携帯を切るとすぐ、俺は店を出るときに身につけていたバッグだけを手に取った。
迎えに来てと言って、そのまま加地さんが来てくれるのを待つだけのつもりは俺にはなかった。
この二日でいろいろハーキムからプレゼントされたものはあったけれど。
泡沫の夢。
加地さんのところに戻ると決めた俺に、なんの未練もあるはずはなかった。
俺は最初に持っていたバッグだけを手に、一泊何十万とするだろう、そのスイートを出ようとエントランスへと向かった。
だけど。
外の世界へと通じるはずのドアには鍵がかけられていた。押しても引いても開かない。
ドンドンと中からドアを叩くと、外から、
「なにか御用でしょうか」
慇懃な声がする。
「ここから出たいんです。鍵を開けてください」
頼むと、
「それはできません。ジャリール様が戻られるまで、このドアは決して開けるなとのことです」
なんだそれ……なんだよ!
「いいから開けろよ!!」
瞬時に沸騰した怒りにまかせて、俺はドアをがたがた言わせた。
「腹がいてーよ! 頭もいてーよ! 救急車呼べよ! 俺をここから出せ!」
「なにをおっしゃられようと開けるなと、きつく申し付けられております」
取り付く島のないビジネス慇懃な物言いに、俺はこぶしを握り締めるしかなかった。
それでも……俺は加地さんが、すぐにそのドアを開いて入ってくるだろうことを、その時は疑ってもみなかった。
俺は子どもだった。
甘かった。
何分、何時間たっても、加地さんは現れなかった。
待ちきれなくてフロントに電話をかけた。
「ぼくを訪ねて来た人がいませんか」
「当ホテルでは、」
落ち着いた男性の声が俺に応えた。
「ご利用いただいているお客様に著しく不快あるいは不安を与える方のご入館はご遠慮いただいております」
あ……無音のまま、口が開いた。
黒っぽいスーツ、シルクの眼帯、見るからに堅気ではない加地さんの風貌。
「でも……でもっ!」
俺は必死で受話器を握り締めていた。
「お、俺の客なんですっ! 俺を迎えに来てくれる約束で……!」
「申し訳ありませんが、そういうお話はうかがっておりません」
「い、今、話したんだからいいでしょうっ! 次は……次はちゃんと部屋に通して……」
「当ホテルではセキュリティの観点から、スイートをご利用のお客様の直接のご許可がない方はご案内できないことになっております」
のらりくらり。
ただ、加地さんがこのホテルで門前払いされたことだけはわかった。 そして……この部屋にはハーキムの許可がない者は上がってくることもできないことも。
俺はずるずると床に座り込んだ。
――どうしよう……どうなるんだ、俺……。
そうだ!
床を這うようにしてテーブルへ近づき、バッグへと手を伸ばした。
なんとかしてこのホテルを出る!
そのことだけはしっかりと加地さんに伝えなきゃ……!
俺は携帯を手にした。
だけど……。
何コール待っても、ついに通話が留守番センターの案内を流し始めても、加地さんの声は響いてこなかった。
朝は……飛びつく勢いで出てくれたのに……!
狂ったように何度も何度も、俺はリダイヤルし続けた。
あんまり必死で。
電話の向こうの呼び出し音を聞くのに必死で。
背後にハーキムに立たれるまで、俺はハーキムが帰って来たことに気づかなかった。
「誰に電話を?」
突然、後ろからそう問いかけられて、飛び上がるほど驚いた。
「ハ、ハーキム……!」
「誰に?」
振り返れば、ハーキムの後ろにはいつものハーキムの部下達もいる。部下の前では決してヒゲを取らないハーキムは、ベッドの中でふざけている相手とはちがうみたいで……。
「誰に連絡を取りたかったの、リョーガ?」
重ねて問う声に力がある。
「……店の、オーナーに……」
床に座り込んでいた俺の顔を、ハーキムはまじまじと見下ろしてきた。
「どうして?」
「ど、どうしてって……」
「商談はもう済んでいる。リョーガがオーナーの意向を気にする必要はない」
ちょっとカチンと来た。
「商談って、俺を買い取る話ですか」
「君の自由を買い取る話だよ」
ハーキムは澄まして答える。
「だけど……!」
加地さんは俺を手放したくないと言った。
迎えに来てくれると言ったんだ。
「店のオーナーは……ああ、なんと言ったかな、そう、カ、チ、だ。カチ。ずいぶんと手こずらされたよ。一千万円でお釣りが来てもいいものを、イエスと言わないんだ」
ヒゲの中で、ハーキムの口元が笑みの形に持ち上がる。
「彼は、リョーガを取られたくなかったみたいだな」
「…………」
「ああ、だが惜しいね」
なにが惜しいと言うのだろう?
「彼は組織の人間なんだ。いくら彼が金を受け取りたくないと言っても、彼のボスが命じたら、彼はそれを受け入れざるを得ない」
え……
「……仕方ないね。マフィアとはそういうものだ」
俺は茫然とハーキムの顔を見上げていた。
――思い出す。店に出る前に、俺を『味見』していった加地さんの兄貴分たち……。
加地さんは店に出てる俺たちにとって絶対的な存在だったけれど、その加地さんにも、やっぱり逆らうことの出来ない絶対的な存在があるんだ……。
「もうおまえは、カチに会う必要はない」
脱力して床に手をつき、しかし、やっぱりこのまま黙っているなんて、俺にはできなかった。
一千万がなんだ。800万と比べたら、たった200万しかちがわないじゃないか。
200万、いきなり払えって言われたらビビるけど、800万の借金が一千万になっただけのことだったら、どうってことないような気がしてくるから不思議だ。
……いや、でも、店で俺はかなりの額の借金を返してたはずだから……差額で言うと……
ちがう! そういう問題じゃない!
俺はハーキムを上目遣いで睨み上げた。
「……なんだかんだ言って……俺の親がひどいとかわかってるようなこと言って……俺のこと、大事にしてくれてるみたいなこと言って……でも、あんた、やってることはヤクザと同じじゃないか。あんただって、金で俺を自分の好きにしようとしてるだけじゃないか」
なんてことを言うんだとでも言うように、ハーキムは肩をすくめると首を振りながら長々と嘆息した。
余裕ぶっこいたその態度に、いっぺんに頭に血が上る。 「ヤクザと同じだよ! 俺の気持ちなんて考えもしない! 金の力でなんでも思い通りになると思ってる!」
叫びたてた俺の言葉の合間に、
「男娼のくせに」
その声がぽつりと聞こえた。
誰だかわからなかったけれど、ハーキムの背後に控える男たちの一人にちがいなかった。
ハーキムが声の主をたしなめるように、後ろの男たちを押さえるような仕草をした。
「リョーガ。君はなにか勘違いしている」
ヒゲで下半分を覆われて見えにくい中でも、ハーキムの表情が悲しげなのは見てとれた。
「わたしは君に“自由”をプレゼントしたいと言ったはずだよ。君がほかの男に抱かれると思うのが我慢ならないだけだと」
それは……確かにそうだったけれど……。じゃあ、俺はこのまま本当に自由の身になれるのか……?
「もちろん、君が自分の意志でわたしについてくることを選んでくれることを期待してはいたけれどね……しかし、」
そこでハーキムは思わせぶりに言葉を切った。
黒い瞳がなにかを疑うように俺の目を見つめる。
「……君は自由になってもわたしのところへは来てくれそうもないな。ちがうか?」
俺は小刻みに首を横に振った。
「俺は……俺は……日本から出ない」
「そして? カチという男の元へ戻るのか?」
ハーキムの問いに、俺は虚を突かれた。
――自由の身になって……借金という枷もなくなって……俺はどうするだろう? 二度と加地さんに会えなくても、本当にいいだろうか……?
もうずっと前、店に出ることになる前に、そんなことを考えたことがあった。
借金を返したら、加地さんとの縁も切れるんだろうかと。
今、その「自由」が眼の前にあるとして……俺はどうしたいんだろう? どうするつもりなんだろう……?
パチッ!
指を鳴らす音がした。
はっと顔を上げれば、ハーキムの合図に、背後に控えていた男たちが俺のほうへと向かってくる。
ハーキムは残念そうに首を振った。
「そんなに考え込まれるとはね……相手はマフィアなんだよ? 戻るわけがない、二度と会いたくない、賢い君ならそう言うと思っていたんだけれどね」
二人の男が両脇から俺の腕をつかんで引き上げる。
「君をわたしの国に連れて行く」
宣言に、俺は激しく首を横に振った。足も踏み鳴らす。
「イヤだ! イヤだ! イヤだ!」
「……そんなに加地がいいのか。ストックホルム症候群だな」
聞きなれない言葉に思わず動きが止まった。
「スト……?」
「知らないか? ストックホルムで実際にあった事件から名づけられた、誘拐などの被害者が、その異常と緊張のなかで加害者に心情的に近づいてしまう心理機制のことだよ」
その言葉のほとんどは俺には理解できなかった。聞きなれない英語の羅列に、とにかくなにか心理学的な用語らしいとの見当だけがつく。
そんなことはどうでもよかった。
「俺はあんたについていかない!」
決然と言い放つと、傍らの男が、また、
「男娼のくせに」
と、呟いた。
カッとして俺は男を振り返る。
「ちがう!」
なにかが俺の中から溢れようとしていた。
「俺は! ちがう!」
歯を剥き出して、俺は男に向かって怒鳴っていた。
「俺は……金を返さなきゃいけなかっただけだ! 俺は……俺は、好きでこんなことしてるんじゃない!! 俺は男とセックスしたかったんじゃない! 金が欲しかったんじゃない! ただ金を返さなきゃいけなかったから……!」
そうだ……俺は、自分で好きこのんで躯を売ってるんじゃない。胸にあふれる激情のまま、叫んで俺は、肩で喘いだ。
俺は確かに男娼だった。
だけど、ここは俺が自ら望んで堕ちてきた場所でもなければ、望んで続けている仕事でもなかった。
男娼のくせに、と、蔑まれても仕方ないのはわかっている。わかっていて、なお、俺は叫びたかったんだ。
俺は、好きでこんなことをしているんじゃない、と。
「多少、技巧的なところは見えたけれど、」
静かな声はハーキムだった。
「君には金に対して卑屈なところがなかった。わたしも、男娼を相手にしているという意識はなかったよ。だから、君とわたしの関係に金が介在しているのが、いつも残念でならなかったんだ」
俺はゆっくりとハーキムを振り返った。
「……でも、あなたは俺を金で買ったんでしょう? 一千万で」
ハーキムは眉間にくっと縦じわを寄せると、溜息をつきながら指で額を押さえた。――物分りの悪い子だとでも言うように。
「では、リョーガ。君を今の境遇から救うのに、お金以外の解決法があるなら教えてくれないか。暴力? 裁判? 泣き落とし?」
「それは……」
「さっきから話が堂々めぐりしている。わたしは君が欲しい。君がわたしを選んでくれないなら、申し訳ないが、少々強引な手を使わせてもらう」
映画みたいだった。
傍らの男が取り出したものを見て、俺はハーキムの本気を知った。
細い、使い捨ての注射。
「クロロフォルムをかがせるというのもクラシカルな手法なんだけれど、」
両側にいる男たちは器用に俺の手足を拘束し、俺の左手の甲に注射針が近づく……。
「あれは醒め際が悪いらしくてね。吐いたり気分が悪くなったりするそうなんだよ」
男たちは直角に注射針を刺す、なんて乱暴な真似はしなかった。肌に対して斜めに、針がゆっくりと刺されて行く……。
「その点、これはごくごく軽い麻酔みたいなものだからね。使い心地はずっといいはずだよ」
ハーキムの声がゆっくりと遠くなる。
最後に聞いた声はうつつのものか、夢のものか。
「おやすみ、リョーガ。目覚めたときには、アラブだよ」
浮遊感と落下感が混ざったような妙な感じ。
躯が浮いては落ちる感覚に、ああ飛行機に乗せられちゃったんだとぼんやり思ったのが、目覚めだった。
手足が重く、意識は目覚めても、まぶたが開かない。
……そうか、クスリを使われたから……
周囲には何人かの人がいるらしく、低い話し声と足音が交差する。
耳を澄ませているうちに、浮遊感と落下感が消えていく。
トラブル、アクシデント、そんな単語が何度か聞こえた。
「いつ飛ぶんだ」
その声ははっきり聞こえた。ハーキムの声。
「今、最終確認に入ったそうです。あと一時間ほどかと」
俺はそうっと薄目を開いた。
視界が低い。
どうやらソファみたいなところに俺は寝かされているらしかった。テーブルの脚や人の脚の膝から下だけが見える。
まだ飛行機に乗せられてないんだ!
なんだかわからないけれど、事故があって出発が遅れているらしかった。
もしかして、これtってラッキー?
チャンスだ、チャンスがあるかもしれない! ……でも、どうやって?
まだ意識が戻らないフリで俺が考えを巡らしだした、その時。
英語やアラビアの言葉が交錯する中で、突然はっきりと鮮明に、俺の耳に日本語が飛び込んできた。
「あの……こちらの方はご気分でもお悪いのでは……」
聞いた覚えのある声が、俺に向かって近づいてくる。
通訳がその日本語をハーキムに向かって訳するのを聞きながら、俺は心臓がドキドキ言い出すのを感じていた。
「お薬でもお持ちしましょうか」
ああ……。俺はこの声を知ってる。
「大丈夫ですか?」
日本語の問いとともに、俺の肩に手をかけられるのと、
「彼に触れるな!」
英語の禁止が同時に聞こえた。
俺はまるでその声に起こされたかのように、うん……と身じろぎした。
ぱっと眼を開きたいのを我慢して、ゆっくりとまぶしそうなフリを装う。
「あ! 起きられましたか! 大丈夫ですか?」
声で誰だかわかっていたけれど、眼の前にある顔に一瞬、戸惑った。
白いツンツンヘアーが黒々としたスポーツ刈りに変わっていたから。
「ご気分はいかがですか? なにかお薬でもお持ちしましょうか」
空港係員のような制服を着たヒデがかしこまった面持ちでソファの傍らに膝をついていた。
「あ……」
ヒデの眼がなにかを伝えようとしている。
――ここが大事なところだ。
目覚めたばかりの頭を俺はフル回転させた。
……ヒデはなんと言っていた……?
「……なんか……ムカムカする……気分悪い……」
俺が口元を押さえてそう言うと、ヒデの顔がぱっと明るくなった。
「今! 今、お薬をお持ちします!」
さっと立ち上がるヒデと入れ替わるようにハーキムが俺の傍らに来る。けれど、ハーキムがなにか言いかけるより早く、
「どうぞ!」
ヒデが水の入ったコップと白い錠剤を掌に載せて差し出してきた。
「やめろ。それはいったい……」
ハーキムの制止を無視して、俺は錠剤を口に放り込み、水で一気に流し込んだ。
「リョーガ……」
ハーキムが俺の顔をのぞきこむ。
「注射されたことで、君はショックを受けているのかもしれない。だが、あれは普通に医療用にも使われる、安全な……」
グウッ!
ハーキムの言葉が途切れたのは、俺の喉の奥から響いたくぐもった音のせいだった。
突然の、けれど抜き差しならない吐き気に、俺は今度は本当に口元を押さえなければならなかった。
ソファから身を乗り出す。……高そうな、毛足の長いカーペットが眼に入る。
悪いかな、ともちらりと思ったけれど、もう我慢がならなかった。
俺は身をふたつに折って、嘔吐していた。
「お客様! 大丈夫ですか!」
ヒデがかがみこんで背中をさすってくれる。
その合間。
「すいません。もうちょっと辛抱してください」
早口の囁きが俺の耳に届いた。
辛抱。
これまでに俺に起こったことを考えれば、吐き気ぐらいどうってことない。
そう笑って言ってやりたいと思う俺を、今度は刺すような腹痛が襲った。
「え、あ、あ……!?」
ごろごろごろ……。
不穏な音を立てる己の腹を、俺は必死で抱え込んだ。
「リョーガ」
ハーキムにさえ、答えている余裕はなかった。
「ト、トイレ!」
叫んで俺は走りだしていた。
トイレから出た俺は、もう壁にすがって立っているのがやっとの有様だった。
吐き気はなにかの拍子にまたすぐに喉元にまでせりあがってきそうな気配だったし、下腹部も、ヒヤリと冷たい風を頬に感じただけでまたきゅうっときそうなイヤな気配だった。
「お客様っ!」
声とともにヒデが飛んで来た。
「大丈夫ですかっ! おいっ! 急いで! 担架!!」
担架? いや、それはちょっと大袈裟な……。
けど俺に口を挟む余裕も与えず、今度は、
「こちらにっ!」
別の声が飛んで来た。
――この声もどこかで聞いた覚えが……
顔を上げると、今度は、白衣に身を包んだ暁がいた。
その後ろから、同じような白衣に身を包んだツトムが担架を支えて現れる。
「さあ、ここへ!」
「待て! これはいったい……!」
ハーキムの秘書を務める男が大股に近づいてくるのへ、
「近寄らないで下さい!!」
ヒデが叫ぶ。
「そうです」
暁がつまりながらも英語で割ってはいった。
「彼は重病の恐れがあります。誰も彼に近寄ることは許されません」
通じたのだろう、恐れるように秘書の脚が一歩引いたところで、
「さあ!」
俺を乗せた担架は、暁とツトムに担がれ、ヒデに傍らを守られて、貴賓室前の廊下を一気に走りぬけた。
急げ、急げ!
誰かに呼び止められないよう、とにかく早く! 俺たちは廊下を走り、エレベーターへと飛び込んだ。
誰もいないエレベーター。
「ヒデ……」
担架から足を下ろした俺にヒデが肩を貸してくれる。
「遼雅さん。あと少し、がんばってください。一階についたら、駐車場まで一気に走ります」
「うん……!」
「なんなら俺がおぶってやるぜ?」
脱いだ白衣を丸めながら、暁がいたずらっぽく俺にウインクする。
「やめとく。落とされそうだから」
笑って返すと、このヤローと蹴るマネをされた。
その笑いもほんの束の間。
エレベーターの扉が開いたところで、ヒデも暁もツトムも俺も、新たな緊張にさっと顔を強張らせた。
――走るんだ!
誰に見咎められようと。誰に呼び止められようと。
逃げるんだ!と。
――後から考えたら、若い男が四人、空港内を全力疾走なんて逆に目立つに決まってたんだけど。
その時の俺たちにそこに気づく余裕はなかった。
俺は腹を抱えて。
ヒデと暁は俺を抱えて。
ツトムはあたりに目を光らせて。
俺たちは空港の人ごみの中を、出口目指して懸命に駆けた。
「君たち! ちょっと!」
警備員の一人にそう呼びかけられたときには、全身から汗が噴き出した。
ツトムが振り返って、中国語みたいなイントネーションでなにか叫び返す。
「え、日本人じゃないのか」
その呟きに、暁がいっそうの早口で中国語もどきをまくしたてた。
「あー、とにかくちょっと待ちなさい! 今……」
インカムを操作しようとしている警備員の前を、俺たちはスピードを上げて走り抜けた。
もう不審者丸出し。
だけど、出口が数メートル先に迫っていた。
ここで捕まるわけにはいかない!
転ぶように走り出た出口は、タクシー乗り場だった。
客待ちのタクシーの中の一台から、
「ヒデ! こっちだ!」
叫ぶ声。
「兄貴!」
後ろに迫る、複数の警備員の足音、止まれと叫ぶ声。
開いたタクシーのドアの中に転げ込む俺たち。
急発進するタクシー。
窓にかかる手。
遠くなる追っ手の影。
――今おもっても、それはドラマの一場面のようだった。
誰が一番だっただろう。
空港の構内から一般道へと飛び出し、追っ手が来ないこないことを確認して、俺たちの緊張は一気に緩んだ。
炸裂した大笑い。
ヒデも暁もツトムも、ハンドルを握っている「兄貴」も、そして俺も、俺たちは大口あけて、笑い続けた。
ぱっちんぱっちんと、車内でのハイタッチ。
追っ手を振り切った昂揚感に、俺たちは酔った。
……だけど。
「だけど……」
笑いが少し収まったところで、俺は新たな心配に腹部がドンと重くなるような感覚を覚えていた。
「だけど、加地さんは……? ハーキムは加地さんの上の人間に話をつけたようなことを言っていたけど……俺が逃げ出して、加地さん……」
バックミラーに半分映っているドライバー役の兄貴の顔がすっと強張り、俺は俺の危惧があながち外れではないことを悟った。
「……まさか……加地さん、困ったことになるんじゃ……」
「大丈夫っす!」
俺の不安を吹き飛ばそうとするように、ヒデが大声で俺をさえぎった。……まるで、ヒデ自身にも言い聞かせようとするように……。
俺は言わずにいられなかった。
「でも、俺をさらって来いって、これ、加地さんの指示なんだろう!? そんなことして加地さん……」
「大丈夫っすよ! 加地の兄貴の左目は、親父をかばってダメになったんす。親父だって、自分の命を加地の兄貴が命がけで守って、そんで片目いっちゃったの、わかってくれてるっす! 兄貴が……加地の兄貴が、今、ちょっと、好きなことしたからって、そんでどうこう……なんて、親父はそんな人じゃないっす!」
「でも……一千万……」
「遼雅さん」
助手席からヒデが首をひねって後部座席にいる俺を見つめた。
「心配しないで下さい。今度のことは俺の独断っす。加地の兄貴はなんも関係ないっす。……親父がなんか言ったら、俺、全部ひっかぶりますから。兄貴にも遼雅さんにも、なんも関係ないようにしますから」
「ヒデ……」
ヒデの気持ちは嬉しくても、ヒデならひどい目に合ってもいいなんてわけ、絶対なかった。
暁もツトムもドライバーの兄貴も、むずかしい顔で黙り込む。
大笑いから一転、重い沈黙を乗せたタクシーは都内の混雑へと滑り込んで行った。
つづく
My shinny day 10 JUNK部屋連載87話〜100話
一部加筆修正して掲載
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