苦手なアナタ

 



 苦手なものはなに?
 そう聞かれたら、藤井 仁志(ひとし)は迷わず答える。「美男美女」と。
 昔から藤井は男女を問わず綺麗な人というのが苦手だった。容貌の整った人を前にするとどうしても過度に緊張し萎縮してしまうのだ。
 それがパッとしない自分の外見にコンプレックスがあるせいだろうとは自覚があった。男にしては低い身長、華奢な骨格を始めとして、子どもの頃の外遊びの名残で鼻のあたりにうっすら残るそばかすも、 どうしてもコンタクトを入れられなくて掛けているメガネも、地味で冴えない顔立ちも、コシのない髪も、藤井は嫌いだったし、自分でもみっともないと思えて仕方なかった。
 異性からは憧憬の眼差しを、同性からは羨望の眼差しを注がれる美男美女には、こんな自分はどれほどみっともなく見えるだろう。そう思うと、たださえなめらかではない口はますます強張り、 もともと控え目な態度はいっそおどおどとしてしまう。
 綺麗な人は手の届かないところ、そう、たとえばテレビ越しに、眺めているだけで十分だと藤井はいつも思う。だから、美人、美形、イケメン、二枚目、美少女、美少年、そういった形容詞が似合う人間とは極力、 関わりを持たないように生きてきたし、これからも避けられるだけは避けて生きるつもりだった。ありがたいことにそんな形容の似合う人間はそうそう数がいるわけではないので、藤井はさほど困難を覚えずに 一高校教師として日々の生活を送ることができていたのだった。





 が。
 思わぬ運や不運が転がっているのが実人生である。
「……え。わたしが生徒会顧問、ですか……」
 ある日のことだった。生徒会顧問を務めていた女性教諭が産休に入るにあたって、藤井はその代理を務めるように教頭から言い渡されてしまった。
 生徒の自治組織である生徒会と学校側とのパイプ役である顧問は、肩書きこそ仰々しいが実際は生徒会と校長・教頭間の伝書鳩であり、26歳の藤井に振られるのは妥当な役だった。
「よろしく頼むよ。まあ生徒会のほうがよくわかっているから、よく彼らと相談して下さい」
 教頭は軽くそう言ったが。
 『よく彼らと相談』、その一言に藤井は蒼ざめた。彼らというのは、生徒会の役員たちのことだろう。つまり、会長、副会長、書記、会計……。
 どうやって教頭のところから自分の席に戻ったのか、藤井の記憶はない。会長、副会長、書記、会計……生徒に選ばれた生徒会役員の彼らは、美貌と知性を誇るその会長を筆頭に、見事な美人・美形揃いだった。 特にその生徒会長は……。
 はあー。
 降って湧いた災難に藤井は深く深く、タメ息をついた。





 仕事は仕事。相手は十近くも年下の生徒だ。萎縮することはない、怖がることはない。
 昼休み、そう自分に言い聞かせながら藤井は重い足を生徒会室へと運んだ。顧問の引き継ぎに必要なファイルを生徒会室のキャビネットから取って来なければならなかったからだ。
 放課後でもよいのにわざわざ昼休みに出向いたのは、放課後のほうが役員たちと顔を合わせる確率が高いだろうと思われたせいだった。できるだけ彼らとは顔を合わせたくない。
 鍵を使って生徒会室を開ける。誰もいないことにほっとして室内に入った。が、部屋の隅にあるキャビネットに歩み寄り、その開き戸に手をかけた時だった、カチャ、背後でドアの開く音がした。
 あわてて振り返って、藤井はかたまった。
 会いたくなかった中でも一番顔を合わせたくなかった相手が、部屋に入って来ていた。光沢のある漆黒の髪を自然に後ろに流し、すらりとした長身を制服に包んだ美貌の人。怜悧に整った顔はギリシャ彫刻の彫像めいて、 人の目を奪う。生徒会長・富永 鴻臣(とみながひろおみ)、藤井が一番会いたくなかった相手だった。
「ああ、こんにちは、藤井先生」
 富永の唇に名前を呼ばれて、藤井の全身に電流が走る。
「この度は生徒会顧問をお引き受け下さり、ありがとうございました。会長の富永です」
 ああ、知っているよ、よろしくね。
 頭の中ではそう返事をしているのに、実際には藤井の口は強張り、ただコクコクとうなずくだけがやっとだった。
「なにかお探しですか」
 尋ねられて、
「きっ規約のファイルをっ……」
 ようやく出た声は裏返っていた。富永は軽くうなずくと、つかつかとキャビネットへ、藤井のそばへと歩み寄ってきた。
「確かこのあたりに……」
 数十センチの距離で見る富永の横顔は、やっぱり水際立って綺麗だった。秀でた額から眼窩にかけてくっとくぼみ、そこから完璧なフォルムの高い鼻梁が、やはり完璧なラインを描く唇から顎へと続いている。
「……これでよかったかな」
 手にしたファイルを広げて中を確かめる富永を、藤井はうっとり見つめてしまった。
 ふと富永が顔を上げた。
 間近でばしっとばかりに目が合って、藤井は一気に顔から火を噴き、顔が赤くなったことにさらに慌てた。――こんなみっともない自分が赤くなったりして、富永はどう思うか……!
「あ、あ、こ、これでいいと思う! あ、ありが……」
 ごまかすつもりでファイルを受け取ろうとしたが、焦りに焦っていた手から、ファイルはばさりと床へと落ちた。
「あああっ! ご、ごめんっ!」
 うろたえながらファイルを拾おうとかがんだ藤井には、首筋まで赤くなった藤井を見て富永がすっと目を細めたその表情は見えなかった。
「じゃ、じゃあ! これ! 借りて行くから!」
 もう顔を見るのも見られるのも耐えられないような気がして、藤井は下を向いたまま、ファイルを胸に抱え込むと生徒会室を飛び出した。
 廊下でようやく藤井は大きく息をつく。……ああ、焦った……。あれほどの美形とこれほど間近で話した経験は今までなかった。
 ――本当に、綺麗なんだもんな……。
 目の先に、目尻が涼やかに切れ上がった富永の黒い瞳の残影がちらついて、藤井の頬の火照りはなかなかおさまらなかった。






 その日の放課後だった。藤井のいる生物・地学準備室に富永がやって来た。
「文化祭も近いので、いろいろとご相談申し上げなければならないことが多くて」
 そんなふうに言いながら、お時間いただいてよろしいでしょうかと、富永は藤井の顔をのぞきこんでくる。
「あ、ああ! だ、だいじょうぶっ!」
 平静に、平静に。自分に言い聞かせるのだが、顔はまた焼け付くように熱くなる。
 富永は藤井に向かい合う位置に椅子を持ってくると、ゆったりと腰を下ろし長い脚を組んだ。そんな何気ない動作さえ富永の動きはムダがなくカッコよく、藤井はまたうっとりと目を奪われかけて……イカンイカン!  慌てて首を横に振った。
「じゃ、じゃあ、まず、文化祭の……!」
 机の上をムダにばさばさと引っくり返していると、
「先生」
 落ち着いた声が掛けられた。
「お加減が悪いなら、出直してきますが?」
 そう問いかけられて、は?と目を見開けば、
「顔が赤いですよ。熱でもあるんじゃないですか?」
 すっと白い手が差し伸べられてきた。印象的な黒い瞳が近々とのぞきこんでくる。
「失礼。……ああ、熱はなさそうですね」
 指先まで造形の神の恩恵を受けているかのように美しい手を額に押し当てられ、藤井は言葉もなく硬直した。
「おかしいな。熱はないのに、どうしてそんなに顔が赤いのかな。ご気分はいかがですか」
 しなやかな手を藤井の額に押し付けたまま、富永は藤井の顔を近々と見つめている。
「どっ……あっ……なっ……」
 どうもないよ、なんでもない。そんな簡単な言葉さえ出て来ない。満足にしゃべることもできずどもる自分を富永はどう思うのか。穴があったら入りたい! 痛切に藤井は思った。
 すうっと富永の目が細くなった。
「……先生、眼鏡を外してもいいですか?」
「え! なん……」
「先生の素顔が見たいから」
 答えながら、もう富永の両手は藤井の眼鏡にかかっている。
「……思ったとおりだ。先生、眼鏡外すと童顔ですね」
 美貌の生徒会長に己の容貌を評されて藤井の混乱はマックスになった。
「どうせっ……! どうせ僕は不細工だよっ!!」
 叫べば、富永の整った顔に初めて笑顔が浮かんだ。
「不細工? なにをおっしゃるんですか。こんなにかわいいのに」
「……かわ……?」
「ええ。かわいい」
 かわいいとは誰のことだ? それは18歳の高校生から26歳の教師に向かって使われるのに適した表現なのか? いや。そもそもこんなに綺麗な人間が、誰をつかまえて『かわいい』などと言うのだろう。誰のことだ? 誰の?
 いもしない人間を探そうと、ふと藤井が横を向きかけた時だった。
 ムニ。
 唇の端に、ひどく柔らかくて生暖かいものが押し付けられた。
 え?
 振り向きかければ、それは今度はねっとりと大きく、藤井の唇を覆ってきた。
 至近距離にばさばさの睫毛があった。近すぎてボケてしまうほどの近距離に……。


 え。


 えっ!


 ええっ!!


 キスかっ! これはキスかっ!


 理解した瞬間にへなっと腰の力が抜けた。
 結果的にキスから逃げて床の上に座り込む形になった藤井の前に、富永が膝をついた。
「わたしのキスがいやですか」
 怒気をはらんだような声音に、藤井は慌てて首を横に振った。
「ち、ちがうっ!」
 イヤとかそういう次元の話じゃないっ! ありえなさすぎるんだっ! しどろもどろでそう弁解した藤井に、富永はもう一度魅惑的な微笑を見せた。
「前々から先生には目をつけていました。かわいいなあって。今回、先生が顧問を引き受けてくださると聞いてどれほど嬉しかったか」
 目をつける? やっぱりそれは生徒から教師に向けて使われる言葉だろうか。考えていると、
「おイヤじゃないなら、もう一度いいですね?」
 何事か確認を求められ、その意味を理解するより早く……。
 藤井の唇は再びねっとりと富永のそれに吸い上げられていた。





 地に足がつかないというのは、こういう状態のことを言うのだろうか……。
 どれほどアップになっても崩れなかった富永の美貌が、終始、脳裏にちらつく。軽く目を伏せ、徐々に近づいてきた、怖いほど整った顔。唇を吸っていった形のよい唇。『かわいい』『目をつけて』 『うれしい』囁かれた甘い言葉。頭の中でエンドレスに再現されるキスシーン。
 あの唇が、自分の唇に……。
 藤井の頭は熱っぽくぼうっとしたまま、なかなか元に戻らなかった。





 次の日も、その次の日も。
 富永はヒマを見つけては藤井のいる生物・地学準備室に現れた。
 淡々と生徒会の活動についてポイントを押さえた説明をし、そしてそれが終わると当然のように藤井にキスを求めてきた。
 ――相手は生徒だ……これはタチの悪いイタズラかもしれない……。
 そう思いながらも、冷たい無表情が崩れてその顔に笑みが浮かび、手を差し伸べられると、藤井はもうなにもわからなくなってしまう。
 気が付けば、激しい口づけの余韻に陶然となっているところを頭ひとつ分背の高い富永の胸に抱き締められ、「かわいい」、ささやかれて髪を弄られていたりするのだ。
 イタズラでもなんでもいいとさえ思う。
 これほど恵まれた容姿の、才能豊かな青年に本気になってもらえるはずなど、最初からないのだから……。





 顧問を引き受けてからちょうど一週間目だった。定例役員会が開かれると知らされて、放課後、藤井は生徒会室を訪れた。
 正直、気は重い。ドアを開いた直後から、藤井は回れ右をしたくなった。
 会長富永はもちろん、藤井がその人生でできれば関わりを持たずに過ごしたいような美男美女が、そこにはそろっていた。時間より早く来たために、まだ各クラス代表はそろっておらず、 役員たちは前のほうにかたまって談笑していた。まるでそこだけ花が咲いているような華やかさ。
 その中の一人が振り返った。
「あ、藤井先生!」
 くっきりした二重の目と褐色の肌が印象的な、副会長の河原だった。
「顧問の先生の席はこちらですよ、どうぞ」
 役員につぐ席を指し示され、藤井はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いいよっ僕はもっと端っこで!」
「なに言ってんですかぁ、顧問の先生はここですってば」
 河原は輪の中から抜けてくると、藤井の腕を取り、ぐいぐい引っ張った。富永とはタイプがちがうけれど、やっぱり「眉目秀麗」という言葉がぴったり来る少年を間近にして、藤井の頬に血が上る。
「今日の議題は文化祭ですからね。前年度を参考にすることが多いと思いますけど、わからないことは討議中でもどんどん聞いてくださいね」
「あ、ありがとう……」
 しどろもどろに藤井は河原に礼を言い、椅子を引かれた席に着いた。河原が手元をのぞきこんでくる。
「資料はそろってますか、先生? これと……これと、ああ、だいたいありますね」
 そんなふうに河原に世話を焼いてもらいながら、藤井はふと刺すような視線を感じて顔を上げた。
 富永だった。
 富永がにらんでいる。
 ざっと全身に冷や水を浴びせられたような気がした。
 なんでだ!? 理由はわからなかったが、とにかく富永の不興を買ったことだけは、その怒りに光る双眸を見れば明らかだった。
 その日の会議は藤井にとって針のムシロだった。





 会議が終わり、藤井は逃げるように生徒会室を後にした。
 富永は表面上はまったく平静に無表情に議事を進行させたが、藤井に視線が向く時だけはその瞳の底に怒りがあるのが見てとれた。
 自分に向けられた、美貌の人の冷たい怒り。
 役員会の間中、藤井はいやな汗をかき続けた。
 だから、会議が終わるが早いか、自分のテリトリーである生物・地学準備室に逃げ込んだのだったが。
 ほおっと藤井が息をつき、コーヒーでも飲むかと立ち上がったところに、
「失礼します」
 語気鋭く、富永が乗り込んで来た。
 するりと室内に入ってくると富永はくるりと後ろを向いた。きちんとドアを閉め、カチリ、鍵を閉めている。なぜ鍵を? 疑問を口にできない藤井の横をすたすたと通り過ぎると、富永は次に生物・地学室に通じるドアまで施錠した。
 まさか、これは密室状態?
 ようやく事態を把握した藤井の正面に、富永は腕を組んで挑むように立つ。
「……えっと……?」
 恐る恐る見上げれば、ぴくり、富永の片方の眉が跳ね上がった。
「あなたがこんな人だとは思いませんでしたよ、藤井先生」
 低く地を這うような声になじられた。
「若い男なら誰でもいいんですか、それとも河原のほうが本命だったんですか」
「は、はあっ?」
 富永はイライラした仕草で髪をかきあげた。
「先生は誰にでもあんなふうに気のある素振りを見せるんですね。まさか先生がそんなことをする人だとは思わなかった。簡単に本気にして引っ掛かったわたしを見て、さぞおかしかったことでしょう」
 富永の言うことはとんでもなさ過ぎて、藤井の頭には半分も意味が通ってこなかったが、それでも、なにかとんでもない誤解をされていることだけはわかった。
 藤井は必死の弁解を試みる。
「き、気のある素振りってなんだ……ぼ、僕はそんなこと……」
「赤くなったでしょう」
 富永が間髪入れずに答える。
「ひどく慌てて見せたり、うろたえて見せたり……あなたはわたしに気があるのだと思わされてしまいましたよ」
「ち、ちがう!」
 深く考える余裕もなく、藤井は激しく首を横に振っていた。
「き、気があるとかそんなんじゃない! ぼ、ぼくは昔から綺麗な人が苦手で……!」
 富永の瞳がいっそう剣呑に光りだし、藤井は自分の失言を悟った。
「……なるほど。あなたは最初からわたしのことなど好きでもなんでもなかった、ただ、苦手なタイプだったと、そういうわけですか」
 ごくりと藤井は唾を飲んだ。
 藤井にしてみれば、自分とは天と地ほどもかけ離れた美しい富永に想いを寄せるなど、それだけでおこがましいと思えるのだが、いまさらそれを言っても遅いような気がした。
 ずい。富永が距離を詰めてくる。
「でも、どうしましょうね? 先生」
 目は笑っていない。笑っていないのに、口元はくっきり笑みの形を描いている。怖い。なまじ綺麗なだけに怖すぎる。無意識に後ずさった藤井は後ろの棚にぶつかった。
 もう後ろに下がれない藤井の両側に手をつくと、富永は藤井の退路を断った。
「どうしましょうね? 先生は誰にでも赤くなって、あんなにかわいい顔を見せるのに。わたしが欲しいのは先生だけなんです。先生はわたしが苦手なだけかもしれなくても、わたしは先生に本気になってしまったんです」
 ふるふると藤井は首を振った。
「……あ、ありえないから……それ」
 すうっと富永の双眸が細くなる。
「ありえない?」
「だだだ、だって、君みたいに綺麗な人が……ぼ、ぼくみたいな……」
「わたしが先生に本気だと、信じて下さらないと?」
 信じる信じない以前に、藤井にとってそれは「ありえない」のだが。
「いいでしょう。では、わたしはわたしのやり方で、自分の本気を証明する」
「証明?」
 オウム返しに問い返した藤井に、富永は深くうなずいた。
「ええ。あなたをわたしのものにします」





 意味がわからなくてさらなる説明を求めようとした藤井の口は、富永の強引な口付けでふさがれた。
 ――今までのキスとはちがう……。
 唇は何度も何度も角度を変えてこすりつけられ、唇の狭間を割るように差し込まれた舌は藤井の口のなかにあるもの全てを舐め取ろうとするかのように激しく蠢いた。激しいキスに、カシャンと軽い音を立てて、ずれた眼鏡が床に落ちた。
「……ふ、……う、んっ……ぅ……っ!」
 抗議の声のつもりが、上がったのは甘い鼻声。
 熱い唇、熱い舌。放埓に口腔を蹂躙されて、背中に何度も何度も震えが走る。
「あ、とみな……」
 押しやろうとしたつもりの手は、逆にかたく富永の制服をつかんだ。
「好きだ」
 耳たぶを咥えられ、首筋から背中まで一気に肌がざわめいたところに、低く激しいささやきが吹き込まれた。
「俺のものになれ」
 早くも涙で滲み出した視界いっぱいに、荒々しい獣の表情を浮かべた富永がいた。感情の激さない冷静な生徒会長の仮面をかなぐり捨てた、欲望を剥き出しにした富永が。
 ――綺麗だと思っていた。ギリシャ彫刻を思わせる、男性美の粋を集めたような富永の容姿を。でも。本当の富永の内面が、こんなに怖くて荒々しいものだとは知らなかった。こんなに……引きずられてしまうぐらい魅力的だなんて、知らなかった……。
 かちゃかちゃとベルトを外される音がした。じーっとジッパーを下げる音もした。
 抗議すればいいのか、恥ずかしがればいいのか、藤井が戸惑っている間に、今度は乱暴な手にズボンも下着も一緒にひきずり下ろされた。くるりと身を返されて棚にすがりつくようなポーズを取らされる。
「え、え、なに?!」
 あわてて後ろを振り返ろうとしたその時、お尻の狭間になにか、熱くてさらりとなめらかな感触で、しかも硬いものが押し付けられてきた。ソレは丸っこい先端で藤井の狭間を探るように動いて……探していた一点を見つけた瞬間に凶器に変わった。
「ああっ! い、痛いっ!! やだ……っ! あ、アアアッ!!」
 ぐうっと体内にめり込んで来る大きくて硬いもの。藤井はあまりの痛みに悲鳴を上げた。
 その口はすんなり形よい指を持つ手に塞がれた。
「先生、大きな声を出さないで」
「だ……だって……! い、痛すぎる……!」
 その会話の合間にもソレは進みこそすれ、引いてはくれなくて。
「い、痛い、痛いよ……」
 ぽろぽろと涙がこぼれた。
「先生……」
 顔だけ後ろを向かされた。彼のほうも痛みをこらえているような、麗しい眉間に皺を刻んだ富永の顔が間近にあった。
「やめて差し上げたいけれど、今はダメです。河原なんかにあんな可愛い顔を見せた、これは罰ですよ」
「と、とみなが……」
 きゅうっと口を吸い上げられた。
「富永じゃない、鴻臣(ひろおみ)です」
「……ひっひろおみっ!」
 もう訳もわからないまま、教えられた名を口にした瞬間だった。
 ぐぐっ! 体内に入りかけていたそれが、大きさも勢いも増しながら最奥へと突き入ってきた。
「ひぃっ!」
 悲鳴はまた柔らかなキスに覆われて。
「……先生……仁志」
 額に汗を光らせたアドニスは、その犠牲者が一瞬痛みすら忘れるほど優しい微笑を浮かべた。
「あなたはもう、わたしのものです」





 そして、わたしは、あなたのもの――





   *     *     *     *     *     *





 ありえないと思っていたことが日常になる。
 それでも藤井は二言目には『僕なんか』と口にして、美貌の恋人を怒らせた。
「わたしの容貌を褒めて下さるのは嬉しいですが、これだけまっすぐあなたのことが好きだと伝えているのに、僕なんか僕なんかと繰り返されると結局わたしの言うことなんか本気にしてもらってないのかと思えてしまう」
 そんなことは……と藤井がうろたえれば、
「あなたにはもっと強烈に思い知らせなければ駄目なようですね……」
 恋人は低く呟き、いつにもまして執拗で恥ずかしい行為を藤井に仕掛けた。――藤井が泣いて許しを請うてもやめてくれないで。
 そんなふうに、半ば引きずられるように関係を続ければ……富永鴻臣という、少し意地悪で、見掛けよりはるかに熱情派な彼の素顔がいやでも見えてきて。それは富永の恵まれた容姿以上に藤井には魅力的に見え、 気が付けば同性だとか年下だとか生徒だとか気にする余裕もないほどに、藤井は富永に溺れていた。
 熱くて淫らな恋人関係。
 その交際は思わぬところで藤井の『弱点克服』に役立った。富永のような美男とそれこそ鼻先を触れ合わせるような付き合いが続くにつれて、例えば副会長の河原相手にも、藤井は赤面せずに話ができるようになったのだ。
 それについても富永は、「河原には普通に笑ってるくせに、なぜ、わたしの前だといちいち赤くなるんですか」と、やっぱり怒って来たけれど。
 その点についてだけは、やっぱり赤くなってどもりながらも、藤井は弁明したいことがあった。
「だ、だから……これは、苦手でどうしていいかわからなくて赤くなってるんじゃなくて……」
「なくて?」
 問い返す人の二つの瞳は漆黒の夜空、煌くのは星々の瞬き。――ああ、本当に綺麗だ……。
「き、君のことが、ド、ドキドキするほど好きだから……」
 だから赤くなっちゃうんだよと続くはずの言葉は、重なる唇の狭間に消えた。





                                                         了







 

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