崎が連れて行こうとした右の廊下ではなく、左の廊下へと足を向けた。
「ぼっちゃん?」
「……悠太郎が……待っとんねん」
「悠太郎には島崎が伝えます。ぼっちゃん、今夜はもう早う休んでください」
「……あかん」
 夜というだけではなく、異様に寒かった。政宗はフリースの部屋着の前をかき合わせながら、前へと進んだ。
「ぼくが伝えな……悠太郎が心配しとる……」
「ぼっちゃん!」
「島崎は……ええ。もう下がっといて」
 島崎の手を振り払った。
 母親は殺されずにすむ。しかし、仕置きは仕置き。風俗に沈められるのは仕方ない。
 それを伝えるのは、飼い主である自分の役目だと政宗は思っていた。


「――殺されんだけ、マシやった思え」


 母は勇道の妾だった。十八で政宗を身ごもった母は、身二つになってすぐ、産院から政宗を抱いて逃げた。数年間は勇道の目から身を隠していられたが、清竜会組長の息子を探すヤクザの網の目から逃げ切れるはずはなかった。政宗は勇道の屋敷に引き取られ、母はマンションに軟禁された。その母がなんと呼ばれる存在なのか、今の政宗は知っている。『囲われ者』というのだ。男に囲われる女。
 そんな母のことを思うと、胸がかきむしられるように痛くなる。大切で、綺麗なままにしておきたいものが踏みにじられているかのような苦しさ。
 ソープで働かされる母親を思って悠太郎が感じる苦しさを、政宗もまた、身を持って知っていた。
 だからこそ。
 殺されるよりマシだと思うしかないのだとも、知っていただけなのだ。


「そんな言い方……!」


 悠太郎はさっと顔色を変えた。
 母の命を救ってくれてありがとうなどと……言われるとは思っていなかったし、期待してもいなかった。
 悠太郎の怒りは当然だった。
 だが、ヤクザの世界ではこれがギリギリ。本当のギリギリなのだ。諦めるしかない。自分が諦めたように。
 寒さが限界だった。さっき吐いたのに、また吐き気がする。
――初めては十六……淫乱……公衆便所……同じ顔をしよる……
 悠太郎の前で吐きたくなかった。
 政宗は悠太郎に背を向けた。




 悠太郎は政宗の顔を見なくなった。どれほど近くにいても頑として目を合わせようとしない。言葉はどこか冷たく、閉ざされた扉の気配がするようになった。


「おまえはぼっちゃんの番犬やろ。今日からおまえ、ぼっちゃんの部屋で寝え」


 島崎の言葉の真意を政宗は知らない。想像するのも嫌だった。
 悠太郎ももちろん、島崎がどういうつもりなのか、納得してはいなかっただろう。だが、『大姐さん』が賛成したことによって、それは決定事項になった。
 政宗は決して自分に尻尾を振ろうとしない『犬』と同じ部屋で眠ることになったのだった。















                                               第一部終




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