おまえは俺の犬だから <第二部1>

   







「ああ? なんやねん、おまぁ」
 前方から歩いてきた先輩の腕が政宗の胸倉に向かって伸びる。
 ――……またか。
 悠太郎は溜息の代わりに、ふっと小さく息をつく。お臍の下、丹田に力を込める。背筋を気合を込めて伸ばす。
「なんやねんって、なんですか」
 政宗の制服の胸元を掴みかけていた手を握る。
「話があるなら、俺が聞きます」
 清竜会組長の一人息子・竜田政宗と、その「犬」である岡田悠太郎はともに高校一年生となっていた。



   *    *    *    *    *



 市立小学校を卒業した後、政宗と悠太郎は受験して中高一貫の私立中学に進むことになった。悠太郎は中学受験の勉強などしたくなかったし、小学校の友達と離れるのもイヤだったが、自分に人生の選択権がないこともよくわかっていた。
 それでも子供の浅知恵で、わざと受験に失敗すればいいんじゃないかとも考えたが、受験に乗り気ではないことを島崎に勘付かれ、
「おまえの母親にまた会えるかどうかは、おまえの頑張り次第」
 と、釘を刺されてしまった。
 金を持って逃げた父親のせいで、母親は風俗で働かされている。その母とは騒動のあった夜に引き離されて以来、一度も会っていない。悠太郎に逆らえるはずがなかった。
 当初、成績は政宗のほうがよかったが、母親に会いたい一心で悠太郎も勉強に取り組み、二人そろって受験した中学すべてに合格することができたのだった。
 島崎は約束通り、母に会わせてくれた。
 ほんの一時間ほどの短い時間で、しかも、母親がどこに住んでいるのか、どこで働いているのか、一切聞いてはならぬ、しゃべってはならぬと若い者の監視つきでの再会だった。
 それでも、悠太郎にとってはなによりの合格祝いだった。
 数ヶ月ぶりに会う母は髪を茶色に染め、パーマをあて、派手な服を着て現れたが、その表情は懐かしい母のものだった。少し痩せてしまっているのが心に痛かったが、それより悠太郎の胸に響いたのは母の言葉だった。
「恩を忘れちゃあいかんよ」
 母はそう言ったのだった。
「おぼっちゃんのおかげで、おまえもわたしもこうして生きていられる。島崎さんのおかげでもある。その恩を忘れちゃあいかんよ」
 と。
 ――あんなやつ。
 政宗に対して反感しかない悠太郎も、母の言葉にはうなずくしかなかった。自分たち親子は不遇だったが、命まで取られるところを救われたのは政宗のおかげにちがいなかったからだ。
 しかし、母の言葉は悠太郎にさらなる辛抱を強いるものでもあった。
「犬の分際で金のかかる私立に行かせてもらえるんや。どんだけありがたいことか、わかっとるやろなあ」
 と政宗の父・竜田勇道は酔うとそう言うようになった。それを言われるたび、悠太郎はわざわざ庭に降りて感謝の意を表すために土下座して見せねばならない。
 小学校では組長の息子と特別視され、周囲から孤立していた政宗にとっては新しい環境は嬉しいものにちがいなかった。そう考えると自分は政宗の犠牲にされたのだとしか思えないのに、土に頭を擦り付けて『ありがとうございます』と言わされる。悠太郎は理不尽さにぐっと奥歯を噛み締めた。
 入学後はさらなる理不尽が待っていた。
 部活の説明会に、何部に入ろうと人並みにわくわくしていたら、島崎に「剣道部に入れ」と命じられたのだ。竜田の屋敷での空手と柔道の稽古は続いている。せめて部活ぐらいは格闘技系を離れてサッカーでもバスケットでも、なにか球技のものをしたかったが、島崎の言葉には逆らえなかった。
 そして……政宗にも。
 中学に入っても「犬」としての生活のルールは変わらなかった。家では首輪をはめられ、政宗には絶対服従。同じ部屋で寝起きするようになって、政宗は靴下の脱ぎ着さえ悠太郎にさせるようになった。初めて目の前ににょっきりと足を突き出された時には何事かと思った。
「脱がせえ」
 そんなことまで! 屈辱にかっと頭が熱くなったが、黙ってその足首に手を伸ばしたのは母の言葉があったからだった。
 それでも。『殺されんかっただけ、マシやった思え』、政宗の放った冷たい一言を忘れることはできなかった。命令には服従しても、心は許さない。悠太郎はそう心に決めていた。
 誘われてももう絶対にゲームはしない、同じ部屋に寝起きしていても、自分からは口もきかない、政宗になにか命じられてもその目を見ない。
 そんな、命令には従っても、芯に頑ななものを秘めた悠太郎に、政宗はなにを感じたのか。どうしたかったのか。
 入学して数週間のある日、政宗は爆弾を落としたのだった。




「ぼく、イジメられとるかもしれん」
 ある日、勇道も同席していた夕食の席で、政宗は突然、そう言い出した。
「……あ?」
 勇道の顔が一瞬で険しくなった。
「筆箱、なくなってしもた」
「……なんやて?」
 いつもの通り、政宗の後ろで床に正座して食べていた悠太郎は箸を止めた。偶然なのか、裏で勇道か島崎が手を回したのか、政宗と悠太郎は同じクラスだった。確かにそのクラスには何人か乱暴そうなのがおり、誰彼かまわずからかったり、突っかかったりしている。そんな連中が政宗にも「女みたいな顔やなあ」と絡んでいるのは知っていたが、政宗はいつもの通り、なにを思っているとも知れない無表情で、受け流しているように見えていた。
 今、聞こえてくる政宗の声も淡々として悠太郎の耳には苦渋のかけらもないように受け取れた。
 が。政宗はさらに続けたのだ。
「ぼく、イジメられとる。学校、行きたない」
 教科書を棒読みしているかのような平板な声。だが、その効果は絶大だった。
「なに……」
 低く呟いた勇道が立ち上がったと思った次の瞬間、
「それでもわいの息子かああ!!」
 椅子に座っていた政宗の躯が横っ飛びに跳ねた。その躯が横の椅子にぶつかり派手な音を立てながら倒れるのと、悠太郎の頭に熱い味噌汁が浴びせられるのが同時だった。
「おまえがついとりながら、なにやっとんじゃあっ!」
 続けざまに何発も蹴られた。周りにも服にも料理や皿の破片が飛び散る。ふがいないことを言い出した息子への怒りを、勇道は悠太郎への怒りとして発散させた。
「す、すみませ……すみませ……」
 食べていたアジのフライに自分の鼻血が飛び散るのを見ながら、悠太郎は必死に頭を下げ続けた。
「ええか」
 はあはあと勇道が息を切らしながらも落ち着きを取り戻すまで、暴行は五分も続いただろうか。
「政宗、二度とそんな情けないたわごとをわいに聞かすな。犬、政宗になにかあったら、おまえはドラム缶にコンクリで詰めて海の底や。ええな!」
「は、はい!」
 悠太郎は頭を床に擦り付けた。
 次の日。
「こいつの筆箱とったのは、おまえか」
 意に染まぬことだったが、悠太郎は犯人探しのためにクラスの乱暴者たちひとりひとりを締め上げた。当然、彼らは反発してきたが、ヤクザ仕込みの腕で黙らせた。
 暴力などふるいたくない。
 目立ちたくもない。
 だが、それをしなければ、悠太郎は竜田の家で生きてはいけない。
 以来――。
 ただ家で首輪を付けられているというだけではない、悠太郎は学校でも政宗の「犬」となった。政宗に害が及ばないように守る、番犬に。
 同じ小学校からの進学者がいない今の学校では、政宗と悠太郎は同じ家に住むいとこ同士ということになっていた。親戚という隠れ蓑で、悠太郎は政宗の守護者となった。
 そして、政宗はそんな悠太郎の忠誠心を試すかのように……厄介ごとを引き起こすようになったのだ。
 学校内ではわざと上級生に反抗的な態度を取り、街では不良っぽいのにガンをつけた。
「なんだ、おまえ」
 相手が気色ばむと、悠太郎が出る。
「こいつに、なにか」
 大嫌いな飼い主。できれば顔も見たくない飼い主のために、悠太郎は躯を張らねばならないのだった。



   *    *    *    *    *



 中学三年生の一年間は割と平穏だったなと、悠太郎は溜息まじりに思い出す。
 中等部と高等部は校舎が離れている。上級生のいない校舎で、その頃はもう、喧嘩で負けたことのない悠太郎に歯向かう者はいなくなっていた。政宗がいくらトラブルを起こそうとしても、学内で政宗にちょっかいを出そうという者はいなくなっていた。
 が――高校に上がれば、また下級生からやり直しだ。
「ああ? なんやねん、おまぁ」
 前方から歩いてきた先輩の腕が政宗の胸倉に向かって伸びる。
 政宗の反抗的な凝視に上級生が反応するパターンは、もう悠太郎には馴染みのものだ。
「なんやねんって、なんですか」
 政宗の制服の胸元を掴みかけていた手を握る。
「話があるなら、俺が聞きます」
「おまえ、それ、上級生に対する態度か、ああ?」
「すみません」
 回避できる暴力は回避したい。……できるわけがないのは承知で、とりあえずいったんは悠太郎は下手に出る。だが、
「アホっぽいツラやなあ思て」
 政宗が必ず火に油を注ぐ。
「つい見てもたわ」
「……なんやとゴラァ」
 気色ばんだ上級生たちがいっせいに政宗に向かって一歩踏み出す。
「待ってください」
 悠太郎は政宗をかばって上級生たちの前に立つ。――街中で政宗が絡んだ相手との間に立つように。中学に入学してから、ずっとそうしてきたように。
「ここじゃなんなんで。……体育館の裏に、行きませんか?」




 ブレザーを脱ぎ、タイをゆるめ、シャツのボタンを外してまくり上げる。
「お願いします」
 脱いだ上着はいつも通り、政宗に預けた。
「どうぞ」
 振り向くと、上級生たちが顔を見合わせる。
 身長は180近く、完成された大人の男ほどではないにしても、毎日のトレーニングで肩幅も胸の厚さもそこそこある悠太郎が穏やかに促すと、たいていの相手は同じ表情をする。本当にコイツと喧嘩していいのか、と。
「おまえやないやろ。失礼なこというたんは、そっちの女みたいなヤツやろ」
 『女みたいなヤツ』、それは聞き飽きるほど聞いた言葉だった。中学に入って悠太郎をはじめとした同級生たちが第二次成長期を迎えてどんどん男性らしい外見へと変わっていくなか、政宗は一人、ちがう過程へと進みだしたように見えた。確かに身長は伸び、顔も大人びたが、肌の白さは変わらず、骨太さはどこにもない。子供の頃から人形めいて綺麗だった顔立ちはますますろうたけて美しくなり、道行く人を振り返らせるほどになっている。
「まあ、そうですけど……まずは俺に相手させて下さい。俺が負けたら、この人とやってもらってかまいませんから」
 喧嘩の相手が政宗を指名するのもいつものことだ。悠太郎は慌てない。
「でも、俺、負けませんけど。……あんたらなんかには」
 わざと挑発的な言葉を口にする。相手から殴りかかってもらわねば、あとから立場が悪くなるからだ。
「なんやとお!」
 一人目がこぶしを振るってくれれば、あとはこっちのものだった。
 切れ味も狙いも甘い素人のこぶしを軽く避け、悠太郎は容赦ない一撃を相手の眉間に放った。次の相手は蹴りで鳩尾を狙う。
 一撃必殺。
 悠太郎は5人いた上級生をものの一分でその場に打ち倒した。




 ぱちぱちぱちと、人を食ったような拍手の音がする。
「やっぱりおまえは強いなあ」
 他人事のように言う政宗を睨みかけて、悠太郎はふいっと横を向く。
 地べたに転がって呻く上級生を無感動に見下ろす政宗に、罪の意識は感じられない。
「……いいかげん、やめませんか」
 上着を受け取りながら、悠太郎はつい、口にしていた。
「やめるて……なにを?」
「……こんなふうに……わざと相手を怒らせて喧嘩を売るようなマネを、です」
「ええやん。おまえ、強いんやし」
 政宗は涼しい口調で言う。表情のないのが常の顔が、どことはなし、楽しそうですらある。
「――俺は人を殴りたくて殴ってるんじゃない」
 押し潜めた声で悠太郎が抗議すると、校舎へと戻りかけていた政宗はくるりと振り返った。
「せやな。殴りとうて殴っとるんやないな」
 悠太郎は見ないようにしている政宗の瞳が、それでも光ったような気がした。
「それでもおまえは殴るんや。ぼくを守るために。これからもずっと、殴らなあかんねん。おまえは俺の犬なんやから」
「…………」
 言い返せる言葉などなかった。
 言葉の代わりに握り締めたこぶしが細かく震える。
 やり場のない憤りを震えるこぶしのうちに握りこむ悠太郎に、
「これからもずっとや」
 政宗は繰り返す。
 そして悠太郎の前を、軽やかな足取りで歩き出したのだった。















                                               つづく




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