酔いが醒めてからも、やっぱりぼくは考えた。
おかしい……やっぱり、絶対、おかしい。
岡谷先輩と前橋先輩が付き合っていた、それはいい。
じゃあ、でも、なんで二人は別れたんだろう? 前橋先輩が東のことを好きになったから? だから別れた? じゃあ、岡谷先輩がぼくにくっついてくる理由は?
それは二人に聞いてみないとわからないことだと思う。
二人のことは、二人のこと。
それよりもっと、おかしくて、変なのは……
「じゃあ、俺、罰ゲーム。焼酎一気、行きます」
立ち上がった東におおーって打ち上げの座がどよめいた。
東はコップ一杯の焼酎を、水でも呑むみたいにくーっと空けて。前橋先輩がわあっと泣き出したんだ。
「ひどいよ! 東くん!」
ひどい? どっちが?
東がいやがってるのに、つきまとう前橋先輩はひどくない? 東が焼酎一気までしなきゃならない状況は、ひどくないのか?
でもそれって……前橋先輩だけが悪いのか? 今の状況って……
「後輩の人付き合いの仕方には口を出すのに、ムチャな飲み方は注意していただけないんですか」
ぼくの背中をさすりながら、東が岡谷先輩にきつい口調で噛み付いていた。岡谷先輩はなんかまた、持って回った言い方で反論していて。
やめてくれってぼくは思った。東の前で、ぼくのことを「可愛くてほっとけない後輩」みたいな言い方するのはやめてくれって。
思ったのに。思ったのに。
ぼくはなにも言えなかった。
おかしいよ……これ、絶対、おかしい。
ぼくはそのことを考え続けた。
慣れない考え事なんかしたせいだ。
合宿から家に戻って来た次の日、洗い物を出した後のスポーツバッグを整理していたぼくは、サイドのポケットに入り込んでいた一冊の手帳を前に、臍を噛んでいた。
手帳。ぼくのじゃない。
誰のだ。
悪いと思ったけれど、持ち主の手がかりが欲しくてぱらぱらめくってみたら、手帳にはぎっしりと会社訪問や就職案内のメモが書かれていた。
岡谷先輩の手帳だった。
あちゃ〜と思った。
同じ部屋だったから、きっと、チェックアウトのどさくさで紛れ込ませちゃったんだ……
ぼくは手帳を見つめてため息をついた。
就職活動も追い込みのこの時期、この手帳がなかったら、先輩は困るだろう。
あの先輩に自分から連絡をつけることを思うとタメ息が出たけれど、このままにもしておけない。
ぼくはしぶしぶ、先輩の携帯に電話した。
「あーよかった! きのうからずっと探してたんだよ! 君が持っててくれたのか!」
きのうからずっと。さりげないセリフがずんと来る。
「すいません。ぼくがうっかりしてて、間違えて持ってきちゃったみたいで」
本当に申し訳なくて謝ると、
「見つかってよかったよ。困ってたんだ」
先輩は嬉しそうに言う。もうそうなると、少しでも早く届けなきゃいけないみたいな気がして。
「どうしましょう?」
聞いたら、「じゃあ、学校のクラブハウスまで持ってきてくれないかな」と言われた。
ぼくの家と岡谷先輩の家はちょうど学校を挟んで真反対になる。家まで持ってきてくれと言われなかったことに、ぼくはほっとした。
「いいんですか? 学校で?」
「ああ。ちょうど就職相談室に行かなきゃいけない用事があるから。君には手間を取らせて申し訳ないけれど。あ。それともぼくがそっちまで取りに行こうか?」
逆にそんなふうに言われて、
「いいですいいです! ぼくが間違えて持って帰ってきちゃったんだから……学校までちゃんと届けます」
ぼくは慌ててそう答え、次の日の夕方、先輩とクラブハウスで待ち合わせることに決めて、電話を切った。
一番暑い時間帯を避けたはずだったんだけど、駅から出るとどっと汗が噴き出して来た。
ふう、思わずタメ息をついた時、ジーンズのポケットに入れてる携帯が震えだした。
着メロから東だと知れる。
「なあ、今から会えない?」
東に誘われた。
「岡谷と前橋のことでさ、ちょっとおまえの耳にも入れときたいことがあんだけど」
「ぼく、今からその岡谷先輩と会うんだけど」
ちょっと居心地の悪さを感じながらそう告げると、電話の向こうで東が固まった気配が伝わってきた。
「あー! 全然! 別に、特別なことじゃなくて! 先輩の手帳をぼくが持って来ちゃってて、それを届けにクラブハウスに行くだけ!」
慌てて早口で説明する。
「そっか……ならまあ……。じゃあ、話だけしとくけど、岡谷と前橋、あの二人、サークルでは別れたことになってんだけど、今でもホテルとか行ってんだよ」
「……え」
わけがわからなかった。
「え……だって、前橋先輩、東に告白してきたんだろう?」
「あんなヤツらがどういうつもりで、なに考えてんのかなんて、気持ち悪いから知りたくもねーけど、とにかく、ヘンなんだって」
うーん。ぼくは唸った。そういうのが、あれなんだろうか、オトナの付き合い方? うーん、わかんない。
「あの二人、別れた理由ってのは、前橋が俺に心変わりしたからだって言うんだけど、岡谷はそれを怒りもせずに、人を好きになる自由は奪えないとかなんとか、たいそうなことを言ってたらしいぜ。なんつーの、理解ある男? そういうのを気取ってんだろ。マジうぜー」
「うざいとは思わないけど、なんか気持ち悪いよね」
しゃべっている間に、ぼくは校門まで来ていた。
「今から岡谷に会うなら、気をつけろよ。どういうつもりか、わかんねーから」
東が念を押してくる。
「まあ、今でも前橋とヤッてんなら、そう心配はないだろうけど」
ぼくもそう思った。
それがどれほど甘い考えだったか、なんて、その時のぼくには知りようもなかったから。
クラブハウスの中にあるテニス同好会の部屋の鍵は、岡谷先輩が総務課から借りて来てくれることになっていた。
プレハブ建ての安い造りの階段を上がり、突き当りの部屋のドアをノックする。
「岡谷先輩、高橋です」
「どうぞー」
中からのんびりした声がして、ぼくはドアを押し開いた。
「やあ。手間をかけさせたね」
部屋の中は両側にロッカーが並び、中央に細長いテーブルとベンチが並んでいる。そのベンチの中央に腰掛けていた岡谷先輩は広げていた本を閉じると、ぼくを振り返った。
「ぼくがうっかりしてて……すみません」
先輩に手帳を差し出す。もうそれで用事は済んだつもりだったんだけど……。
「高橋、少しぐらい時間あるだろ? ちょっと座れよ」
ベンチをまたぐ形で座った岡谷先輩に、そのベンチの端をとんとんと指し示されてしまった。ためらっていると、
「せっかくクーラーも効きだしたのに、すぐに帰ったらもったいないだろ」
そう言われた。確かに部屋の空気は外気より涼しくなっていて、岡谷先輩が気をきかせてくれたのかと思うと、それを無下にするのも悪い気がしてくる。ぼくはしぶしぶベンチの端に腰掛けた。
「東のことなんだけど」
先輩が切り出した。
「高橋が言いにくいなら、俺から東に距離を取るように言ってやろうか」
なにを言われたのか。瞬間、意味がわからなかった。
「……えと……なんの話ですか、それ?」
「あんなに視野の狭い人間にくっつかれていちゃ、高橋も息が詰まるだろう? だから、ぼくから東に、高橋にこれ以上かまうなって言ってやるよ」
口があんぐり開きかけたけど。
「別に……ぼくは東の視野が狭いとも思いませんし、息が詰まってもいません。勝手なことを東に言わないで下さい」
ぼくとしてはかなり毅然と先輩に言い返した。
けど、先輩は軽く肩をすくめたりなんかして。
「高校時代の友人だから、近すぎるんだろうね。君には東の幼稚な部分が見えてない」
ため息混じりにそう言った。これにはぼくもかなり、きた。
「東は幼稚なんかじゃないと思います。先輩、前橋先輩を東に取られたからって、東のこと悪く言うの、やめて下さい!」
きつい口調で言ったのに。先輩は薄ら笑いを浮かべた。
「ほらね。そういう近視眼的なものの見方がね、幼稚なんだよ。おおかた、それも東に吹き込まれたんだろうけれど、ぼくと保奈美はそういう世間一般のつまらない物差しでは計れない次元にいるんだよ」
思わず眉が寄った。なんだか、ひどく気持ちの悪い……
「確かにぼくと保奈美は恋人関係は解消したよ。けれど、それを取ったとか取られたとかいう次元では考えていないんだ。ぼくらは自由な大人として、お互いがお互いの視野を広げるのを決して邪魔したいとは思わないんだよね」
ぼくは腰を浮かせかけた。もう気味が悪くて、これ以上、先輩の言うことを聞いていたくなかった。
「せ、先輩と前橋先輩がどう付き合おうと、それは先輩方の勝手です。同じように、ぼくと東がどうつきあおうと、それはぼくたちの勝手です」
失礼します、と言い掛けて。
立ち上がりかけていたぼくは手首を岡谷先輩に握られて、声を飲んだ。
「保奈美はね、最初、君が東に付きまとってるって言ったんだ。東が困ってるからなんとかしてほしいって。ぼくはね、いくら元恋人の言うことでも鵜呑みにしちゃあいけないってわかってたからね、しばらく君たちを見てたんだ。そしたら、保奈美が間違っていることがわかった。君じゃない、東のほうが君にべったりなんだ。恋は盲目って言うけれど、保奈美も見る眼がくもってしまっていたんだね」
そんなことはどうでもよかった。前橋先輩も岡谷先輩もおかしい。ぼくにはそうとしか思えない。
「手、離して下さい!」
「離さないよ」
下から先輩がねっとり笑って見上げてくる。
「東は幼稚で下品だけれどね、ただ、人を見る眼はあるね。君はすごく可愛い。東がべったりしたがる気持ちはわかるよ」
先輩の言いように鳥肌が立った。比喩じゃなく。
「ぼ、ぼくたちは、あ、東がぼくにべったりしてるだけじゃなくて、ぼ、ぼくも東のことが好きだから、だから一緒にいるんです!」
これだけははっきり言っておかなきゃならない。ぼくは寒気をこらえながら懸命に胸を張り、そう主張した。だけど。
「君も東のことを好きなのはわかるよ。でも、それは、狭い狭い限られた視野の中のことだろう? もっと自由に周りをみてごらん。ぼくは君の世界を広げてあげたい」
そう言って、先輩はぐっとぼくの手を引いた。ベンチに足が引っかかってよろめいたぼくは、やすやすと先輩の胸に抱きこまれてしまった。
「は、離して下さいっ!」
「ぼくのものになれ、高橋」
先輩に耳元で気持ち悪くささやかれて、立っていた鳥肌が一気に二倍か三倍ぐらいにまでふくらんだ。
「ま、前橋先輩と、ホ、ホテル行ってるくせにっ…!」
先輩の気持ちの悪い腕から逃れようと必死に暴れながらぼくは糾弾した。
「い、言いつけますよっ!」
「わかってないねえ」
先輩が薄ら笑う。
「保奈美とぼくは快楽と精神をきちんと分けて考えられるんだ。保奈美の精神は東を求めてる。だから、ぼくは元パートナーとしてそれを応援する。同時に、まだ東が満たそうとしない保奈美の快楽の部分も、ぼくが満たしてあげるんだ。ぼくのものになってごらん、そうしたら、君にもわかるから」
わかりたくもないっ!!!
寄せられる先輩の顔を必死で押しやりながら、ぼくはゲイとしては口にしたくないことを口にした。
「ぼ、ぼくは男ですっ! き、気持ち悪くないんですかっ!」
「ああ、やっぱり」
先輩が声を立てて笑った。
「そう思うんだ? じゃあ、君と東はやっぱり仲がいいだけの友達同士なんだな。疑ったこともあったけど」
凍った。
ちがうと言いたかった。ぼくと東は仲がいいだけの友達同士なんかじゃない。だけど……。自分がゲイだと、自分たちがゲイカップルだと、ぼくはまだ一度も人に対して認めたことはなくて。それは絶対に隠しておかなきゃいけないことで……。
「君ぐらい可愛ければ、ぼくとしては無問題だな。だいじょうぶ、ぼくは優しいよ」
無理矢理抱き締めておいて、なにが優しいだっ!
その時。
先輩がはっと顔を上げた。
え、と思う間もなく、先輩はぼくを放り出し、すごい勢いでドアに飛びつくと鍵を回した。カチリと鍵がかかる。
え、え、とまだ状況が飲み込めないぼくは出遅れた。
先輩は一足飛びにぼくのところに戻ってくると、またぼくをぎゅっと抱え込んだ。
「やだ……!」
叫びかけた口は先輩の手で覆われる。
その時になってぼくにも聞こえた。
二階の廊下をやってくる足音。
足音は部屋の前で止まると、コンコン、ドアをノックした。
「……!!」
助けを求めようと声を上げたくても、先輩の手ががっちりぼくの口を押さえている。
覆いかぶさるように抱き締められていて、身動きもままならない。
ドアの外にいる人は、次にドアノブをがちゃがちゃやった。
開くわけない。先輩が鍵をかってしまったんだから。
「…………」
祈りむなしく。
ドアの外から、今度は遠ざかっていく足音が聞こえた。失望で、足から力が抜けるような気がした。もしかしたらって、思ったんだ。もしかしたら……東がって……。
ぼくの失望とは裏腹に、先輩は一度に元気になった。
ぼくを抱え込む手にぐっと力がこもる。
「総務課にはもうこの部屋の鍵はない。もうこれで邪魔は入らないよ、高橋」
にやにや笑いが見えるような声で言われて。
抱え込んだ手で股間をまさぐられて。
――……『すぐる、好きなんだ、好きなんだ』そう言いながら伸し掛かってきた、黒い大きな身体……ぼくの脚を膝裏で押さえつけた容赦を知らない手……そそり立っていた、赤黒い剛直……
レイプの記憶がフラッシュバックした。
「い、いやだっ!!」
あんな思いはいやだ、二度と、いやだ!
あの時は気が付いたら手を縛られていた。だけど、今度はちがう。いやだ、ぼくはいやだ。二度とあんなふうに踏みにじられたくない!
ぼくは思い切り激しく身をよじり、脚を振り上げた。
「放せっ! 放せえっ!」
絡んでくる腕に噛み付き、
「うわっ!」
相手がひるんだスキに脇を擦りぬけた。ドアを目指す。
あと一歩……!
そう思った瞬間に、でも、がしっと肩を掴まれた。
「いやだっ! 放せ……っ!」
叫んだ時。ドンドン。ちょっと乱暴なノックの音がした。ありえない方角から。
「あっ」
思わず先輩が叫んだのもわかる。
ここは二階なのに。ドアじゃない、窓の向こうに、東が立っていた。
そこは鍵のかかってなかった窓をするりと開けて、ひらりと東は部屋の中に降り立った。
ぎらつく瞳。
「……なにやってんですか、先輩」
低い声が、怒りのために震えている。
「なにやってんですか」
「なにって、別に……」
つかんでいたぼくの肩を離し、先輩は笑おうとした。東はまっすぐに先輩の前まで歩み寄る。
「秀に、なにしようとしたんですか、先輩」
胸の前で拳に握られた東の手。関節が白く浮いている。
「だから、別に……」
先輩は笑いながら、でも、手を後ろにそろそろと伸ばした。その先にラケットがひとつ、立てかけられているのを見て、ぼくは先輩の意図を悟った。
「東、あぶな……!」
ぼくが叫ぶのと、ダアンッ! 床が震えるほどの勢いで、先輩が背中から床に倒れこむのが同時だった。
ひらっと、視界の隅で東の足が動いたように見えたのが、東が先輩に足払いを掛けたものだとぼくがわかったときには、もう東は先輩の上に馬乗りになっていた。
「ぐぇっ」
先輩の口からつぶれたカエルのような音が上がる。
東は片膝を先輩の胸の上に突き、両手で先輩の喉元を締め上げていた。
「さあ」
無表情な東の顔の中で、眼だけが異様に白く光る。
「選んでもらいましょうか。アバラ折られるのと、喉つぶされるの、どっちがいいです?」
いや、それはいくらなんでも選択肢少なすぎるし。
同じ事をきっと先輩も思ったにちがいないと思うんだけど。そんなことを言おうものなら、そのまま首を絞めかねない凄みが東にはあった。
「ぐぅ……」
先輩は顔を歪め、苦しげに呻く。
ダン! 先輩の頭が床に打ち付けられた。
「……ほら。選べよ。アバラと喉、どっちか選ばせてやるって言ってんだよ。俺、短気なんだよ、先輩。さっさと答えてくれないと、両方、いっちゃうよ?」
東の目が、底光りしていた。
つづく
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